240420読んだ新聞【バカチン】
もし上田城と大津城が、ともに存在しなかったなら、一体どちらが勝っていたのだろうか(@_@;)
たしか笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(講談社選書メチエ,1994)は京極高次の
大津城を攻めていた立花宗茂が関ヶ原に間に合っていたら西軍が勝ってたかもと注で記してた記憶
があるけど、秀忠が率いた徳川の別動隊(主力部隊?)も間に合っていたらどうだろうか(@_@;)
【読んだ新聞(バカチン)】
朝日新聞2024年4月19日付朝刊
関ヶ原合戦の前哨戦で東軍の細川幽齋の丹後国田辺城を「その兵数一万五千と称した」西軍が攻め、
「城中に在る侍はわずかに五十人、その卒伍を合しても、五百には過ぎなかった」けど、細川幽齋は
「六十日に亙りて籠城」(^_^;) 徳富蘇峰『近世日本国民史 徳川家康(一) 家康時代─関原役』
(講談社学術文庫,1981)の「第十二章 上方諸所の会戦」の「三 田辺の開城」から更に引く(^_^;)
/しかるにここに思い掛けない事件が出来[しゅったい]した。そは勅命によりて、
田辺城の開城が諭されたことだ。その顛末を語れば、左の通りだ。/幽齋は文武の
諸藝に達したが、歌道に掛けては、定家卿以来、二條家の正嫡流の『古今集伝授』
の相伝者であった。されば彼は田辺に籠城するや、すでに一死を分として、皇弟
智仁親王(八條宮)の許に、かねて歌道を授けたる因によりて、古今相伝の書類を、
悉皆献上せんとの意を通じた。親王はまた幽齋の籠城を聞き給いてひそかに天皇に
奏して、その助命を願われた。/・・・/・・・[智仁親王の臣の大石]甚助は、
・・・[田辺城]に著[ちゃく]し、親王の言を齎[もたら]し、叡慮の趣を伝えて、
開城を命じたが、幽齋は、こちらより和を請うて開城するは、武士の本意ではないと
断り、さらに彼を別室に引き、精進潔斎して、・・・古今相伝の箱に、その証明状を
付し、/・・・/の一首を添え、これを八條宮に上[たてまつ]り、さらに今上天皇
への献本、および烏丸光廣・前田玄以らに、それぞれ贈るところあり、光廣には、/
・・・/の一首を添えた。今幽齋の自筆の目録を掲ぐれば、左の通りだ。/・・・/
これにて彼は、もはや思い残すところはなかった。/・・・/・・・朝廷にては、
神道・歌道の奥旨を伝えたる幽齋その人を喪うは、斯道の一大不幸であるという
思召しにて、三條西實條・中院通勝を大阪[ママ]に遣わし、秀頼に向かつて、
その趣を伝え給い、また烏丸光廣に、前田玄以の猶子前田茂勝(あるいは義勝)を
添えて、勅命を伝えられた。ここにおいて幽齋は、今は致し方なしと観念し、いよ
いよ勅命を奉じて、開城することとなった。/・・・
さて、さて、さ~て!「[藤原]定家卿以来、二條家の正嫡流の『古今集伝授』の相伝者であった」
細川幽齋を朝日新聞「編集委員・中村俊介」は「天皇家や一部有力公家」だと思ってるらしい(^_^;)
昨日の朝日新聞の一面に「定家の自筆 古今和歌集注釈書の原本」という「西崎啓太朗」の署名記事
が出てて、朝日新聞社が冷泉家と組んでいるとはいえ、久保田淳が「・・・国宝に値する。」とコメ
を同記事に寄せていたから、そうなんだろうと(^_^;) ただ、関連記事が34面(社会面)にあって、
そこで中村俊介は次のように記していた(^_^;)
[発見された定家自筆の]顕注密勘とともに、冷泉家歴代当主の「勉強ノート」も
箱の中から見つかった。原文を写したものに、先祖らの解釈や、自分の考えを書き
加えた内容で、当主らが実践的な歌学や詠法に力を注いでいたことがわかる。/
天皇家や一部有力公家では、古今和歌集の解釈を師匠から弟子へ秘伝として受け継ぐ
古今伝授が、様式化した形で続けられてきた。それとは別系統の、冷泉家で脈々と
伝えられてきた、いわばもうひとつの古今伝授。・・・
