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220711読んだ本

売れっ子漫画家と同姓同名の候補者が某選挙区に( ̄◇ ̄;)エッ!? その県庁所在地は常に作品の舞台と
なるので、その漫画家との結びつきは強いし、時折スピリチュアル系めいたことをエッセイ等に書く
ので、その所属政党にも違和感は無かった(@_@;) 朝日新聞の「参院選 序盤の情勢」を読んでて、
その名前を見付けた時には吃驚して慌ててネットで調べてしまったけど、どうやら別人っほい(^_^;)

【読んだ本】

田中大喜『対決の東国史3 足利氏と新田氏』(吉川弘文館,2021)

「プロローグ 足利氏と新田氏の格差」「一 格差のはじまり」「二 広がる格差」「三 連携から
対決へ」に続いて、「四 足利氏の時代へ」「エピローグ 対決の果てに」を読んで本書読了(^o^)丿

    四 足利氏の時代へ

     新田氏の苦闘

      「北陸王朝」構想/「北陸王朝」と尊氏/義貞と顕家/講和交渉の打ち切り/
      常陸合戦と義興[義貞の次子]/尊氏と直義の抗争/義興と義宗[義興の弟]
      の挙兵/[義興・義宗と]尊氏との決戦[=武蔵野合戦]/

     足利本宗家の源氏嫡流化への道のり

      はじめの一歩/尊氏の頼朝再来演出・その一[尊氏の発給文書]/
      尊氏の頼朝再来演出・その二[尊氏の宗教活動(西山美香、生駒哲郎、山家浩樹)]
      /尊氏の頼朝再来演出・その三[頼朝にまつわる歴史の創出]/
      頼朝権威の高揚と足利氏/足利本宗家の源氏嫡流化/『太平記』と新田本宗家/

     決着のとき

      鎌倉府の確立[尊氏によって再構築された東国の統治体制=薩埵山体制(峰岸純夫)]
      /義興と義宗の死/不屈の新田本宗家[←東国諸勢力と奉公衆(鎌倉公方直属の武士)
      の軋轢・矛盾が新田本宗家の存続(抵抗活動)を許した]/対決の終焉[応永23年=
      1416年の上杉禅秀の乱で新田本宗家は鎌倉公方への対抗馬として擁立されず=鎌倉府
      (足利氏)に不満を持つ者たちの受け皿となりえなくなり、存在意義は失われ、新田
      本宗家は15世紀に入る頃に既に滅亡]/

    エピローグ 対決の果てに

     岩松氏と新田姓/新田氏継承の政治的思惑/「管理」される新田氏/

    参考文献

    略年表

九州から東上し湊川で楠木正成を敗死させて再入京した足利尊氏は比叡山に逃れた後醍醐天皇に講和
を呼び掛け、それに応じて帰京した「後醍醐と決別した」新田義貞は恒良親王を奉じて越前国で抗戦
を続け、本書157頁は〈・・・少なくとも恒良自身とそれを支える義貞は、恒良の即位を認めていたの
は確実といえる。義貞は、自身の認識として確かに「天皇」を擁立していたのであり、義貞が越前国
に構想した地域的政治権力は、「北陸王朝」とも呼ぶべきものだったといえよう。〉と評する(^_^;)
たしかに、「独自の天皇を擁立して行動を起こしたという点は、持明院統の天皇を擁立した足利尊氏
と何ら変わるところがない。」(本書158頁)のだから、前章での指摘通り、もはや「忠臣」ではない
わな(本書150頁)(^_^;) で、足利方によって越前国の金ヶ崎城が落城し恒良親王(天皇?)が捕ら
われると、恒良の代わりに(小生は知らなかった人物だが)越後国で足利方を追討していた「式部卿
親王の子息の明光宮[めいこうのみや]なる人物」(本書163~164頁)を擁立して地域的政治権力の
再建を図るかと思いきや、陸奥国から再上洛してきた北畠顕家軍との合流を考えていたらしいけど、
本書165頁(^_^;)

