221212読んだ本
読んでる本について休まず毎日ブログ更新したのに11月は一冊も読了しなかったΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン
【読んだ本】
細川重男『鎌倉幕府抗争史 御家人間抗争の二十七年』(光文社新書,2022)
読了(^o^)丿 『吾妻鏡』を一度通読しないとダメだなぁと小生は痛感(^_^;) 細か~いミスもあるし、
ルビに疑問も(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-12-08 )、勉強にm(__)m
細川重男は『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(洋泉社歴史新書y,2012)も源頼朝を
「スゴ腕キャバ嬢・スゴ腕ホスト」に喩えるなどメチャ読ませる上に内容的にも非常に興味深かった
からね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-07-23 )v( ̄∇ ̄)ニヤッ
序 殺し合いの時代
第一章 十三人の合議制の成立と抗争の開始
一 頼家の鎌倉殿継承
頼朝の子と孫/頼家の鎌倉殿継承と朝廷の後押し
二 十三人の合議制の成立
頼家、政務を開始/十三人合議制/「聴断」の意味/十三人合議制のメンバー構成
/頼家の反発
三 安達景盛討伐未遂事件と抗争の幕開け
愛妾を奪われた安達景盛/政子の一喝/武門の主従関係/殺す気はなかったのか/
第二章 梶原景時事件と広域武士団
一 梶原景時事件
頼朝時代の梶原景時/陥れる讒言か、冷静な報告か/結城朝光への讒言/
景時弾劾/景時追放
二 梶原景時の滅亡
景時、京を目指す/高橋合戦/黒幕は北条時政だったのか/頼家の「フカク」/
三 梶原景時の挙兵計画
戦後処置/未遂に終わった計画/その後の梶原氏
四 後鳥羽院への疑惑
梶原景時事件の余波
五 北条時政の遠江守任官
時政、受領となる/小野田盛長の死
六 越後城氏の乱
城長茂、京で兵を挙げる/梶原景時と城氏の関係/城資盛の挙兵/鳥坂城攻防戦/
城氏反乱の背景/
七 広域武士団の成立
御家人の派閥が生まれる
コラム① 私的武力集団としての武士団
第三章 比企の乱と北条時政の独裁
一 鎌倉殿頼家の執政
頼家の将軍任官/頼家の治世期間/頼家の「失政」/大豪族抑圧策/頼朝の心遣い/
二 阿野全成殺害事件
頼朝の弟、阿野全成/全成の「謀反」/「謀反」への疑問/頼家の狙い/時政の危機感/
三 比企の乱
比企尼と比企掃部允/比企氏一族/比企氏についての仮説/比企朝宗・能員の軍事行動/
比企氏と北条氏の比較/
四 北条時政のキャラクター
伊豆時代の北条氏と伊豆武士団/時政のサバイバル戦略/優れた交渉能力/時政の性格/
五 頼家発病と後継をめぐる駆け引き
頼家発病と日本六十六ヶ国惣地頭職の分割/一幡の弱点/後鳥羽院政を利用した時政/
時政の主張/折衷案としての日本国惣地頭職分割/比企の乱の発端/
六 小御所合戦
比企氏滅亡/一幡と若狭局の最期/その後の比企氏/比企の乱の余波/
七 源頼家暗殺
クーデターとしての比企の乱/比企氏の敗因/義時にとっての比企の乱/頼家惨殺/
頼家の遺児たちと政子/
八 後鳥羽院と比企の乱
第三代鎌倉殿源実朝/後鳥羽院の厚遇/後鳥羽院暗躍の可能性/
九 時政独裁と十三人合議制の崩壊
時政の文書発給状況/時政の地位/恐怖の独裁者/
コラム② 武家政権
第四章 北条義時の台頭と和田合戦
