230722読んだ本【バカチン歴史家③プラス】 [バカチン歴史家]
捏造や間違いをどれだけ見付けられるか読み手の教養と知識を試す本ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
新聞のTV欄には「・・・吉岡秀隆ほか」など「ほか」とされちゃった人々の悲しみが(´;ω;`)ウッ…
【読んだ本(バカチン歴史家③プラス)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
・・・/長徳二年か三年の晩秋のことと思われるが、[藤原]公任は桂殿で
静養中の[藤原]顕光夫妻を訪れたことがあった。顕光が乙訓郡の桂に荘園を領し、
そこに小さな山荘をもっていたものとみえる。顕光は庶民に稲刈りをさせ、
[顕光の妻の]盛子内親王がちょうどそれを眺めているときであった。公任は
早速これを歌に詠んだり、また夫妻と歓談したりしたのち、顕光の乗物に同車して
京にもどったことであった。のちに顕光を襲ったさまざまの悲運を思えば、
このころが顕光にとってもっともたのしいときであったろう。・・・
この本書49頁の藤原顕光と藤原公任に関するエピソードの典拠は「『前大納言公任卿集』」(本書
155頁)としか記されていないが、伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』
(風間書房,1989)から歌と詞書を訳と一緒に引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
八月廿八日、桂殿に右の大殿の北の方などおはして、稲刈らせて見たまひけるに
ちよをへて刈りつむ宿の稲なればおほくの年をあたる君かな
八月二十八日、桂殿に右大臣の北の方などがおいでになり、稲を刈らせてそれを
御覧になった折に、
千年もの間刈り取っては積み続けてきたこの家の稲だから、それを見るあなたは、
これからも多くの歳月を過ごすことですね。あなたの寿命は限りなく長いものですよ。
山里の紅葉はときもわかぬかな秋のなかばに色深く見ゆ
山里の紅葉は時節をわきまえないものであるよ。まだ秋の半ばだというのに、
もうすっかり色濃く見えることです。
とやいはましと思ひて、ふところ紙に書きてもたせたまへるを、大殿の御ひとつ車にて、
おとしたまへりければ、帰りたまひて、またのあしたに、かくやいはましとなむ
おぼえしとて、きこえたまへりける
山里にまだき散りけることのはを宿のあるじやかきとどめけむ
とでも詠もうかと思って、懐紙に書いてお持ちになっていたのだが、大臣と同車
なさって、その懐紙を落してしまわれたので、お帰りになって翌朝、このような
歌を詠もうかと思っていましたと言って、一首つけ加えて、申し上げなさった歌、
山里で差し上げる前に早々と落してしまった歌を、宿の主のあなたは掻き集めて、
手許にとどめておいてくれたのでしょうか。
同書の語釈に詞書の「右の大殿」は〈道長。「右」は「左」の誤りか。〉とあるように、公任が桂の
山荘に訪ねたのは左大臣の藤原道長であって右大臣の顕光ではないヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
後藤祥子(校注)『公任集』(犬養廉&後藤祥子&平野由紀子[校注]『新日本古典文学大系28 平安
私家集』[岩波書店,1994]所収)も詞書の「右」を「・・・誤写か。」と脚注に記し、小町谷照彦
『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)も「八月二十八日、道長は倫子とともに桂の山荘におも
むき、公任も同行して和歌を詠んだ。」云々として上記の歌を紹介v( ̄∇ ̄)ニヤッ 「右」は「左」の
「誤り」「誤写」とする根拠として諸書が真っ先に挙げているのは道長の日記『御堂関白記』なので
(他に藤原実資の日記『小右記』も)、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』
(講談社学術文庫,2009)の現代語訳で長和4年(1015年)8月28日条を引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
二十八日、乙巳。 桂に行く
桂の山荘に到った。女方[源倫子]と共に行った。中宮大夫[藤原道綱]・
四条大納言(藤原公任)・権大納言(藤原頼通)・源中納言[源俊賢]・
左衛門督[藤原教通]・権中納言(藤原頼宗)・新中納言(源経房)・
宰相中将(藤原兼隆)・左大弁[源道方]・三位中将(藤原能信)・
藤宰相(藤原公信)・右大弁[藤原朝経]、殿上人十余人が、一緒に来た。
夜に入って、還った。
さて、さて、さ~て!公任の歌が顕光ではなく道長の桂の山荘を訪ねた際の詠作であるという解釈を
補強する証拠が森本元子『私家集全釈叢書6 定頼集全釈』(風間書房,1989)にあったv( ̄∇ ̄)ニヤッ
大殿[おほいどの]桂におはしたるに、題二ついだして歌よみ給ひしに、
山里に田刈るといふ題
山里にほどへぬるかな秋の田のかりそめとこそ思ひつれども
左大臣[道長]殿が桂においでになったとき、歌題を二つ出して歌を
およみになったが、「山里に田を刈る」という題で
山里にゆっくりくらしてしまったなあ。秋の田を刈りはじめるほんのちょっとと
思ったのだけれど。
紅葉を翫[もてあそ]ぶ
秋はまだ深からねども霧間よりむらむらみゆる嶺のもみぢ葉
「紅葉ほ翫ぶ」という題で
秋はまだ深くはないけれども、霧のたえまから、むらむらに見える峯のもみじの
美しいことよ。
別の歌の語釈に〈・・・「大殿」は大臣の尊称で、この前後、日記や家集に見える「大殿」はすべて
道長とみてよい。〉とある如く単に「大殿」なら道長を指すとするのが自然で、もし右大臣(顕光)
なら右大殿と記したはず(^^) また和歌の題を出しているところも、如何にも道長らしいかと(^_^;)
森本元子は『御堂関白記』と『小右記』と『公任集』を引いた上で「定頼集のここの二題は、公任の
右の二首によく合致し、長和四年(一〇一五)八月二十八日の作とみてよいであろう。」と結論(^^)
『定頼集』と『公任集』と『御堂関白記』が連環してトライアングルが完成したじゃんv( ̄∇ ̄)ニヤッ
伊井春樹&津本信博&新藤協三・前掲書、後藤祥子・前掲書、小町谷照彦・前掲書は藤原定頼の2首
について言及すらしてないけど、定頼の名前は挙がっていなかったから調べなかったのかな(@_@;)
①角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-30
②作者の「堀河右大臣」は藤原顕光ではなく藤原頼宗(道長の子)だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-31
③角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-02
新聞のTV欄には「・・・吉岡秀隆ほか」など「ほか」とされちゃった人々の悲しみが(´;ω;`)ウッ…
【読んだ本(バカチン歴史家③プラス)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
・・・/長徳二年か三年の晩秋のことと思われるが、[藤原]公任は桂殿で
静養中の[藤原]顕光夫妻を訪れたことがあった。顕光が乙訓郡の桂に荘園を領し、
そこに小さな山荘をもっていたものとみえる。顕光は庶民に稲刈りをさせ、
[顕光の妻の]盛子内親王がちょうどそれを眺めているときであった。公任は
早速これを歌に詠んだり、また夫妻と歓談したりしたのち、顕光の乗物に同車して
京にもどったことであった。のちに顕光を襲ったさまざまの悲運を思えば、
このころが顕光にとってもっともたのしいときであったろう。・・・
この本書49頁の藤原顕光と藤原公任に関するエピソードの典拠は「『前大納言公任卿集』」(本書
155頁)としか記されていないが、伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』
(風間書房,1989)から歌と詞書を訳と一緒に引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
八月廿八日、桂殿に右の大殿の北の方などおはして、稲刈らせて見たまひけるに
ちよをへて刈りつむ宿の稲なればおほくの年をあたる君かな
八月二十八日、桂殿に右大臣の北の方などがおいでになり、稲を刈らせてそれを
御覧になった折に、
千年もの間刈り取っては積み続けてきたこの家の稲だから、それを見るあなたは、
これからも多くの歳月を過ごすことですね。あなたの寿命は限りなく長いものですよ。
山里の紅葉はときもわかぬかな秋のなかばに色深く見ゆ
山里の紅葉は時節をわきまえないものであるよ。まだ秋の半ばだというのに、
もうすっかり色濃く見えることです。
とやいはましと思ひて、ふところ紙に書きてもたせたまへるを、大殿の御ひとつ車にて、
おとしたまへりければ、帰りたまひて、またのあしたに、かくやいはましとなむ
おぼえしとて、きこえたまへりける
山里にまだき散りけることのはを宿のあるじやかきとどめけむ
とでも詠もうかと思って、懐紙に書いてお持ちになっていたのだが、大臣と同車
なさって、その懐紙を落してしまわれたので、お帰りになって翌朝、このような
歌を詠もうかと思っていましたと言って、一首つけ加えて、申し上げなさった歌、
山里で差し上げる前に早々と落してしまった歌を、宿の主のあなたは掻き集めて、
手許にとどめておいてくれたのでしょうか。
同書の語釈に詞書の「右の大殿」は〈道長。「右」は「左」の誤りか。〉とあるように、公任が桂の
山荘に訪ねたのは左大臣の藤原道長であって右大臣の顕光ではないヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
後藤祥子(校注)『公任集』(犬養廉&後藤祥子&平野由紀子[校注]『新日本古典文学大系28 平安
私家集』[岩波書店,1994]所収)も詞書の「右」を「・・・誤写か。」と脚注に記し、小町谷照彦
『王朝の歌人7 藤原公任』(集英社,1985)も「八月二十八日、道長は倫子とともに桂の山荘におも
むき、公任も同行して和歌を詠んだ。」云々として上記の歌を紹介v( ̄∇ ̄)ニヤッ 「右」は「左」の
「誤り」「誤写」とする根拠として諸書が真っ先に挙げているのは道長の日記『御堂関白記』なので
(他に藤原実資の日記『小右記』も)、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』
