231023読んだ本【バカチン連環記④】 [バカチン連環記]
イワンの馬鹿、イワンの馬鹿、イワンの馬鹿、イワンの馬鹿、ロハンの馬鹿オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
【読んだ本(バカチン連環記④)】
幸田露伴『連環記 他一篇』(岩波文庫,1991)所蔵本
『白氏文集』は、宋の商人の曽令文から贈られ、その後も宋にいる寂照(大江定基)からも贈られた
にもかかわらず、更に宋の僧の常智にリクエストして贈ってもらった藤原道長の不可解な行動の訳を
説明する仮説を提示したが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-26 )、
その際に大江定基のことも色々と調べ、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版
→2004新装改版)の次の件を読んだことが、幸田露伴の「生涯最高の傑作」とされている『連環記』
を手に取った所以である(^_^;)
・・・寂心[慶滋保胤]には寂照という弟子があった。かれはのちに宋に渡って
中国で尊敬され、三十余年滞在したまま、かの地で没した名僧であるが、この
寂照というのがまた、文学の宗家大江氏の出で、三河守に任ぜられたが、一朝、
発心して官を捨てて出家入道した大江定基のことなのである。・・・寂照の出家
にはどんな事情があったかなどということに関しては、いろいろの説話が伝えられ
ているが、それは文豪幸田露伴の作、『連環記』にこまかに描かれている。さすがに
露伴の作だけあって、その解釈の正確さ、叙述の巧妙さはわたくしのとうてい及ぶ
ところではないから、ここでは省略することとしたい。/・・・
土田直鎮の同書は小生も愛読している名著なのだけど、歴史学の研究者にありがちな文化史に関する
無知無学を曝け出した記述も散見されるので(後掲)、この件も話半分に受け取りつつ、『連環記』
を読み始めた次第(^_^;) その結果、幸田露伴は世評では博学博識で考証に優れているとされるが、
この作品に関して言えば、その考証は不充分あるいはデタラメで、その一例を今回紹介する(⌒~⌒)
なお、『連環記』はネット上の「青空文庫」にもアップされているけど、引用は本書から行なう(^^)
・・・/寂照は寂心[慶滋保胤]恵心[源信]の間に挟まり、その他の碩徳にも
参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干[いくばく]歳も
経ないで僧都になった。僧都だの僧正だのというのは、俗界から教界を整理する
便宜上から出来たもので、本来からいえば、名誉でもなく、あるべきはずもない
ものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。・・・
寂照が僧都になった話など見たこと無く、幸田露伴が典拠に挙げた赤染衛門の家集『赤染衛門集』を
関根慶子&阿部俊子&林マリヤ&北村杏子&田中恭子『私家集全釈叢書1 赤染衛門集全釈』(風間
書房,1986)を購入した際に確認すると、「定基僧都の母」なる人物との贈答歌は幾つかあったが、
この「定基僧都」と寂照(大江定基)とは同一人物ではなく別人だヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
赤染衛門は大江定基の兄の大江為基と深い関わりがあったため、大江定基の名も同書巻頭の「解説」
に登場してて、注で〈・・・なお、定基は法名を寂照といい、『赤染衛門集』に見える「定基僧都」
とは別人である。〉とある( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ 「定基僧都」に関し同書は次のように解説v( ̄∇ ̄)ニヤッ
ちなみに、寂照(大江定基)の入宋は長保5年(1003年)である(^_^;)
・・・/定基僧都が、その名を初めてあらわすのは、管見によれば、『権記』の
長保三年(一〇〇一)二月二十九日条で、この日、行成の世尊寺供養にあたり、
延暦寺の銀杖衆の一人として列席している。『御堂関白記』には、寛弘元年
(一〇〇四)五月十九日、道長が故東三条院詮子のために法華八講をした時、
聴衆として法会に参列する条をはじめとして、道長の木幡浄妙寺多宝塔供養には、
