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210620読んだ本

読書の厄介なところは、お仲間による追従的書評を読まされることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
仲間内で、AがBのを褒めて、BがCのを推奨し、CがAのを讃えるという手のこんだ手口も(@_@;)

【読んだ本】

渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』(柏書房,2021)

第6章の前川辰徳「結城合戦」に続いて、第7章の渡邊大門「嘉吉の乱」を今日は読んだよ(⌒~⌒)

  第7章「嘉吉の乱」 〝万人恐怖〟への反動、幕府権威失墜の端緒となった将軍暗殺劇 渡邊大門

     「嘉吉の乱」の時代背景/赤松満祐を追い詰めた将軍/幕府の混乱と遅い対応/
     足利義尊と小倉宮の擁立/討伐軍進発と綸旨発給/開戦の経過/赤松軍、徐々に劣勢に/
     城山城の落城/満祐の最期/「嘉吉の乱」の戦後処理/赤松一族のその後/

赤松満祐によって白昼堂々と殺された将軍足利義教、よく紹介されてるように(本書134~135頁)、

    ・・・義教は、『看聞日記』(『看聞御記』)の記主である伏見宮貞成親王が
    「万人恐怖」と称したほど気性の激しい性格の持ち主であり、意に沿わない者は
    徹底して弾圧された。・・・/義教が弾圧したのは武家だけではなく、公家なども
    同じだった。義教の政治は、まさしく恐怖政治だったのである。・・・

それゆえ、〈・・・貞成は義教の死を「自業自得」とした上で、「将軍のこのような犬死は古来から
その例がない」と感想を漏らした。〉(本書138頁)ことも、有名だわな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

本書142~143頁にある次の件だけど、最後の一文はチト興味深くもある〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/一連の事態を重く見た幕府が、赤松氏討伐の綸旨を奏請したのは、
    七月二十六日になってからであった。この綸旨奏請には、武家の私闘であるがゆえ、
    当初は反対意見が多かった。ところが、[管領の]細川持之が、「永享の乱」時に
    足利持氏征伐のために出された「治罰の綸旨」(天皇による征討命令)を先例と
    するよう主張したため、ようやく八月になって下された。この時、後花園天皇は
    自ら綸旨の添削を行うなど、発給には随分と熱心であったという。治罰綸旨の申請
    の背景には、持之が自身の指導力に自信が持てなかったという理由がある。この結果、
    後花園天皇の幕府への影響力は大きくなった。/・・・

天下の将軍が暗殺されたのに「武家の私闘」とはチト違和感(^_^;) 公職・公人ではないのかな(^_^;)

本書の第5章「永享の乱」(中根正人)でも〈・・・永享四年(一四三二)に行われた将軍・義教の
「富士御覧」(富士山見物のための駿河下向)、・・・〉(本書96頁)と言及されてるけど、やはり
興味深いのは、田中義成『足利時代史』(講談社学術文庫,1979)の次の件であるv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・/抑々[そもそも]富士遊覧は義教に始まらず、実は義満に始まる。
    関東は義満の時よりややもすれば反抗の勢をなしたれば、義満之を威圧せんが為に
    富士遊覧の名にて下向せり。義教はこの前例にならえるなり。後に豊臣秀吉が
    関東征伐として下向せる時も、同じく富士遊覧と称して出発せるは、この前例に
    ならえるなり、即ち富士遊覧なる詞[ことば]は、関東経略の義を含める
    尤も興味ある史的名詞なり。・・・

そーゆーコノテーションがある「富士遊覧」を「史的名詞」と表現するところが流石、碩学(⌒~⌒)

さて、さて、さ~て!長崎健&外村南都子&岩佐美代子&稲田利徳&伊藤敬(校注・訳)『新編日本
古典文学全集48 中世日記紀行集』(小学館,1994)所収の稲田利徳(校注・訳)『覧富士記』は、
「作者[である歌僧の]堯孝が、永享四年(一四三二)九月十日から二十七日まで、将軍足利義教の
富士山遊覧のために随行したときの紀行文。」(同書456頁)の由(^^) その内容は「名所歌枕などに
触発された作者の和歌を中心とした紀行文で、文章も簡潔であるが、将軍に随行する立場上、平和な
治世を讃える追従的な雰囲気が全体に横溢している。」(同書456頁)とされている(^_^;) 同書巻末
の「解説」の「七 室町時代の日記紀行文学Ⅰ──応仁の乱以前」の「室町将軍の旅の随行記」の節で
稲田利徳は次のように記している(同書604頁)(^_^;)

    ・・・/追従ということでは、永享五年三月、将軍義教の伊勢参宮に随行した、
    堯孝の『伊勢紀行』の方が「長閑なる御代」を強調して露骨である。この義教は、
    伊勢参宮の前年の永享四年九月、富士遊覧と称して駿河に赴く。この旅は、
    関東公方足利持氏を牽制する政治的な目的もかねていたが、これに供奉した
    旅の記が、従来、『覧富士記』(堯孝)、『富士紀行』(飛鳥井雅世)、
    『富士御覧日記』(作者未詳)と三つ知られていたが、近年さらに、将軍の側近
    の立場で記述した『左大臣義教公富士御覧記』(作者未詳)の新資料が発掘された
    (外村展子「『時しらぬふみ』のこと」書誌学月報 第二十八号)。特定の旅に
    作品が四つも現存するのは極めて珍しく、これらを相互に比較することで、
    旅の実態、個々の作品の特質や虚構性などが把握でき、すこぶる興味深い。
    内容的には四作品とも、旅人としての個人的な感慨を吐露することは少なく、
    専ら歌枕や地名に絡めた詠歌が中心で単調な面がある。特に、恐怖の専制君主
    義教への追従精神の露骨さが印象深い。それは例えば、/・・・/といった調子で、
    地名と絡めて御代の平穏さ、豊饒な恵みを寿ぎ、義教の治政を賛美する叙法である。/
    これらの随行記は、後に将軍の要請で纏められて献上したもので、そのこと自体、
    個人的な清新な感情が抑制され、治政を讃える方向で叙述される必然性を孕んでいた
    といえる。/・・・

