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231023読んだ本【バカチン連環記④】 [バカチン連環記]

イワンの馬鹿、イワンの馬鹿、イワンの馬鹿、イワンの馬鹿、ロハンの馬鹿オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

【読んだ本(バカチン連環記④)】

幸田露伴『連環記 他一篇』(岩波文庫,1991)所蔵本

『白氏文集』は、宋の商人の曽令文から贈られ、その後も宋にいる寂照(大江定基)からも贈られた
にもかかわらず、更に宋の僧の常智にリクエストして贈ってもらった藤原道長の不可解な行動の訳を
説明する仮説を提示したが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-26 )、
その際に大江定基のことも色々と調べ、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版
→2004新装改版)の次の件を読んだことが、幸田露伴の「生涯最高の傑作」とされている『連環記』
を手に取った所以である(^_^;)

    ・・・寂心[慶滋保胤]には寂照という弟子があった。かれはのちに宋に渡って
    中国で尊敬され、三十余年滞在したまま、かの地で没した名僧であるが、この
    寂照というのがまた、文学の宗家大江氏の出で、三河守に任ぜられたが、一朝、
    発心して官を捨てて出家入道した大江定基のことなのである。・・・寂照の出家
    にはどんな事情があったかなどということに関しては、いろいろの説話が伝えられ
    ているが、それは文豪幸田露伴の作、『連環記』にこまかに描かれている。さすがに
    露伴の作だけあって、その解釈の正確さ、叙述の巧妙さはわたくしのとうてい及ぶ
    ところではないから、ここでは省略することとしたい。/・・・

土田直鎮の同書は小生も愛読している名著なのだけど、歴史学の研究者にありがちな文化史に関する
無知無学を曝け出した記述も散見されるので(後掲)、この件も話半分に受け取りつつ、『連環記』
を読み始めた次第(^_^;) その結果、幸田露伴は世評では博学博識で考証に優れているとされるが、
この作品に関して言えば、その考証は不充分あるいはデタラメで、その一例を今回紹介する(⌒~⌒)
なお、『連環記』はネット上の「青空文庫」にもアップされているけど、引用は本書から行なう(^^)

    ・・・/寂照は寂心[慶滋保胤]恵心[源信]の間に挟まり、その他の碩徳にも
    参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干[いくばく]歳も
    経ないで僧都になった。僧都だの僧正だのというのは、俗界から教界を整理する
    便宜上から出来たもので、本来からいえば、名誉でもなく、あるべきはずもない
    ものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。・・・

寂照が僧都になった話など見たこと無く、幸田露伴が典拠に挙げた赤染衛門の家集『赤染衛門集』を
関根慶子&阿部俊子&林マリヤ&北村杏子&田中恭子『私家集全釈叢書1 赤染衛門集全釈』(風間
書房,1986)を購入した際に確認すると、「定基僧都の母」なる人物との贈答歌は幾つかあったが、
この「定基僧都」と寂照(大江定基)とは同一人物ではなく別人だヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

赤染衛門は大江定基の兄の大江為基と深い関わりがあったため、大江定基の名も同書巻頭の「解説」
に登場してて、注で〈・・・なお、定基は法名を寂照といい、『赤染衛門集』に見える「定基僧都」
とは別人である。〉とある( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ 「定基僧都」に関し同書は次のように解説v( ̄∇ ̄)ニヤッ
ちなみに、寂照(大江定基)の入宋は長保5年(1003年)である(^_^;)