    ・・・義貞は顕家との合流を考えていたとみられるが、義貞は後醍醐と決別していた
    ことを踏まえると、それは後醍醐の意図する京の奪還のためではないだろう。顕家は
    後醍醐の皇子の義良親王を奉じていたことに着目すると、義貞の合流目的は、顕家と
    ともに義良を擁立して越前国に地域的政治権力を再建することにあったと考えられる。
    義貞が明光宮を擁立しなかったのは、顕家との合流に考えを改めたためかもしれない。
    いずれにせよ、顕家と合流して越前国を制圧してしまえば、京の奪還は義貞にとって
    容易と認識されたはずである。しかし、顕家は義貞との合流を拒否した。『太平記』は
    その理由を、顕家が自分の軍功を義貞に持っていかれるのを嫌ったためと伝えている。
    しかし、顕家の上洛は後醍醐の要請に応じたものだったことを踏まえるなら、顕家が
    後醍醐と決別していた義貞と合流することは、そもそもありえなかっただろう。/・・・

ナルホド( ̄◇ ̄;) 美濃国の青野原の戦いで足利方を撃破した顕家の奥州軍が伊勢路に転進したのは、
レイテ沖海戦での栗田艦隊の謎の転進に匹敵・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 冗談はさておき、少なくとも北陸路
という選択肢は最初から無かったんだな(^_^;) なお、気になるのは、義貞の「北陸王朝」の可能性に
関する本書の評価で、本書156頁では「こうした義貞の政治構想は、建武政権下で国務の経験を積み、
その実務を担う人材をリクルートして家政機関を整備したことを背景に、実現可能な具体策として
発想されたものであり、決して机上の空論ではなかった。」としながら直後の本書158頁では〈「北陸
王朝」が足利氏に匹敵する政治権力になる可能性は低く、・・・〉としてて、どっちなの?(@_@;)
義貞が戦死し、正平一統後の南朝軍京都進撃直前に鎌倉を占領した義興と義宗は「大王」宗良親王を
迎え入れて関東に宗良を頂点とする地域的政治権力樹立を構想も「ただし、[二人の父]義貞は南朝
(後醍醐)から自立した政治権力を樹立しようとしたが、義興と義宗の軍事行動は南朝(後村上)の
それと連動していたことに着目すると、南朝からの自立までを目指したものではなかっただろう。」
(本書178頁)とあるし、その構想は武蔵野合戦で雲散霧消し、二人は二度と鎌倉の土を踏めず(^_^;)