一 三日平氏の乱
平賀朝雅の活躍
二 畠山事件
義時と政範の任官・叙爵/北条政範の頓死/牧方の讒言/時政の妻、牧方/二俣川合戦/
父の暴走を咎める義時/
三 牧氏の変
時政の失脚/平賀朝雅追討/時政の動機/晩年の時政、その後の牧方/
執権に就かなかった義時/
四 宇都宮頼綱討伐未遂事件
政子の命令を拒絶した小山朝政/頼綱の出家/
五 大豪族抑圧策と義時の政所別当就任
義時、政所別当に/
六 泉親平反乱未遂事件
義時の摘発/幼女の死/全面対決へ/
七 和田合戦
和田氏について/三浦兄弟の裏切り/義盛、兵を挙げる/実朝邸襲撃/
朝夷名義秀の武勇/和田方の勝算/横山党の加勢/日和る軍勢/和田方敗退/
執権職の成立/
八 和田合戦後の事件
重慶殺害/また一人殺される頼朝の子孫/
第五章 源実朝暗殺と承久の乱への道程
一 政子の熊野詣
皇子下向の提案/
二 同床異夢の後鳥羽院と実朝
実朝のスピード昇進/同床異夢/
三 鎌倉殿暗殺
右大臣任官/頼家の忘れ形見/事件の前兆/血に染まる鶴岡八幡宮/黒幕はいたのか/
四 敷かれたレール
後鳥羽院皇子の下向願い/頼朝の甥、殺される/二階堂行光、禅暁を連れ去る/
後鳥羽院の対決姿勢/九条三寅の鎌倉下向/危険視された源氏嫡流の血筋/
コラム③中世国家論について
第六章 承久の乱
開戦早々の官軍の勝利/後鳥羽院の目論見/北条泰時の出陣/幕府方の大勝利/
第七章 伊賀氏の変と御家人間闘争の終焉
承久の乱後の義時/義時の死/泰時の執権就任と抗争の予兆/政子の詰問/
伊賀一族の処断/政子、逝く/御家人間抗争の終焉/
結 兵[つわもの]の道の虚実
あとがき
参考系図
天皇家・親王将軍系図/清和源氏系図/河内源氏系図/
河内源氏・熱田大宮司・北条・二階堂・伊賀関係系図/清和源氏頼義流・頼清流略系図/
桓武平氏系図/上総・千葉氏系図/鎌倉党系図/二階堂氏祖先系図/北条氏系図/
藤姓足利・小山・下河辺・八田・宇都宮氏系図/
参考文献
【解説編】古代・中世日本の基礎知識
1.時代区分・領土・天皇
2.朝廷の支配体制
3.律令制の地方行政
4.地域名称
5.位階と貴族
6.朝廷政治の変遷
7.荘園
8.武士
9.平将門の乱と武士の成立
「序 殺し合いの時代」で正治元年(1199年)正月13日の頼朝薨去から承久3年(1221年)5~6月の
承久の乱までの23年間に起きた「御家人たちの抗争とそれに因する事件」として①安達景盛討伐未遂
②梶原景時事件③城長茂京都挙兵・越後城氏の乱④阿野全成殺害⑤比企の乱⑥源頼家殺害⑦畠山事件
(二俣川合戦)⑧牧氏の変⑨宇都宮頼綱討伐未遂⑩泉親平反乱未遂⑪和田合戦⑫重慶(畠山重忠子)
殺害⑬栄実(源頼家子)殺害⑭源実朝殺害⑮阿野時元(阿野全成子)殺害⑯禅暁(源頼家子)殺害を
列挙し、更に承久の乱から元弘3年(1333年)5月22日の鎌倉幕府滅亡までの内部抗争として①伊賀氏
の変②佐原(三浦)盛連殺害③宮騒動④法治合戦⑤了行法師反乱未遂⑥宗尊親王京都送還⑦二月騒動
⑧佐介(北条)時国殺害⑨佐介(北条)時光配流⑩霜月騒動⑪平禅門の乱⑫嘉元の乱⑬嘉暦の騒動⑭
元徳の騒動も列挙した上で、発生頻度が高い等の諸理由から前者の方を本書は論じてるけど、何故か
後者の①も取り上げて嘉禄元年(1225年)12月22日の伊賀光宗の鎌倉帰還までの「ほぼ二十七年」が、
本書のサブタイトル「御家人間抗争の二十七年」(@_@;) 法治合戦を取り上げてないのが不満(^_^;)
読み応えがあったのは比企の乱で、「・・・客観的に見て比企氏と北条氏、能員と時政の勢力には、