    ・・・/定基僧都が、その名を初めてあらわすのは、管見によれば、『権記』の
    長保三年(一〇〇一)二月二十九日条で、この日、行成の世尊寺供養にあたり、
    延暦寺の銀杖衆の一人として列席している。『御堂関白記』には、寛弘元年
    (一〇〇四)五月十九日、道長が故東三条院詮子のために法華八講をした時、
    聴衆として法会に参列する条をはじめとして、道長の木幡浄妙寺多宝塔供養には、
    引頭の役、同八年、等身阿弥陀経供養には、堂達の役、長和二年(一〇一三)以降
    の道長邸の経供養には講経の役を任せられている……など、道長の私的仏事には、、
    必ず、その名が見えるのである。また、道長五十賀、後一条天皇即位の賀にも参列
    する僧綱の一人であったし、寛仁元年(一〇一七)二月二十七日、道長が、木幡の、
    一族の故人の墓に詣でた時浄妙寺で饗を儲[ママ]けた時に、浄妙寺の別当律師で
    あり、これ以降、木幡別当律師、あるいは、別当僧都の名で呼ばれ、嬉子・姸子・
    道長の三人を葬送し、それぞれの遺骨を納める役を果たしている。ことに、晩年の
    道長は、何カ月もの間、定基僧都の坊で病臥したのであった。格式ある公的な仏事
    には、天台座主をはじめ最高位の僧綱を列ねるであろうし、道長も、そういう場合は、
    深覚のような高僧を招きもしたが、私的には、定基僧都こそが、最も道長に近侍する
    僧であった。定基僧都は、父の名も、源助成(あるいは成助)とだけ伝えられて、
    その出自も全く明らかでない。しかし、道長に重用され、道長亡き後も、法成寺権
    別当となり上東門院の石清水参詣の折も経供養の講師をつとめるなど、長元六年
    (一〇三三)五五歳で没するまで、道長家に仕えた。/・・・/なお、定基が僧都に
    なったのは、寛仁四年(一〇二〇)十二月からのことで[←巻頭の「解説」の注では
    「・・・定基が僧都になったのは治安元年[1021年]五月(僧官補任)」とする]、
    道長家の僧であるかたわら、道命阿闍梨の死去に伴う後任で、天王寺別当僧都に
    なったことに因るものである。・・・

ちなみに、『栄花物語』の皇太后姸子が故三条院のために催した枇杷殿御八講の五巻の日の叙述で、
「その日の講師、朝座定、・・・」とある件、異本に「定基」とあることから、松村博司『日本古典
評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(五)』(角川書店,1975)は「その日の講師は、朝座定基僧都、
・・・」と訳し、〈朝の講座は定基僧都が受持った。定基は散位源助成の子。円城寺知弁僧正弟子。
「定基僧都、寛仁四年十二月廿九日任、治十四年」(『天王寺別当次第』)。〉と語釈で解説(^_^;)

史料・文献の博捜・渉猟は歴史考証のイロハなのに、幸田露伴が『御堂関白記』や『栄花物語』等々
に目を通していないことは明白オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! しかも、この早とちりから、知識だけでなく
常識も無いことが判る(^_^;) 大江定基は俗名で法名は寂照なのだから、もし僧都になっていたなら
寂照僧都と呼ばれてたはずで、「定基僧都」だなんて幸田露伴は歴史常識が欠如した馬鹿かと(^_^;)

・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26

・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04

・土田直鎮は調べもせずにテキトーなこと書き散らかしてんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-04-27

・土田直鎮は『江談抄』を誤読あるいは恣意的に利用しているじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-10

・無教養な土田直鎮は「この望月の歌が、和歌としてどれほどの水準のものかは知らない」由(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-09

・「梅は早く落ちぬ」の作者は紀長谷雄(紀納言)ではなく大江維時(江納言)だよC= (-。- ) フゥー

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-05-08
タグ:和歌 小説 歴史
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230830読んだ本【バカチン連環記③】 [バカチン連環記]

拙ブログをお読みの皆様にも何か良いことありますよーに(^o^)丿と昨日書くべきも5000pは半信半疑
だったのでスルーしたが、3ヶ月先と見込んでたギフト券1000円分を近々ゲットできることに(^_^;)

【読んだ本(バカチン連環記③)】

『前田愛著作集 第四巻 幻景の明治』(筑摩書房,1989)

バカチン連環記②(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-07-19 )の続き(^^)
文豪・幸田露伴の「生涯最高の傑作」とされる『連環記』の典拠探しを行なっているのが本書所収の
前田愛「『連環記』の虚実」(国文学1974年3月号掲載の「作品論『連環記』」を改題)で、本書の
〈解説「幻景」について〉では、その「史実と創作とのつき合わせ」の「前提にはたえず周到な調査
や文献の博捜があった」として前田愛の「隠れた地道な努力」を十川信介は顕彰しているけど(本書
536~537頁)、十川信介の目は節穴で、前田愛のいい加減な文献調査ぶりを示しているのが次に引く
本書504~505頁の記述であるオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    ・・・/増賀上人の逸事は、『今昔物語』一二の「多武峰増賀上人語第卅三」、同一九の
    「三条皇太后出家語第十八」、『宇治拾遺物語』一二の「増賀上人三条宮に参り振舞事」、
    『今鏡』の「むかしがたり」、『元亨釈書』、『続本朝往生伝』などに拠ったものとおも
    われる。この「断崖絶壁のような智識」の奇行は、大江匡房の『続往生伝』も虎関師錬の
    『元亨釈書』もよく写し得なかったと露伴は説いているが、その輪郭はおおむね『今昔』
    に拠りながらも、その灸所には『続往生伝』のなかでもっとも生彩に富むとおもわれる
    次の一節を挿入することを忘れていない。

