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200222読んだ本

来月は101円のギフト券が貰えないからAmazonで古本は買えないかも(´・_・`) だけど、300円と1000円の
ギフト券が再来月にはゲット出来そうだから何を買うか今から楽しみウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪

【読んだ本】

片桐洋一『伊勢物語全読解』(和泉書院,2013)

阿部俊子(全訳注)『伊勢物語(上)』(講談社学術文庫,1979)を基本テキストにして、片桐洋一&
福井貞助&高橋正治&清水好子(校注・訳)『新編日本古典文学全集12 竹取物語 伊勢物語 大和物語
平中物語』(小学館,1994)の福井貞助による校注・訳、石田穣二(訳注)『新版 伊勢物語 付現代語
訳』(角川文庫,1979)、森野宗明(校注・現代語訳)『伊勢物語』(講談社文庫,1972)、中河與一
(訳注)『伊勢物語 付 現代語訳』(角川文庫,1953)等で補いつつ、『伊勢物語』をチンタラと読む
フレンチカンカンの第17回p(・ω・*q) 第17段を森野宗明の訳(歌の訳も含む)で引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ここ数年、たずねて来なかった人が、桜の花ざかりに見にやって来ていたので、
    それを見たその家のあるじが、

     あだなりと 名にこそ立てれ 桜花 年に稀なる 人も待ちけり

      [咲いたかと思うとすぐ散ってしまう、あてにならないと世間で
       よく言われています、桜の花は。ですけれど、こうしてせいぜい、
       一年のうちに一回来るか来ないのか、たまさかにしかおとずれて来ない
       あなたのようなお人をも、散らずに、待っているのですねぇ(あてに
       ならないなど、ぬれぎぬで、ずっとお見限りのあなたの方こそ……)。]

    珍しくおとずれた人が返歌して、

     今日来ずは 明日は雪とぞ 降りなまし 消えずはありとも 花と見ましや

      [(あなたはそんなことをおっしゃるが)今日こうして来たからよいようなものの、
       もし来なかったとしたら、明日は、もうとてもしんぼうできずに雪の降るように
       舞い散ってしまうところだったのじゃありませんかね。雪とちがって、かりに、
       地上に消えずにちらばって残っているとしたところで、それはもう、花として
       見るわけにはいきませんやね(だから、やはり桜の花はあてになりませんよ、
       待ってたような顔をしておいでのあなたも……ね)。]

「家のあるじ」の歌は、「あだ」(誠実でない、浮気な感じ、あてにならない)なのは、「桜の花」
というよりも「珍しくおとずれた人」の方だと皮肉り、「桜の花」=「家のあるじ」が「あだ」だと
「よく言われてい」るのは「ぬれぎぬ」だと訴えてるのに対し、「珍しくおとずれた人」の返歌は、
「あだ」なのは、やはり「桜の花」であり、ひいては「家のあるじ」であると反論してる(⌒~⌒)

「今日来ずは」の歌は在原業平の作とされているが、目崎徳衛『日本詩人選6 在原業平・小野小町』
(筑摩書房,1970)によると、偽作説も大昔にあり、同書は業平作として次のように力説する(^_^;)

    ・・・返歌の巧緻を極めた構成・表現は、業平以外の何ぴとのものでもないと思うから
    である。「けふ来ずは」「消えずはありとも」と、打消を含む仮定を二つも設定し、
    「まし」「ましや」と、推量・反語を対照させた、凝った修辞。三十一文字の短詩形に
    このように曲折を尽すのは、言ってみればプロのテクニックで、素朴な無名氏の
    能くするところではあるまい。また上の句と下の句が対句的に配置され、一首全体が
    論理的な構成をとるのも、漢詩から意識的に学び取られた手法にちがいない。
    業平と平安初期のよみ人しらず歌を別つ最も明瞭な指標が、この返歌には存在するのだ。
    /・・・

片桐洋一も「・・・倒置叙法を頻用するのは、・・・対句の頻用と同じように、業平真作歌に顕著に
見られる特色なのである。」(本書527頁)と指摘するが、あまりに特徴的ゆえ偽作は容易かも(^_^;)

