210428読んだ本
読書の厄介なところは、先行研究のパクリを疑われても仕方がない本である〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
OPACで予約して借りた本、どれもマジつまらんのだが、ブラウジングして借りられぬ図書館(-ω-、)
【読んだ本】
坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書,2021)
読了(^o^)丿 従来の理解や通説が次々覆されててメチャ勉強になる本書だけど、それらが先行研究に
よる知見をなぞっただけなのか坂井孝一自身による創見なのかが判らない等の気になる点も(@_@;)
はじめに
主題と構成/『吾妻鏡』という史料/
第一章 源氏将軍の誕生
第一節 唯一の武家の棟梁へ
流人の挙兵/完全なる天下落居に向けて/『吾妻鏡』の奥州合戦記事/奥州入り/
阿津賀志山の激闘/勲功の審理/泰衡捜索の進撃/平泉制圧/泰衡の首/
「源氏将軍観」の起点/秩序の回復と天下落居の達成/
第二節 征夷大将軍任官へ
戦勝報告と永福寺建立/頼朝上洛/頼朝・兼実の会談/権大納言・右近衛大将/
朝廷の官職と頼朝/征夷大将軍/
第三節 建久年間前半の頼朝政権
戦時体制から平時体制へ/官位挙任権による御家人統制/実朝の誕生と頼家の位置/
〈大切な子〉と〈可愛い子〉/一連の狩猟行事/頼家の初鹿獲り/『吾妻鏡』が描く
「山神・矢口祭」/頼家に対する意図的低評価/曽我事件/「北条時政黒幕説」と
「クーデター説」/建久四年という転換/
第二章 源氏将軍の継承
第一節 将軍継承に向けての動き
二度目の上洛/陳和卿をめぐる頼朝・実朝の対比/もう一つの重要な目的/
後継者頼家のお披露目/その後の朝廷/娘の入内にみる頼朝の構想/
親戚関係による環境作り/鎌倉殿継承にみる頼朝の構想/頼朝急死/
「頼朝将軍記」未完の謎/
第二節 若き鎌倉殿頼家
二代鎌倉殿としての始動/『吾妻鏡』が描く「暗君」頼家/頼家像の再検討1──
宿老十三人の合議制──/頼家像の再検討2──頼家主体の諸施策──/
宿老の十三人/
第三節 二代将軍頼家の悲劇
梶原景時の滅亡/比企と北条/頼朝の後家、源家家長の政子/頼家の親裁/
二代将軍の狩猟行事/阿野全成誅殺/比企の乱/頼家・一幡・忠常の最期/
頼家・比企滅亡の歴史像/
第三章 源氏将軍の確立
第一節 将軍擁立
従五位下・征夷大将軍就任/北条時政の権力掌握/将軍実朝の御台所選定/
畠山氏の滅亡/牧氏事件/平賀朝雅の誅殺/実朝・政子・義時の新体制/
第二節 将軍親裁
実朝の成長/将軍としての活動/将軍家政所の開設/将軍親裁の諸政策/
試行錯誤の幕政運営/為政者としての実朝評/実朝と義時/政子の立場と力/
第四章 源氏将軍の試練と成長
第一節 和田合戦という試練
和田義盛の上総介挙任問題/泉親平の乱から和田合戦へ/和田合戦の史料/
和田合戦勃発/猛威を振るう朝比奈義秀/激闘決着/
『吾妻鏡』のプロットにない現実の戦闘/和田合戦の持つ意味/後鳥羽への対応/
第二節 建保年間の幕府政治
安定した幕政運営/朝廷対策と御家人統制/建保三年にみえる変化/
政所別当九人制/将軍親裁の権威増大/実朝の官位上昇/義時・広元の諫言記事/
『吾妻鏡』の記事にみえる不審点/御家人たちの官位叙任/改変・粉飾された記事/
第三節 さらなる試練
謎の渡宋計画?/唐船建造の狙い/近臣葛山景倫の派遣/日宋貿易と実朝/
唐船の建造成功と進水失敗/先見性ゆえの失政/
第五章 源氏将軍断絶
第一節 後継将軍問題
後継将軍不在という異常事態/御台所坊門信子と実朝/後継将軍に対する実朝の意識/
御家人たちの意識/親王将軍推戴という構想/
第二節 後鳥羽・実朝・北条氏
極秘プロジェクト始動/朝幕交渉/三者三様のヴィジョンと「権門体制」/
後鳥羽のヴィジョン/実朝のヴィジョン/北条氏のヴィジョン/
左大将拝賀の儀と直衣始/想像を絶する高い地位、右大臣/「源氏将軍断絶」/
第三節 源実朝暗殺事件
二代将軍頼家の遺児公暁/公暁の動向/公暁の犯行動機/『愚管抄』にみる事件当日/
『吾妻鏡』にみる事件当日/『吾妻鏡』が記す不可思議な異変/
事件の検証1──なぜ公暁は人々の眼前で犯行に及んだのか?/
事件の検証2──なぜ公暁一味は仲章を義時と間違えて殺したのか?/
黒幕の詮索1──「北条義時黒幕説」/黒幕の詮索2──「三浦義村黒幕説」/
終章 源氏将軍のその後
実朝横死の衝撃/次期将軍の予定者三寅/承久の乱という転換点/
源氏改姓問題と源氏将軍断絶/
おわりに
関係略年表
主要参考文献
二代将軍の源頼家は困ったチャン、三代将軍の源実朝は北条氏の傀儡とされてきたが、そんな人物像
・評価は近年の研究によって修正されていること、晩年の源頼朝は「ついに中央貴族の末裔としての
意識をぬけ出すことのできなかった」(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』[中公文庫,1974])として
頼朝の限界とされてきたその政治構想の再検討、実朝暗殺後に足利・大内・武田その他の源氏一門が