      僧正慶賀ヲ申スノ日、前駈ノ員ニ入ル、増賀干鮭ヲ以テ劒ト為シ、牝牛ヲ以テ
      乗[ノリモノ]ト為ス。供奉ノ人却ツテ去ルト雖モ、猶ホ以テ相従フ、自ラ曰ク、
      誰人カ我ヲ除キテ、禅房ノ御車牛口ノ前駆ヲ勤仕セン乎。

    師慈慧[良源]が僧正[←正しくは大僧正と諸書に指摘が]に任ぜられた慶賀の日、増賀
    が異装をこらして行列に加わろうとする話であるが、露伴はこの個所をほとんど逐語訳の
    かたちでつぎのように書く。

      衛府の大官が立派な長劒を帯びたやうに、乾鮭の大きな奴を太刀の如くに腰に
      佩び、裸同様のあさましい姿で、痩せた牝牛の上に乗跨がり、えらさうな顔を
      して先駆の列に立つて、都大路の諸人環視の中を堂〻と打たせたから、群衆は
      呆れ、衆徒は驚いて、こは何事と増賀を引退らせようとしたが、増賀は声を
      厲[はげ]しくして、僧正の御車の前駈、我をさしおいて誰が勤むべき、と
      怒鳴つた。

    石帯の話のばあいと同じく、状景目睹するごとくに描けているが、おそらく露伴の眼
    には『続往生伝』の「以干鮭為劒、以牝牛為乗」の一句が、ぬきさしならぬ字眼として
    うつったにちがいない。しかも、この説話は『続往生伝』のみが伝えるところなので
    ある(平林盛得「増賀聖奇行説話の検討」「国語と国文学」昭38・10)。/・・・

『続本朝往生伝』の「供奉ノ人却ツテ去ルト雖モ」だが、井上光貞&大曾根章介(校注)『日本思想
体系7 往生伝 法華験記』(岩波書店,1974)所収の『続本朝往生伝』の訓読文は「供奉の人却け去ら
しむといへども」とするし(同書237頁)、露伴の「ほとんど逐語訳」と対照しても、前田愛の誤読
なのはさておき、最後の一文は前田愛の平林論文への全面依拠=タダ乗りを意味し、「周到な調査や
文献の博捜」や「隠れた地道な努力」だなんて笑止だし、そもそも「この説話は『続往生伝』のみが
伝えるところ」というのは間違いで、『発心集』等にも載ってるぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

三木紀人(校注)『新潮日本古典集成 方丈記 発心集』(新潮社,1976)60~64頁の第一「五 多武峯
僧賀上人、遁世往生の事」の中の一節(同書62~63頁)を(頭注の解説と傍注の現代語訳の一部を
[ ]内に補って)引くC= (-。- ) フゥー

    ・・・/又、師僧正、悦び申し給ひける時、先駆の数に入て。乾鮭[からざけ]
    と云ふ物を太刀にはきて、骨限なる女牛のあさましげなるに乗つて、「やかた口
    [=「良源の乗っていた屋形つきの牛車の先払いを」]仕[つかまつ]らむ」とて、
    面白く折りまはりければ、見物のあやしみ驚かぬはなかりけり。かくて、「名聞
    [みやうもん]こそ苦しかりけれ。かたゐのみぞ楽しかり[=「気楽なのは乞食の
    境涯だけだ」]」と歌ひて、〔車から〕打ち離れにける。僧正も、凡人[ただびと]
    ならねば、彼[か]の「我こそ、やかた口打ため」と宣[のたま]ふ声の、僧正の耳
    には、「悲しきかな、わが師、悪道に入りなむとす」と聞こえければ、車の内にて、
    「此れも利生の為なり」となむ、答へ給ひける。/・・・

