191228読んだ本
元日から使えるように筒状に丸めてビニールで包装された来年のカレンダーを広げて伸ばしておく(^^)
来年こそ書庫の不要本を捨て書斎を片付けプリンタを使用可能にして印刷による年賀状に戻す(-ω-、)
近況報告に「毎日ブログ更新する日々です」と書いてみたが、拙ブログの存在、知る人いないし(^_^;)
【読んだ本】
渡辺実『大鏡の人びと 行動する一族』(中公新書,1987)所蔵本
関係者の系図は適宜多数掲載されてるし、引用される古文には訳も付されているので、承和の変から
藤原道長の栄華に陰りが見え始めるまでの平安時代の権力闘争史を頭に叩き込むのには便利な好著と
位置づけていた本書だが、最近の小生の興味関心から読み直す必要があることに気付いた( ̄◇ ̄;)
・・・『伊勢物語』も、恐らく在原業平・行平ら在原氏の人びと、業平の妻の父で、
甥にあたる惟喬親王即位の夢破れた紀有常ら紀氏の人びと、源融の血縁たる
嵯峨源氏の人びとなどが源融の周囲に集まって持った、風流交歓の場から
生み出されたものと推定される。/多分は各自の歌の成立譚を持ち寄ることで
始まったかと想像される彼らの結びつきの中からは、間もなく貴族文化人らしい生き方、
平安貴族の美学とでも言うべきものが姿をととのえ始める。それは心を高く保ち、
人を傷つけることを避け、自分が置かれた状況の中で最も洗練された言葉を生み出すべく
心をはたらかせる、といった生き方である。それは下手すると外交辞令や虚礼・虚飾
といった空々しさへ向かう危険を内蔵してはいたが、当りのよい態度と美しい言葉を
楽しむ、ゆとりに満ちたものであった。『万葉集』に代表される奈良時代の「まこと」、
すなわち心がまっすぐに言葉となる正直は、むしろ心の持ち方として幼く、ゆとりを欠いて
洗練されぬ素朴とされた。それとは逆に、喜びや悲しみも、その場の状況に応じた
心の屈折を経た上で、美しく表現するのを良しとする、そういう美学であったと言えよう。
/『伊勢物語』はそれをみずから「みやび」と呼んだ。「みや」は宮廷の「宮」であり
「都」の「みや」でもある。「みやび」とは都の宮廷貴族にふさわしい洗練を、
理想化して呼ぶ言葉であった。『伊勢物語』を繙くことで、これら平安初期の貴族たちが
自分の生き方と意識したものの性質を確認することは易いが、見逃してならないと
思われるのは、この「みやび」が形を変えつつも以後にも引きつがれて、日本文化の中に
脈々と生きつづけることになる点である。言うまでもないかも知れないが、すぐあとの
『古今和歌集』は、業平を先輩歌人「六歌仙」の筆頭に挙げ、『伊勢物語』の歌を
数多く採り、歌風としてまさしく業平たちのそれを継承している。/また女流文学を
開花させた平安中期の貴族文化、それの代表である『源氏物語』について言われる
「もののあはれ」も、所詮「みやび」の継承発展に他ならない。そして伊勢源氏を重んずる
中世の歌道を軸に、「みやび」の伝統は能や俳諧にまで尾を引いて幕末に伝わるのである。
その証拠に、明治に新風を樹立しようとした正岡子規は、『古今和歌集』をこきおろし、
『万葉集』の「まこと」に帰れと叫ぶことで、新風確立のエネルギーを得ようとしている。
それでいて心と言葉との間の屈折が、昭和の今日なお日本人の精神[こころ]として
息づいていることは、アメリカの社会学者が、日本人の言う「誠実」を、アメリカ人の
「シンシア」(sincere)と同義だなどと思ってはいけない、と語っていることからも
明らかであろう。シンシアとは、思った通りに言動する素直を言う。「まこと」である。
だが日本人は露骨に怒り露骨に喜ぶことをはしたないと思う。「みやび」は今も
日本人の心に生きている。底までしみこんでいるのである。/・・・
昭和から平成を経て令和となって、〈「みやび」は今も日本人の心に生きている〉と断言できるか、
現状認識は判断が分かれそう(^_^;) 「『古今和歌集』は・・・歌風としてまさしく業平たちのそれを
継承している」との評価はメチャ疑問なんだけど、『伊勢物語』の重要性は再認識させられた(゚o゚;)
『伊勢物語』を読み始めて正解オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)ヾ( ̄o ̄;)オイオイあのペースだと読了はいつ?