(講談社学術文庫,2009)の現代語訳で長和4年(1015年)8月28日条を引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
二十八日、乙巳。 桂に行く
桂の山荘に到った。女方[源倫子]と共に行った。中宮大夫[藤原道綱]・
四条大納言(藤原公任)・権大納言(藤原頼通)・源中納言[源俊賢]・
左衛門督[藤原教通]・権中納言(藤原頼宗)・新中納言(源経房)・
宰相中将(藤原兼隆)・左大弁[源道方]・三位中将(藤原能信)・
藤宰相(藤原公信)・右大弁[藤原朝経]、殿上人十余人が、一緒に来た。
夜に入って、還った。
さて、さて、さ~て!公任の歌が顕光ではなく道長の桂の山荘を訪ねた際の詠作であるという解釈を
補強する証拠が森本元子『私家集全釈叢書6 定頼集全釈』(風間書房,1989)にあったv( ̄∇ ̄)ニヤッ
大殿[おほいどの]桂におはしたるに、題二ついだして歌よみ給ひしに、
山里に田刈るといふ題
山里にほどへぬるかな秋の田のかりそめとこそ思ひつれども
左大臣[道長]殿が桂においでになったとき、歌題を二つ出して歌を
およみになったが、「山里に田を刈る」という題で
山里にゆっくりくらしてしまったなあ。秋の田を刈りはじめるほんのちょっとと
思ったのだけれど。
紅葉を翫[もてあそ]ぶ
秋はまだ深からねども霧間よりむらむらみゆる嶺のもみぢ葉
「紅葉ほ翫ぶ」という題で
秋はまだ深くはないけれども、霧のたえまから、むらむらに見える峯のもみじの
美しいことよ。
別の歌の語釈に〈・・・「大殿」は大臣の尊称で、この前後、日記や家集に見える「大殿」はすべて
道長とみてよい。〉とある如く単に「大殿」なら道長を指すとするのが自然で、もし右大臣(顕光)
なら右大殿と記したはず(^^) また和歌の題を出しているところも、如何にも道長らしいかと(^_^;)
森本元子は『御堂関白記』と『小右記』と『公任集』を引いた上で「定頼集のここの二題は、公任の
右の二首によく合致し、長和四年(一〇一五)八月二十八日の作とみてよいであろう。」と結論(^^)
『定頼集』と『公任集』と『御堂関白記』が連環してトライアングルが完成したじゃんv( ̄∇ ̄)ニヤッ
伊井春樹&津本信博&新藤協三・前掲書、後藤祥子・前掲書、小町谷照彦・前掲書は藤原定頼の2首
について言及すらしてないけど、定頼の名前は挙がっていなかったから調べなかったのかな(@_@;)
①角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-30
②作者の「堀河右大臣」は藤原顕光ではなく藤原頼宗(道長の子)だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-31
③角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-02
220102読んだ本【バカチン歴史家③】 [バカチン歴史家]
捏造や間違いをどれだけ見付けられるか読み手の教養と知識を試す本ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【読んだ本(バカチン歴史家③)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
本書49頁が紹介している藤原顕光に関するエピソード、読んでて切なくなってくるよ(´;ω;`)ウッ…
・・・/長徳二年か三年の晩秋のことと思われるが、公任は桂殿で静養中の顕光夫妻を
訪れたことがあった。顕光が乙訓郡の桂に荘園を領し、そこに小さな山荘をもっていた
ものとみえる。顕光は庶民に稲刈りをさせ、[顕光の妻の]盛子内親王がちょうど
それを眺めているときであった。公任は早速これを歌に詠んだり、また夫妻と歓談したり
したのち、顕光の乗物に同車して京にもどったことであった。のちに顕光を襲った
さまざまの悲運を思えば、このころが顕光にとってもっともたのしいときであったろう。
・・・
藤原顕光と藤原公任が「歓談」エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ? チョー意外な感じがするのは小生だけかな(^_^;)
藤原顕光は大臣なのに政務や儀式を先例通りに執り行なえず失態ばかりで藤原実資や藤原道長からも
再三罵倒されており、藤原公任は儀式書『北山抄』を著したほどの人物ゆえ気が合わなさそう(^_^;)
この典拠を知りたくて付された注8を見ると「『前大納言公任卿集』」とあるだけ(155頁)(@_@;)
伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』(風間書房,1989)から関連する歌を
訳と一緒に引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
八月廿八日、桂殿に右の大殿の北の方などおはして、稲刈らせて見たまひけるに
ちよをへて刈りつむ宿の稲なればおほくの年をあたる君かな
八月二十八日、桂殿に右大臣の北の方などがおいでになり、稲を刈らせてそれを
御覧になった折に、
千年もの間刈り取っては積み続けてきたこの家の稲だから、それを見るあなたは、
これからも多くの歳月を過ごすことですね。あなたの寿命は限りなく長いものですよ。
山里の紅葉はときもわかぬかな秋のなかばに色深く見ゆ
山里の紅葉は時節をわきまえないものであるよ。まだ秋の半ばだというのに、
もうすっかり色濃く見えることです。
とやいはましと思ひて、ふところ紙に書きてもたせたまへるを、大殿の御ひとつ車にて、
おとしたまへりければ、帰りたまひて、またのあしたに、かくやいはましとなむ
おぼえしとて、きこえたまへりける
山里にまだき散りけることのはを宿のあるじやかきとどめけむ
とでも詠もうかと思って、懐紙に書いてお持ちになっていたのだが、大臣と同車
なさって、その懐紙を落してしまわれたので、お帰りになって翌朝、このような
歌を詠もうかと思っていましたと言って、一首つけ加えて、申し上げなさった歌、
山里で差し上げる前に早々と落してしまった歌を、宿の主のあなたは掻き集めて、
手許にとどめておいてくれたのでしょうか。
長徳2年(996年)7月20日に道長の左大臣と同時に顕光は右大臣になったから「長徳二年か三年」には
たしかに顕光は「右大臣」で公任の上記歌の詞書の「右の大殿」に当てはまるように見えるが、この
「右の大殿」とは〈道長。「右」は「左」の誤りか。〉と同書の語釈にあるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
要するに、公任が桂の山荘に訪ねたのは道長であって顕光じゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
後藤祥子(校注)『公任集』(犬養廉&後藤祥子&平野由紀子[校注]『新日本古典文学大系28 平安
私家集』[岩波書店,1994]所収)も〈諸本「右」とするが、道長は長徳二年(九九六)七月二十日、
右大臣より左に転じている。誤写か。〉と脚注に記し、それに小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』
(集英社,1985)も「八月二十八日、道長は倫子とともに桂の山荘におもむき、公任も同行して和歌を
詠んだ。」云々として上記の歌を紹介してるv( ̄∇ ̄)ニヤッ 詞書の「右」は「左」の「誤り」「誤写」
とする根拠として諸書が挙げているのは、道長の日記『御堂関白記』と実資の日記『小右記』(^o^)丿
倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)から長和4年
(1015年)8月28日条を引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
二十八日、乙巳。 桂に行く
桂の山荘に到った。女方[源倫子]と共に行った。中宮大夫[藤原道綱]・
四条大納言(藤原公任)・権大納言(藤原頼通)・源中納言[源俊賢]・
左衛門督[藤原教通]・権中納言(藤原頼宗)・新中納言(源経房)・
宰相中将(藤原兼隆)・左大弁[源道方]・三位中将(藤原能信)・
藤宰相(藤原公信)・右大弁[藤原朝経]、殿上人十余人が、一緒に来た。
夜に入って、還った。
倉本一宏編『現代語訳 小右記7 後一条天皇即位』(吉川弘文館,2018)136頁から長和4年(1015年)
8月28日条と同29日条を引くオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
二十八日、乙巳。 道長、源倫子と桂山荘に遊ぶ/上野勅旨御馬、牽進せず
「今日、左相国は北方(源倫子)を引率して、桂山荘に向かわれます。
卿相や殿上人は、首を挙げて追従します」と云うことだ。資平朝臣は、
布衣を着し、馬に騎って前駆を勤めた。・・・
二十九日、丙午。
資平が云ったことには、「昨日、左府は北方を随身し〈車二両。〉、桂山荘に
向かわれました。大納言道綱・頼通・公任、中納言俊賢・(藤原)教通・(藤原)
頼宗・経房、参議道方、三位中将能信、参議(藤原)公信・(藤原)朝経が
追従しました。殿上人も、同じく追従しました。殿上人以上は和歌を詠みました」と。
角田文衞は叙述の典拠に両日記を再三挙げてるのに両条を見落すなんてありえぬから故意か(¬。¬ )
故意ではなく過失によるものなら、角田文衞は歴史学の研究者として無能だろオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
なお、桂の山荘の「小さな」という形容は、根拠が無いし、「顕光にとってもっともたのしいとき」
の印象を強くするための詐術かと(^_^;) 倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』
(講談社学術文庫,2009)の長和2年(1013年)10月13日条に「二条第に到って、造作すべき有様を、
(菅野)文信と(伊香)豊高に指示した。すぐに桂の山荘に行った。造営すべき有様を、(源)雅通
朝臣に指示した。・・・」とあり、道長は力を入れている感じだし、前掲『藤原道長「御堂関白記」
(下)』の長和4年(1015年)8月22日条の「桂の山荘に到った。夜に入って、還った。・・・」を経、
その6日後の長和4年(1015年)8月28日に上記の如く「殿上人十余人」に披露したぐらいなんだから、
「小さな」も「顕光にとってもっともたのしいとき」ほどではないけど〝小さな〟捏造じゃん(^_^;)
その一ヶ月後の長和4年(1015年)9月29日条にも「雨が降った。桂の山荘に行った。春宮大夫[藤原
斉信]・四条大納言[藤原公任]・源中納言[源俊賢]が来て同行した。他の公卿も、何人かいた。
