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240427読んだ本

アイスコーヒーよりもコーヒーフロートは60円高い(@_@;) 毎回一口で食べてしまう60円(@_@;)
GWに備えて図書館から本を大量に借りといたけど、考えてみたらGW中は休館じゃなかった(^_^;)

【読んだ本】

駒田信二『漢詩名句 はなしの話』(文春文庫,1982)所蔵本

今回(前回⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-19 )のは日本の詩で、
頼山陽の『日本楽府』に入っている「本能寺」という作品から「敵は本能寺に在り」であるよ(^_^;)

    本能寺     本能寺
    溝幾尺     溝幾尺ぞ
    吾就大事在今夕 吾大事を就[な]すは今夕[こんせき]に在り
    茭粽在手併茭食 茭粽[こうそう]手に在り茭[こう]を併せて食[くら]う
    四簷梅雨天如墨 四簷[しえん]の梅雨天墨の如し
    老阪西去備中道 老阪[おいのさか]西に去れば備中の道
    揚鞭東指天猶早 鞭を揚げて東に指せば天猶早[はや]し
    吾敵正在本能寺 吾が敵は正[まさ]に本能寺に在り
    敵在備中汝能備 敵は備中に在り汝能[よ]く備えよ

「粽」はちまき、「茭」はちまきの皮、「四簷」は四方の軒の意のようで、「・・・/この詩はその
事実[←本能寺の変]をうたい、そして結句で光秀に対する批評を加えたのである。汝のほんとうの
敵は備中で毛利氏を攻めている羽柴秀吉ではなかったのか、信長を討つには十分にこの敵に備えた上
でなければならなかったのではないか、と。/・・・」と本書は解説している(^_^;) 日本の古典に
関してデタラメなことを書き捲くっているバカチンだけど、やはり頼山陽となると披かざるを得ない
中村真一郎『頼山陽とその時代』下巻(中公文庫,1976)(^_^;) 同書は『日本楽府』の象徴詩の群を
第一群、寓喩詩を第二群とした上で、次のように解説(^_^;) なお、一部の漢字は字体が異なる(+_+)

    ・・・/しかし勿論、端的に一読、意味のとれる、いわば政治的パンフレットの
    スタイルに似た詩の一群もある。これらは詩としては、その喚起する恍惚感が
    純粋でないが、しかし煽動性においては美事なものである。/・・・

    ・・・/いきなり主人公の言葉で始めるのは、唐突さによって感銘を与える手法で、
    これは『[日本]楽府』内で、屢々[しばしば]見られる、山陽得意の手である。
    ──というより、彼はこうした、歴史的事件を象徴するような、「人物の言葉」が
    好きなので、その言葉から詩的発想を拡げて行っているように見える。/・・・

    ・・・/この一群の詩は──仮に『楽府』中の第三群と名付けるとすれば、人口に
    膾炙するものが悉くここに入り、一般の人々の『楽府』に対する既成概念も、この
    群の作品から得られている。/例えば、中学生が必ず漢文の時間に学ぶ「蒙古来」
    とか、「本能寺」とか、「封冊ヲ裂ク」とか。・・・/こうした勇ましい詩句は、
    中学生を山陽のファンにし、大学生になればその熱狂は覚める。維新の世代の心情
    に投じたであろう、こうした勇壮な詩句は、却って今日、そのイデオロギー的な役割
    の終ったあとでは、全ての政治詩がそうであるように、残るのはその雄弁な身振り
    だけである。・・・/しかし、これらの詩も、今度はもう一度、中学校の教室の記憶
    を消して、新しく読み直してみれば、実に巧妙な物語性と感動性を備えた、一種の
    傑作であることが、改めて認識されるだろう。・・・

最初から「大学生」だったわ(^_^;) 「中学生」時代に限らず、小生は「漢文の時間」の「記憶」が
ナシオン主権だけど(授業に出席も内職していた)、詩心が無いのか、「傑作」とは思えない(^_^;)
タグ:古典
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