将軍になれなかったのは何故かとして頼朝の血を引く者が将軍になるという「源氏将軍観」の存在、
実朝の時代の朝廷と幕府の関係などなど・・・メチャ勉強になった(⌒~⌒) やはり、こーゆー従来の
理解や通説を覆す本は読んでて面白いね(⌒~⌒) 例えば、二代将軍頼家の時代に「・・・『吾妻鏡』
をもとに、若くて経験が浅く性格的にも問題のある頼家は宿老と対立し、失敗を繰り返した・・・」
(本書108頁)として、頼家が訴訟を裁断するのを停止、大江広元、三浦義澄、和田義盛、比企能員、
梶原景時、北条時政ら13人の元老・御家人代表たちが合議で裁判をすることになった、と従来はされ
ていたけど、本書109~110頁には次の指摘( ̄◇ ̄;)
・・・他にも十三人の誰かしらが奉行や取次ぎをしている例は多数みられる。
一方、十三人が一堂に会して合議したという史料は一件もない。とすれば、
研究史上「十三人の合議制」と呼ばれてきたが、その実態は頼家の親裁権を
禁止した上での有力御家人の合議ではなく、訴訟案件の取次ぎを十三人に
限定するという訴訟制度の整備と捉えるべきであろう。/
このように『吾妻鏡』に依拠してきた従来の歴史研究を次々覆していくわけで、本書の「はじめに」
の「『吾妻鏡』という史料」で次のように纏められている(本書5~6頁)(⌒~⌒)
・・・『吾妻鏡』は頼朝の挙兵から百二十年後、実朝の暗殺からでも八十年後、
十三世紀末から十四世紀初頭にかけてという、北条得宗家(北条氏の嫡流)の専制期に
幕府関係者が作成した編纂物である。当然、その時代の政治状況を色濃く反映している。
北条氏の人々、とくに三代執権泰時をことさらに顕彰するなど、様々な潤色・曲筆が
加えられていることはつとに指摘されている。そこに史料としての限界があることは
明らかである。それゆえ『吾妻鏡』の記事を無批判に受け入れるのではなく、各種の
文書、貴族の日記、寺社の記録、系図、軍記物語などの文学作品、慈円の『愚管抄』
のような著作物、鎌倉中期以降に成立した説話集などにも目を配り、『吾妻鏡』の記事
を相対化する必要がある。先に述べた二代頼家、三代実朝に関する新たな研究は、
この手法によって推進されているといっていい。/本書もこうした研究に学びつつ
考察を進める。その際、重視すべきは『吾妻鏡』編纂の意図・目的である。近年の
『吾妻鏡』研究を牽引する薮本勝治氏によれば、『吾妻鏡』の編纂は一二九〇年代後半の
九代執権北条貞時による「徳政」の一環であり、「歴史を語り直す」ことによって、
北条得宗家こそ幕府の創業者たる「頼朝の政道」を「継承」する「正当性」を有する、
と主張することであったという。『吾妻鏡』が泰時を顕彰するのは、泰時を頼朝の
正統な後継者と位置づけるためであり、二代頼家を蹴鞠に没頭した「暗君」として描き、
また三代実朝を和歌・蹴鞠に耽溺し、遂には暗殺の憂き目にあったかのように描くのも、
頼家・実朝が頼朝の政道から外れ、継承できなかったことを示すためであったという
のである。/一方、頼朝については、得宗家が継承すべき政道を実現した偉大な創業者
と位置づける。・・・
『吾妻鏡』は北条氏顕彰・擁護のため曲筆・潤色を行なっていたとして、その記述を厳しく吟味し、
当時の文書等を参考にして『吾妻鏡』の記事を絶対視しないというのだが、「・・・鎌倉中期以降に
成立した説話集など」を無批判に利用しているところが気になる(@_@;) 「為政者としての実朝評」
という見出しで、「ここで、同時代や鎌倉後期・南北朝期の人々が、実朝を為政者としてどのように
評価していたのか確認しておきたい。」(本書169頁)として、本書171~172頁に次の記述が(@_@;)
・・・/最後に、南北朝期成立の『増鏡』における右大臣実朝評をみてみたい。
この大臣は、大かた、心ばへうるはしくて、剛くもやさしくも、
よろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、もののふの靡き従ふさまも
代々に越えたり。
心が豊かで気高く、武勇の面でも優雅な面でも申し分なかったので、武士たちが
靡[なび]き従う様子は頼朝や頼家など代々の父祖を超えたと激賞している。
こうした評言が同時代、鎌倉・南北朝期に厳然と存在したことは軽んじるべき
ではない。/
井上宗雄(全訳注)『増鏡(上)』(講談社学術文庫,1979)を披いたら、上記の引用部分に続いて、
・・・いかなる時にかありけん、
山はさけ海はあせなん世なりとも君にふた心わがあらめやも
とぞ詠みける。/・・・
とあり、「山はさけ、海は水が涸れてしまうような世になっても、君[=後鳥羽院]に対して異心を
持つようなことがありましょうか、けっしてありますまい。」(井上・前掲書の現代語訳)という歌
を詠むぐらいだから、南北朝期に公家方の立場で書かれた歴史物語である『増鏡』が実朝を高く評価
するのは当たり前(^_^;) 「赤旗」を引いて日本共産党は市民からの評価が高いとするが如し(^_^;)
同じく「為政者としての実朝評」として、本書170頁は次のような例まで挙げていたぞ( ̄◇ ̄;)エッ!?