夜に入って、還って来た。」(同書)とあるので道長は藤原斉信にもぜひ見せたかったのかも(^_^;)
[追記230722]
公任の歌が道長の山荘を訪ねた際の作であるとする解釈を補強する証拠が『定頼集』にv( ̄∇ ̄)ニヤッ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-07-22
【読んだ本(バカチン歴史家③)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
本書49頁が紹介している藤原顕光に関するエピソード、読んでて切なくなってくるよ(´;ω;`)ウッ…
・・・/長徳二年か三年の晩秋のことと思われるが、公任は桂殿で静養中の顕光夫妻を
訪れたことがあった。顕光が乙訓郡の桂に荘園を領し、そこに小さな山荘をもっていた
ものとみえる。顕光は庶民に稲刈りをさせ、[顕光の妻の]盛子内親王がちょうど
それを眺めているときであった。公任は早速これを歌に詠んだり、また夫妻と歓談したり
したのち、顕光の乗物に同車して京にもどったことであった。のちに顕光を襲った
さまざまの悲運を思えば、このころが顕光にとってもっともたのしいときであったろう。
・・・
藤原顕光と藤原公任が「歓談」エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ? チョー意外な感じがするのは小生だけかな(^_^;)
藤原顕光は大臣なのに政務や儀式を先例通りに執り行なえず失態ばかりで藤原実資や藤原道長からも
再三罵倒されており、藤原公任は儀式書『北山抄』を著したほどの人物ゆえ気が合わなさそう(^_^;)
この典拠を知りたくて付された注8を見ると「『前大納言公任卿集』」とあるだけ(155頁)(@_@;)
伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』(風間書房,1989)から関連する歌を
訳と一緒に引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
八月廿八日、桂殿に右の大殿の北の方などおはして、稲刈らせて見たまひけるに
ちよをへて刈りつむ宿の稲なればおほくの年をあたる君かな
八月二十八日、桂殿に右大臣の北の方などがおいでになり、稲を刈らせてそれを
御覧になった折に、
千年もの間刈り取っては積み続けてきたこの家の稲だから、それを見るあなたは、
これからも多くの歳月を過ごすことですね。あなたの寿命は限りなく長いものですよ。
山里の紅葉はときもわかぬかな秋のなかばに色深く見ゆ
山里の紅葉は時節をわきまえないものであるよ。まだ秋の半ばだというのに、
もうすっかり色濃く見えることです。
とやいはましと思ひて、ふところ紙に書きてもたせたまへるを、大殿の御ひとつ車にて、
おとしたまへりければ、帰りたまひて、またのあしたに、かくやいはましとなむ
おぼえしとて、きこえたまへりける
山里にまだき散りけることのはを宿のあるじやかきとどめけむ
とでも詠もうかと思って、懐紙に書いてお持ちになっていたのだが、大臣と同車
なさって、その懐紙を落してしまわれたので、お帰りになって翌朝、このような
歌を詠もうかと思っていましたと言って、一首つけ加えて、申し上げなさった歌、
山里で差し上げる前に早々と落してしまった歌を、宿の主のあなたは掻き集めて、
手許にとどめておいてくれたのでしょうか。
長徳2年(996年)7月20日に道長の左大臣と同時に顕光は右大臣になったから「長徳二年か三年」には
たしかに顕光は「右大臣」で公任の上記歌の詞書の「右の大殿」に当てはまるように見えるが、この
「右の大殿」とは〈道長。「右」は「左」の誤りか。〉と同書の語釈にあるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
要するに、公任が桂の山荘に訪ねたのは道長であって顕光じゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
後藤祥子(校注)『公任集』(犬養廉&後藤祥子&平野由紀子[校注]『新日本古典文学大系28 平安
私家集』[岩波書店,1994]所収)も〈諸本「右」とするが、道長は長徳二年(九九六)七月二十日、
右大臣より左に転じている。誤写か。〉と脚注に記し、それに小町谷照彦『王朝の歌人7 藤原公任』
(集英社,1985)も「八月二十八日、道長は倫子とともに桂の山荘におもむき、公任も同行して和歌を
詠んだ。」云々として上記の歌を紹介してるv( ̄∇ ̄)ニヤッ 詞書の「右」は「左」の「誤り」「誤写」
とする根拠として諸書が挙げているのは、道長の日記『御堂関白記』と実資の日記『小右記』(^o^)丿
倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)から長和4年
(1015年)8月28日条を引くオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
二十八日、乙巳。 桂に行く
桂の山荘に到った。女方[源倫子]と共に行った。中宮大夫[藤原道綱]・
四条大納言(藤原公任)・権大納言(藤原頼通)・源中納言[源俊賢]・
左衛門督[藤原教通]・権中納言(藤原頼宗)・新中納言(源経房)・
宰相中将(藤原兼隆)・左大弁[源道方]・三位中将(藤原能信)・
藤宰相(藤原公信)・右大弁[藤原朝経]、殿上人十余人が、一緒に来た。
夜に入って、還った。
倉本一宏編『現代語訳 小右記7 後一条天皇即位』(吉川弘文館,2018)136頁から長和4年(1015年)
8月28日条と同29日条を引くオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
二十八日、乙巳。 道長、源倫子と桂山荘に遊ぶ/上野勅旨御馬、牽進せず
「今日、左相国は北方(源倫子)を引率して、桂山荘に向かわれます。
卿相や殿上人は、首を挙げて追従します」と云うことだ。資平朝臣は、
布衣を着し、馬に騎って前駆を勤めた。・・・
二十九日、丙午。
資平が云ったことには、「昨日、左府は北方を随身し〈車二両。〉、桂山荘に
向かわれました。大納言道綱・頼通・公任、中納言俊賢・(藤原)教通・(藤原)
頼宗・経房、参議道方、三位中将能信、参議(藤原)公信・(藤原)朝経が
追従しました。殿上人も、同じく追従しました。殿上人以上は和歌を詠みました」と。
角田文衞は叙述の典拠に両日記を再三挙げてるのに両条を見落すなんてありえぬから故意か(¬。¬ )
故意ではなく過失によるものなら、角田文衞は歴史学の研究者として無能だろオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
なお、桂の山荘の「小さな」という形容は、根拠が無いし、「顕光にとってもっともたのしいとき」
の印象を強くするための詐術かと(^_^;) 倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(中)』
(講談社学術文庫,2009)の長和2年(1013年)10月13日条に「二条第に到って、造作すべき有様を、
(菅野)文信と(伊香)豊高に指示した。すぐに桂の山荘に行った。造営すべき有様を、(源)雅通
朝臣に指示した。・・・」とあり、道長は力を入れている感じだし、前掲『藤原道長「御堂関白記」
(下)』の長和4年(1015年)8月22日条の「桂の山荘に到った。夜に入って、還った。・・・」を経、
その6日後の長和4年(1015年)8月28日に上記の如く「殿上人十余人」に披露したぐらいなんだから、
「小さな」も「顕光にとってもっともたのしいとき」ほどではないけど〝小さな〟捏造じゃん(^_^;)
その一ヶ月後の長和4年(1015年)9月29日条にも「雨が降った。桂の山荘に行った。春宮大夫[藤原
斉信]・四条大納言[藤原公任]・源中納言[源俊賢]が来て同行した。他の公卿も、何人かいた。
夜に入って、還って来た。」(同書)とあるので道長は藤原斉信にもぜひ見せたかったのかも(^_^;)
[追記230722]
公任の歌が道長の山荘を訪ねた際の作であるとする解釈を補強する証拠が『定頼集』にv( ̄∇ ̄)ニヤッ
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-07-22
211231読んだ本【バカチン歴史家②】 [バカチン歴史家]
捏造や間違いをどれだけ見付けられるか読み手の教養と知識を試す本ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【読んだ本(バカチン歴史家②)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
丸谷才一『軽いつづら』(新潮文庫,1996)は角田文衞『椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯』を高評(゚ロ゚;)
・・・崇徳天皇は白河法皇の実子であると證明するのだ。/この箇所の、荻野久作
博士の説を援用したりしての詳細厳密な考證は、歴史推理の名品とも言ふべきもので、
嘆賞を禁じ得ない。いくら褒めても足りないほどの、学問的放れ業でありますが、・・・
これに対し、片桐洋一は角田文衞「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)について「これは考証
と称すべきものではない。推理小説としても程度の悪い作品である。・・・用いられた資料について
の吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけ・・・」と酷評してたけれどね
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
その本を読まないと判らないけど、本書を読んだ限り、丸谷才一の目が節穴の可能性C= (-。- ) フゥー
角田文衞は本書で「承香殿の女御」こと藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか
捏造していたが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-30 )、元子の父親の
藤原顕光についても捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 本書119~120頁から当該件オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
・・・/寛仁三年から四年にかけて、公人としての顕光は、軽んぜられながらも、