圧倒的と言って良い開きがあった。北条氏は比企氏を、時政は能員を倒すことなど不可能なはずで
あった。サヨリに軍艦は沈められない。」と本書112頁にある( ̄◇ ̄;) 本書116~117頁に記されて
いる「比企氏についての仮説」を(本書114~116頁の「比企氏一族」から補筆して)引く( ̄◇ ̄;)
(1)比企夫妻は比企郡を請所としている。「請所」は鎌倉中期以降の言葉であるが、
後に「請所」と呼ばれるようになる年貢請負自体は平安末期からあったとして問題
はない。一郡全体の年貢請負をするには、かなりの財力がなければならない。豊作
の時は儲かるが、不作の場合は自腹を切って不足分を補填しなければならないから
である。[源頼朝の乳母の比企尼の夫である比企]掃部允は相当な資産家であった
ことになる。
(2)丹後内侍[比企夫妻の長女で、近衛家家司の惟宗広言と密通して生んだ惟宗忠久
は島津氏の初代となり、その後、三河国の小野田盛長に嫁いで、安達景盛・大曽禰
時長・源範頼妻を生んだ]は二条天皇に仕えているので、掃部允の家は貴族社会で
それなりの地位にあったはずである。
(3)請所・娘の嫁ぎ先(次女は河越重頼に嫁いで源頼家の乳母に、三女は伊東祐清に
嫁ぎ、祐清没後は河内源氏の大内義信に嫁いで平賀朝雅を生む)・猶子能員の出身
[『愚管抄』に(安房の誤記の可能性もあるが)「阿波国ノ者也」とある]から、
武蔵・三河・伊豆・阿波に関係があった。/つまり、比企掃部允は、都でそれなりの
地位にある家系の出身[比企夫妻の実子である比企朝宗は仮名[けみょう]=通称が
「藤内」なので氏は藤原]である資産家で、坂東の武蔵、東海の伊豆・三河、南海道
(瀬戸内)の阿波に関係ある人物ということになる。/私は以上の点を勘案し、比企
掃部允を受領層貴族の家系出身と推定する。/
これに対して、北条時政は「小土豪に過ぎなかった」(本書120頁)わけだから、歴史は面白い(^_^;)
だけど、最後に「・・・後鳥羽院は本当に比企氏討伐の知らせが来るのを待っていたのではないか。
/一幡の鎌倉殿就任にお墨付きを与えても、当然のことゆえに、頼家や比企能員にとっては有難味は
薄い。これに対し、鎌倉殿就任の目が少ない実朝の鎌倉殿就任にお墨付きを与えてやれば、ジリ貧の
時政には大いに感謝される。鎌倉幕府を自身のコントロール下に置くことも出来よう。時政が失敗し
たら、知らんふりをすれば良い。/比企の乱での時政の行動の背後には、後鳥羽院があったのではな
いか。/これが、もし史実であれば、時政は自分の幕府支配と引き換えに、幕府そのものを後鳥羽院
に売ったことになる。/だが、傍証史料すら無い以上、これは永遠の謎である。/」(本書160頁)と
あるけど、比企氏を「受領層貴族の家系出身」として「貴族社会でそれなりの地位にあったはず」と
した「仮説」との関係が気になる(@_@;) 比企氏の「貴族社会」での「それなりの地位」は後鳥羽院
が「鎌倉幕府を自身のコントロール下に置くこと」と引き換えに葬られてしまう程度なのね(@_@;)
あと目が留まったのは、「梶原事件で幕府幹部の地位は失ったが、梶原氏は族滅を免れ、鎌倉幕府に
あっては形式的とは言え名門の御家人として存続した。」(本書79頁)ことや、「義時の長男泰時が
同年[元久元=1204年]二十二歳でまだ無官であることと比べると、この時期[比企の乱の翌年]の
北条氏として政範の叙爵・任官年齢[16歳]は異常と言い得るほど若い。時政が政範を後継者に考え