・・・/『沙石集』はまた、実朝が詠んだと伝えられる「鳴子をば おのが羽風に
まかせつつ 心と騒ぐ 村雀かな」という歌に法華経や『宗鏡録[すぎょうろく]』
の思想を読み取り、「この歌は深き心の侍るにや」との評価を与える。実朝の詠歌
ではなく伝承歌であるが、逆にいえば、無住をはじめ鎌倉期の人々が、実朝を仏法に
深く帰依した信仰の人と理解していたことになろう。/・・・
小島孝之(校注・訳)『新編日本古典文学集52 沙石集』(小学館,2001)の当該説話の頭注欄では、
こうした仏教的解釈は我田引水のようにも見えるが、僧侶歌人たちの和歌の理解は
こういうものだったのかもしれない。無住だけが強引な解釈をしているわけではない。
と読者に注意を促しているんだけど(^_^;) 「我田引水」「強引な解釈」を一般化されてもねぇ(^_^;)
ついでに書いておくけど、本書45頁に「・・・類話が鎌倉後期に無住が著した仏教説話集『沙石集』
巻三にみえる。三代将軍実朝が上洛をしたが、経費負担が大きいことから人々の意見を聴く評定が
開かれた。・・・」、本書169~170頁に「・・・次に、鎌倉後期に無住が著した『沙石集』の実朝評
である。実朝が八田知家の諫言を容れて莫大な費用のかかる上洛を中止したという、第一章第二節
でも触れた説話の最後に、/・・・」とあるけど、当該説話を見ても「経費負担が大きいことから」
「莫大な費用のかかる」を示す記述は無いが、『吾妻鏡』の真似して曲筆・潤色・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
本題に戻ると、先の引用にもあるように「重視すべきは『吾妻鏡』編纂の意図・目的である」とし、
「藤本頼人氏、森幸夫氏、小林直樹氏、薮本勝治氏らの研究により、『吾妻鏡』編纂者の意図や曲筆
の方法が明らかにされた。」(本書108頁)とするにもかかわらず、その「『吾妻鏡』の記事を相対化
する」ために用いられる歴史物語や説話集の「編纂者の意図や曲筆」は問題視してない感じ(@_@;)
更に「二代頼家、三代実朝に関する新たな研究は、この手法によって推進されているといっていい」
となると、坂井孝一に限らず、最近の歴史研究者は皆こんな安直な「手法」なのかよヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
さて、本書を読んで一番気になったのは、「はじめに」にも「本書もこうした研究に学びつつ考察を
進める」とあるが、本書は、先行研究の成果に依存してソレらを教科書的に紹介してるだけなのか、
先行研究にインスパイアされるも坂井孝一オリジナルの新説を展開したものなのか判らぬ点(@_@;)
他の研究者が先にパブリッシュした新説を、あたかも自己の創見かの如く記すことはパクリなので、
自他の説を明確に区別するのは研究者のマナーであり、モラルであることは言うまでもない(@_@;)
先行研究の引用・言及方法の一例として、昨日取り上げた福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』
(中公新書,2020)から156頁と233頁を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・近年、天正八年と推定されるようになった五月十二日付で厳島社人棚守房顕
宛の安国寺恵瓊書状(巻子本『厳島文書』)によれば、織田権力側が積極的に毛利氏と
交渉していた形跡が見られる(山本裕樹「織田・毛利戦争の地域的展開と政治動向」)。
・・・
・・・/これに対し、地元の長岡京研究者である中山修一氏は後者の説を採る。・・・
こーゆー先行研究の引用・言及が本書の個々の具体的な論点では見当たらないが、もしかして本書に
記されている新説は全て坂井孝一が最初に提唱したものだというのか∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