久保田淳『富士山の文学』(文春新書,2004→角川ソフィア文庫,2013)でも「この三篇の紀行文[=
『覧富士記』『富士紀行』『富士御覧日記』]には、そのどれにも権力者義教に対する阿諛追従が
顕著で、決して興趣豊かとは言いがたいのではあるが、・・・」と評されてるけど、それにしても、
この堯孝、茶坊主だったようにしか読めないけど、歌人としては二条派の中心人物だったとか(^_^;)
正徹(小川剛生・訳注)『正徹物語』(角川ソフィア文庫,2011)巻末の「解説」には、

    ・・・/時の歌壇では室町幕府将軍に信任された飛鳥井家と、これを擁する二条派が
    大勢を占めていた。冷泉家に師礼を取った正徹は足利義教に嫌悪され、勅撰和歌集
    (新続古今集)への入集を拒否されるなど不遇の一時期もあったが、・・・

とあり、この『新続古今和歌集』は足利義教が執奏して後花園天皇が(『富士紀行』の)飛鳥井雅世
を撰者とし、堯孝は「・・・和歌所開闔[かいこう]となり、撰者飛鳥井雅世を援助するなど、室町
歌壇に大きな足跡を残した。」(稲田利徳・前掲書456頁)とされ、み~んな、お仲間だお\(^o^)/

同書の『覧富士記』から少し引いておくか(本文は同書474~475頁で、現代語訳は同書474頁)(^_^;)

    ・・・/御舟に召され、海人の潜[かづ]きするなど御覧ぜられて、還御なり侍りき。
    仁行[じんかう]春の如く、威行[ゐかう]秋の如くなる御よそほしさ見奉る貴賤、
    御道すがらさりもあへ侍らず。/・・・

    ・・・/将軍は御舟に乗られ、海人が海中に潜る様子を御覧になってお帰りになった。
    仁行のさまは春のように物柔らかく、威行なるさまは秋のように峻厳である、将軍の
    威儀正しい御立派な様子を拝見しようとする、身分の上の者や下の者が道いっぱいいた。
    /・・・

同書の頭注9では「仁行」云々が次のように敷衍されてる(同書475頁)〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    将軍義教の政治姿勢を「仁行」(慈愛に満ちた為政)、「威行」(威厳に満ちた為政)
    と評価し、それを暖かく柔らかい春の季節と峻厳な秋の季節に比喩。

堯孝にとっては「春の季節」だったけど、「足利義教に嫌悪され」た正徹には「秋の季節」か(^_^;)

・秦野裕介「観応の擾乱」は「九州だけは南朝が・・・支配した」とするが、「九州」は誇張(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-22

・市川裕士「明徳の乱」は教わることが多く目から鱗ボロボロも『明徳記』を誤読してる疑い(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-23

・浅野友輔「応永の乱」、「満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたこと」は一顧だにせず(..)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-05

・千葉篤志「上杉禅秀の乱」では虚偽の情報に振り回される貞成親王の『看聞日記』が笑える(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-09

・中根正人「永享の乱」、『鎌倉持氏記』が用いられるようになったのは国文学者の研究が契機(゚o゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14

・前川辰徳「結城合戦」、「結城氏朝は当初幕府方として反乱軍の鎮圧にあたっていた」とは( ̄◇ ̄;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-16

・大内義弘は南朝の皇子を奉じて出陣してて南朝再興を目指してた可能性もと田中義成は記す(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-19
タグ:歴史 紀行 和歌
コメント(6) 
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コメント 6

そら

これまた、難しい表現が出ましたね!!
追従的書評??
Webで検索したらヒトラーが出て来たけどなんか関係があるのだろうか?
by そら (2021-06-20 17:57) 

middrinn

仲間の本を阿諛追従から提灯持ちなレヴューをする意で
小生は用いたので、ヒトラーは関係ありません(^_^;)
by middrinn (2021-06-20 18:26) 

tai-yama

モミ手をしながら書いた作品だったのかも。
現在の首相もオリンピックの開会式を見て義教と同じ心境に
なったり・・・
by tai-yama (2021-06-20 23:17) 

ナベちはる

>追従的書評
3人が直接褒めあっているわけではないので、書評が自然に見えてきますね(^^;
by ナベちはる (2021-06-21 01:34) 

middrinn

総務大臣の時には、異見を述べた官僚を
tai-yama様、飛ばした恐怖政治(^_^;)
by middrinn (2021-06-21 05:21) 

middrinn

一見では追従とは全く判らない手口で、
ナベちはる様、手がこんでます(^_^;)
by middrinn (2021-06-21 05:24) 

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