ていたことは明らかである。つまり、時政は義時を自分の駒の一つ以上に考えてはいなかったのであ
る。」(本書150頁)とか、元久元年(1204年)の「三日平氏の乱」は「平賀朝雅の手腕によって呆気
なく鎮圧された。」(本書175頁)とか、他にも小生は『吾妻鏡』を通読したことがないので、細かい
ところで知らなかったことが結構あった(^_^;) 各「コラム」や巻末の「【解説編】古代・中世日本の
基礎知識」は啓蒙的で勉強にm(__)m 佐藤進一の「東国国家論(東国政権論)」は〈ただし、佐藤氏は
鎌倉幕府を「中世国家の第二の形」とは記しているが、鎌倉幕府については「政権」と記し、直接的
に「国家」とは記していない。〉し(本書254頁)、また五味文彦の〈「二つの王権論」については、
「王」「王権」という言葉の定義がなされていないことが、最大の問題点であると私は考える。〉と
指摘し(本書260頁)、細川重男は「現時点で」黒田俊雄の「権門体制論」を支持(本書261頁)(^^)
気になったのは、「十三人合議制」について、坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶え
たか』(PHP新書,2021)は「その実態は頼家の親裁権を禁止した上での有力御家人の合議ではなく、
訴訟案件の取次ぎを十三人に限定するという訴訟制度の整備と捉えるべきであろう。」とするのに
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-28 )、本書は頼家も十三人合議制
もともに訴訟の裁決権を行使していたとし、更に十三人合議制は最高幹部会議として幕府の方針など
重要事項を決定する「幕府の公的な意思決定機関」であったとしていること(@_@;) また史料評価に
関して、本書36~37頁に『吾妻鏡』正治元年(1199年)4月12日条の〈「聴断」は吉川本『吾妻鏡』に
あるもので、北条本では「決断」となっている。だが、吉川本は『吾妻鏡』諸写本のなかでも古態を
よく残すとされ、意味的にもこれは「聴断」が正しい。〉とあったり、本書55頁で「景時は源義経を
頼朝に讒言した悪人として有名で、たしかに『義経記』を見ると景時の義経への悪口・讒言はヒドイ
ものである。しかし、『義経記』は軍記物語、いわば戦争小説であって、そのまま記述を鵜呑みには
出来ない。」としながら、本書257頁で「『曽我物語』や延慶本『平家物語』、『源平盛衰記』などは
軍記物語、文芸作品である。文芸作品なるがゆえに、制作当時の常識が反映されている。」としてて、
「古態」信仰による思考停止は予想通りとはいえ、反時代的な「文芸作品」は無いのかねぇ(@_@;)
あとは承久の乱について、「この[北条義時追討]宣旨によって幕府が義時派と反義時派に分裂して
内戦を起こし自壊することを狙ったのである。だが、後鳥羽院の真意は、幕府の温存であったと考え
られる。」(本書267頁)などとしている点は、例の最近の新説に連なっているのだろうか(@_@;)
【読んだ本】
細川重男『鎌倉幕府抗争史 御家人間抗争の二十七年』(光文社新書,2022)
読了(^o^)丿 『吾妻鏡』を一度通読しないとダメだなぁと小生は痛感(^_^;) 細か~いミスもあるし、
ルビに疑問も(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-12-08 )、勉強にm(__)m