『増鏡』にも引かれていた源実朝の有名な和歌(前出)についての本書の解釈を取り上げる(@_@;)
和田合戦で「洛中では様々な流言飛語が飛び交い、鎌倉に下向しようとする在京武士たちを京中警護
のために後鳥羽が留まらせる、といった騒然たる状況にな」(本書197頁)った上に、「船で西海に
落ち延びた和田方の残党が京都に侵入して騒擾を起こせば、院や天皇にまで危害が及びかねない。」
(本書197頁)ために、「後鳥羽との間で築いてきた良好な関係が、一時的に微妙なものになった」
(本書197頁)として、本書197~199頁では次のような解釈を新説の如く提唱している(@_@;)
・・・[京都から]帰参した使者は、後鳥羽の書状を携えていたと思われる。実朝は
それに返信する形で、後鳥羽に「ふた心」はないと、ただちに忠誠を誓わなくては
ならなくなった。/折しも、使者が鎌倉に下着した前日の五月二十一日、鎌倉を
大地震が襲った。『吾妻鏡』同日条は「音ありて、舎屋破れ壊れ、山崩れ地裂く。
この境において近代かくの如き大動なし」と記す。大きな音がして、家が破壊され、
山は崩れ、地が裂けた。この辺りでは近年にない大きな揺れであったという。この
信じ難い光景を目の当たりにした実朝は必死の思いで次の和歌を詠み、後鳥羽に忠誠
を誓う返信に書き添えたのではなかったか。
山は裂け 海は浅[あ]せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
家集『金槐和歌集』の巻軸六六三歌、「太上天皇の御書を下し預りし時」に詠んだ
という三首中の最後の歌である。山が裂け、海が干あがってしまう世であっても、
君(後鳥羽)に背く心はありませんとの意である。三句「世なりとも」は、「たとえ
将来そのような世になろうとも」ではなく、大地震で山が崩れ、地が裂けた建暦三年
(一二一三、十二月に建保と改元)五月の「世であっても」と解釈すべきである。
「太上天皇の御書を下し預りし時」という詞書、歌語として異例な「ふた心」という
語から、大地震の直後、和田合戦の騒然たる状況下で詠まれた歌と考える。/・・・/
なお、「山が裂け」詠を含む巻末三首は、建暦三年後半、実朝が『金槐和歌集』を
自撰・編集した際に追加されたものと考える。歌語・声調・内容が、この三首だけ
際立って異なっているのもそう考えれば説明がつく。逆にいえば、どうしても追加
せずにはいられなかったほど必死な思いのこもった、実朝にとって忘れ難い三首だった
ということである。/
「山は裂け」という初句が実際に鎌倉を襲った大地震の実体験を踏まえたものとする本書の解釈は、
坂井孝一『源実朝 「東国王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ,2014)197~199頁においても
詳論されてるのは確認(@_@;) 同書の巻末の「史料・参考文献」にも挙げられている(同書268頁)
三木麻子『コレクション日本歌人選051 源実朝』(笠間書院,2012)97頁には次の件がv( ̄∇ ̄)ニヤッ
・・・/そしてこの「山は裂け」の歌である。あり得ないものの喩えであるが、
実朝は和田合戦でそれに近いものを経験した。さらに、その直後に鎌倉を襲った
大地震で現実に「山が裂ける」のを見た。たとえそうなったとしても、院に対する
忠誠は変わりませんと強く訴えたのである。・・・
大地震の実体験を踏まえて詠んだとする解釈を最初に唱えたのが三木麻子の同書かどうかは不明も、
坂井孝一の創見でないことはたしか( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ ところが、坂井孝一は本書でも『源実朝 「東国
王権」を夢見た将軍』の当該件でも、この三木麻子の指摘を引用も言及もしてないねC= (-。- ) フゥー
・坂井孝一の本書の和歌に関する記述には顔を顰めてしまったぞ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃ!?