さて、興味深いのは「足利本宗家の源氏嫡流化への道のり」以下(^^) 「親王将軍」が当たり前だった
14世紀前半の尊氏の将軍任官は「異例の事態」で、その正当性を「源氏将軍観」=「・・・本来将軍
には源氏の嫡流が任官していたという認識・・・」に求めるが(本書181頁)、鎌倉幕府で足利本宗家
は源氏の系譜に連なる御家人家の最上位ではあったが源氏の嫡流とはみなされてなかったので、足利
本宗家は源氏の嫡流で、かつ鎌倉幕府将軍の正統な後継者であることを認めてもらう必要があったと
してる(山家浩樹)(@_@;) 前者は既に鎌倉幕府に叛旗を翻した時点で北条氏の追討の正当性として
源氏嫡流を表明してて、後者は「・・・尊氏とその周囲の人びとが尊氏を[鎌倉幕府創始者]頼朝に
なぞらえ、その再来として演出していくことで具体化された。」(本書183頁)が、「尊氏の頼朝再来
演出・その三」の「・・・頼朝にまつわる歴史の創出・・・」(本書187頁)も、現代政治学の父C.
E.メリアムが(斎藤真&有賀弘訳)『政治権力 ─その構造と技術─ 上』(東京大学出版会UP選書
,1973)で国家権力を心理的に補強する手段である「ミランダ」の一つとして挙げた「物語と歴史」
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-23 )(^^) 頼朝挙兵時に一番忠功を
尽した小山政光の子孫を尊氏は建武2年(1335年)に鎌倉を出陣した際の先陣にしたという『梅松論』
の叙述を紹介して、頼朝の伊豆挙兵に小山政光は参加しておらず史実と異なるが、「・・・尊氏の側
近くに仕えていた『梅松論』の編纂者は、・・・[歴史を創り出し]・・・尊氏が頼朝の再来である
ことを後世にまで伝えようとしたのだろう。」(本書188頁)と指摘しており、非常に興味深い(゚o゚;)
この尊氏=頼朝の再来という演出は、「・・・一三世紀後半に起きた頼朝権威の高揚という事態への
対処のためでもあった。」由(本書188頁)( ̄◇ ̄;) (「二 広がる格差」読了時にメモったけど)
蒙古襲来で御家人社会に源氏将軍観を復活させて、頼朝個人の権威も高揚して、「・・・鎌倉末期の
御家人たちは、頼朝の家人となった先祖によって自らの家が開創されたという歴史認識を持つように
なった。そして興味深いことに、このような歴史認識は足利氏にとって非常に不都合なものとなった
のである。」(本書189頁)とする(@_@;) 現に南朝方が結城氏を口説いた書状には先祖の結城朝光
が足利義兼と違い頼朝の側近御家人に選抜された事績を挙げて結城氏は足利氏などに降るような家柄
に非ずとしており、「・・・鎌倉末期の御家人のなかには頼朝との関係を起点とした家の認識が形成
されていたが、それは足利氏に対抗できる論理としても機能したのだった(田辺旬、二〇一八)。」
(本書189頁)由( ̄◇ ̄;) 「・・・この対抗の論理を従属の論理に摺り替える・・・」(本書189頁)
には尊氏の頼朝再来演出で「・・・頼朝との関係を重視していた御家人たちを尊氏のもとに結集し、
足利氏にしたがわせようとしたと考えられるのである。」(本書190頁)と( ̄◇ ̄;) 興味深いけど、
蒙古襲来に御家人が結束して対処するため文永7年(1270年)に七代将軍惟康王(宗尊親王の嫡子)の
源氏賜姓を実現し源惟康とすることで源氏将軍を復活させるも弘安10年(1287年)に親王宣下を受け
将軍は再び親王将軍に戻ったとし、「したがって、源氏将軍が復活した期間は一七年ほどになるが、
これは決して短い時間ではなく、この間に将軍に対する認識に重大な変化が生じたと考えられる。
すなわち、実朝の横死以降、将軍は源氏将軍ではない状態が長く続いたため、将軍の地位と源氏という
出自との結びつきは希薄化しつつあった。ところが、頼朝になぞらえられた源氏将軍が一〇年以上も
復活したことで、本来将軍には源氏の嫡流が任官していたという認識(「源氏将軍観」)が、御家人
たちのなかによみがえってきたと考えられるのである(川合康、一九九五)。」と本書74~75頁では
指摘しており、もしそうであるなら、「・・・親王ではない尊氏が将軍に任官したことは異例の事態
だったといえるのである。」(本書181頁)という本章での指摘は、チト腑に落ちないのだが(@_@;)
とまれ、数え方が一貫していないことに日本中世史家が気付いてない源義家と足利家時の自筆の置文
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-06-27 )も尊氏の将軍任官を正当化する
ために足利本宗家こそ源氏の嫡流(義家の直系)と位置づけようと「創作」された由(川合康)(^^)
義家の直系とした理由の一つは、頼朝の源氏将軍家が頼義(義家の父)の直系と位置づけられている
ことの相対化にあり、頼義→義家→義国を源氏の嫡流とすることで、義国の兄の義親の家系=頼朝の
源氏将軍家を傍流に位置づけたかった由( ̄◇ ̄;) 更に、足利本宗家を相対化しようとする、一門の
庶子家(斯波・吉良)の指向を統制することも理由の一つ(市沢哲)としてる(^^) この足利本宗家が
源氏の嫡流という認識は14世紀後半には同時代の人々に広く共有され(本郷和人、山家浩樹)、また
足利本宗家は持明院統天皇家との関係の独占も図り(市沢哲、石原比伊呂)、源氏の嫡流で、加えて
持明院統天皇家という権威の独占利用により、一門の庶子家や他門の有力武家からも隔絶した地位を
築いた由( ̄◇ ̄;) この足利本宗家を源氏の嫡流化とする一連の工作を見てると、尊氏か直義の側近
には優れた理論家のような人物が存在したのかな(@_@;) 更に興味深いのは、南朝寄りの軍記物語と
されてきたけど、〈・・・『太平記』は少なくとも当初の編纂(修訂)において、室町幕府と密接に
つながる者の関与があったことが知られており、その草創を語る「正史」として編纂・整備されたと
みられているからである(兵藤裕己、一九九五)。/『太平記』には、室町幕府当局(足利本宗家)
の管理下において編纂された「歴史書」としての側面が認められる。・・・〉(本書194頁)そうで、
例の足利本宗家による源氏嫡流工作の一環として、『太平記』は「源家累葉の族[やから]」と尊氏
を紹介する一方で、