細川重男は『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(洋泉社歴史新書y,2012)も源頼朝を
「スゴ腕キャバ嬢・スゴ腕ホスト」に喩えるなどメチャ読ませる上に内容的にも非常に興味深かった
からね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-07-23 )v( ̄∇ ̄)ニヤッ
序 殺し合いの時代
第一章 十三人の合議制の成立と抗争の開始
一 頼家の鎌倉殿継承
頼朝の子と孫/頼家の鎌倉殿継承と朝廷の後押し
二 十三人の合議制の成立
頼家、政務を開始/十三人合議制/「聴断」の意味/十三人合議制のメンバー構成
/頼家の反発
三 安達景盛討伐未遂事件と抗争の幕開け
愛妾を奪われた安達景盛/政子の一喝/武門の主従関係/殺す気はなかったのか/
第二章 梶原景時事件と広域武士団
一 梶原景時事件
頼朝時代の梶原景時/陥れる讒言か、冷静な報告か/結城朝光への讒言/
景時弾劾/景時追放
二 梶原景時の滅亡
景時、京を目指す/高橋合戦/黒幕は北条時政だったのか/頼家の「フカク」/
三 梶原景時の挙兵計画
戦後処置/未遂に終わった計画/その後の梶原氏
四 後鳥羽院への疑惑
梶原景時事件の余波
五 北条時政の遠江守任官
時政、受領となる/小野田盛長の死
六 越後城氏の乱
城長茂、京で兵を挙げる/梶原景時と城氏の関係/城資盛の挙兵/鳥坂城攻防戦/
城氏反乱の背景/
七 広域武士団の成立
御家人の派閥が生まれる
コラム① 私的武力集団としての武士団
第三章 比企の乱と北条時政の独裁
一 鎌倉殿頼家の執政
頼家の将軍任官/頼家の治世期間/頼家の「失政」/大豪族抑圧策/頼朝の心遣い/
二 阿野全成殺害事件
頼朝の弟、阿野全成/全成の「謀反」/「謀反」への疑問/頼家の狙い/時政の危機感/
三 比企の乱
比企尼と比企掃部允/比企氏一族/比企氏についての仮説/比企朝宗・能員の軍事行動/
比企氏と北条氏の比較/
四 北条時政のキャラクター
伊豆時代の北条氏と伊豆武士団/時政のサバイバル戦略/優れた交渉能力/時政の性格/
五 頼家発病と後継をめぐる駆け引き
頼家発病と日本六十六ヶ国惣地頭職の分割/一幡の弱点/後鳥羽院政を利用した時政/
時政の主張/折衷案としての日本国惣地頭職分割/比企の乱の発端/
六 小御所合戦
比企氏滅亡/一幡と若狭局の最期/その後の比企氏/比企の乱の余波/
七 源頼家暗殺
クーデターとしての比企の乱/比企氏の敗因/義時にとっての比企の乱/頼家惨殺/
頼家の遺児たちと政子/
八 後鳥羽院と比企の乱
第三代鎌倉殿源実朝/後鳥羽院の厚遇/後鳥羽院暗躍の可能性/
九 時政独裁と十三人合議制の崩壊
時政の文書発給状況/時政の地位/恐怖の独裁者/
コラム② 武家政権
第四章 北条義時の台頭と和田合戦
一 三日平氏の乱
平賀朝雅の活躍
二 畠山事件
義時と政範の任官・叙爵/北条政範の頓死/牧方の讒言/時政の妻、牧方/二俣川合戦/
父の暴走を咎める義時/
三 牧氏の変
時政の失脚/平賀朝雅追討/時政の動機/晩年の時政、その後の牧方/
執権に就かなかった義時/
四 宇都宮頼綱討伐未遂事件
政子の命令を拒絶した小山朝政/頼綱の出家/
五 大豪族抑圧策と義時の政所別当就任
義時、政所別当に/
六 泉親平反乱未遂事件
義時の摘発/幼女の死/全面対決へ/
七 和田合戦
和田氏について/三浦兄弟の裏切り/義盛、兵を挙げる/実朝邸襲撃/
朝夷名義秀の武勇/和田方の勝算/横山党の加勢/日和る軍勢/和田方敗退/
執権職の成立/
八 和田合戦後の事件