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-15
・源実朝の辞世とされる和歌の論評を見ると坂井孝一は和歌の読解力に難ありオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-23
OPACで予約して借りた本、どれもマジつまらんのだが、ブラウジングして借りられぬ図書館(-ω-、)
【読んだ本】
坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書,2021)
読了(^o^)丿 従来の理解や通説が次々覆されててメチャ勉強になる本書だけど、それらが先行研究に
よる知見をなぞっただけなのか坂井孝一自身による創見なのかが判らない等の気になる点も(@_@;)
はじめに
主題と構成/『吾妻鏡』という史料/
第一章 源氏将軍の誕生
第一節 唯一の武家の棟梁へ
流人の挙兵/完全なる天下落居に向けて/『吾妻鏡』の奥州合戦記事/奥州入り/
阿津賀志山の激闘/勲功の審理/泰衡捜索の進撃/平泉制圧/泰衡の首/
「源氏将軍観」の起点/秩序の回復と天下落居の達成/
第二節 征夷大将軍任官へ
戦勝報告と永福寺建立/頼朝上洛/頼朝・兼実の会談/権大納言・右近衛大将/
朝廷の官職と頼朝/征夷大将軍/
第三節 建久年間前半の頼朝政権
戦時体制から平時体制へ/官位挙任権による御家人統制/実朝の誕生と頼家の位置/
〈大切な子〉と〈可愛い子〉/一連の狩猟行事/頼家の初鹿獲り/『吾妻鏡』が描く
「山神・矢口祭」/頼家に対する意図的低評価/曽我事件/「北条時政黒幕説」と
「クーデター説」/建久四年という転換/
第二章 源氏将軍の継承
第一節 将軍継承に向けての動き
二度目の上洛/陳和卿をめぐる頼朝・実朝の対比/もう一つの重要な目的/
後継者頼家のお披露目/その後の朝廷/娘の入内にみる頼朝の構想/
親戚関係による環境作り/鎌倉殿継承にみる頼朝の構想/頼朝急死/
「頼朝将軍記」未完の謎/
第二節 若き鎌倉殿頼家
二代鎌倉殿としての始動/『吾妻鏡』が描く「暗君」頼家/頼家像の再検討1──
宿老十三人の合議制──/頼家像の再検討2──頼家主体の諸施策──/
宿老の十三人/
第三節 二代将軍頼家の悲劇
梶原景時の滅亡/比企と北条/頼朝の後家、源家家長の政子/頼家の親裁/
二代将軍の狩猟行事/阿野全成誅殺/比企の乱/頼家・一幡・忠常の最期/
頼家・比企滅亡の歴史像/
第三章 源氏将軍の確立
第一節 将軍擁立
従五位下・征夷大将軍就任/北条時政の権力掌握/将軍実朝の御台所選定/
畠山氏の滅亡/牧氏事件/平賀朝雅の誅殺/実朝・政子・義時の新体制/
第二節 将軍親裁
実朝の成長/将軍としての活動/将軍家政所の開設/将軍親裁の諸政策/
試行錯誤の幕政運営/為政者としての実朝評/実朝と義時/政子の立場と力/
第四章 源氏将軍の試練と成長
第一節 和田合戦という試練
和田義盛の上総介挙任問題/泉親平の乱から和田合戦へ/和田合戦の史料/
和田合戦勃発/猛威を振るう朝比奈義秀/激闘決着/
『吾妻鏡』のプロットにない現実の戦闘/和田合戦の持つ意味/後鳥羽への対応/
第二節 建保年間の幕府政治
安定した幕政運営/朝廷対策と御家人統制/建保三年にみえる変化/
政所別当九人制/将軍親裁の権威増大/実朝の官位上昇/義時・広元の諫言記事/
『吾妻鏡』の記事にみえる不審点/御家人たちの官位叙任/改変・粉飾された記事/
第三節 さらなる試練
謎の渡宋計画?/唐船建造の狙い/近臣葛山景倫の派遣/日宋貿易と実朝/
唐船の建造成功と進水失敗/先見性ゆえの失政/
第五章 源氏将軍断絶
第一節 後継将軍問題
後継将軍不在という異常事態/御台所坊門信子と実朝/後継将軍に対する実朝の意識/
御家人たちの意識/親王将軍推戴という構想/
第二節 後鳥羽・実朝・北条氏
極秘プロジェクト始動/朝幕交渉/三者三様のヴィジョンと「権門体制」/
後鳥羽のヴィジョン/実朝のヴィジョン/北条氏のヴィジョン/
左大将拝賀の儀と直衣始/想像を絶する高い地位、右大臣/「源氏将軍断絶」/
第三節 源実朝暗殺事件
二代将軍頼家の遺児公暁/公暁の動向/公暁の犯行動機/『愚管抄』にみる事件当日/
『吾妻鏡』にみる事件当日/『吾妻鏡』が記す不可思議な異変/
事件の検証1──なぜ公暁は人々の眼前で犯行に及んだのか?/
事件の検証2──なぜ公暁一味は仲章を義時と間違えて殺したのか?/
黒幕の詮索1──「北条義時黒幕説」/黒幕の詮索2──「三浦義村黒幕説」/
終章 源氏将軍のその後
実朝横死の衝撃/次期将軍の予定者三寅/承久の乱という転換点/
源氏改姓問題と源氏将軍断絶/
おわりに
関係略年表
主要参考文献
二代将軍の源頼家は困ったチャン、三代将軍の源実朝は北条氏の傀儡とされてきたが、そんな人物像
・評価は近年の研究によって修正されていること、晩年の源頼朝は「ついに中央貴族の末裔としての
意識をぬけ出すことのできなかった」(石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』[中公文庫,1974])として
