240421読んだ本
有名人とはいえ顔は分からないわけで、伝わっている絵の通り、二次元の顔で出てくるのかな(^_^;)
藤原行成と小野道風(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-08 )、また
今川了俊と安徳帝(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-10 )も(^_^;)
【読んだ本】
唐木順三『続あづま みちのく』(中公文庫,1979)所蔵本
亡くなった時に細川幽斎は「[藤原]定家卿の生れ変りだった」という噂が流れて、これを松永貞徳
も信じていたらしいけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2016-08-31 )、
同じ古今伝授の相伝者でも、宗祇の場合はその亡くなる直前に藤原定家が夢に出てきた由( ̄◇ ̄;)
チト謎めいている話なので、本書の「四 東国における心敬・宗祇」から引く(⌒~⌒)
・・・/宗祇が箱根湯本で客死した時、その臨終に侍った宗長はやがて『宗祇終焉記』
を書いた。宗祇は八十二歳、宗長はその時五十五歳。・・・死の床にあった宗祇は夜半
に目を覚し、いま定家卿が枕元に立ったといって「玉の緒よ絶なばたえね」と吟じた。
居合わせたひとびとが、これは式子内親王の歌なのにと、いぶかしく思っていると、
宗祇は「ながむる月に立ちぞ浮かるる」と後句を沈吟し、「我は付けがたし。みなみな
付け侍れ」と言った。そして「ともしびの消ゆるやうにしていきも絶ぬ」と、そう宗長
は誌している。死の床の宗祇の胸中に去来したのは、定家卿であり、式子内親王であり、
「ながむる月に立ちぞ浮かるる」であった。即ち王朝末期の詩霊が宗祇の死の床におと
ずれ、そこで附合が行われたわけである。・・・
765円も払ったので、福田秀一&岩佐美代子&川添昭二&大曾根章介&久保田淳&鶴崎裕雄(校注)
『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店,1990)所収の宗長(著)鶴崎裕雄&福田秀一
(校注)『宗祇終焉記』から当該件を引いておこう(^_^;)
・・・夜中過[すぐ]るほどいたく苦しげなれば、押し動かし侍れば、「たゞ今の
夢に定家卿に会ひたてまつりし」と言ひて、「玉の緒よ絶えなば絶えね」といふ歌
を吟じられしを、聞く人、「是は式子内親王の御歌にこそ」と思へるに、又此たび
の千句[=〈先の「鎌倉近き所」で行った千句連歌〉]の中にありし前句にや、
「ながむる月にたちぞうかるゝ」といふ句を沈吟して、「我は付がたし。皆〻付侍れ」
などたはぶれに言ひつゝ、灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ于時八十二歳、文亀二
[(1502)年]夷則[=7月]晦日[=30日]。/・・・
「定家卿」に付された脚注には「鎌倉時代初期の歌人。・・・」とあって、「・・・『百人一首』は
選者と多くの歌人がほぼ同時代人・・・」と記していた江橋崇『ものと人間の文化史189 百人一首』
(法政大学出版局 ,2022)のバカチンぶりを裏書きするが、それよりも「式子内親王」の脚注(^_^;)
・・・定家と式子内親王の恋の伝説があり(謡曲・定家など)、式子内親王の手跡
によるこの歌を定家が持っていたという俗伝もあった〈渓雲問答〉。
「伝説」を宗祇は信じていたのかなぁ(@_@;) 式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることのよわりもぞする」と「ながむる月にたちぞうかるゝ」(「眺める月の美しさに浮かれて
しまうよ」と脚注)との結び付きが小生には解らんよ(@_@;) とまれ、解題では「・・・宗祇終焉
の場面は、後世の芭蕉の臨終(『笈日記』など)に匹敵する。」と評され、そちらも気になる(^_^;)
芭蕉は病床で〈寝ても覚めても俳諧のことばかり気にかかる。今の自分は妄執にとりつかれている〉
などと言ったと各務支考が書き残していると井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)は紹介
してたけど、西行が夢枕に立ったとかだったら面白いな(^_^;) 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
という病中吟を読み解いて、深沢眞二&深沢了子編『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 秋冬編』(三弥井
古典文庫,2016)が、「・・・西行もかつて[紀]貫之と能因の見た春の景色を夢に見たが、芭蕉は
西行の見た冬の景色を夢に見たのである。/」、〈・・・死に近き芭蕉が「枯野」の語で言い表そう
としたのは古典和歌の伝統、いわば「風雅の世界」であった。芭蕉はおそらくは風雅への妄執にとら
われたままで死んでいった。・・・〉などと指摘しているのは興味深い〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
藤原行成と小野道風(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-08 )、また
今川了俊と安徳帝(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-10 )も(^_^;)
【読んだ本】
