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220524読んだ本

備忘録は未来の自分を想定読者として書くわけだが記述の按排が難しい〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
未来の自分さえ解ればいいと思って書くと、得てして未来の自分は読んで理解できなかったり(^_^;)

【読んだ本】

田中大喜『対決の東国史3 足利氏と新田氏』(吉川弘文館,2021)

先日の「プロローグ 足利氏と新田氏の格差」「一 格差のはじまり」に続き、「二 広がる格差」
を読んだ(^^) 今まで理由が分からなかったことの幾つかが説明されててメチャ有意義だった(^o^)丿

    二 広がる格差

     義国流清和源氏の「足利一門」化

      [足利]義氏[足利義兼の子]と[新田]政義[新田義兼の孫、義房の子で、
      義氏の娘と結婚し事実上庇護下に]/政義の失脚[衛門尉(衛門府の第三等官)の
      官職を望むも後見人たる義氏の後援を得られず却下が原因?]/「足利一門」を
      意識する新田本宗家[政義と義氏娘の子の政氏は足利本宗家の通字「氏」を偏諱で、
      新田本宗家(政氏の子の基氏と孫の朝氏[後に朝兼])や本宗家以外の新田氏も
      自発的に「氏」字を名乗る]/「足利一門」意識の[本宗家以外の新田氏へ]普及
      [世良田氏、失脚後の里見氏、政治的地位低下後の山名氏]/義氏の矜持[北条氏
      嫡流の得宗家との徹底した提携関係、宝治合戦で千葉秀胤の遺領の上総国の守護に、
      『徒然草』第216段]/義氏の決断[藤原道家・頼経父子が黒幕のクーデター計画
      =寛元・建長の政変で泰氏[義氏の嫡男]は出家・失脚し、泰氏の長男の家氏も
      名越朝時娘が母ゆえ廃嫡されて異母弟の利氏(頼氏)が足利本宗家の後継者に]/

     高氏・義貞登場前夜

      足利本宗家を支えた兄たち/源氏将軍観の復活/佐介事件[北条時宗死没直後に
      幕府は北条佐介時国誅殺]と家時[父の頼氏の正妻は北条時盛[時国の祖父]娘
      で事件に関与したか時国ら弾圧の最中に自害]/霜月騒動と足利氏[安達泰盛派
      として吉良満氏[長氏の嫡子]の子貞氏と斯波宗家[長氏の嫡子]が討たれる]
      /二月騒動と新田氏[新田氏で唯一幕府中枢に連なり惣領となった世良田頼氏が
      失脚・流罪→足利氏との格差決定的]/[得宗家&足利氏の有力庶子家(吉良氏
      &斯波氏)に相対し]「物狂所労」を患う[足利]貞氏[家時の嫡子]/[新田
      本宗家]朝氏[義貞の父]の改名[上野国の一般御家人新田氏始祖義兼を意識して
      「朝兼」に→「氏」字の使用放棄は「足利一門」意識の相対化への第一歩にも]/

     鎌倉の足利氏、上野の新田氏[→領主としての存在形態も対照的]

      都市領主となった足利氏[幕府中枢に連なる有力御家人として活動の拠点は鎌倉に]
      /[上総・三河の守護の職務と全国の30ヵ所以上の散在所領の経営の拠点は鎌倉の
      本邸に]足利氏の家政機構[統轄したのは執事の高氏]/[上野国の一般御家人
      として]地域権力となった新田氏/[領主としての存在形態も対照的な]足利氏と
      新田氏の被官構成[足利氏は政権運営の実務と幕府制度の運用を担う幕府奉行人
      (法曹官僚)の一族を被官に→「・・・やがて北条氏に代わって幕府の主宰者となる
      知識(統治技術)と人的基盤を築いた・・・」(本書97~98頁)⇔新田氏は上野国
      中央部・東部&武蔵国北部一帯を軍事的テリトリーに収める地域権力にすぎず傘下の
      小規模な武士たちを被官に→「つまり新田氏は、足利氏のように政権運営および幕府
      制度のノウハウを蓄積することができなかったのであり、そのため北条氏に代わって
      幕府の主宰者となるような発想(野心)は持ちえなかったと思われるのである。」
      (本書98~99頁)]/

目次にゴチャゴチャ書き込むよりレジュメ化して読み易くしろよと思うだろうが、とりあえず現在の
小生は充分に解る(^_^;) 源義国(義家の子)の嫡流は足利氏とされるが、ともに義国の子である新田
義重と足利義康のうち義康が最初から嫡子とされていたわけではないことを本書から先日学んだが、
本書61頁にも〈・・・/このように考えると、義国流清和源氏一門が「足利一門」と認識されるよう
になったのは一三世紀半ばのことであり、それは頼朝挙兵後の新田本宗家の逼塞と足利本宗家の躍進
という鎌倉幕府政治史の歴史的所産と捉えられる。〉と記されていたよ〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