重慶殺害/また一人殺される頼朝の子孫/
第五章 源実朝暗殺と承久の乱への道程
一 政子の熊野詣
皇子下向の提案/
二 同床異夢の後鳥羽院と実朝
実朝のスピード昇進/同床異夢/
三 鎌倉殿暗殺
右大臣任官/頼家の忘れ形見/事件の前兆/血に染まる鶴岡八幡宮/黒幕はいたのか/
四 敷かれたレール
後鳥羽院皇子の下向願い/頼朝の甥、殺される/二階堂行光、禅暁を連れ去る/
後鳥羽院の対決姿勢/九条三寅の鎌倉下向/危険視された源氏嫡流の血筋/
コラム③中世国家論について
第六章 承久の乱
開戦早々の官軍の勝利/後鳥羽院の目論見/北条泰時の出陣/幕府方の大勝利/
第七章 伊賀氏の変と御家人間闘争の終焉
承久の乱後の義時/義時の死/泰時の執権就任と抗争の予兆/政子の詰問/
伊賀一族の処断/政子、逝く/御家人間抗争の終焉/
結 兵[つわもの]の道の虚実
あとがき
参考系図
天皇家・親王将軍系図/清和源氏系図/河内源氏系図/
河内源氏・熱田大宮司・北条・二階堂・伊賀関係系図/清和源氏頼義流・頼清流略系図/
桓武平氏系図/上総・千葉氏系図/鎌倉党系図/二階堂氏祖先系図/北条氏系図/
藤姓足利・小山・下河辺・八田・宇都宮氏系図/
参考文献
【解説編】古代・中世日本の基礎知識
1.時代区分・領土・天皇
2.朝廷の支配体制
3.律令制の地方行政
4.地域名称
5.位階と貴族
6.朝廷政治の変遷
7.荘園
8.武士
9.平将門の乱と武士の成立
「序 殺し合いの時代」で正治元年(1199年)正月13日の頼朝薨去から承久3年(1221年)5~6月の
承久の乱までの23年間に起きた「御家人たちの抗争とそれに因する事件」として①安達景盛討伐未遂
②梶原景時事件③城長茂京都挙兵・越後城氏の乱④阿野全成殺害⑤比企の乱⑥源頼家殺害⑦畠山事件
(二俣川合戦)⑧牧氏の変⑨宇都宮頼綱討伐未遂⑩泉親平反乱未遂⑪和田合戦⑫重慶(畠山重忠子)
殺害⑬栄実(源頼家子)殺害⑭源実朝殺害⑮阿野時元(阿野全成子)殺害⑯禅暁(源頼家子)殺害を
列挙し、更に承久の乱から元弘3年(1333年)5月22日の鎌倉幕府滅亡までの内部抗争として①伊賀氏
の変②佐原(三浦)盛連殺害③宮騒動④法治合戦⑤了行法師反乱未遂⑥宗尊親王京都送還⑦二月騒動
⑧佐介(北条)時国殺害⑨佐介(北条)時光配流⑩霜月騒動⑪平禅門の乱⑫嘉元の乱⑬嘉暦の騒動⑭
元徳の騒動も列挙した上で、発生頻度が高い等の諸理由から前者の方を本書は論じてるけど、何故か
後者の①も取り上げて嘉禄元年(1225年)12月22日の伊賀光宗の鎌倉帰還までの「ほぼ二十七年」が、
本書のサブタイトル「御家人間抗争の二十七年」(@_@;) 法治合戦を取り上げてないのが不満(^_^;)
読み応えがあったのは比企の乱で、「・・・客観的に見て比企氏と北条氏、能員と時政の勢力には、
圧倒的と言って良い開きがあった。北条氏は比企氏を、時政は能員を倒すことなど不可能なはずで
あった。サヨリに軍艦は沈められない。」と本書112頁にある( ̄◇ ̄;) 本書116~117頁に記されて
いる「比企氏についての仮説」を(本書114~116頁の「比企氏一族」から補筆して)引く( ̄◇ ̄;)
(1)比企夫妻は比企郡を請所としている。「請所」は鎌倉中期以降の言葉であるが、
後に「請所」と呼ばれるようになる年貢請負自体は平安末期からあったとして問題
はない。一郡全体の年貢請負をするには、かなりの財力がなければならない。豊作
の時は儲かるが、不作の場合は自腹を切って不足分を補填しなければならないから