「あだなりと」の歌を詠んだ人物、本文には「あるじ」と記され、「女」とは記されてない(@_@;)
石田穣二や鈴木日出男『伊勢物語評解』(筑摩書房,2013)66頁は「あるじ」を男とするが、鈴木67頁
は〈この[「あだなりと」の歌の]皮肉は、あたかも反発や切り返しを旨とする女歌の発想にも近似
している。この詠み手である「主人」を女と解する一説も、完全には否定しがたい。〉とも(@_@;)
これに対し、片桐洋一は「あだなりと」の歌は〈・・・皮肉や嫌味にならずに、「花と同様に、私も
あなたを待っていたのです」という「待つ女」の気持ちを素直に表している。〉(本書154頁)と評し、
また「今日来ずは」の歌にも着目して〈・・・「たまたま今日来たから、花は待っていたとえらそう
なことが言えるのだ。もう一日遅れていたら、どうなったか知れたものじゃない」という言い方は、
浮気男が居直って女に言っている物言いであり、男同士のたわぶれ的な挨拶ではないと思われる。
「あるじ」はやはり女と見るべきなのである。〉(本書153頁)と女性説を強く主張してる(@_@;)

片桐洋一の「男同士のたわぶれ的な挨拶ではない」は藤岡忠美『紀貫之』(講談社学術文庫,2005)を
意識したものかと(@_@;) 紀貫之が「かの家のあるじ」に対して詠んだ「人はいさ心も知らず故里は
花ぞ昔の香ににほひける」からは恋歌的性格が感じられるので「あるじ」は女性だろうとする憶説に、
片桐洋一が『後撰和歌集』の「言ひ出だす」の用例を根拠にお墨付きを与えたのに対し、藤岡忠美が
「言い出だす」の用例の「すべての場合がそうであるわけではない」と指摘した上で、同歌を「実は
この時期の[男同士の]贈答歌にときどきみられるところの、恋愛的味つけをした恋歌もどきの歌」
と主張した経緯(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-09-01 )がある(@_@;)
その藤岡忠美が、「人はいさ」の歌の「形成に大きな影響を与えたもの」として、『古今和歌集』の
「あだなりと」と「今日来ずは」の贈答歌を挙げて、〈・・・業平と男の友人との贈答なのであるが、
「あだ」な桜をめぐって恋歌的要素をはらんでいる点では、前に挙げた[男同士なのに恋歌的味つけ
をした恋歌もどきの]例歌のたぐいである。しかも宿のあるじが無沙汰の友を責める場面に、春の花
が小道具に使われているという状況は、「人はいさ」の歌の場合にそっくりである。〉と評したから、
片桐洋一は「言ひ出だす」の用例の件もあって「男同士のたわぶれ的な挨拶ではない」と(@_@;)
なお、鈴木68頁も業平の「今日来ずは」の歌から紀貫之の「人はいさ」の歌が「想起される」とし、
曰く「軽妙な語調のなかに、変わらざる自然の景物との対照を通して、人間一般の移ろいやすい心を
冷ややかにとらえている。これも古今集時代の典型的な表現である。というよりも、この章段の核に
なっている業平の詠みぶりに、貫之の歌が習っているようにもみられる。」などと評しているけど、
同書らしい評釈の薄っぺらさ(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-02-08 )を
藤岡忠美『紀貫之』の「人はいさ」の歌の綿密な分析と比べると感じる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

片桐洋一が『冷泉家流伊勢物語抄』を紹介(本書153~154頁)キタ━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━!!!!