    ・・・『太平記』は新田義貞も「源家嫡流の名家」と紹介し、新田本宗家を足利本宗家
    とならぶ源氏嫡流の家柄と位置づけている点である。すなわち、『太平記』の編纂過程
    において室町幕府は、鎌倉幕府体制下の足利本宗家と新田本宗家との格差を隠蔽し、
    新田本宗家の家格を意図的に引き上げるように指示して、これを足利本宗家に匹敵しうる
    「源家嫡流の名家」に仕立て上げたのである。/・・・『太平記』において室町幕府は、
    新田本宗家をもういっぽうの源氏の嫡流と位置づけ、これを打倒するに足る相手と描き、
    その新田本宗家を倒すことによって、足利本宗家が唯一の源氏の嫡流となったことを喧伝
    しようとしたと考えられるまである。/・・・こうした新田本宗家の姿は、足利本宗家
    による源氏嫡流工作の所産(虚構)だったわけだが、これに説得力を与える現実があった
    ことを忘れてはならない。すなわち義貞は後醍醐から鎌倉攻略の軍功に相応する位階と
    所領を与えられた結果、足利本宗家との経済・政治的格差を著しく縮め、尊氏に次ぐ
    武家の有力者に成長した。また、義貞・義興・義宗と尊氏は、それぞれ南朝方と北朝方
    の主将として死闘を演じた。こうした現実が右の『太平記』の虚構に説得力を持たせ、
    後世の人びとは『太平記』に接するなかでこれを「史実」として認識したのである。
    足利本宗家に軍事的に敗北した新田本宗家だったが、『太平記』を通して源氏嫡流
    としての姿(フィクション)は再生産され続けたのである。/

本書195~196頁から引いたけど、この足利本宗家による源氏嫡流工作、ちょっと複雑だねぇ( ̄◇ ̄;)

「エピローグ 対決の果てに」は、その後の「新田」姓についてで、新田氏の庶子家とはいえ「足利
岩松殿」と呼ばれてた岩松直国が観応の擾乱後に鎌倉公方基氏のもとに復帰すると新田姓で呼ばれる
ようになったこと、大島義高も観応の擾乱終結後に尊氏から新田を冠して呼ばれるようになったこと
が紹介され、本書212頁は次のように記している( ̄◇ ̄;)

    ・・・足利氏は新田氏(新田本宗家)をもういっぽうの源氏の嫡流と位置づけたが、
    武蔵野合戦によって足利氏が新田氏を軍事的に打倒したことで、唯一の源氏の嫡流の
    立場を確保したことを周囲に明示するべく、「新田氏」をしたがわせていることを
    具体的に示すことにあったと考えられる。/なお、南北朝期に足利氏から新田姓で
    呼ばれた人びとは、大島氏と岩松氏に限定されており、足利氏はこの二氏に新田氏を
    継承させようとしたとみられる。基本的に大島氏は室町幕府から新田姓で呼ばれたの
    に対し、岩松氏は鎌倉府から呼ばれたことに着目すると、大島氏と岩松氏は室町幕府
    と鎌倉府のそれぞれで新田氏を継承する役割を担ったのかもしれない。/・・・