である。[源頼朝の乳母の比企尼の夫である比企]掃部允は相当な資産家であった
ことになる。
(2)丹後内侍[比企夫妻の長女で、近衛家家司の惟宗広言と密通して生んだ惟宗忠久
は島津氏の初代となり、その後、三河国の小野田盛長に嫁いで、安達景盛・大曽禰
時長・源範頼妻を生んだ]は二条天皇に仕えているので、掃部允の家は貴族社会で
それなりの地位にあったはずである。
(3)請所・娘の嫁ぎ先(次女は河越重頼に嫁いで源頼家の乳母に、三女は伊東祐清に
嫁ぎ、祐清没後は河内源氏の大内義信に嫁いで平賀朝雅を生む)・猶子能員の出身
[『愚管抄』に(安房の誤記の可能性もあるが)「阿波国ノ者也」とある]から、
武蔵・三河・伊豆・阿波に関係があった。/つまり、比企掃部允は、都でそれなりの
地位にある家系の出身[比企夫妻の実子である比企朝宗は仮名[けみょう]=通称が
「藤内」なので氏は藤原]である資産家で、坂東の武蔵、東海の伊豆・三河、南海道
(瀬戸内)の阿波に関係ある人物ということになる。/私は以上の点を勘案し、比企
掃部允を受領層貴族の家系出身と推定する。/
これに対して、北条時政は「小土豪に過ぎなかった」(本書120頁)わけだから、歴史は面白い(^_^;)
だけど、最後に「・・・後鳥羽院は本当に比企氏討伐の知らせが来るのを待っていたのではないか。
/一幡の鎌倉殿就任にお墨付きを与えても、当然のことゆえに、頼家や比企能員にとっては有難味は
薄い。これに対し、鎌倉殿就任の目が少ない実朝の鎌倉殿就任にお墨付きを与えてやれば、ジリ貧の
時政には大いに感謝される。鎌倉幕府を自身のコントロール下に置くことも出来よう。時政が失敗し
たら、知らんふりをすれば良い。/比企の乱での時政の行動の背後には、後鳥羽院があったのではな
いか。/これが、もし史実であれば、時政は自分の幕府支配と引き換えに、幕府そのものを後鳥羽院
に売ったことになる。/だが、傍証史料すら無い以上、これは永遠の謎である。/」(本書160頁)と
あるけど、比企氏を「受領層貴族の家系出身」として「貴族社会でそれなりの地位にあったはず」と
した「仮説」との関係が気になる(@_@;) 比企氏の「貴族社会」での「それなりの地位」は後鳥羽院
が「鎌倉幕府を自身のコントロール下に置くこと」と引き換えに葬られてしまう程度なのね(@_@;)
あと目が留まったのは、「梶原事件で幕府幹部の地位は失ったが、梶原氏は族滅を免れ、鎌倉幕府に
あっては形式的とは言え名門の御家人として存続した。」(本書79頁)ことや、「義時の長男泰時が
同年[元久元=1204年]二十二歳でまだ無官であることと比べると、この時期[比企の乱の翌年]の
北条氏として政範の叙爵・任官年齢[16歳]は異常と言い得るほど若い。時政が政範を後継者に考え
ていたことは明らかである。つまり、時政は義時を自分の駒の一つ以上に考えてはいなかったのであ
る。」(本書150頁)とか、元久元年(1204年)の「三日平氏の乱」は「平賀朝雅の手腕によって呆気
なく鎮圧された。」(本書175頁)とか、他にも小生は『吾妻鏡』を通読したことがないので、細かい
ところで知らなかったことが結構あった(^_^;) 各「コラム」や巻末の「【解説編】古代・中世日本の
基礎知識」は啓蒙的で勉強にm(__)m 佐藤進一の「東国国家論(東国政権論)」は〈ただし、佐藤氏は
鎌倉幕府を「中世国家の第二の形」とは記しているが、鎌倉幕府については「政権」と記し、直接的
に「国家」とは記していない。〉し(本書254頁)、また五味文彦の〈「二つの王権論」については、
