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240501読んだ本【バカチン】

平成から令和になって浮かれている御仁が一人はいる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本(バカチン)】

中西進『辞世のことば』(中公新書,1986)所蔵本

宗祇の項に「・・・応永二十八年(一四二一)に紀州(一説に近江)にうまれ、・・・」とあるが、
〈近江(一説に紀州)〉が正確な学説状況ではないか?と思いつつ読み進むと、中西進は頭が悪いな
と思わせる件があった(^_^;)

    ・・・/その最後[の旅]が明応九年(一五〇〇)八十歳の折で、越後に出かけて
    ここで死ぬつもりだったが、高弟の宗長が訪ねてきて、文亀二年(一五〇二)、
    駿河の医者にかかることをすすめた。中風の発作があったからである。同じく高弟
    の宗碩と二人で信濃、上野、江戸を廻り、鎌倉から箱根湯本についたのは七月三十日
    だった。/ここで宗祇は死を迎えた。うわ言のように「定家卿に会った」などと
    いっていたが、冒頭の句[=「眺むる月にたちぞ浮かるる」]を沈吟し、「我は
    付けがたし。皆々付け侍れ」といって死んだという。眺めている月に心が誘われて
    浮かれてしまうという句で、この上の句を空白のままにして口を閉じたのである。
    花鳥風月に浮かれた生涯を夢のように回想していたのであろう。八十二歳。その死を
    看とった宗長は「旅に死なんこそ、めやすかるべけれ」と書きとどめている。美しい
    往生だったのである。/

宗祇が「宗碩と二人で」旅して「箱根湯本についた」としながら「その死を看とった宗長」がいる、
宗祇は「越後に出かけてここで死ぬつもりだった」のに「高弟の」宗長が「駿河の医者にかかること
をすすめた」、中西進は書いてて変だと思わんのか(^_^;) 少なくとも門弟では宗長、宗碩、宗坡、
従者では水本与五郎の計4人が宗祇に同行してたし、この旅は「駿河の医者にかかる」ためではなく
新たな終の棲家として美濃を目指し、富士をもう一度見るのが目的ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

宗長(著)鶴崎裕雄&福田秀一(校注)『宗祇終焉記』(福田秀一&岩佐美代子&川添昭二&大曾根
章介&久保田淳&鶴崎裕雄[校注]『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』[岩波書店,1990]
所収)から(踊り字は用いずに)引いておく( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・/此暮より又患ふ事なえかへりて、風さへ加はり、日数経ぬ。如月の末つかた、
    おこたりぬれど、都のあらましは打置きて、「上野の国草津といふ湯に入て、駿河国
    にまかり帰らんの由思立ぬ」と言へば、宗祇老人「我も此国にして限を待はべれば、
    命だにあやにくにつれなければ、たゞの人々の哀れびも、さのみはいと恥かしく、又
    都に帰り上らんも物憂し。美濃国に知る人ありて、残る齢の陰隠し所にもと、たびたび
    ふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし」と、「富士をもいま一度見侍らん」など
    ありしかば、打捨て国に帰らんも罪得がましく、否びがたくて、・・・

奥田勲(日本歴史学会編集)『宗祇』(吉川弘文館人物叢書,1998新装版)227~228頁からも(^o^)丿

    ・・・/[文亀2=1502年]二月下旬、宗長は健康を回復した。しかし都を目指すのは
    まだ早いと判断し、とりあえず上野国草津の湯で湯治した上で、駿河国に帰ることを
    思い立ち宗祇に伝えると、宗祇は「私もこの[越後]国で命の終わりを待っていたが、
    なかなか寿命もつきるものではなく、このあたりの人々が私を哀れんでくれるのも
    申し訳なく、といってはるかに都を目指して旅立つのも物憂い。美濃国に知人がいて、
    余生をここで過ごしなさいとたびたびわざわざ手紙をくれる。せっかくの機会だから
    ぜひ同行して欲しい。富士山ももう一度見たいものですし」と宗長に頼み込んだ。
    宗長はそういう宗祇を打ち捨てて帰国するのも罪作りだと考え、共に美濃を目指し
    出立することになった。宗碩・宗坡らも同行した。・・・

廣木一人『シリーズ日本の旅人 連歌師という旅人 宗祇越後府中への旅』(三弥井書店,2012)は、
「越後府中から美濃へ行くには越中から飛騨を越えて行くのが早い。」と指摘して(同書201頁)、
次のように推論しており(同書202~203頁)、ナルホド!と思った( ̄◇ ̄;)

    ・・・/しかし、宗祇はそうしなかった。わざわざ関東を回る道筋を取った。『宗祇
    終焉記』から窺える理由は、富士山を見たいという願望、伊香保温泉での湯治などが
    挙げられる。確かに宗祇は富士山を好んだようで、『実隆公記』明応五年九月二十八日
    の条では、見飽きることのない「言語道断殊勝」の山であると語っている。ただし、
    これだけの理由とも思えない。それらよりは宗長との同行を望んだのではなかろうか。
    富士山のことはともかく、美濃に赴きたいのであれば、宗碩も宗坡も水本与五郎も
    そばにいたのであるから、いつでも飛騨を抜けて直接に美濃へ行かれたはずである。/
    このように考えてくれば、宗祇の越後出国希望は宗長との関係が深いと思われてくる。
    年老いてからもっとも信頼を置いていたと思われる宗長との別れが耐え難かったのでは
    なかろうか。宗長がいれば何かと面倒を見てくれるかも知れない。たとえ、美濃まで
    行かれなくとも、途中には宗長の故郷、駿河がある。宗祇の思いには宗長への甘えが
    あった気がする。/・・・

「旅に死なんこそ、めやすかるべけれ」(←『徒然草』第七段を踏まえたもの?)というのは、前掲
『宗祇終焉記』には見当たらないが、その異本あるいは全く別の史料に出てくるのだろうか(@_@;)
だとしても連歌史の専門家による上記二冊が取り上げてない以上は史料価値が低いものかと(@_@;)
タグ:歴史 紀行 伝記
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

富士山なんかよりも、上野から下野へ行って男体山を見る方が
よほど健康と宗長と長くいられたのに・・・
「宗長は健康を回復した。」とあるけど宗長も病気だったのかな?
by tai-yama (2024-05-01 23:34) 

middrinn

宗長は越後で発病してます(^_^;) 宗長も当時54歳ですからね(^_^;)
by middrinn (2024-05-02 05:34) 

df233285

人間の寿命の長短では無くて、特定時代が長く続くか、あるいは
短い期間で終わるのかに関係するらしいが。黒く長くひときわ目立
つ直線定規のような窓枠上部棒のある旅館の部屋内で、「男体山が、
元々の位置よりも、近くなるように、神社と霊廟の位置を僅かに
移動させ、女峰山より高く見えるようにする為、私は新しい神社
をわざわざ作らせた」と、まるで名所ガイドの解説話のように私の
背後に立って説明する天海の霊夢を、私は朝っぱらの明るい日差し
の中で、かつて栃木県で見たことが実は有る。日光二荒山神社の
他に、日光二荒山神社の別宮瀧尾高徳水神社が有るの。その為らしい
です。
by df233285 (2024-05-02 06:44) 

middrinn

女峰山よりも高く見える度に天海の姿が脳裏にうかびそうですね(^^)
by middrinn (2024-05-02 15:10) 

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