頼朝の限界とされてきたその政治構想の再検討、実朝暗殺後に足利・大内・武田その他の源氏一門が
将軍になれなかったのは何故かとして頼朝の血を引く者が将軍になるという「源氏将軍観」の存在、
実朝の時代の朝廷と幕府の関係などなど・・・メチャ勉強になった(⌒~⌒) やはり、こーゆー従来の
理解や通説を覆す本は読んでて面白いね(⌒~⌒) 例えば、二代将軍頼家の時代に「・・・『吾妻鏡』
をもとに、若くて経験が浅く性格的にも問題のある頼家は宿老と対立し、失敗を繰り返した・・・」
(本書108頁)として、頼家が訴訟を裁断するのを停止、大江広元、三浦義澄、和田義盛、比企能員、
梶原景時、北条時政ら13人の元老・御家人代表たちが合議で裁判をすることになった、と従来はされ
ていたけど、本書109~110頁には次の指摘( ̄◇ ̄;)
・・・他にも十三人の誰かしらが奉行や取次ぎをしている例は多数みられる。
一方、十三人が一堂に会して合議したという史料は一件もない。とすれば、
研究史上「十三人の合議制」と呼ばれてきたが、その実態は頼家の親裁権を
禁止した上での有力御家人の合議ではなく、訴訟案件の取次ぎを十三人に
限定するという訴訟制度の整備と捉えるべきであろう。/
このように『吾妻鏡』に依拠してきた従来の歴史研究を次々覆していくわけで、本書の「はじめに」
の「『吾妻鏡』という史料」で次のように纏められている(本書5~6頁)(⌒~⌒)
・・・『吾妻鏡』は頼朝の挙兵から百二十年後、実朝の暗殺からでも八十年後、
十三世紀末から十四世紀初頭にかけてという、北条得宗家(北条氏の嫡流)の専制期に
幕府関係者が作成した編纂物である。当然、その時代の政治状況を色濃く反映している。
北条氏の人々、とくに三代執権泰時をことさらに顕彰するなど、様々な潤色・曲筆が
加えられていることはつとに指摘されている。そこに史料としての限界があることは
明らかである。それゆえ『吾妻鏡』の記事を無批判に受け入れるのではなく、各種の
文書、貴族の日記、寺社の記録、系図、軍記物語などの文学作品、慈円の『愚管抄』
のような著作物、鎌倉中期以降に成立した説話集などにも目を配り、『吾妻鏡』の記事
を相対化する必要がある。先に述べた二代頼家、三代実朝に関する新たな研究は、
この手法によって推進されているといっていい。/本書もこうした研究に学びつつ
考察を進める。その際、重視すべきは『吾妻鏡』編纂の意図・目的である。近年の
『吾妻鏡』研究を牽引する薮本勝治氏によれば、『吾妻鏡』の編纂は一二九〇年代後半の
九代執権北条貞時による「徳政」の一環であり、「歴史を語り直す」ことによって、
北条得宗家こそ幕府の創業者たる「頼朝の政道」を「継承」する「正当性」を有する、
と主張することであったという。『吾妻鏡』が泰時を顕彰するのは、泰時を頼朝の
正統な後継者と位置づけるためであり、二代頼家を蹴鞠に没頭した「暗君」として描き、
また三代実朝を和歌・蹴鞠に耽溺し、遂には暗殺の憂き目にあったかのように描くのも、
頼家・実朝が頼朝の政道から外れ、継承できなかったことを示すためであったという
のである。/一方、頼朝については、得宗家が継承すべき政道を実現した偉大な創業者
と位置づける。・・・
『吾妻鏡』は北条氏顕彰・擁護のため曲筆・潤色を行なっていたとして、その記述を厳しく吟味し、
当時の文書等を参考にして『吾妻鏡』の記事を絶対視しないというのだが、「・・・鎌倉中期以降に
成立した説話集など」を無批判に利用しているところが気になる(@_@;) 「為政者としての実朝評」
という見出しで、「ここで、同時代や鎌倉後期・南北朝期の人々が、実朝を為政者としてどのように
評価していたのか確認しておきたい。」(本書169頁)として、本書171~172頁に次の記述が(@_@;)
・・・/最後に、南北朝期成立の『増鏡』における右大臣実朝評をみてみたい。
この大臣は、大かた、心ばへうるはしくて、剛くもやさしくも、
よろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、もののふの靡き従ふさまも
代々に越えたり。
心が豊かで気高く、武勇の面でも優雅な面でも申し分なかったので、武士たちが
靡[なび]き従う様子は頼朝や頼家など代々の父祖を超えたと激賞している。
こうした評言が同時代、鎌倉・南北朝期に厳然と存在したことは軽んじるべき
ではない。/
井上宗雄(全訳注)『増鏡(上)』(講談社学術文庫,1979)を披いたら、上記の引用部分に続いて、
・・・いかなる時にかありけん、
山はさけ海はあせなん世なりとも君にふた心わがあらめやも
とぞ詠みける。/・・・
とあり、「山はさけ、海は水が涸れてしまうような世になっても、君[=後鳥羽院]に対して異心を
持つようなことがありましょうか、けっしてありますまい。」(井上・前掲書の現代語訳)という歌
を詠むぐらいだから、南北朝期に公家方の立場で書かれた歴史物語である『増鏡』が実朝を高く評価
するのは当たり前(^_^;) 「赤旗」を引いて日本共産党は市民からの評価が高いとするが如し(^_^;)
同じく「為政者としての実朝評」として、本書170頁は次のような例まで挙げていたぞ( ̄◇ ̄;)エッ!?