とにかく自分の職責を果たしていた。しかし、満たされぬ野心と延子[顕光の娘
で、皇太子の地位から自ら降りて院号(小一条院)や藤原道長の娘の寛子を得た
敦明親王の女御]をうしなった寂寥とにさいなまれ、彼の私生活は暗いもので
あった。そのころ彼は、「むすめにおくれて歎き侍りける人に月のあかかりける
夜いひつかはしける」という詞書で、
その事と思はぬだにもあるものをなにごこちして月を見るらむ
という歌を詠んでいる。歌の意は、特別にもの思いがなくても月を見ると憂いが
覚えられるものを、まして愛娘をうしなったあなたの心中はどんなものであろう
ということである。詞書には、知人か友人に贈ったとあるが、実はそういったこと
に託して心境を述べた彼自身のための詠草であったのであろう。/・・・
付された注4を確認すると「『詞花和歌集』巻第十、雑下、三九〇番。」とあるが(163頁)、同歌の
作者の「堀河右大臣」は藤原顕光ではなく藤原頼宗(道長の子)だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
小生の手元にあるのは、菅根順之『笠間注釈叢刊10 詞花和歌集全釈』(笠間書院,1983)、松野陽一
(校注)『和泉古典叢書7 詞花和歌集』(和泉書院,1988)、川村晃生&柏木由夫&工藤重矩(校注)
『新日本古典文学大系9 金葉和歌集 詞花和歌集』(岩波書店,1989)、そして、工藤重矩(校注)
『詞花和歌集』(岩波文庫,2020)の4冊だが、同歌作者を顕光とする説などモチ無いC= (-。- ) フゥー
小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)巻末の「人名索引 作者
名索引」の「顕光」の項を見ると「・・・勅撰入集は拾遺集の1首のみ.・・・」とあるので、顕光は
「一首歌人」にすぎないのに、こうやって角田文衞は他人が詠んだ歌も顕光の作としてしまうので、
「・・・右大臣の顕光は歌才はあったにせよ、・・・」(95頁)といった評価にエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
・・・/道長の政敵は少なくとも表面的には姿を消し、摂関政治は今や頂点に
近づいていた。顕光の政治的手腕はともかく、道長は従順な協力者たる顕光を
尊重し、大饗などがあれば必ず彼を主賓として招いていた。顕光の野心は道長
によって無言のうちに封じられていたとはいえ、彼は自分を引き立ててくれ、
かつ右大臣として正当な待遇を与えてくれる道長に楯つこうなどとは考えて
いなかったであろう。長保の末年のこと、彼が賀茂詣をした時などは、当時
右近少将であった道長の子頼通がうやうやしく前駆の役を果たしたりした。
・・・
この件(62頁)を読んだ時には気付かなかったのだが、その後、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長
「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)を読んでて、同書の寛弘2年(1005年)4月19日条で
はたと閃くものがキタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!! キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!!
十九日、丙申。 藤原顕光、賀茂詣
右大臣(藤原顕光)が、賀茂社に参詣された。(藤原)頼通は、右大臣の供をして
参詣した。これは中宮(藤原彰子)が大原野社に参詣された際に、右大臣が供奉された。
それが畏[おそ]れ多かったので、共に参ったのである。右大臣は頼通に、馬二疋と
野釼[のだち]一腰を賜った。これは甚だ大変な贈物である。
藤原顕光の前駆を藤原頼通が務めたことは奇異だったらしく、その理由を藤原実資も日記『小右記』
にわざわざ記しており、倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』(吉川弘文館,2017)10頁の
寛弘2年(1005年)4月19日条を引く(⌒~⌒)
十九日、丙申。 顕光賀茂詣/頼通前駆を務める
「右大臣(顕光)が賀茂社に参った」と云うことだ。「左右近衛の官人を舞人とした」
と云うことだ。左府[道長]は四位少将(藤原)頼通を前駆とさせた。「先日、右府
(顕光)は大原野行啓に供奉された。今、あの恐縮を感謝する為である」と云うことだ。
・・・
中宮彰子の大原野行啓に顕光が供奉したことに対する感謝と聞いて実資が得心したのは、次の出来事
を知っていたからであろう(⌒~⌒) 橘健二&加藤静子(校注・訳)『新編日本古典文学全集34 大鏡』
(小学館,1996)403頁の寛弘2年(1005年)3月8日の彰子の大原野神社への行啓の件から引く(⌒~⌒)
・・・閑院太政大臣殿の、西の七条より帰らせたまひしをこそ、入道殿いみじう恨み
申させたまひけれ。堀河の左大臣殿は、御社までつかまつらせたまひて、御引出物
御馬あり。・・・
・・・閑院の太政大臣殿(公季)が、西の京の七条通から引き返されたのを、
入道殿[道長]はたいそうお恨みなさいました。堀河の左大臣殿(顕光)は、
お社までお供申しあげられて、御引出物として、お馬を贈られました。・・・
藤原公季が帰っちゃったから(『小右記』によると体調不良)、顕光の株が上がっただけかと(^_^;)
「道長は・・・顕光を尊重し・・・引き立てて・・・右大臣として正当な待遇を与えて」る一環で、
頼通が顕光の前駆を務めたのなら、わざわざ実資が特記したりしないのではないか(@_@;) 加えて、
頼通の前駆を角田文衞は寛弘2年(1005年)4月19日ではなく「長保の末年」の出来事としているが、
寛弘に改元されたのは長保6年(1004年)7月20日(前掲『藤原道長「御堂関白記」(上)』同日条)
なので一年ものズレがある(@_@;) 角田文衞が典拠としているのは何だろうかと注72を見たところ、
「『江談抄』第一。」とあったので(157頁)、後藤昭雄&池上洵一&山根對助(校注)『新日本古典
文学大系32 江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店,1997)所収の山根對助&後藤昭雄(校注)『江談抄』
第一の「摂関家の事」の(二八)「摂政関白の賀茂詣に公卿ならびに子息の大臣を共にする事」の中
の一節(同書18頁)を引くが、( )内は「底本における二行割書の注記」(凡例)である(⌒~⌒)
・・・/治部卿(伊房)云はく、「宇治殿の少将にて御坐[おはしま]す時、
堀川の大臣(顕光)、賀茂詣に前駆せしめたまふと云々。宇治殿摂録の時、
堀川の大臣上卿と為りて陳の定有り。内覧の文遅く来りて、数剋を経たり。
傍の人に語りて云はく、『わが前駆を為せし人なり』」と云々。/・・・
「賀茂詣」に付されてる脚注注3には、次のように記されていた(同書18頁)オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
寛弘二年(一〇〇五)四月十九日のこと(池上洵一)。
【読んだ本(バカチン歴史家②)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
丸谷才一『軽いつづら』(新潮文庫,1996)は角田文衞『椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯』を高評(゚ロ゚;)
・・・崇徳天皇は白河法皇の実子であると證明するのだ。/この箇所の、荻野久作
博士の説を援用したりしての詳細厳密な考證は、歴史推理の名品とも言ふべきもので、
嘆賞を禁じ得ない。いくら褒めても足りないほどの、学問的放れ業でありますが、・・・
これに対し、片桐洋一は角田文衞「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)について「これは考証
と称すべきものではない。推理小説としても程度の悪い作品である。・・・用いられた資料について
の吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけ・・・」と酷評してたけれどね
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
その本を読まないと判らないけど、本書を読んだ限り、丸谷才一の目が節穴の可能性C= (-。- ) フゥー
角田文衞は本書で「承香殿の女御」こと藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか
捏造していたが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-30 )、元子の父親の
藤原顕光についても捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 本書119~120頁から当該件オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
・・・/寛仁三年から四年にかけて、公人としての顕光は、軽んぜられながらも、
とにかく自分の職責を果たしていた。しかし、満たされぬ野心と延子[顕光の娘
で、皇太子の地位から自ら降りて院号(小一条院)や藤原道長の娘の寛子を得た
敦明親王の女御]をうしなった寂寥とにさいなまれ、彼の私生活は暗いもので
あった。そのころ彼は、「むすめにおくれて歎き侍りける人に月のあかかりける
夜いひつかはしける」という詞書で、
その事と思はぬだにもあるものをなにごこちして月を見るらむ
という歌を詠んでいる。歌の意は、特別にもの思いがなくても月を見ると憂いが
覚えられるものを、まして愛娘をうしなったあなたの心中はどんなものであろう
ということである。詞書には、知人か友人に贈ったとあるが、実はそういったこと
に託して心境を述べた彼自身のための詠草であったのであろう。/・・・
付された注4を確認すると「『詞花和歌集』巻第十、雑下、三九〇番。」とあるが(163頁)、同歌の
作者の「堀河右大臣」は藤原顕光ではなく藤原頼宗(道長の子)だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
小生の手元にあるのは、菅根順之『笠間注釈叢刊10 詞花和歌集全釈』(笠間書院,1983)、松野陽一
(校注)『和泉古典叢書7 詞花和歌集』(和泉書院,1988)、川村晃生&柏木由夫&工藤重矩(校注)
『新日本古典文学大系9 金葉和歌集 詞花和歌集』(岩波書店,1989)、そして、工藤重矩(校注)