「実践的な歌学」も笑ったけど、中村俊介によれば三條西実隆に古今伝授を行なった連歌師の宗祇も
「天皇家や一部有力公家」になっちゃうね(^_^;) 原勝郎の名著『東山時代に於ける一縉紳の生活』
(講談社学術文庫,1978)は次のように描いている(^_^;)
・・・/源氏[物語]の講釈が終ると、その翌月からして著手せられたのは、これも
やはり宗祇を煩わしての古今集の講談であった。宗祇はまず不立不断のこと、貞応本
のこと、[二条]為世と[京極]為兼との六問答のことなどからして説き起こした。
つまり[三條西]実隆はここに日本文学史上の一秘事たる古今の伝授を受け始めたの
である。古今の伝習にやかましい儀式の附随しておったことは世人もよく知るごとくで
あって、宗祇は先以心操為本、最初思無邪習此義(先ず心操を以て本[もと]と為す。
最初に邪無きを思い、此の義を習う)ともいい、また口決之事等、唯在修身之道(口決
[くけつ]の事等、ただ修身の道に在り)とも説いた。/・・・
ちなみに、同書によれば、古今伝授が行なわれている間は「房事は二十四時を隔てなければならぬ」
由(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-05 )(^_^;) 宗祇に古今伝授
した東常縁は美濃国の武将だったし、古今伝授の相伝者は「天皇家や一部有力公家」に限らぬ(^_^;)
たしか笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(講談社選書メチエ,1994)は京極高次の
大津城を攻めていた立花宗茂が関ヶ原に間に合っていたら西軍が勝ってたかもと注で記してた記憶
があるけど、秀忠が率いた徳川の別動隊(主力部隊?)も間に合っていたらどうだろうか(@_@;)
【読んだ新聞(バカチン)】
朝日新聞2024年4月19日付朝刊
関ヶ原合戦の前哨戦で東軍の細川幽齋の丹後国田辺城を「その兵数一万五千と称した」西軍が攻め、
「城中に在る侍はわずかに五十人、その卒伍を合しても、五百には過ぎなかった」けど、細川幽齋は
「六十日に亙りて籠城」(^_^;) 徳富蘇峰『近世日本国民史 徳川家康(一) 家康時代─関原役』
(講談社学術文庫,1981)の「第十二章 上方諸所の会戦」の「三 田辺の開城」から更に引く(^_^;)
/しかるにここに思い掛けない事件が出来[しゅったい]した。そは勅命によりて、
田辺城の開城が諭されたことだ。その顛末を語れば、左の通りだ。/幽齋は文武の
諸藝に達したが、歌道に掛けては、定家卿以来、二條家の正嫡流の『古今集伝授』
の相伝者であった。されば彼は田辺に籠城するや、すでに一死を分として、皇弟
智仁親王(八條宮)の許に、かねて歌道を授けたる因によりて、古今相伝の書類を、
悉皆献上せんとの意を通じた。親王はまた幽齋の籠城を聞き給いてひそかに天皇に
奏して、その助命を願われた。/・・・/・・・[智仁親王の臣の大石]甚助は、
・・・[田辺城]に著[ちゃく]し、親王の言を齎[もたら]し、叡慮の趣を伝えて、
開城を命じたが、幽齋は、こちらより和を請うて開城するは、武士の本意ではないと
断り、さらに彼を別室に引き、精進潔斎して、・・・古今相伝の箱に、その証明状を
付し、/・・・/の一首を添え、これを八條宮に上[たてまつ]り、さらに今上天皇
への献本、および烏丸光廣・前田玄以らに、それぞれ贈るところあり、光廣には、/
・・・/の一首を添えた。今幽齋の自筆の目録を掲ぐれば、左の通りだ。/・・・/
これにて彼は、もはや思い残すところはなかった。/・・・/・・・朝廷にては、
神道・歌道の奥旨を伝えたる幽齋その人を喪うは、斯道の一大不幸であるという
思召しにて、三條西實條・中院通勝を大阪[ママ]に遣わし、秀頼に向かつて、
その趣を伝え給い、また烏丸光廣に、前田玄以の猶子前田茂勝(あるいは義勝)を