なお、「骨限」に付されてる頭注七(同書62頁)には〈音訓不明。「こつげん」と読み、やせこけた
さまをいう和製漢語か。ただし、神宮本「骨の限りなる」。〉とあるし、また頭注五(同書62頁)に
「良源が勅によって大僧正になった天元四年(九八一)の時のことか。」という指摘もされてる(^^)

種明かしをすれば、増賀の上記説話も紹介してる宮元啓一『日本奇僧伝』(東京書籍,1985)を前に
読んでて、同書には「(『続本朝往生伝』一二、『発心集』一の五、『扶桑隠逸伝』中)」と出典が
記されていたからね(^_^;) 同書は『発心集』の「僧正も、凡人ならねば、・・・」云々も特記(^^)

さて、さて、さ~て!『連環記』の増賀の上述のエピソードの典拠は『続本朝往生伝』であるとする
研究者は露伴の衒学が解ってないねぇオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) よぉーく読み比べ給えv( ̄∇ ̄)ニヤッ
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230719読んだ本【バカチン連環記②】 [バカチン連環記]

高名な文芸評論家が文豪の「生涯最高の傑作」の典拠探しで無教養を曝け出してても名声に守られ、
その文豪も歴史考証に定評があるお陰で同作品の考証の不充分さやデタラメは気付かれぬ(@_@;)
近く業者が来るので少しでも節約しようと自分で木を伐ってみたけど素人だから美しくない(^_^;)

【読んだ本(バカチン連環記②)】

『前田愛著作集 第四巻 幻景の明治』(筑摩書房,1989)

バカチン連環記①(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-07-17 )の続きだが、
幸田露伴の「連環記」を推賞する歴史家がいたので、露伴の考証はそんなに信頼できるのかなぁ!?
と幸田露伴『連環記 他一篇』(岩波文庫,1991)を(当初は図書館で借りて)読み始めた次第(^_^;)
だが、「連環記」は文豪露伴の「生涯最高の傑作」とされているだけあって、名立たる文芸評論家が
既にその典拠探しをしていたことに恥ずかしながら途中で気付いた(^_^;) その論稿とは本書所収の
前田愛「『連環記』の虚実」(本書巻末の「解題」によると、原題は「作品論『連環記』」、国文学
1974年3月号に掲載の由)で、その冒頭部分を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    /『連環記』は、慶滋保胤と大江定基、及びかれらと所縁深い人物をめぐる説話を巧みに
    按配した連環図である。露伴のことばをかりるならば、説話の「鈴なり」である。/
    山本健吉は『連環記』の出典として、『東軒筆録』『宋史』『宇治拾遺物語』『今昔物語』
    『日本往生極楽記』『続本朝往生伝』『元亨釈書』『本朝文粋』『赤染衛門集』などを
    挙げている(「露伴・『連環記』頌」『漱石・啄木・露伴』所収)が、じっさいに露伴が
    披見した文献は、この数倍に及んだと考えていいようである。山本健吉が触れなかった
    典拠の主要なものは、『江談抄』『袋草紙』『今鏡』『古今著聞集』『十訓抄』
    『源平盛衰記』『[楊文公]談苑』などであって、露伴はこれらの典拠を縦横に錯落させ、
    ほとんど斧鑿[ふさく]の痕を感じさせない。私たちは露伴の暢達な語り口に導かれる
    ままに、保胤や定基の「生」の軌跡と交差するさまざまな人物に引き合わされ、かれらが
    織りなす「縁」のふしぎさに魅きこまれて行く。おそらく『連環記』の読み方はそれで
    いいのだと思う。『連環記』自体が卓抜な近代説話であるとすれば、露伴が古代説話の
    素材をどのように自家薬籠中のものとしたか、その手続きをあげつらうことなど、
    心なき業であるにちがいない。しかし、あえてこの野暮ったい作業にしばらくこだわって
    みることにしよう。/・・・