    ・・・[『冷泉家流伊勢物語抄』は]「あるじ」を紀有常の娘とし、業平は、二条の后
    との密通ゆえ罰として三年の間「東山に押し籠められて」いたが、「勅勘許[ゆ]りて」、
    足掛け二年ぶりに、有常の娘のもとに来たのだと注釈しているのである。/・・・

〈チンタラ伊勢物語〉第9回(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-24 )で
在原業平は藤原高子タンとの一件で藤原良房の「東山に押し籠められ」、ソレが業平の東下りの真相
とする冷泉家の歌学による『伊勢物語』解釈を紹介したけど、ホント〈お笑い伊勢物語〉だね(^_^;)

・『伊勢物語』が描く「みやび」( https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-28 )、
 日本文化として脈々と受け継がれているとされるがイタリア人こそが「みやび」・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-29

・17歳年下から17歳年上まで、この男の守備範囲の広さはゴールデングラブ賞ものやね( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

・在原業平の歌は鬼たちを感じ入らせるほどじゃなかったということかしらオホホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-07

・今井源衛の頭の悪さは知ってたが、敢えて言おう、バカチンであるとヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-22
タグ:古典 和歌
コメント(10) 
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コメント 10

ニッキー

300円と1000円のギフト券は嬉しいですねぇ( ^ω^ )
再来月までまだ時間があるからゆっくり選んでくださいね=(^.^)=
「伊勢物語」が「お笑い伊勢物語」だとは知りませんでしたw
by ニッキー (2020-02-22 21:20) 

middrinn

どれを買おうか毎日Amazonチェックしてますよ(^o^)丿
冷泉家による『伊勢物語』の解釈は荒唐無稽ゆえ(^_^;)
by middrinn (2020-02-22 21:23) 

enokorogusa

「今日来ずは」業平の真作を大いに主張したいところではありますが(^^;)
あまりにも「らしく」て逆に偽作が容易というのも頷けてしまいます。
目崎徳衛「プロのテクニック」とありますが、貫之はこういう業平の歌の傾向を「心あまりて言葉足らず」と指摘したのでは?と考えてみたり。
もっとも、その序文の例にこの歌は挙げてはいませんが・・・
by enokorogusa (2020-02-22 22:09) 

tai-yama

散ったはずの桜は未だに「見る会」としてネタを提供していると(笑)。
桜の残骸はスリップし易いので要注意!
by tai-yama (2020-02-22 22:33) 

middrinn

第69段の「君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」を、
本書は「在原業平の歌の特徴を持っている」(526頁)として「対句と倒置叙法
を用いたこの歌が、斎宮の作ではなく、業平自身の作であると断定することは
できないが、その可能性は否定できないと思う。」(528頁)としてますけど、
業平の歌の特徴を押さえれば、第三者=第69段の作者でも作れる可能性が^_^;
「その心余りて、言葉足らず」な業平の歌の代表例としては、第4段の歌「月や
あらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして」が挙げられていますが、
enokorogusa様、久保木哲夫『折の文学 平安和歌文学論』(笠間書院,2007)
によると、業平は(自己完結的で全てが説明されてる屏風歌ではなく)独詠歌や
贈答歌が多く、ともにシチュエーションに支えられていて、ソレが自明な作者や
当事者=返歌の作者は理解できても、第三者には「言葉足らず」となる由^_^;
by middrinn (2020-02-22 23:19) 

middrinn

散った桜でも国会では論戦の花が咲くわけですねオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
tai-yama様がスリップしたら病室にお見舞いの花・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2020-02-22 23:20) 

ナベちはる

ギフト券での買い物、何を買うか決めるのも楽しみですね♪
by ナベちはる (2020-02-23 01:34) 

middrinn

実際に買うまでが楽しいですよね(〃'∇'〃)
by middrinn (2020-02-23 06:52) 

yokomi

 ギフト券を貰うほど買ったことも無いし....和歌蘭(^_^;) 研究者の人たちって、少ない情報からアレコレと、大変ですね(>_<)
by yokomi (2020-02-24 10:27) 

middrinn

ギフト券は簡単なゲームを毎日コツコツやったり、アンケに答えたりなどしてれば、
ポイントやコインが貯まって、いずれギフト券に交換できるので、お得ですよ(^^)
少ない情報から合理的推論を駆使して〈真実〉に辿り着く知的愉しみですね(⌒~⌒)
by middrinn (2020-02-24 10:34) 

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