唐木順三『続あづま みちのく』(中公文庫,1979)所蔵本
亡くなった時に細川幽斎は「[藤原]定家卿の生れ変りだった」という噂が流れて、これを松永貞徳
も信じていたらしいけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2016-08-31 )、
同じ古今伝授の相伝者でも、宗祇の場合はその亡くなる直前に藤原定家が夢に出てきた由( ̄◇ ̄;)
チト謎めいている話なので、本書の「四 東国における心敬・宗祇」から引く(⌒~⌒)
・・・/宗祇が箱根湯本で客死した時、その臨終に侍った宗長はやがて『宗祇終焉記』
を書いた。宗祇は八十二歳、宗長はその時五十五歳。・・・死の床にあった宗祇は夜半
に目を覚し、いま定家卿が枕元に立ったといって「玉の緒よ絶なばたえね」と吟じた。
居合わせたひとびとが、これは式子内親王の歌なのにと、いぶかしく思っていると、
宗祇は「ながむる月に立ちぞ浮かるる」と後句を沈吟し、「我は付けがたし。みなみな
付け侍れ」と言った。そして「ともしびの消ゆるやうにしていきも絶ぬ」と、そう宗長
は誌している。死の床の宗祇の胸中に去来したのは、定家卿であり、式子内親王であり、
「ながむる月に立ちぞ浮かるる」であった。即ち王朝末期の詩霊が宗祇の死の床におと
ずれ、そこで附合が行われたわけである。・・・
765円も払ったので、福田秀一&岩佐美代子&川添昭二&大曾根章介&久保田淳&鶴崎裕雄(校注)
『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店,1990)所収の宗長(著)鶴崎裕雄&福田秀一
(校注)『宗祇終焉記』から当該件を引いておこう(^_^;)
・・・夜中過[すぐ]るほどいたく苦しげなれば、押し動かし侍れば、「たゞ今の
夢に定家卿に会ひたてまつりし」と言ひて、「玉の緒よ絶えなば絶えね」といふ歌
を吟じられしを、聞く人、「是は式子内親王の御歌にこそ」と思へるに、又此たび
の千句[=〈先の「鎌倉近き所」で行った千句連歌〉]の中にありし前句にや、
「ながむる月にたちぞうかるゝ」といふ句を沈吟して、「我は付がたし。皆〻付侍れ」
などたはぶれに言ひつゝ、灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ于時八十二歳、文亀二
[(1502)年]夷則[=7月]晦日[=30日]。/・・・
「定家卿」に付された脚注には「鎌倉時代初期の歌人。・・・」とあって、「・・・『百人一首』は
選者と多くの歌人がほぼ同時代人・・・」と記していた江橋崇『ものと人間の文化史189 百人一首』
(法政大学出版局 ,2022)のバカチンぶりを裏書きするが、それよりも「式子内親王」の脚注(^_^;)
・・・定家と式子内親王の恋の伝説があり(謡曲・定家など)、式子内親王の手跡
によるこの歌を定家が持っていたという俗伝もあった〈渓雲問答〉。
「伝説」を宗祇は信じていたのかなぁ(@_@;) 式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
忍ぶることのよわりもぞする」と「ながむる月にたちぞうかるゝ」(「眺める月の美しさに浮かれて
しまうよ」と脚注)との結び付きが小生には解らんよ(@_@;) とまれ、解題では「・・・宗祇終焉
の場面は、後世の芭蕉の臨終(『笈日記』など)に匹敵する。」と評され、そちらも気になる(^_^;)
芭蕉は病床で〈寝ても覚めても俳諧のことばかり気にかかる。今の自分は妄執にとりつかれている〉
などと言ったと各務支考が書き残していると井本農一『芭蕉入門』(講談社学術文庫,1977)は紹介
してたけど、西行が夢枕に立ったとかだったら面白いな(^_^;) 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
という病中吟を読み解いて、深沢眞二&深沢了子編『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 秋冬編』(三弥井
古典文庫,2016)が、「・・・西行もかつて[紀]貫之と能因の見た春の景色を夢に見たが、芭蕉は
西行の見た冬の景色を夢に見たのである。/」、〈・・・死に近き芭蕉が「枯野」の語で言い表そう
としたのは古典和歌の伝統、いわば「風雅の世界」であった。芭蕉はおそらくは風雅への妄執にとら
われたままで死んでいった。・・・〉などと指摘しているのは興味深い〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
令和の時代に、古今伝授の相伝者は居るのかな?
細川幽斎の生まれ変わりとか聞いたことないし・・・
「事故に病んで夢はバイクでかけ廻る」と詠んでみる(笑)。
by tai-yama (2024-04-21 23:09)
細川幽斎の後は皇室で相伝されましたが、
今上天皇が相伝者だったら面白い(^_^;)
by middrinn (2024-04-22 05:20)
ホント。夢枕に立ってでも良いですから、藤原定家が、「四位仲坊」
の病気が、ホントにヒドイと思っていたのかどうか、つまりどのタイプ
の日本の将棋を指しているのか、出て来て説明してくれたら助かります
がねぇ。明月記の西暦1213年(建暦3年)宣明暦4月27日の件
ですが。
by df233285 (2024-04-22 07:07)
夢は欲望充足とされてますから、願望が形を変えて出てくるだけでは(@_@;)
by middrinn (2024-04-22 15:26)