先ず驚いたのは、山本健吉は日本の古典に通暁しているイメージがあったのに、実は大したことない
のかなと( ̄◇ ̄;) 「連環記」の2頁目に菅原文時と村上天皇の詩作をめぐる説話が紹介されてて、
元ネタの『江談抄』「の表現を『今昔物語集』は誤解して」いたりするのに(阪倉篤義&本田義憲&
川端善明[校注]『新潮日本古典集成 今昔物語集 本朝世俗部一』[新潮社,1978])、山本健吉は
『江談抄』に思い至らぬとは残念(´ヘ`;) ところが、山本健吉の当該論文(文學界に1968年~69年
連載され、1972年に文藝春秋から刊行の『漱石・啄木・露伴』所収)を『山本健吉全集 第十一巻』
(講談社,1983年)で確認したところ、次のような記述だった(^_^;)

    ・・・/これは私の憶測だが、露伴がたまたま『東軒筆録』を読んで、丁謂という人物
    に興味を抱いたのが、この作の最初の動機ではないだろうか。さらに『宋史』を検して、
    丁謂の伝が貶するに過ぎているのを感じた。丁謂と寂照[大江定基]との交友から、
    遡って『宇治拾遺』『今昔』『日本往生極楽記』『続本朝往生伝』『元亨釈書』
    『本朝文粋』『赤染衛門集』その他の古書を渉猟し、諸人物の連環図が成ったのでは
    なかろうか。/・・・

前田愛の論稿を読んで「その他」を全集版で加筆した可能性もあるけど、山本健吉は典拠探しとして
列挙してたわけではなかった(^_^;) ただ、露伴の考証の不充分さには気付いてなかったけど(^_^;)

ちなみに、前田愛と山本健吉の両論稿を、登尾豊・前掲論文は「本文中に掲げたもののほかに、論の
目的が違うので紹介できなかった次の三点を挙げる。」として末尾の「参考文献」に並べている(^^)

さて、さて、さ~て!マジで驚いたのは、前田愛というのは欧米の文芸理論をやたらと駆使したがる
理論家肌という印象だったので、こんなに日本の古典に詳しい教養・知識人だったのかと( ̄◇ ̄;)

    ・・・そのめざましい活躍については今更くりかえす必要もないが、念のために強調して
    おきたいのは、その陰に隠れた地道な努力である。本巻で言えば、「『連環記』の虚実」
    における史実と創作とのつき合わせや、「怪談牡丹燈籠まで」における先行文献との対比
    はその一端である。前田さんは文章の「華」や「姿」のよさを求め続けた人だったが、
    その前提にはたえず周到な調査や文献の博捜があったことを忘れるべきでないだろう。/
    ・・・

十川信介の〈解説「幻景」について〉の指摘(本書536~537頁)に、前田愛の「隠れた地道な努力」
「周到な調査や文献の博捜」に尊敬の念を抱いた・・・のは僅か数分ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
「『連環記』の虚実」を読み進むと「隠れた地道な努力」とか「周到な調査や文献の博捜」だなんて
チャンチャラ可笑しい記述があって、前田愛の無教養ぶりに気付かない十川信介も無教養かと(^_^;)
前田愛に心酔してるから、その記述に疑念を抱くことがなく、裏を取ることもしないのだろう(^_^;)
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230717先月買った本【バカチン連環記①】 [バカチン連環記]

この文豪の「生涯最高の傑作」は、知識・教養のある人間にとってはつまらない作品のようだけど、
この作品をつまらないと思った人が知識・教養の持ち主であるとは限らない〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
ところで、一昨日購入の小野一二『んだんだ文庫4 小野小町─そのルーツを探る─』(無明舎,1978)
、本文に入って「百人一首」の節の一番最初の頁に次の記述が∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃ!?

    ・・・/小野小町は、六歌仙や三十六歌仙のなかの紅一点である。・・・

「三十六歌仙」の女流歌人には小野小町の他に伊勢タン、中務、斎宮女御、小大君がいるけど(^_^;)
「国文学的素養のないわたし」(同書「はじめに」)と自認しながら知ったかぶりでデタラメ(^_^;)

【先月買った本(バカチン連環記①)】

幸田露伴『連環記 他一篇』(岩波文庫,1991)

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432円(234円+送料等350円-ギフト券152円)で6月20日に注文して追跡不可能ゆうメールで23日
に届く(^_^;) コンディション説明文は「中古品 - 可 - 【本文に書込み無し】外装若干のスリ跡、
フチに若干のヨレ、軽い経年感、使用感ございますが本文おおむね良好なお品です」で、書き込み等
はたしかに見当たらなかったし、「非常に良い」や「良い」とされてても問題ナシオン主権(^o^)丿