渡辺実は『新潮日本古典集成 伊勢物語』(新潮社,1976)の校注者なんだけど、同書について上記の
「・・・渡辺実の立論は、『伊勢物語』作品論として比類なく周到な説得力を発揮し、それに比して
本文の解釈がやや平板、読解の深さで唸らせるには至らぬのが惜しまれる。」と谷沢永一『紙つぶて
自作自注最終版』(文藝春秋,2005)が評している点がチト気になるね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
来年こそ書庫の不要本を捨て書斎を片付けプリンタを使用可能にして印刷による年賀状に戻す(-ω-、)
近況報告に「毎日ブログ更新する日々です」と書いてみたが、拙ブログの存在、知る人いないし(^_^;)
【読んだ本】
渡辺実『大鏡の人びと 行動する一族』(中公新書,1987)所蔵本
関係者の系図は適宜多数掲載されてるし、引用される古文には訳も付されているので、承和の変から
藤原道長の栄華に陰りが見え始めるまでの平安時代の権力闘争史を頭に叩き込むのには便利な好著と
位置づけていた本書だが、最近の小生の興味関心から読み直す必要があることに気付いた( ̄◇ ̄;)
・・・『伊勢物語』も、恐らく在原業平・行平ら在原氏の人びと、業平の妻の父で、
甥にあたる惟喬親王即位の夢破れた紀有常ら紀氏の人びと、源融の血縁たる
嵯峨源氏の人びとなどが源融の周囲に集まって持った、風流交歓の場から
生み出されたものと推定される。/多分は各自の歌の成立譚を持ち寄ることで
始まったかと想像される彼らの結びつきの中からは、間もなく貴族文化人らしい生き方、
平安貴族の美学とでも言うべきものが姿をととのえ始める。それは心を高く保ち、
人を傷つけることを避け、自分が置かれた状況の中で最も洗練された言葉を生み出すべく
心をはたらかせる、といった生き方である。それは下手すると外交辞令や虚礼・虚飾
といった空々しさへ向かう危険を内蔵してはいたが、当りのよい態度と美しい言葉を
楽しむ、ゆとりに満ちたものであった。『万葉集』に代表される奈良時代の「まこと」、
すなわち心がまっすぐに言葉となる正直は、むしろ心の持ち方として幼く、ゆとりを欠いて
洗練されぬ素朴とされた。それとは逆に、喜びや悲しみも、その場の状況に応じた
心の屈折を経た上で、美しく表現するのを良しとする、そういう美学であったと言えよう。
/『伊勢物語』はそれをみずから「みやび」と呼んだ。「みや」は宮廷の「宮」であり
「都」の「みや」でもある。「みやび」とは都の宮廷貴族にふさわしい洗練を、
理想化して呼ぶ言葉であった。『伊勢物語』を繙くことで、これら平安初期の貴族たちが
自分の生き方と意識したものの性質を確認することは易いが、見逃してならないと
思われるのは、この「みやび」が形を変えつつも以後にも引きつがれて、日本文化の中に
脈々と生きつづけることになる点である。言うまでもないかも知れないが、すぐあとの
『古今和歌集』は、業平を先輩歌人「六歌仙」の筆頭に挙げ、『伊勢物語』の歌を
数多く採り、歌風としてまさしく業平たちのそれを継承している。/また女流文学を
開花させた平安中期の貴族文化、それの代表である『源氏物語』について言われる
「もののあはれ」も、所詮「みやび」の継承発展に他ならない。そして伊勢源氏を重んずる
中世の歌道を軸に、「みやび」の伝統は能や俳諧にまで尾を引いて幕末に伝わるのである。
その証拠に、明治に新風を樹立しようとした正岡子規は、『古今和歌集』をこきおろし、
『万葉集』の「まこと」に帰れと叫ぶことで、新風確立のエネルギーを得ようとしている。
それでいて心と言葉との間の屈折が、昭和の今日なお日本人の精神[こころ]として
息づいていることは、アメリカの社会学者が、日本人の言う「誠実」を、アメリカ人の
「シンシア」(sincere)と同義だなどと思ってはいけない、と語っていることからも
明らかであろう。シンシアとは、思った通りに言動する素直を言う。「まこと」である。
だが日本人は露骨に怒り露骨に喜ぶことをはしたないと思う。「みやび」は今も
日本人の心に生きている。底までしみこんでいるのである。/・・・
昭和から平成を経て令和となって、〈「みやび」は今も日本人の心に生きている〉と断言できるか、
現状認識は判断が分かれそう(^_^;) 「『古今和歌集』は・・・歌風としてまさしく業平たちのそれを
継承している」との評価はメチャ疑問なんだけど、『伊勢物語』の重要性は再認識させられた(゚o゚;)
『伊勢物語』を読み始めて正解オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)ヾ( ̄o ̄;)オイオイあのペースだと読了はいつ?