引頭の役、同八年、等身阿弥陀経供養には、堂達の役、長和二年(一〇一三)以降
の道長邸の経供養には講経の役を任せられている……など、道長の私的仏事には、、
必ず、その名が見えるのである。また、道長五十賀、後一条天皇即位の賀にも参列
する僧綱の一人であったし、寛仁元年(一〇一七)二月二十七日、道長が、木幡の、
一族の故人の墓に詣でた時浄妙寺で饗を儲[ママ]けた時に、浄妙寺の別当律師で
あり、これ以降、木幡別当律師、あるいは、別当僧都の名で呼ばれ、嬉子・姸子・
道長の三人を葬送し、それぞれの遺骨を納める役を果たしている。ことに、晩年の
道長は、何カ月もの間、定基僧都の坊で病臥したのであった。格式ある公的な仏事
には、天台座主をはじめ最高位の僧綱を列ねるであろうし、道長も、そういう場合は、
深覚のような高僧を招きもしたが、私的には、定基僧都こそが、最も道長に近侍する
僧であった。定基僧都は、父の名も、源助成(あるいは成助)とだけ伝えられて、
その出自も全く明らかでない。しかし、道長に重用され、道長亡き後も、法成寺権
別当となり上東門院の石清水参詣の折も経供養の講師をつとめるなど、長元六年
(一〇三三)五五歳で没するまで、道長家に仕えた。/・・・/なお、定基が僧都に
なったのは、寛仁四年(一〇二〇)十二月からのことで[←巻頭の「解説」の注では
「・・・定基が僧都になったのは治安元年[1021年]五月(僧官補任)」とする]、
道長家の僧であるかたわら、道命阿闍梨の死去に伴う後任で、天王寺別当僧都に
なったことに因るものである。・・・
ちなみに、『栄花物語』の皇太后姸子が故三条院のために催した枇杷殿御八講の五巻の日の叙述で、
「その日の講師、朝座定、・・・」とある件、異本に「定基」とあることから、松村博司『日本古典
評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(五)』(角川書店,1975)は「その日の講師は、朝座定基僧都、
・・・」と訳し、〈朝の講座は定基僧都が受持った。定基は散位源助成の子。円城寺知弁僧正弟子。
「定基僧都、寛仁四年十二月廿九日任、治十四年」(『天王寺別当次第』)。〉と語釈で解説(^_^;)
史料・文献の博捜・渉猟は歴史考証のイロハなのに、幸田露伴が『御堂関白記』や『栄花物語』等々
に目を通していないことは明白オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! しかも、この早とちりから、知識だけでなく
常識も無いことが判る(^_^;) 大江定基は俗名で法名は寂照なのだから、もし僧都になっていたなら
寂照僧都と呼ばれてたはずで、「定基僧都」だなんて幸田露伴は歴史常識が欠如した馬鹿かと(^_^;)
・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26
・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04
・土田直鎮は調べもせずにテキトーなこと書き散らかしてんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-04-27
・土田直鎮は『江談抄』を誤読あるいは恣意的に利用しているじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-10
・無教養な土田直鎮は「この望月の歌が、和歌としてどれほどの水準のものかは知らない」由(^_^;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-09
・「梅は早く落ちぬ」の作者は紀長谷雄(紀納言)ではなく大江維時(江納言)だよC= (-。- ) フゥー
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-05-08
【読んだ本(バカチン連環記④)】
幸田露伴『連環記 他一篇』(岩波文庫,1991)所蔵本
『白氏文集』は、宋の商人の曽令文から贈られ、その後も宋にいる寂照(大江定基)からも贈られた
にもかかわらず、更に宋の僧の常智にリクエストして贈ってもらった藤原道長の不可解な行動の訳を
説明する仮説を提示したが(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-26 )、