『詞花和歌集』(岩波文庫,2020)の4冊だが、同歌作者を顕光とする説などモチ無いC= (-。- ) フゥー
小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)巻末の「人名索引 作者
名索引」の「顕光」の項を見ると「・・・勅撰入集は拾遺集の1首のみ.・・・」とあるので、顕光は
「一首歌人」にすぎないのに、こうやって角田文衞は他人が詠んだ歌も顕光の作としてしまうので、
「・・・右大臣の顕光は歌才はあったにせよ、・・・」(95頁)といった評価にエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
・・・/道長の政敵は少なくとも表面的には姿を消し、摂関政治は今や頂点に
近づいていた。顕光の政治的手腕はともかく、道長は従順な協力者たる顕光を
尊重し、大饗などがあれば必ず彼を主賓として招いていた。顕光の野心は道長
によって無言のうちに封じられていたとはいえ、彼は自分を引き立ててくれ、
かつ右大臣として正当な待遇を与えてくれる道長に楯つこうなどとは考えて
いなかったであろう。長保の末年のこと、彼が賀茂詣をした時などは、当時
右近少将であった道長の子頼通がうやうやしく前駆の役を果たしたりした。
・・・
この件(62頁)を読んだ時には気付かなかったのだが、その後、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長
「御堂関白記」(上)』(講談社学術文庫,2009)を読んでて、同書の寛弘2年(1005年)4月19日条で
はたと閃くものがキタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!! キタヨキタヨヽ(゚∀゚=゚∀゚)ノキチャッタヨ-!!!!!!
十九日、丙申。 藤原顕光、賀茂詣
右大臣(藤原顕光)が、賀茂社に参詣された。(藤原)頼通は、右大臣の供をして
参詣した。これは中宮(藤原彰子)が大原野社に参詣された際に、右大臣が供奉された。
それが畏[おそ]れ多かったので、共に参ったのである。右大臣は頼通に、馬二疋と
野釼[のだち]一腰を賜った。これは甚だ大変な贈物である。
藤原顕光の前駆を藤原頼通が務めたことは奇異だったらしく、その理由を藤原実資も日記『小右記』
にわざわざ記しており、倉本一宏編『現代語訳 小右記4 敦成親王誕生』(吉川弘文館,2017)10頁の
寛弘2年(1005年)4月19日条を引く(⌒~⌒)
十九日、丙申。 顕光賀茂詣/頼通前駆を務める
「右大臣(顕光)が賀茂社に参った」と云うことだ。「左右近衛の官人を舞人とした」
と云うことだ。左府[道長]は四位少将(藤原)頼通を前駆とさせた。「先日、右府
(顕光)は大原野行啓に供奉された。今、あの恐縮を感謝する為である」と云うことだ。
・・・
中宮彰子の大原野行啓に顕光が供奉したことに対する感謝と聞いて実資が得心したのは、次の出来事
を知っていたからであろう(⌒~⌒) 橘健二&加藤静子(校注・訳)『新編日本古典文学全集34 大鏡』
(小学館,1996)403頁の寛弘2年(1005年)3月8日の彰子の大原野神社への行啓の件から引く(⌒~⌒)
・・・閑院太政大臣殿の、西の七条より帰らせたまひしをこそ、入道殿いみじう恨み
申させたまひけれ。堀河の左大臣殿は、御社までつかまつらせたまひて、御引出物
御馬あり。・・・
・・・閑院の太政大臣殿(公季)が、西の京の七条通から引き返されたのを、
入道殿[道長]はたいそうお恨みなさいました。堀河の左大臣殿(顕光)は、
お社までお供申しあげられて、御引出物として、お馬を贈られました。・・・
藤原公季が帰っちゃったから(『小右記』によると体調不良)、顕光の株が上がっただけかと(^_^;)
「道長は・・・顕光を尊重し・・・引き立てて・・・右大臣として正当な待遇を与えて」る一環で、
頼通が顕光の前駆を務めたのなら、わざわざ実資が特記したりしないのではないか(@_@;) 加えて、
頼通の前駆を角田文衞は寛弘2年(1005年)4月19日ではなく「長保の末年」の出来事としているが、
寛弘に改元されたのは長保6年(1004年)7月20日(前掲『藤原道長「御堂関白記」(上)』同日条)
なので一年ものズレがある(@_@;) 角田文衞が典拠としているのは何だろうかと注72を見たところ、
「『江談抄』第一。」とあったので(157頁)、後藤昭雄&池上洵一&山根對助(校注)『新日本古典
文学大系32 江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店,1997)所収の山根對助&後藤昭雄(校注)『江談抄』
第一の「摂関家の事」の(二八)「摂政関白の賀茂詣に公卿ならびに子息の大臣を共にする事」の中
の一節(同書18頁)を引くが、( )内は「底本における二行割書の注記」(凡例)である(⌒~⌒)
・・・/治部卿(伊房)云はく、「宇治殿の少将にて御坐[おはしま]す時、
堀川の大臣(顕光)、賀茂詣に前駆せしめたまふと云々。宇治殿摂録の時、
堀川の大臣上卿と為りて陳の定有り。内覧の文遅く来りて、数剋を経たり。
傍の人に語りて云はく、『わが前駆を為せし人なり』」と云々。/・・・
「賀茂詣」に付されてる脚注注3には、次のように記されていた(同書18頁)オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
寛弘二年(一〇〇五)四月十九日のこと(池上洵一)。
211230読んだ本【バカチン歴史家①】 [バカチン歴史家]
捏造や間違いをどれだけ見付けられるか読み手の教養と知識を試す本ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【読んだ本(バカチン歴史家①)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
本書が描こうとする「承香殿の女御」とは誰か?どの承香殿女御のことか?本書16頁から引く(^o^)丿
・・・「承香殿の女御」という名で呼ばれた女[ひと]には、たとえば
村上天皇の後宮に侍した徽子女王(式部卿重明親王王女)がいるし、
のちには、たとえば後三条天皇が東宮の時分に入内した藤原昭子
(右大臣頼宗第三女)がいる。・・・しかしここで照明をあてようとする
「承香殿の女御」とは、一条天皇の後宮にはいり、承香殿に局を賜わっていた
藤原元子のことなのである。/
一条天皇の女御の藤原元子は、大臣としての無能ぶりを藤原実資や藤原道長から再三罵倒されたり、
「悪霊左府」とも呼ばれてた藤原顕光の娘だから、その彼女の波乱万丈の生涯を主題化するなんて、
なかなかの目の付け所と、本書の内容にも期待をしてしまうよねウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
だが、購入時に「元子も顕光もともに面白そうなキャラなんだが、チラッと読んだ限りでは首を傾げ
たくなる記述も散見されたので、本書も面白いかどうかは保証しかねる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ」
(200419昨日買った本&読んだ本)と記したのは「まえがき」の次の件(1頁)を読んだから(@_@;)
・・・/藤原元子は、いと時めき給わぬ女御であり、栄華の蔭に一生を送った
女性である。勅撰歌人でもあったこの女性が、数奇な運命にもてあそばれながらも、
女として真摯に生き抜いた生活の記録をできるだけ忠実に復原してみたい、
というのが執筆の動機であった。/「忠実に」という気持から、巻末には、
いちいち典拠を示しておいた。しかしこれは専門家のためのものであるから、
一般の読者は、註などに拘泥せず、通読していただきたいと思う。・・・
先に一言すると、この巻末の「註」はメチャ小さい活字で16頁にわたり、合算すると474もあるから、
瀬戸内寂聴なんかそれだけで圧倒されちゃったか(あるいは教養が無く古典や歴史に疎いためか)、
角田文衞『平安の春』(講談社学術文庫,1999)巻末の「面白くてやめられない名著」と題した一文で
角田文衞を礼賛(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
・・・私は角田先生の御本を拝読する度、小説より面白いと夢中になってしまう。/
・・・/そのどんな小文にも、角田先生の底知れない博学の、重厚な歴史観が鋭く光り、
すべてが、文献の裏打ちをされているので、読み終ると、まるで自分がとてつもなく
国文学に精通した学者になったような気持がする。/・・・
モチ小生は国文学や歴史学の「専門家」ではないけれど、本書を「通読」しながら首を傾げた記述は
註に挙げられてる文献にも当たってみたが、その結果については適宜言及予定オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
さて、本書「まえがき」で「首を傾げたくなる記述」とは「勅撰歌人でもあった」という点(@_@;)
というのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花
和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』、以上の勅撰和歌集は「八代集」と言われるが、久保田淳
(監修)『新日本古典文学大系 別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)の「作者名索引」の「元子」
の項には『千載和歌集』に1首入集とあるだけだから(@_@;) その歌を片野達郎&松野陽一(校注)
『新日本古典文学大系10 千載和歌集』(岩波書店,1993)から参考までに引いておく(^_^;)
一条院かくれさせ給にける年の秋、月を見てよみ侍りける
おほかたに さやけからぬか 月かげは 涙くもらぬ 人に見せばや
詠んだ歌が勅撰和歌集に入集するということは歌人としての栄誉だけど、藤原元子のようないわゆる
「一首歌人」なら山ほどいて、「勅撰歌人でもあった」と特記するほどのこととは思えない(@_@;)
モチ勅撰和歌集は「二十一代集」として、『新古今和歌集』以降も『新勅撰和歌集』から『新続古今
和歌集』まで出ているから、もしかしたら、そちらに多く入集しているのかもと思って、その時は、
そのまま本棚に収めた(@_@;) その後、本書を読み始め、おかしな記述も散見されたが読み進むと、
「第六章 一条院」の次の記述(63~64頁)には吃驚仰天したよ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃあ!?