百目鬼恭三郎『乱読すれば良書に当たる』(新潮社,1985)は幸田露伴の「幻談」が「大人の味読に
耐える小説」であることを論じた一文の中で「連環記」については次のように酷評している(^_^;)

    ・・・/「幻談」は、昭和十三年九月に雑誌『日本評論』に発表された。露伴は、
    明治三十七年二月に、『読売新聞』に連載中の長編小説『天うつ浪』を中断した後は、
    専ら史伝、考証随筆の類を書いていた。それが晩年になって、「幻談」を皮切りに、
    十四年は「雪たゝき」「鵞鳥」、十五年は「連環記」と、たてつづけに小説を発表して、
    作家としての最後の華やぎをみせたということになる。/四作中、「連環記」は
    もっとも長く、かつ自在に話題を操りながら物語の体を成してゆく連環体と称せられる
    構成によって、晩年の最傑作[ママ]とされている。が、平安中期の文人慶滋保胤
    [かものやすたね]と大江定基の回心を扱ったこの作品は、この辺の事情にくらい
    読者にはめずらしく読まれても、下敷にした『今鏡』や『今昔物語集』などの中世の
    説話集に親しんでいる読者は、格別のおどろきを与えられないのである。知っている
    ことばかりが出て来ては、連環体の面白さは半減してしまうというものだ。/・・・

ちなみに、登尾豊「連環記[幸田露伴]」(三好行雄編『日本の近代小説Ⅱ 作品論の現在』[東京
大学出版会,1986]所収)によると、「連環記」の初出は『日本評論』「・・・昭和十五年六月号・
七月号説は誤り。」で昭和16年の4月号と7月号が正しく、また露伴の未完の大作「風流微塵蔵」の
構成法は連環体と呼ばれるが、〈・・・「連環記」は連環体で構成されていない。〉とし、その説明
もなされているが、以下の拙稿には関係ナシオン主権(^_^;) なお、同論文は一読の価値あり(^o^)丿

本題に戻ると、百目鬼恭三郎は『奇談の時代』(朝日文庫,1981)の著者なので、仏教説話も含めて
説話集は読み尽くしてるだろうからね(^_^;) 「連環記」には「・・・これ以下少しばかり出たらめ
を描くが、それは全く出たらめであると思っていただきたい。」と露伴自らが記している創作の部分
もあるけど、その出来が悪いもんだから、百目鬼恭三郎にしてみれば「連環記」の全てがつまらない
ことになるかと(^_^;) その辺りも含めて登尾豊・前掲論文が次の如く啓蒙的に記している(^_^;)

    ・・・[上記の]四篇とも題材は典拠や出所のあるものばかりで、純粋の虚構作品は
    一つもない。明治末から大正初期に絵空事のつくりものたる小説を否定して史伝に
    向った露伴(・・・)にしてみれば、それは当然であろう。〈歴史其侭〉という史伝の
    方法に場面や心理の描写の点で僅かに想像を加える、史伝と小説の融合の結果として
    四篇がある。/「連環記」は好評と愛重に飾られている。露伴の生涯最高の傑作と推す
    評も多い。・・・


    ・・・/露伴が想像をはたらかした、大江定基とその妻との葛藤のあたりをさして瑕瑾
    とする意見(武者小路実篤・・・中村光夫・・・)を除くと、「連環記」全体に対する
    否定的評価が管見に入ったことがない。・・・

獅子文六が「連環記」を高評した文章は略(^_^;) 高島俊男『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫,
2008)は露伴の『運命』の文章に谷崎潤一郎、斎藤茂吉、小泉信三、河盛好蔵が感激したのは漢文の
素養が無い世代ゆえと批判(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-06-22 )、
「連環記」を面白がる人々も実は説話集を読んだことが無く古典の教養が無い世代だからかも(^_^;)
あくまでも短篇「六の宮の姫君」を読んだ限りの話だが、芥川龍之介の古典作品の翻案は出来が悪く
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-20 )、もしかしてもしかすると、
芥川の「鼻」を夏目漱石が絶賛したのも漱石(露伴と生年が同じ)には教養が無・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

話を戻すと、小生が「連環記」を読み始めたのは露伴の考証が評判通りなのか気になったから(^_^;)
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