その際に大江定基のことも色々と調べ、土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版
→2004新装改版)の次の件を読んだことが、幸田露伴の「生涯最高の傑作」とされている『連環記』
を手に取った所以である(^_^;)
・・・寂心[慶滋保胤]には寂照という弟子があった。かれはのちに宋に渡って
中国で尊敬され、三十余年滞在したまま、かの地で没した名僧であるが、この
寂照というのがまた、文学の宗家大江氏の出で、三河守に任ぜられたが、一朝、
発心して官を捨てて出家入道した大江定基のことなのである。・・・寂照の出家
にはどんな事情があったかなどということに関しては、いろいろの説話が伝えられ
ているが、それは文豪幸田露伴の作、『連環記』にこまかに描かれている。さすがに
露伴の作だけあって、その解釈の正確さ、叙述の巧妙さはわたくしのとうてい及ぶ
ところではないから、ここでは省略することとしたい。/・・・
土田直鎮の同書は小生も愛読している名著なのだけど、歴史学の研究者にありがちな文化史に関する
無知無学を曝け出した記述も散見されるので(後掲)、この件も話半分に受け取りつつ、『連環記』
を読み始めた次第(^_^;) その結果、幸田露伴は世評では博学博識で考証に優れているとされるが、
この作品に関して言えば、その考証は不充分あるいはデタラメで、その一例を今回紹介する(⌒~⌒)
なお、『連環記』はネット上の「青空文庫」にもアップされているけど、引用は本書から行なう(^^)
・・・/寂照は寂心[慶滋保胤]恵心[源信]の間に挟まり、その他の碩徳にも
参学して、学徳日に進んで衆僧に仰がれ依らるるに至り、幾干[いくばく]歳も
経ないで僧都になった。僧都だの僧正だのというのは、俗界から教界を整理する
便宜上から出来たもので、本来からいえば、名誉でもなく、あるべきはずもない
ものだが、寂照が僧都にされたことは、赤染集に見えている。・・・
寂照が僧都になった話など見たこと無く、幸田露伴が典拠に挙げた赤染衛門の家集『赤染衛門集』を
関根慶子&阿部俊子&林マリヤ&北村杏子&田中恭子『私家集全釈叢書1 赤染衛門集全釈』(風間
書房,1986)を購入した際に確認すると、「定基僧都の母」なる人物との贈答歌は幾つかあったが、
この「定基僧都」と寂照(大江定基)とは同一人物ではなく別人だヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
赤染衛門は大江定基の兄の大江為基と深い関わりがあったため、大江定基の名も同書巻頭の「解説」
に登場してて、注で〈・・・なお、定基は法名を寂照といい、『赤染衛門集』に見える「定基僧都」
とは別人である。〉とある( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ 「定基僧都」に関し同書は次のように解説v( ̄∇ ̄)ニヤッ
ちなみに、寂照(大江定基)の入宋は長保5年(1003年)である(^_^;)
・・・/定基僧都が、その名を初めてあらわすのは、管見によれば、『権記』の
長保三年(一〇〇一)二月二十九日条で、この日、行成の世尊寺供養にあたり、
延暦寺の銀杖衆の一人として列席している。『御堂関白記』には、寛弘元年
(一〇〇四)五月十九日、道長が故東三条院詮子のために法華八講をした時、
聴衆として法会に参列する条をはじめとして、道長の木幡浄妙寺多宝塔供養には、
引頭の役、同八年、等身阿弥陀経供養には、堂達の役、長和二年(一〇一三)以降
の道長邸の経供養には講経の役を任せられている……など、道長の私的仏事には、、
必ず、その名が見えるのである。また、道長五十賀、後一条天皇即位の賀にも参列
する僧綱の一人であったし、寛仁元年(一〇一七)二月二十七日、道長が、木幡の、
一族の故人の墓に詣でた時浄妙寺で饗を儲[ママ]けた時に、浄妙寺の別当律師で
あり、これ以降、木幡別当律師、あるいは、別当僧都の名で呼ばれ、嬉子・姸子・
道長の三人を葬送し、それぞれの遺骨を納める役を果たしている。ことに、晩年の
道長は、何カ月もの間、定基僧都の坊で病臥したのであった。格式ある公的な仏事
には、天台座主をはじめ最高位の僧綱を列ねるであろうし、道長も、そういう場合は、
深覚のような高僧を招きもしたが、私的には、定基僧都こそが、最も道長に近侍する