・・・/長保二、三年のある日、元子は独居の苦しさをまぎらわすため、
近くの東三条院(上京区上松屋町・下松屋町)に皇太后詮子を訪ねたこと
があった。それはあいにく雨の降る陰鬱な日であったらしい。この時彼女は、
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅がはらと見るぞかなしき
と詠じた。おそらく、彼女はこの歌を皇太后に示し、悲恋の心境を告白したので
あろう。そして彼女は爾来、何年となくこのいいようのない寥[さび]しさに
堪えてゆかねばならなかった。/・・・
付された注2には「『拾遺和歌集』巻第十八、雑賀、一二〇四番。」(157頁)とあるヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
同歌作者の承香殿女御は藤原元子ではなく村上天皇の女御の徽子女王ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
徽子女王は(先の引用にもあるが)重明親王(醍醐天皇の子)の娘で、斎宮退下後に村上天皇の女御
となり、「斎宮女御」と呼ばれ、「三十六歌仙」にも選ばれている傑出した歌人であるv( ̄∇ ̄)ニヤッ
その彼女が詠んだ歌を藤原元子作としちゃうんだから、元子を「勅撰歌人でもあった」と特記して、
「歌に長じていた元子」(146頁)という首を傾げたくなる記述が続出するのも、然もありなん(^_^;)
しかし、この歌は藤原公任の『三十六人撰』(樋口芳麻呂[校注]『王朝秀歌選』[岩波文庫,1983]
所収)にも入っている斎宮女御徽子女王の有名な歌なのに藤原元子作と間違えるとは( ̄◇ ̄;)アリエン!
藤原元子作と間違えたということは角田文衞はこの歌を理解できなかったようだエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
この歌が入っている『拾遺和歌集』『拾遺抄』『斎宮女御集』の各注釈書の訳を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅が原と見るぞ悲しき
雨が漏るほかには、守る人もいない我が宿を、浅茅が原と見るのが悲しいことだ。
・竹鼻績『拾遺抄注釈』(笠間書院,2014)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我やどを浅茅が原と見るぞかなしき
東三条に宮中から退出して、雨の降った日
雨が漏るほかに、番人もいない我が邸を、雑草が生い茂り荒れ果てた所と見るのが
かなしいことだ。
・平安文学輪読会『斎宮女御集注釈』(塙書房,1981)
あめふる日、三条の宮にて
あめならでもるひともなきわがやどをあさぢがはらとみるぞかなしき
雨の降る日、三条の宮にいて
雨の漏るほかには、守ってくれる人とてもいないこの屋敷を、浅茅が原になった
と見るのが悲しいこと。
(父の重明親王が亡くなって)雨が漏り浅茅が生い茂った(自邸の)東三条第を悲しんだ歌であり、
その「東三条院」に後に詮子(円融天皇の女御で一条天皇の母)が住んでいた頃、詮子の弟で当時の
最高権力者である藤原道長が、そんな荒れ果てた状態にするわけがないだろオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
「東三条院の伝領系図」(66頁)を見ると重明親王が伝領した史実も知らないようだし、このような
全く別人・他人の伝記的事実によって捏造したデタラメな叙述が本書には他にもあり、考証の誤りも
結構あるので、角田文衞は歴史学者として失格と言わざるを得ず、小説家の類いかもC= (-。- ) フゥー
なお、片桐洋一は、角田文衞「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)について、「これは考証と
称すべきものではない。推理小説としても程度の悪い作品である。・・・用いられた資料についての
吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけ・・・」と酷評していたけれど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )、本書にも当てはまる( ̄^ ̄)
【読んだ本(バカチン歴史家①)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
本書が描こうとする「承香殿の女御」とは誰か?どの承香殿女御のことか?本書16頁から引く(^o^)丿
・・・「承香殿の女御」という名で呼ばれた女[ひと]には、たとえば
村上天皇の後宮に侍した徽子女王(式部卿重明親王王女)がいるし、
のちには、たとえば後三条天皇が東宮の時分に入内した藤原昭子
(右大臣頼宗第三女)がいる。・・・しかしここで照明をあてようとする
「承香殿の女御」とは、一条天皇の後宮にはいり、承香殿に局を賜わっていた
藤原元子のことなのである。/
一条天皇の女御の藤原元子は、大臣としての無能ぶりを藤原実資や藤原道長から再三罵倒されたり、
「悪霊左府」とも呼ばれてた藤原顕光の娘だから、その彼女の波乱万丈の生涯を主題化するなんて、
なかなかの目の付け所と、本書の内容にも期待をしてしまうよねウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
だが、購入時に「元子も顕光もともに面白そうなキャラなんだが、チラッと読んだ限りでは首を傾げ
たくなる記述も散見されたので、本書も面白いかどうかは保証しかねる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ」
(200419昨日買った本&読んだ本)と記したのは「まえがき」の次の件(1頁)を読んだから(@_@;)
・・・/藤原元子は、いと時めき給わぬ女御であり、栄華の蔭に一生を送った
女性である。勅撰歌人でもあったこの女性が、数奇な運命にもてあそばれながらも、
女として真摯に生き抜いた生活の記録をできるだけ忠実に復原してみたい、
というのが執筆の動機であった。/「忠実に」という気持から、巻末には、
いちいち典拠を示しておいた。しかしこれは専門家のためのものであるから、
一般の読者は、註などに拘泥せず、通読していただきたいと思う。・・・
先に一言すると、この巻末の「註」はメチャ小さい活字で16頁にわたり、合算すると474もあるから、
瀬戸内寂聴なんかそれだけで圧倒されちゃったか(あるいは教養が無く古典や歴史に疎いためか)、
角田文衞『平安の春』(講談社学術文庫,1999)巻末の「面白くてやめられない名著」と題した一文で
角田文衞を礼賛(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
・・・私は角田先生の御本を拝読する度、小説より面白いと夢中になってしまう。/
・・・/そのどんな小文にも、角田先生の底知れない博学の、重厚な歴史観が鋭く光り、
すべてが、文献の裏打ちをされているので、読み終ると、まるで自分がとてつもなく
国文学に精通した学者になったような気持がする。/・・・
モチ小生は国文学や歴史学の「専門家」ではないけれど、本書を「通読」しながら首を傾げた記述は
註に挙げられてる文献にも当たってみたが、その結果については適宜言及予定オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
さて、本書「まえがき」で「首を傾げたくなる記述」とは「勅撰歌人でもあった」という点(@_@;)
というのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花
和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』、以上の勅撰和歌集は「八代集」と言われるが、久保田淳
(監修)『新日本古典文学大系 別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)の「作者名索引」の「元子」
の項には『千載和歌集』に1首入集とあるだけだから(@_@;) その歌を片野達郎&松野陽一(校注)
『新日本古典文学大系10 千載和歌集』(岩波書店,1993)から参考までに引いておく(^_^;)
一条院かくれさせ給にける年の秋、月を見てよみ侍りける
おほかたに さやけからぬか 月かげは 涙くもらぬ 人に見せばや
詠んだ歌が勅撰和歌集に入集するということは歌人としての栄誉だけど、藤原元子のようないわゆる
「一首歌人」なら山ほどいて、「勅撰歌人でもあった」と特記するほどのこととは思えない(@_@;)
モチ勅撰和歌集は「二十一代集」として、『新古今和歌集』以降も『新勅撰和歌集』から『新続古今
和歌集』まで出ているから、もしかしたら、そちらに多く入集しているのかもと思って、その時は、
そのまま本棚に収めた(@_@;) その後、本書を読み始め、おかしな記述も散見されたが読み進むと、
「第六章 一条院」の次の記述(63~64頁)には吃驚仰天したよ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃあ!?