渡辺実は『新潮日本古典集成 伊勢物語』(新潮社,1976)の校注者なんだけど、同書について上記の
「・・・渡辺実の立論は、『伊勢物語』作品論として比類なく周到な説得力を発揮し、それに比して
本文の解釈がやや平板、読解の深さで唸らせるには至らぬのが惜しまれる。」と谷沢永一『紙つぶて
自作自注最終版』(文藝春秋,2005)が評している点がチト気になるね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
残念ながら、ネットの掲示板には「みやび」はないと言う(笑)。
平安時代にインターネットがあったら「みやび」も生まれなかったかも。
アメリカ人が「みやび」を発音したら「みやぎ」になったり。(映画ネタ)
by tai-yama (2019-12-28 20:08)
ネットの掲示板には「まこと」がある、ということだったり(^_^;)
「思った通りに言動する素直」、てゆーか、条件反射みたいに感情で
反応しただけの書き込みが多いようだから、万葉調だったり(^_^;)
by middrinn (2019-12-28 20:15)
。。~印刷による年賀状に戻す(-ω-、)
、、自筆の年賀状、好いですね!!
、、頂いた方々は、雅に喜んで居られるかと。
、、middrinnさんは、真に大変でしょうが、、。
by 喜んぶ (2019-12-28 20:45)
雅どころか、自筆と言っても「あけまして おめでとう ございます。 機会ありましたなら
御指導いただければ幸甚です。」とボールペンで書くだけなので、顰蹙買ってるはず^_^;
昔、余情ある文を作成印刷したら年賀状とは別便で文面に反応した手紙まで来ました^_^;
by middrinn (2019-12-28 20:55)
「毎日ブログ更新してます」と書いたら
midribさんのブログを探す人がいるかも(⌒-⌒; )
年賀状を印刷しないで手書きって素晴らしいです( ^ω^ )
うちは両面印刷で一言添えるだけなのに
未だに全く進んでないという不思議w→いや、不思議でもなんでもないから(´・_・`)
by ニッキー (2019-12-28 20:59)
もし探しても、専門と全く無関係の本ばかりなので、読まないでしょうね(^_^;)
宛名から文面(たとえ上記返信コメにある紋切型定型文でも)まで、全て手書きで
何十枚も書いているという苦労が相手に伝わればいいんですが無理ですね(^_^;)
圭太様が邪魔するとかノエル様が椅子の上から動かないとか理由があったり^_^;
by middrinn (2019-12-28 21:26)
丸めてあるカレンダー、今から広げておいたら壁に掛けるときにまた丸まらなさそうですね!
by ナベちはる (2019-12-29 01:12)
おはようございます^^
現在プリンタ使用不可? 年賀状は手書きですか? それはそれはお疲れ様です。
「みやび」日本人は多様化しましたね。令和の皇后さまは和歌をたしなまれないのでは?
でも市井に生きる人の中には「みやび」を感じさせる人もいるかと^^
伊勢物語、わたくし読んでないみたい(><;
by mimimomo (2019-12-29 07:07)
近況報告で、「ブログしてます」では、ひとことで終わるのが
しゃくですよね。私も「毎日」は抜いて、url.を、ひたすら
年賀状に書き続けました。(長)
by df233285 (2019-12-29 07:20)
でしょ(^o^)丿 壁から垂らしたら、
ナベちはる様、くるくるぅ~とは
ならないようにしたいのです(^^)
by middrinn (2019-12-29 09:05)
数年前にプリンターが故障して以来、そして去年だったか
ほぼ新品のを譲り受けるも、部屋か片付かないため使えず、
mimimomo様、ここ何年も宛名から何から全て手書き(..)
皇太子妃になられてから学びそうなものですけど(@_@;)
「けふもみやび あすもみやび」を目指してま~す(^o^)丿
by middrinn (2019-12-29 09:11)
プリンターで印刷できるなら相手によっては書き込んだかもしれませんが、
長さん様、手書きでブログのURLを書き込むのは、ちょっと難が(^_^;)
by middrinn (2019-12-29 09:13)
数年前から賀状にURL載せるのは止めました。一般受けする内容とは思えないんで。(汗)
伊勢物語かぁ...読んでみたいけれど、未読百冊以上じゃ何時になったら読めるのか分からんなぁ。(滝汗)
by Rifle (2019-12-29 09:38)
小生のような非技術者でも楽しめる玉稿ですよ(^o^)丿
未読は万近いので、もう読まずに捨てて減らします(..)
by middrinn (2019-12-29 09:55)
そこがそれ、「〇〇障害」と言うご病気なのでは?
middrinnさんのブログに啓発され、わたくしも「みやび」を目指していますよ(@@ホント?
by mimimomo (2019-12-29 11:49)
皇后宮御歌をお詠みにならなければならない
歌会始は、御公務ではないのかなぁ(@_@;)
「みやび」なイノシシさんでしたね(^o^)丿
by middrinn (2019-12-29 12:01)