添えて、勅命を伝えられた。ここにおいて幽齋は、今は致し方なしと観念し、いよ
いよ勅命を奉じて、開城することとなった。/・・・
さて、さて、さ~て!「[藤原]定家卿以来、二條家の正嫡流の『古今集伝授』の相伝者であった」
細川幽齋を朝日新聞「編集委員・中村俊介」は「天皇家や一部有力公家」だと思ってるらしい(^_^;)
昨日の朝日新聞の一面に「定家の自筆 古今和歌集注釈書の原本」という「西崎啓太朗」の署名記事
が出てて、朝日新聞社が冷泉家と組んでいるとはいえ、久保田淳が「・・・国宝に値する。」とコメ
を同記事に寄せていたから、そうなんだろうと(^_^;) ただ、関連記事が34面(社会面)にあって、
そこで中村俊介は次のように記していた(^_^;)
[発見された定家自筆の]顕注密勘とともに、冷泉家歴代当主の「勉強ノート」も
箱の中から見つかった。原文を写したものに、先祖らの解釈や、自分の考えを書き
加えた内容で、当主らが実践的な歌学や詠法に力を注いでいたことがわかる。/
天皇家や一部有力公家では、古今和歌集の解釈を師匠から弟子へ秘伝として受け継ぐ
古今伝授が、様式化した形で続けられてきた。それとは別系統の、冷泉家で脈々と
伝えられてきた、いわばもうひとつの古今伝授。・・・
「実践的な歌学」も笑ったけど、中村俊介によれば三條西実隆に古今伝授を行なった連歌師の宗祇も
「天皇家や一部有力公家」になっちゃうね(^_^;) 原勝郎の名著『東山時代に於ける一縉紳の生活』
(講談社学術文庫,1978)は次のように描いている(^_^;)
・・・/源氏[物語]の講釈が終ると、その翌月からして著手せられたのは、これも
やはり宗祇を煩わしての古今集の講談であった。宗祇はまず不立不断のこと、貞応本
のこと、[二条]為世と[京極]為兼との六問答のことなどからして説き起こした。
つまり[三條西]実隆はここに日本文学史上の一秘事たる古今の伝授を受け始めたの
である。古今の伝習にやかましい儀式の附随しておったことは世人もよく知るごとくで
あって、宗祇は先以心操為本、最初思無邪習此義(先ず心操を以て本[もと]と為す。
最初に邪無きを思い、此の義を習う)ともいい、また口決之事等、唯在修身之道(口決
[くけつ]の事等、ただ修身の道に在り)とも説いた。/・・・
ちなみに、同書によれば、古今伝授が行なわれている間は「房事は二十四時を隔てなければならぬ」
由(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-05 )(^_^;) 宗祇に古今伝授
した東常縁は美濃国の武将だったし、古今伝授の相伝者は「天皇家や一部有力公家」に限らぬ(^_^;)
幽斎が優秀だったとはいえ、他の貴族は古今伝授は受けられなかった
のだろう?尚、宇都宮城がなければ、秀忠は上田に向かうこともでき
なかったと言う。
by tai-yama (2024-04-20 19:34)
幽齋は亡くなった時に「定家卿の生れ変りだった」と
思われた由、それだけ傑出してたんですかね(@_@;)
by middrinn (2024-04-21 05:25)
その新聞の評は参考になりました。ですのでようするに
若いころと違い、この新聞記事は、今の加齢した私には、
若い力に任せて≪瞬時≫に思考しながらは読めないので。
これが書籍内の文書の一部だとしたら、今の加齢した私は、
読まない方が良い書籍のひとつかもしれない(泣)。。
by df233285 (2024-04-21 07:02)
ゆっくりとお読みになられれば、自然と田辺城の幽斎のケース
も脳裏に浮かんで、新聞の記述を不審に思われるかと(^_^;)
若い頃は少しでも多くの本を読みたいという思いから、とかく
速読しがちなので、吟味しながら読むのは難しいかと(^_^;)
by middrinn (2024-04-21 15:03)