僧であった。定基僧都は、父の名も、源助成(あるいは成助)とだけ伝えられて、
その出自も全く明らかでない。しかし、道長に重用され、道長亡き後も、法成寺権
別当となり上東門院の石清水参詣の折も経供養の講師をつとめるなど、長元六年
(一〇三三)五五歳で没するまで、道長家に仕えた。/・・・/なお、定基が僧都に
なったのは、寛仁四年(一〇二〇)十二月からのことで[←巻頭の「解説」の注では
「・・・定基が僧都になったのは治安元年[1021年]五月(僧官補任)」とする]、
道長家の僧であるかたわら、道命阿闍梨の死去に伴う後任で、天王寺別当僧都に
なったことに因るものである。・・・
ちなみに、『栄花物語』の皇太后姸子が故三条院のために催した枇杷殿御八講の五巻の日の叙述で、
「その日の講師、朝座定、・・・」とある件、異本に「定基」とあることから、松村博司『日本古典
評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(五)』(角川書店,1975)は「その日の講師は、朝座定基僧都、
・・・」と訳し、〈朝の講座は定基僧都が受持った。定基は散位源助成の子。円城寺知弁僧正弟子。
「定基僧都、寛仁四年十二月廿九日任、治十四年」(『天王寺別当次第』)。〉と語釈で解説(^_^;)
史料・文献の博捜・渉猟は歴史考証のイロハなのに、幸田露伴が『御堂関白記』や『栄花物語』等々
に目を通していないことは明白オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! しかも、この早とちりから、知識だけでなく
常識も無いことが判る(^_^;) 大江定基は俗名で法名は寂照なのだから、もし僧都になっていたなら
寂照僧都と呼ばれてたはずで、「定基僧都」だなんて幸田露伴は歴史常識が欠如した馬鹿かと(^_^;)
・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26
・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04
・土田直鎮は調べもせずにテキトーなこと書き散らかしてんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-04-27
・土田直鎮は『江談抄』を誤読あるいは恣意的に利用しているじゃんヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-03-10
・無教養な土田直鎮は「この望月の歌が、和歌としてどれほどの水準のものかは知らない」由(^_^;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-09
・「梅は早く落ちぬ」の作者は紀長谷雄(紀納言)ではなく大江維時(江納言)だよC= (-。- ) フゥー
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-05-08
なるほど。”摂関時代の高僧は、京都の公家との関係が深く、
帰路の途中で博多を通過しても、博多の町場役人と接触
する要素が無い"かどうかという事も、公家の日記も読んで、
「高僧の発言」の日記著者による伝言等をチェックし、確認
するのが基本のきですよね。勉強になります。
by df233285 (2023-10-23 20:59)
寂照さんは1003年から宋に居て(日本に)帰れなかったので
別人ですね。日本に帰ることができなかったと言うと阿倍 仲麻呂
をイメージしたり。
by tai-yama (2023-10-23 23:24)
「高僧」=官の高い僧は「公家との関係が深」そうですが、
徳(≠僧綱)の高い僧も「高僧」で、摂関家からの招きに
あーゆーことを仕出かしたとされる増賀もいますし(^_^;)
長さん様、史料・文献の渉猟・博捜はイロハですね(^_^;)
by middrinn (2023-10-24 05:38)
幸田露伴は早とちりしても『御堂関白記』や『栄花物語』にも目を通していたなら、
tai-yama様、「日本にいないはずなのに!?」と勘違いに気付けたのにね(^_^;)
逆に、日本で没した鑑真や蘭渓道隆なんか帰国の意思はあったんですかね(^_^;)
by middrinn (2023-10-24 05:59)