・・・/『沙石集』はまた、実朝が詠んだと伝えられる「鳴子をば おのが羽風に
まかせつつ 心と騒ぐ 村雀かな」という歌に法華経や『宗鏡録[すぎょうろく]』
の思想を読み取り、「この歌は深き心の侍るにや」との評価を与える。実朝の詠歌
ではなく伝承歌であるが、逆にいえば、無住をはじめ鎌倉期の人々が、実朝を仏法に
深く帰依した信仰の人と理解していたことになろう。/・・・
小島孝之(校注・訳)『新編日本古典文学集52 沙石集』(小学館,2001)の当該説話の頭注欄では、
こうした仏教的解釈は我田引水のようにも見えるが、僧侶歌人たちの和歌の理解は
こういうものだったのかもしれない。無住だけが強引な解釈をしているわけではない。
と読者に注意を促しているんだけど(^_^;) 「我田引水」「強引な解釈」を一般化されてもねぇ(^_^;)
ついでに書いておくけど、本書45頁に「・・・類話が鎌倉後期に無住が著した仏教説話集『沙石集』
巻三にみえる。三代将軍実朝が上洛をしたが、経費負担が大きいことから人々の意見を聴く評定が
開かれた。・・・」、本書169~170頁に「・・・次に、鎌倉後期に無住が著した『沙石集』の実朝評
である。実朝が八田知家の諫言を容れて莫大な費用のかかる上洛を中止したという、第一章第二節
でも触れた説話の最後に、/・・・」とあるけど、当該説話を見ても「経費負担が大きいことから」
「莫大な費用のかかる」を示す記述は無いが、『吾妻鏡』の真似して曲筆・潤色・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
本題に戻ると、先の引用にもあるように「重視すべきは『吾妻鏡』編纂の意図・目的である」とし、
「藤本頼人氏、森幸夫氏、小林直樹氏、薮本勝治氏らの研究により、『吾妻鏡』編纂者の意図や曲筆
の方法が明らかにされた。」(本書108頁)とするにもかかわらず、その「『吾妻鏡』の記事を相対化
する」ために用いられる歴史物語や説話集の「編纂者の意図や曲筆」は問題視してない感じ(@_@;)
更に「二代頼家、三代実朝に関する新たな研究は、この手法によって推進されているといっていい」
となると、坂井孝一に限らず、最近の歴史研究者は皆こんな安直な「手法」なのかよヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
さて、本書を読んで一番気になったのは、「はじめに」にも「本書もこうした研究に学びつつ考察を
進める」とあるが、本書は、先行研究の成果に依存してソレらを教科書的に紹介してるだけなのか、
先行研究にインスパイアされるも坂井孝一オリジナルの新説を展開したものなのか判らぬ点(@_@;)
他の研究者が先にパブリッシュした新説を、あたかも自己の創見かの如く記すことはパクリなので、
自他の説を明確に区別するのは研究者のマナーであり、モラルであることは言うまでもない(@_@;)
先行研究の引用・言及方法の一例として、昨日取り上げた福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』
(中公新書,2020)から156頁と233頁を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・・・近年、天正八年と推定されるようになった五月十二日付で厳島社人棚守房顕
宛の安国寺恵瓊書状(巻子本『厳島文書』)によれば、織田権力側が積極的に毛利氏と
交渉していた形跡が見られる(山本裕樹「織田・毛利戦争の地域的展開と政治動向」)。
・・・
・・・/これに対し、地元の長岡京研究者である中山修一氏は後者の説を採る。・・・
こーゆー先行研究の引用・言及が本書の個々の具体的な論点では見当たらないが、もしかして本書に
記されている新説は全て坂井孝一が最初に提唱したものだというのか∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
『増鏡』にも引かれていた源実朝の有名な和歌(前出)についての本書の解釈を取り上げる(@_@;)
和田合戦で「洛中では様々な流言飛語が飛び交い、鎌倉に下向しようとする在京武士たちを京中警護
のために後鳥羽が留まらせる、といった騒然たる状況にな」(本書197頁)った上に、「船で西海に
落ち延びた和田方の残党が京都に侵入して騒擾を起こせば、院や天皇にまで危害が及びかねない。」
(本書197頁)ために、「後鳥羽との間で築いてきた良好な関係が、一時的に微妙なものになった」
(本書197頁)として、本書197~199頁では次のような解釈を新説の如く提唱している(@_@;)
・・・[京都から]帰参した使者は、後鳥羽の書状を携えていたと思われる。実朝は
それに返信する形で、後鳥羽に「ふた心」はないと、ただちに忠誠を誓わなくては
ならなくなった。/折しも、使者が鎌倉に下着した前日の五月二十一日、鎌倉を
大地震が襲った。『吾妻鏡』同日条は「音ありて、舎屋破れ壊れ、山崩れ地裂く。
この境において近代かくの如き大動なし」と記す。大きな音がして、家が破壊され、
山は崩れ、地が裂けた。この辺りでは近年にない大きな揺れであったという。この
信じ難い光景を目の当たりにした実朝は必死の思いで次の和歌を詠み、後鳥羽に忠誠
を誓う返信に書き添えたのではなかったか。