・・・/長保二、三年のある日、元子は独居の苦しさをまぎらわすため、
近くの東三条院(上京区上松屋町・下松屋町)に皇太后詮子を訪ねたこと
があった。それはあいにく雨の降る陰鬱な日であったらしい。この時彼女は、
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅がはらと見るぞかなしき
と詠じた。おそらく、彼女はこの歌を皇太后に示し、悲恋の心境を告白したので
あろう。そして彼女は爾来、何年となくこのいいようのない寥[さび]しさに
堪えてゆかねばならなかった。/・・・
付された注2には「『拾遺和歌集』巻第十八、雑賀、一二〇四番。」(157頁)とあるヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
同歌作者の承香殿女御は藤原元子ではなく村上天皇の女御の徽子女王ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
徽子女王は(先の引用にもあるが)重明親王(醍醐天皇の子)の娘で、斎宮退下後に村上天皇の女御
となり、「斎宮女御」と呼ばれ、「三十六歌仙」にも選ばれている傑出した歌人であるv( ̄∇ ̄)ニヤッ
その彼女が詠んだ歌を藤原元子作としちゃうんだから、元子を「勅撰歌人でもあった」と特記して、
「歌に長じていた元子」(146頁)という首を傾げたくなる記述が続出するのも、然もありなん(^_^;)
しかし、この歌は藤原公任の『三十六人撰』(樋口芳麻呂[校注]『王朝秀歌選』[岩波文庫,1983]
所収)にも入っている斎宮女御徽子女王の有名な歌なのに藤原元子作と間違えるとは( ̄◇ ̄;)アリエン!
藤原元子作と間違えたということは角田文衞はこの歌を理解できなかったようだエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
この歌が入っている『拾遺和歌集』『拾遺抄』『斎宮女御集』の各注釈書の訳を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅が原と見るぞ悲しき
雨が漏るほかには、守る人もいない我が宿を、浅茅が原と見るのが悲しいことだ。
・竹鼻績『拾遺抄注釈』(笠間書院,2014)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我やどを浅茅が原と見るぞかなしき
東三条に宮中から退出して、雨の降った日
雨が漏るほかに、番人もいない我が邸を、雑草が生い茂り荒れ果てた所と見るのが
かなしいことだ。
・平安文学輪読会『斎宮女御集注釈』(塙書房,1981)
あめふる日、三条の宮にて
あめならでもるひともなきわがやどをあさぢがはらとみるぞかなしき
雨の降る日、三条の宮にいて
雨の漏るほかには、守ってくれる人とてもいないこの屋敷を、浅茅が原になった
と見るのが悲しいこと。
(父の重明親王が亡くなって)雨が漏り浅茅が生い茂った(自邸の)東三条第を悲しんだ歌であり、
その「東三条院」に後に詮子(円融天皇の女御で一条天皇の母)が住んでいた頃、詮子の弟で当時の
最高権力者である藤原道長が、そんな荒れ果てた状態にするわけがないだろオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
「東三条院の伝領系図」(66頁)を見ると重明親王が伝領した史実も知らないようだし、このような
全く別人・他人の伝記的事実によって捏造したデタラメな叙述が本書には他にもあり、考証の誤りも
結構あるので、角田文衞は歴史学者として失格と言わざるを得ず、小説家の類いかもC= (-。- ) フゥー
なお、片桐洋一は、角田文衞「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)について、「これは考証と
称すべきものではない。推理小説としても程度の悪い作品である。・・・用いられた資料についての
吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけ・・・」と酷評していたけれど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )、本書にも当てはまる( ̄^ ̄)
201129昨日買った本&読んだ本【バカチン歴史家プロローグ】 [バカチン歴史家]
古本は(出来ればコンディション「良い」以上を)最安値で買う方針が思いもよらぬ失敗(ノ_-;)トホホ…
Amazonで新品1870円が残り2冊も同マケプレは出品者2人の「良い」1079円+送料等257円が最安値で、
数時間おきに1円ずつ値下がり中( ̄◇ ̄;) 今月はメチャクチャ高~い買い物をしたので来月のカード
引き落とし額は前月比10倍、毎月平均でも5倍以上ゆえ、今月の購入は無理(-ω-、) だが、Amazonで
新品を購入した者がいたらしく在庫が残り1冊になったのを見てチト焦りを感じ始めたところ、25日に
両出品者とも1034円+送料等257円になったまま26日朝になっても値下がりせず、両出品者の設定した
最安値と判断し、スルーすると再び高い値に戻ってしまう危険があったので、仕方なく注文(´ヘ`;)
ところが、注文した出品者は在庫がまだあったらしく別の出品者ともども1円単位の値下げを再開し、
これを書いてる時点で1014円+送料等257円まで下がった(ノ;ω;)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ナカナイデー!!
【昨日買った本&読んだ本(バカチン歴史家プロローグ)】
片桐洋一『新装版 小野小町追跡 「小町集」による小町説話の研究』(笠間書院,1975→1993改訂新版→2015新装版)
Amazon出品者の「●桜井開明堂●24時間以内に発送●クッション封筒使用●ゆうメール発送」に
「良い」を1190円(1034円+送料等257円-ギフト券101円)で26日注文し28日夜7時過ぎ届く(^_^;)
コンディションは「中古品 - 良い - 【アマゾン専用在庫・迅速に発送します】2015年新装版1刷/
帯付◆微かな傷み。良好です。◆状態につきましては、Amazonコンディションガイドラインに準拠
しております。【棚番号JK-585】」という説明文で、書き込みの有無に関する記述が無く、「Amazon
コンディションガイドラインに準拠」となると「良い」は少し有りとなるから不安だったけど、新品
のようなのが届いたヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪ 「クッション封筒使用」や朝8時過ぎに注文したら
2時間後には発送といった点などは高評価も、追跡が出来ないので「お問い合わせ番号」を訊ねると、
「・・・また、こちらは、当方のような零細な商店では、追跡番号を付けると頂戴している257円では、
すでに当方で追加で負担している送料分がございますが、 さらに負担増となってしまいますので、
ご理解・ご了承いただきましたら幸いに存じます。」とのレス(^_^;) 冒頭の判断ミス以外は満足(^^)
enokorogusa様から御教示頂いた本書、図書館で借りて拾い読みしたところ、おかしな点もあったけど
(本文に〈後年の「小町業平歌問答」のような架空の物は別として、・・・〉とあるのに節見出しに
「五 小町の父小野良実は仮空の人物」といった誤植があるということ以外にも、論述内容に疑問)、
知的興趣に満ちた内容だと思い、小野小町(の歌)には興味関心は無いけど、買うことにした(^_^;)
ちなみに、この2015年の新装版の巻末には(たしか1993年の改訂新版には無かった)錦仁による解説
〈「小町的なもの」──目に見えぬものを見よ〉も収録されていたよんヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
さて、本書を拾い読みしてて大爆笑した件があって、24~25頁から引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
/角田文衛氏の「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)の前半は、前述のように
小野小町が小野吉子であるという考説が中心になっているが、後半は小町が誰の娘か、
すなわち小町の家系に焦点があてられている。今、その結論だけを要約すれば、彼女の
父は出羽守小野滝雄であり、母は滝雄の現地妻××良実(あるいは良真)の娘である
比古姫であったと言われるのである。ただ、これは考証と称すべきものではない。
推理小説としても程度の悪い作品である。何よりも気になるのは、用いられた資料に
ついての吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけという
感じが強いことである。たとえば、小町の母が、小野滝雄の現地妻であり、某姓良真
(あるいは良実とも書く)の娘で比古姫と称する人だったとしているが、その根拠は
「古今集目録」に、
出羽郡司女。或云、母衣通姫云々。号比古姫云々。
とあるのと、「小野氏系図」が小町を小野良真の娘としているのとに依拠したので
あろうが、この二つの資料の吟味は全くなされていないのである。/「古今集目録」
にいう「母衣通姫」とは何か。言うまでもなく、「古今集」の仮名序に「小野小町は、
いにしへの衣通姫[そとほりひめ]の流なり」とあるのに発しているのである。
衣通姫は允恭天皇の妃であるから、小町の母であり得ようはずはない。真名序に
「小野小町之歌、古衣通姫之流也」とあるように歌風が衣通姫的だといっているので
あって家系には何の関係もない。「衣通姫」の方は誰が見てもおかしいから省いて
「比古姫」の方だけを角田氏は用いているのだが、その「比古姫」も「古今集目録」
の記述では小町自身の別称であって母親のことではなかろう。/・・・
実は今年の6月に読了したけど拙ブログには(まだ)記録していない角田文衛の本があって、その本は
この手のデタラメで噴飯ものの考証(?)が随所にあったスーパーグレートバカチンな歴史書(^_^;)
なお、片桐洋一が「推理小説としても程度の悪い作品」と酷評しているのに、角田文衞『平安の春』
(講談社学術文庫,1999)の巻末の「面白くてやめられない名著」という一文には次の件が( ̄◇ ̄;)
