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210609読んだ本

読書の厄介なところは、後世の人間からは失笑を禁じ得ない内容なことである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
同時代人からも笑われるような内容のをネット上に垂れ流して世界に恥を曝す輩も・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
明日注文することに決めた古本、前に拙ブログでボロクソに評してたよ(ノ_-;)トホホ…ヾ( ̄o ̄;)恥曝し?

【読んだ本】

渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』(柏書房,2021)

第3章の浅野友輔「応永の乱」に続いて、第4章の千葉篤志「上杉禅秀の乱」を読んだよん(⌒~⌒)

  第4章「上杉禅秀の乱」 いくつもの争乱の〝火種〟となった鎌倉公方と関東管領の争い 千葉篤志

     「上杉禅秀の乱」の時代背景/鎌倉公方と関東管領の代替り/山内上杉氏と
     犬懸上杉氏の対立/錯綜する乱の情報と幕府の対応/禅秀の賊軍認定で形勢逆転/
     禅秀の与党勢力/乱終結後の幕府と鎌倉府の対立/反乱者か? 新たな統治者か?/

「錯綜する乱の情報と幕府の対応」は、「伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』(『看聞御記』)」
(本書80頁)に依拠した記述っぽいけど、誠実に記録しようとしている貞成親王に対し心苦しいが、
上杉禅秀の乱の概要を知る後世の人間ゆえ、読んでて笑っちゃった(^_^;) 先ず本書81頁から(^_^;)

    ・・・/十月十五日夜、関東の情勢を伝える飛脚が京都に到着した。それによると、
    十月七日に[前関東管領の犬懸上杉]禅秀方が[鎌倉公方の上杉]持氏方へ攻撃を
    行い、持氏方は三島に出陣して合戦となったが、翌八日に持氏方が敗北し、持氏・
    [関東管領の山内上杉]憲基以下の二十五人が切腹したということであった。/・・・

この「報告を聞いた[将軍の足利]義持の驚きと慌てぶりは甚だしく、・・・」(本書81頁)と続き、
ニヤニヤ(^_^;) その後の本書81~82頁で笑ってしまった(^_^;)

    /十月二十日、持氏が切腹したという情報は虚偽で、切腹したのは関東管領の上杉憲基
    であるという情報が京都に届き、・・・この状況に対して貞成親王は「近日の噂は尽きる
    ことがない(果てしない変わりようだ)」と『看聞日記』に記している。/・・・

んでもって、ダメ押しとなったのが本書82頁の次の記述で、笑いが止まらなくなってしまった(^_^;)

    ・・・/『看聞日記』の十月二十九日条には、十月四日の合戦で戦死したのは
    一色兵部大輔などの若干名で、関東管領の上杉憲基は切腹しておらず落ち延びて
    行方不明になったこと、敵方の足利満隆が鎌倉全域を制圧したことが貞成親王
    に知らされている。このような情報の錯綜に対して、貞成親王はここでも
    「近日の風聞(の変わりよう)は果てしないもので、記録する価値があるのか」
    と『看聞日記』に記している。/・・・

記したことが次々と虚偽となっちゃうんだから真面目に日々記録してるのがお気の毒だし、他方で、
もし虚偽の情報を記した部分だけが後世に伝わってたら、チト問題になってたかと(^_^;) そうなると
貞成親王は真偽の定かでない情報をツイッターやブログ等で拡散してる輩の先駆・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

    ・・・京都では十月三十日に義持の弟である足利義嗣が洛中から出奔して、
    高雄山に隠居遁世するという事件が発生した。その原因として、関東で蜂起
    した禅秀方と連携したことが疑われている(『看聞日記』『鎌倉大草紙』)。
    /・・・

同じく、本書83頁に「・・・持氏の密命を受けた富樫満成によって殺害された。」とあるんだけど、
本書には足利義嗣が上杉禅秀と「連携」したと「疑われ」たとあるだけ( ̄◇ ̄;) 永原慶二『日本の
歴史10 下剋上の時代』(中公文庫,1974)は足利義嗣を乱の首謀者の如く叙述も違うのかな(@_@;)

〈・・・「上杉禅秀の乱」についての研究動向を概略的に述べ・・・〉(本書90頁)た最終節も大変
興味深い(^^) 本書90頁から引く(^^)

    ・・・/戦後になると、永原慶二氏が十四世紀から十五世紀にかけての内乱の前提
    (東国における惣領性の解体、農民層の成長という社会構造の変化)を論じる中で、
    乱について「東国の社会的矛盾の第一次的爆発」と位置付け、乱の背景を当該期の
    社会的構造の変化としている。/一九七〇年代に入ると、鎌倉府の内部構造に
    ついての実証的な研究が進められ、乱についても、その根本的に理由として、
    鎌倉府体制の強化を図る鎌倉公方・山内上杉氏側、東国領主との協調を重視する
    犬懸上杉氏側の政策路線の対立であったとされるようになった。・・・

佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974→2005改版)の「畠山[国清]の失脚と
関東の事情」の節で指摘されていた、「・・・[高]師冬・[畠山]国清の強権的な統制方針と、
[足利]直義・[上杉]憲顕の、個々の利益にもとづく武士の自主的な行動を認めて、緩慢な支配で
武士に臨む態度とのちがい・・・」を連想(@_@;) 初代鎌倉公方の足利基氏は「・・・まさに後者の
系列に属する政治家である、とわたくしは想定する。」と佐藤進一は述べていたけど、もしかしたら
犬懸上杉禅秀も、政治的系譜としては、直義・憲顕・基氏の流れに連なるのかな、気になる(@_@;)

・秦野裕介「観応の擾乱」は「九州だけは南朝が・・・支配した」とするが、「九州」は誇張(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-22

・市川裕士「明徳の乱」は教わることが多く目から鱗ボロボロも『明徳記』を誤読してる疑い(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-23

・浅野友輔「応永の乱」、「満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたこと」は一顧だにせず(..)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-05
タグ:歴史
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

鎌倉府が落ちたとなると、飛脚一週間はちと遅いような。
裏を取ったのかも(笑)。まぁ、裏を取る新聞やTVのニュースも
最近間違いが多い・・・・
by tai-yama (2021-06-09 23:06) 

ナベちはる

日数が経てば、同じ本でも見方や評価は変わるかもしれませんね(^^;
by ナベちはる (2021-06-10 01:04) 

middrinn

鎌倉から京まで、早馬の急使なら5、6日と、
tai-yama様、読んだことあります(^_^;)
by middrinn (2021-06-10 04:46) 

middrinn

たしかに(^_^;) 否定的な評価は、
ナベちはる様、なるべく慎んだ方が
いいのかもしれませんねぇ(^_^;)
by middrinn (2021-06-10 04:48) 

ネオ・アッキー

middrinnさんおはようございます。
室町時代は、意外と京都の武家政権だと知らない方も多いです。
by ネオ・アッキー (2021-06-10 06:00) 

middrinn

そうなんですか( ̄◇ ̄;) たしかに、京都に幕府
はイメージしにくいかもしれませんねぇ(^_^;)
by middrinn (2021-06-10 06:31) 

そら

私もブログを書く時に気をつけないと(^^;
by そら (2021-06-10 06:39) 

middrinn

政治を始めとする時事ネタを書き散らしてる人は勇気ありますよね(^_^;)
by middrinn (2021-06-10 06:51) 

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