山は裂け 海は浅[あ]せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
家集『金槐和歌集』の巻軸六六三歌、「太上天皇の御書を下し預りし時」に詠んだ
という三首中の最後の歌である。山が裂け、海が干あがってしまう世であっても、
君(後鳥羽)に背く心はありませんとの意である。三句「世なりとも」は、「たとえ
将来そのような世になろうとも」ではなく、大地震で山が崩れ、地が裂けた建暦三年
(一二一三、十二月に建保と改元)五月の「世であっても」と解釈すべきである。
「太上天皇の御書を下し預りし時」という詞書、歌語として異例な「ふた心」という
語から、大地震の直後、和田合戦の騒然たる状況下で詠まれた歌と考える。/・・・/
なお、「山が裂け」詠を含む巻末三首は、建暦三年後半、実朝が『金槐和歌集』を
自撰・編集した際に追加されたものと考える。歌語・声調・内容が、この三首だけ
際立って異なっているのもそう考えれば説明がつく。逆にいえば、どうしても追加
せずにはいられなかったほど必死な思いのこもった、実朝にとって忘れ難い三首だった
ということである。/
「山は裂け」という初句が実際に鎌倉を襲った大地震の実体験を踏まえたものとする本書の解釈は、
坂井孝一『源実朝 「東国王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ,2014)197~199頁においても
詳論されてるのは確認(@_@;) 同書の巻末の「史料・参考文献」にも挙げられている(同書268頁)
三木麻子『コレクション日本歌人選051 源実朝』(笠間書院,2012)97頁には次の件がv( ̄∇ ̄)ニヤッ
・・・/そしてこの「山は裂け」の歌である。あり得ないものの喩えであるが、
実朝は和田合戦でそれに近いものを経験した。さらに、その直後に鎌倉を襲った
大地震で現実に「山が裂ける」のを見た。たとえそうなったとしても、院に対する
忠誠は変わりませんと強く訴えたのである。・・・
大地震の実体験を踏まえて詠んだとする解釈を最初に唱えたのが三木麻子の同書かどうかは不明も、
坂井孝一の創見でないことはたしか( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ ところが、坂井孝一は本書でも『源実朝 「東国
王権」を夢見た将軍』の当該件でも、この三木麻子の指摘を引用も言及もしてないねC= (-。- ) フゥー
・坂井孝一の本書の和歌に関する記述には顔を顰めてしまったぞ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃ!?
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-15
・源実朝の辞世とされる和歌の論評を見ると坂井孝一は和歌の読解力に難ありオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-23
「新たな研究」とあるけど、多分、複数の書物から導かれる
「新たな解釈」が正解なのかも。小池都知事を高く評価する
歴史書とか後の世に出てくるのかな?
by tai-yama (2021-04-28 22:50)
先行研究を引用することで新しい研究がされていたりすると、そのうちどこかしらで類似するようなこともありますよね…(^^;
by ナベちはる (2021-04-29 01:37)
middrinnさんおはようございます
坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』
の本、大変興味深い内容なので、機会があったら読んでみたいです。
実朝と政子のお墓に、夕暮れ時(小学生の頃)訪れたこともあって、将軍、頼朝の血が何故三代で途絶えてしまったのかは、私にとって、とても知りたい内容です。
by ネオ・アッキー (2021-04-29 05:08)
『吾妻鏡』は曲筆・潤色があるからとポイして、頼家・実朝に関連する他の
史料に飛び付いた結果の「新たな研究」かと(^_^;) それに、従来の研究と
同様に、その歴史物語や説話集の記事を「無批判に受け入れる」だけなので、
ソレらを再検討して出された「新たな解釈」ではない、と小生は愚考(^_^;)
by middrinn (2021-04-29 09:07)
先行研究をなぞっただけだと内容は全く同じですし、先行研究を発展させてたとしても、
ナベちはる様、視座・方向性が同じなので、たしかに先行研究と類似しますね(^_^;)
by middrinn (2021-04-29 09:08)
本書が広く読まれることは、
ネオ・アッキー様、研究者
のモラル・ハザードを助長
するようなものかと(-ω-、)
by middrinn (2021-04-29 09:10)
長編でした(^_^;) 市民からの評価を更に高めるために、日本共産糖は中国共産糖指導部の外交政策をもっと声高に批判すべきかと(^_^)v ついでに監視社会は作りません!...とも(^_^;)
by yokomi (2021-04-30 22:38)
ミヤケンの頃から「自主独立路線」で一線を画してますよ(^_^;)
by middrinn (2021-05-01 07:23)