/角田文衞先生はあまりにも著名な国文学の泰斗であられるけれど、角田先生が
もし小説をお書きになれば、現実の小説家たちはどれほど顔色を失くしてあわてて
しまうだろうかと、私はひそかに想像している。/・・・歴史上の、あるいは古典
文学史上の人々について、先生の関心と興味の惹かれるのは、その人物が、どういう
家系に生れ、どういう性格を持っていたかということのようで、性格によって起る
人生の諸々の事件(恋愛や政治、経済に至るまで)を快刀乱麻を断つ如く、鮮やかに
解き明して[ママ]、読者を堪能させて下さる。/私は角田先生の御本を拝読する度、
小説より面白いと夢中になってしまう。/・・・/そのどんな小文にも、角田先生の
底知れない博学の、重厚な歴史観が鋭く光り、すべてが、文献の裏打ちをされている
ので、読み終ると、まるで自分がとてつもなく国文学に精通した学者になったような
気持がする。/・・・
角田文衛は「古典文学史上の人々」の研究で「著名」とはいえ歴史学専攻だから、「国文学の泰斗」
などと高評してしまうと、国文学の専門家の中には不快に感じる人もいそうだな(念のため言えば、
小生は国文学とも歴史学とも無縁である)(^_^;) 「角田先生の御本を拝読する度」と記してるので、
『王朝の映像』も「拝読」してて小野小町の母についての愚論すら「文献の裏打ちをされている」と
思ってそうだし、小生が読了した某書も「拝読」した上での上記高評だったなら、この一文の筆者の
瀬戸内寂聴は「古典文学」や「国文学」については無知無学の徒ということにオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
[追記]
①角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-30
②作者の「堀河右大臣」は藤原顕光ではなく藤原頼宗(道長の子)だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-31
③角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-02
Amazonで新品1870円が残り2冊も同マケプレは出品者2人の「良い」1079円+送料等257円が最安値で、
数時間おきに1円ずつ値下がり中( ̄◇ ̄;) 今月はメチャクチャ高~い買い物をしたので来月のカード
引き落とし額は前月比10倍、毎月平均でも5倍以上ゆえ、今月の購入は無理(-ω-、) だが、Amazonで
新品を購入した者がいたらしく在庫が残り1冊になったのを見てチト焦りを感じ始めたところ、25日に
両出品者とも1034円+送料等257円になったまま26日朝になっても値下がりせず、両出品者の設定した
最安値と判断し、スルーすると再び高い値に戻ってしまう危険があったので、仕方なく注文(´ヘ`;)
ところが、注文した出品者は在庫がまだあったらしく別の出品者ともども1円単位の値下げを再開し、
これを書いてる時点で1014円+送料等257円まで下がった(ノ;ω;)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ナカナイデー!!
【昨日買った本&読んだ本(バカチン歴史家プロローグ)】
片桐洋一『新装版 小野小町追跡 「小町集」による小町説話の研究』(笠間書院,1975→1993改訂新版→2015新装版)
Amazon出品者の「●桜井開明堂●24時間以内に発送●クッション封筒使用●ゆうメール発送」に
「良い」を1190円(1034円+送料等257円-ギフト券101円)で26日注文し28日夜7時過ぎ届く(^_^;)
コンディションは「中古品 - 良い - 【アマゾン専用在庫・迅速に発送します】2015年新装版1刷/
帯付◆微かな傷み。良好です。◆状態につきましては、Amazonコンディションガイドラインに準拠
しております。【棚番号JK-585】」という説明文で、書き込みの有無に関する記述が無く、「Amazon
コンディションガイドラインに準拠」となると「良い」は少し有りとなるから不安だったけど、新品
のようなのが届いたヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪ 「クッション封筒使用」や朝8時過ぎに注文したら
2時間後には発送といった点などは高評価も、追跡が出来ないので「お問い合わせ番号」を訊ねると、
「・・・また、こちらは、当方のような零細な商店では、追跡番号を付けると頂戴している257円では、
すでに当方で追加で負担している送料分がございますが、 さらに負担増となってしまいますので、
ご理解・ご了承いただきましたら幸いに存じます。」とのレス(^_^;) 冒頭の判断ミス以外は満足(^^)
enokorogusa様から御教示頂いた本書、図書館で借りて拾い読みしたところ、おかしな点もあったけど
(本文に〈後年の「小町業平歌問答」のような架空の物は別として、・・・〉とあるのに節見出しに
「五 小町の父小野良実は仮空の人物」といった誤植があるということ以外にも、論述内容に疑問)、
知的興趣に満ちた内容だと思い、小野小町(の歌)には興味関心は無いけど、買うことにした(^_^;)
ちなみに、この2015年の新装版の巻末には(たしか1993年の改訂新版には無かった)錦仁による解説
〈「小町的なもの」──目に見えぬものを見よ〉も収録されていたよんヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
さて、本書を拾い読みしてて大爆笑した件があって、24~25頁から引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
/角田文衛氏の「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)の前半は、前述のように
小野小町が小野吉子であるという考説が中心になっているが、後半は小町が誰の娘か、
すなわち小町の家系に焦点があてられている。今、その結論だけを要約すれば、彼女の
父は出羽守小野滝雄であり、母は滝雄の現地妻××良実(あるいは良真)の娘である
比古姫であったと言われるのである。ただ、これは考証と称すべきものではない。
推理小説としても程度の悪い作品である。何よりも気になるのは、用いられた資料に
ついての吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけという
感じが強いことである。たとえば、小町の母が、小野滝雄の現地妻であり、某姓良真
(あるいは良実とも書く)の娘で比古姫と称する人だったとしているが、その根拠は
「古今集目録」に、
出羽郡司女。或云、母衣通姫云々。号比古姫云々。
とあるのと、「小野氏系図」が小町を小野良真の娘としているのとに依拠したので
あろうが、この二つの資料の吟味は全くなされていないのである。/「古今集目録」
にいう「母衣通姫」とは何か。言うまでもなく、「古今集」の仮名序に「小野小町は、
いにしへの衣通姫[そとほりひめ]の流なり」とあるのに発しているのである。
衣通姫は允恭天皇の妃であるから、小町の母であり得ようはずはない。真名序に
「小野小町之歌、古衣通姫之流也」とあるように歌風が衣通姫的だといっているので
あって家系には何の関係もない。「衣通姫」の方は誰が見てもおかしいから省いて
「比古姫」の方だけを角田氏は用いているのだが、その「比古姫」も「古今集目録」
の記述では小町自身の別称であって母親のことではなかろう。/・・・
実は今年の6月に読了したけど拙ブログには(まだ)記録していない角田文衛の本があって、その本は
この手のデタラメで噴飯ものの考証(?)が随所にあったスーパーグレートバカチンな歴史書(^_^;)
なお、片桐洋一が「推理小説としても程度の悪い作品」と酷評しているのに、角田文衞『平安の春』
(講談社学術文庫,1999)の巻末の「面白くてやめられない名著」という一文には次の件が( ̄◇ ̄;)
/角田文衞先生はあまりにも著名な国文学の泰斗であられるけれど、角田先生が
もし小説をお書きになれば、現実の小説家たちはどれほど顔色を失くしてあわてて
しまうだろうかと、私はひそかに想像している。/・・・歴史上の、あるいは古典
文学史上の人々について、先生の関心と興味の惹かれるのは、その人物が、どういう
家系に生れ、どういう性格を持っていたかということのようで、性格によって起る
人生の諸々の事件(恋愛や政治、経済に至るまで)を快刀乱麻を断つ如く、鮮やかに
解き明して[ママ]、読者を堪能させて下さる。/私は角田先生の御本を拝読する度、
小説より面白いと夢中になってしまう。/・・・/そのどんな小文にも、角田先生の
底知れない博学の、重厚な歴史観が鋭く光り、すべてが、文献の裏打ちをされている
ので、読み終ると、まるで自分がとてつもなく国文学に精通した学者になったような
気持がする。/・・・
角田文衛は「古典文学史上の人々」の研究で「著名」とはいえ歴史学専攻だから、「国文学の泰斗」
などと高評してしまうと、国文学の専門家の中には不快に感じる人もいそうだな(念のため言えば、
小生は国文学とも歴史学とも無縁である)(^_^;) 「角田先生の御本を拝読する度」と記してるので、
『王朝の映像』も「拝読」してて小野小町の母についての愚論すら「文献の裏打ちをされている」と
思ってそうだし、小生が読了した某書も「拝読」した上での上記高評だったなら、この一文の筆者の
瀬戸内寂聴は「古典文学」や「国文学」については無知無学の徒ということにオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
[追記]
①角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-30
②作者の「堀河右大臣」は藤原顕光ではなく藤原頼宗(道長の子)だよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-31
③角田文衞は例によって「顕光にとってもっともたのしいとき」を捏造してるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-02