室町幕府と鎌倉府で意図的・計画的に「新田」姓を活用していて凄い( ̄◇ ̄;) これを立案した人物
は誰なのか知りたい(^_^;) その後、15世紀には岩松満国(直国の子)が岩松姓のみで呼ばれるように
なったのは、足利氏を頂点とする政治体制・秩序が確立し新田氏を従わせていることを誇示する必要
性が無くなったことや、「・・・/しかしそのいっぽうで、新田氏は足利氏によってもういっぽうの
源氏の嫡流という貴種性(権威)を認められたため、ふたたび足利氏に不満を持つ者たちの受け皿と
なりうる可能性を秘めていたと考えられる。・・・岩松氏を新田姓で呼ばなくなったのは、不必要に
新田氏を存続させることで、反足利勢力の受け皿をよみがえらせることを忌避したからだとも考えら
れよう。/・・・」(本書213頁)と指摘(^_^;) とはいえ、永享12年(1440年)の結城合戦では岩松
長純(家純)が幕府から新田姓で呼ばれ、享徳の乱で岩松持国(長純の従兄弟)も新田姓で呼ばれる
など、幕府は「必要に応じて」新田姓を「復活」させ、もはや足利氏に「管理」される存在となった
新田氏(^_^;) 室町幕府滅亡で足利氏の「管理」から解放も、吉良氏から義国流清和源氏の系図を譲り
受け、新田義重の子の義季を徳川氏の初代とする系図を作成した家康が新たな新田氏の「管理」者と
なって、将軍任官と同時に新田氏が足利氏に代わって源氏の嫡流となった、と本書は〆ている(^_^;)

長年の謎は解けたし、教わることが多い本書(^^) 先行研究に基づいて知的興趣に満ちた解釈を示し、
インスパイアされたけど、気になる点も(^_^;) でも、今日は超疲れてて書く元気ナシオン主権(+_+)

・田中大喜『対決の東国史3 足利氏と新田氏』(吉川弘文館,2021)

「プロローグ 足利氏と新田氏の格差」「一 格差のはじまり」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-01

「二 広がる格差」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-24

「三 連携から対決へ」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-06-07

・植田真平『対決の東国史4 鎌倉公方と関東管領』(吉川弘文館,2022)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-27
タグ:歴史 列伝
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

何だかんだ言っても、新田義貞公は正一位と。足利尊氏は、
安倍首相(贈られるらしい)と同じ従一位。
贈られた位階としては義貞が一応上っ!
by tai-yama (2022-07-11 23:57) 

ナベちはる

自身の作品が2度テレビアニメ化した漫画家が今回の選挙で立候補して当選した…という報道は聞きましたが、その方の名前と併せてGoogle検索しても引っかからなかったので、その方ではないようでした(- -;)
by ナベちはる (2022-07-12 00:52) 

middrinn

名和長年なんかでも贈従一位ですから、
tai-yama様、南北朝正閏問題以降は、
位階の高さは意味が無いかと(^_^;)
by middrinn (2022-07-12 06:53) 

middrinn

赤松健は当選してましたけど、著名人と同姓同名だと、
ナベちはる様、チト戸惑ってしまいますよね(^_^;)
by middrinn (2022-07-12 07:24) 

df233285

>小山政光の子孫を尊氏は建武2年(1335年)に鎌倉を
>出陣した際の先陣にしたという『梅松論』・・・
ん。小山秀朝は。中先代の乱で府中で死んだはずだよお富さん。
by df233285 (2022-07-12 08:07) 

middrinn

ネットからの引用となりますが、『梅松論』の当該件には、
「・・・先達て諸軍勢をば向けられしかど御遠慮ありけん、
小山・結城・長沼が一族をば惜しみ止めらる。この輩は
治承のいにしへ頼朝義兵のとき、最前に馳せ参じて忠節を
致したりし小山下野大掾藤原政光入道の子供の連枝の人の
子孫なり。曩祖(だうそ)(=先祖)武蔵守兼鎮守府将軍
秀郷朝臣(=藤原秀郷)、承平に朝敵平将門を討ち取りて
子々孫々鎮守府将軍の職を蒙りし五代の将軍の後胤なり。
累代武略の誉を残し、弓馬の家の達者なり。その勢二千余
騎仰せを蒙りて将軍の先陳として建武二年(1334)十二月
八日鎌倉を御立ありければ、・・・」とありまして、名前は
不明ですけど、秀朝の兄弟か子ではないでしょうか(^_^;)
by middrinn (2022-07-12 09:30) 

yokomi

家康がそんな家系図を作っていたとは知りませんでした。4000年の歴史を持つ国でも歴史を創り出す事があるようで真実はどこに有るのやら...(>_<)
by yokomi (2022-07-16 11:43) 

middrinn

新田一族の得川[えがわ、とくがわ]氏に家康が目を付けたことは有名ですよ(^_^;)
by middrinn (2022-07-16 14:45) 

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