「王」「王権」という言葉の定義がなされていないことが、最大の問題点であると私は考える。〉と
指摘し(本書260頁)、細川重男は「現時点で」黒田俊雄の「権門体制論」を支持(本書261頁)(^^)
気になったのは、「十三人合議制」について、坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶え
たか』(PHP新書,2021)は「その実態は頼家の親裁権を禁止した上での有力御家人の合議ではなく、
訴訟案件の取次ぎを十三人に限定するという訴訟制度の整備と捉えるべきであろう。」とするのに
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-28 )、本書は頼家も十三人合議制
もともに訴訟の裁決権を行使していたとし、更に十三人合議制は最高幹部会議として幕府の方針など
重要事項を決定する「幕府の公的な意思決定機関」であったとしていること(@_@;) また史料評価に
関して、本書36~37頁に『吾妻鏡』正治元年(1199年)4月12日条の〈「聴断」は吉川本『吾妻鏡』に
あるもので、北条本では「決断」となっている。だが、吉川本は『吾妻鏡』諸写本のなかでも古態を
よく残すとされ、意味的にもこれは「聴断」が正しい。〉とあったり、本書55頁で「景時は源義経を
頼朝に讒言した悪人として有名で、たしかに『義経記』を見ると景時の義経への悪口・讒言はヒドイ
ものである。しかし、『義経記』は軍記物語、いわば戦争小説であって、そのまま記述を鵜呑みには
出来ない。」としながら、本書257頁で「『曽我物語』や延慶本『平家物語』、『源平盛衰記』などは
軍記物語、文芸作品である。文芸作品なるがゆえに、制作当時の常識が反映されている。」としてて、
「古態」信仰による思考停止は予想通りとはいえ、反時代的な「文芸作品」は無いのかねぇ(@_@;)
あとは承久の乱について、「この[北条義時追討]宣旨によって幕府が義時派と反義時派に分裂して
内戦を起こし自壊することを狙ったのである。だが、後鳥羽院の真意は、幕府の温存であったと考え
られる。」(本書267頁)などとしている点は、例の最近の新説に連なっているのだろうか(@_@;)
タグ:歴史
売国奴"時政"もその後は義時に追放されるので・・・
室町時代の不安定さを考えれば鎌倉時代の初期27年の混乱は
短い方なのかも。
by tai-yama (2022-12-12 23:58)
1ヶ月掛かっても読了しなかった…それだけ読み応えがあったということだと思います!
by ナベちはる (2022-12-13 01:26)
外国に国を売ったわけでは(^_^;) もしかして、
tai-yama様は「東国国家論」の立場か(^_^;)
室町時代は将軍の介入によるケースが多くて、
鎌倉時代初期の内ゲバとはちょっと違いますし、
23年間に⑯件と「一年半弱に一件」(本書25頁)
のハイペースで、内13件が「流血沙汰」ですし、
「短い」期間に集中しているのが、特異(^_^;)
by middrinn (2022-12-13 05:57)
ナルホド(〃'∇'〃) 引っ掛かる記述が多くて読み進める
のに時間がかかったとしても、そう前向きに捉えると、
ナベちはる様、いいですねヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪
by middrinn (2022-12-13 06:38)