足利一門の中で斯波氏や吉良氏の格が高いことは知ってたけど、どうして高いのかが分からなくて、
本書の「足利本宗家を支えた兄たち」の節が説明してくれたヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪ 本書曰く、
頼氏(義氏の孫、泰氏の嫡子)の早世によって家時が足利本宗家を継承もわずか3歳、そこで、家時
の後見人として本宗家当主としての活動を代行したのが、家時の伯父で泰氏の元嫡子だった家氏で、
また義氏の長男で泰氏の異母兄の長氏も同様に後見役を務めたらしく、本書73頁から引く(^o^)丿

    ・・・/長氏も家氏も、それぞれ本宗家当主の兄に当たる。義氏の死後、本宗家は
    若い当主が続いたため、兄の長氏や家氏が後見役を担い、本宗家を支えたのだった。
    長氏や家氏の子孫は、当然のことながら足利家の庶子家となったが、鎌倉期には
    本宗家と同様に「足利」を名字とする自立した御家人だった。やがて長氏の子孫は
    吉良氏となり、家氏の子孫は斯波氏と石橋氏にわかれていくが(・・・)、いずれも
    室町期の武家社会のなかでは将軍家(足利本宗家)に次ぐ高い家格を誇ったことが
    知られている(谷口雄太[「足利氏御一家考」同『中世足利氏の血統と権威』(吉川
    弘文館,2019)所収]、二〇一二[初出])。これは、鎌倉期に本宗家を後見した
    という実績が一因になったものと考えられよう。/・・・

「吉良氏と斯波氏は、本宗家を支えることで足利氏のなかで特別な門地を占めたのである。」(本書
82頁)ということだったんだ( ̄◇ ̄;) 両氏は上記目次に補筆した如く霜月騒動に巻き込まれるも、
霜月騒動の主謀者の平頼綱が北条貞時に討たれると吉良氏も斯波氏も復権した由(本書82頁)(^_^;)

んで、非常に興味深かったのは「源氏将軍観の復活」という節で、本書73~74頁から引く( ̄◇ ̄;)

    ・・・/幕府はモンゴルの国書を黙殺する方針をとると、文永七年[1270年]には
    朝廷に対して、七代将軍惟康王(宗尊親王の嫡子)の源氏賜姓を申請し、これを実現
    させた。ここに惟康王は源惟康となり、承久元年(一二一九)の三代将軍源実朝の横死
    以来、およそ半世紀ぶりに「源氏将軍」が復活した。惟康は、弘安二年(一二七九)に
    正二位に叙され、さらに同十年六月には右近衛大将に任官して源頼朝と同じ官位に
    就いたことを踏まえると、幕府は惟康を頼朝になぞらえようとしたことがうかがえる。
    すなわち、幕府は惟康を頼朝になぞらえてその正統な後継者に位置づけ、これにより
    御家人たちのなかに幕府を創成した頼朝の記憶を呼び起こしてその力を結集し、蒙古襲来
    の危機に対処しようとしたと考えられるのである(細川重男[「右近衛大将源惟康」同
    『鎌倉北条氏の神話と歴史』(日本史史料研究会,2007)所収]、二〇〇二[初出])。
    /・・・

「現代政治学の父」C.E.メリアムの(斎藤真&有賀弘訳)『政治権力 ─その構造と技術─ 上』
(東京大学出版会UP選書,1973)が国家権力を心理的に補強する手段である「ミランダ」として挙げた
「記念日および記憶に残されるべき時代」に該当か(^_^;) 弘安10年(1287年)10月に親王宣下を受け
再び親王将軍になるので源氏将軍が復活した期間は17年ほどだが、「・・・実朝の横死以降、将軍は
源氏将軍ではない状態が長く続いたため、将軍の地位と源氏という出自との結びつきは希薄化しつつ
あった。ところが、頼朝になぞらえられた源氏将軍が一〇年以上も復活したことで、本来将軍には
源氏の嫡流が任官していたという認識(「源氏将軍観」)が、御家人たちのなかによみがえってきた
と考えられるのである(川合康[「武家の天皇観」同『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房,2004)
所収]、一九九五[初出])。」(本書74~75頁)由( ̄◇ ̄;) その結果、頼朝に帰順して御家人に
列した足利本宗家は従来は源氏の嫡流とみなされていなかったのに、家時の代には幕府内で得宗家に
次ぐ家格として認められ源氏の系譜を引く御家人家の最上位だったために、「足利本宗家は、いわば
源氏嫡流にもっとも近い血筋とみなされる状況にあったわけだが、源氏将軍観の復活はこうした足利
本宗家の存在を否が応でもクローズアップさせたのである。」(本書75頁)と(@_@;) (上記目次に
補筆した)佐介事件の最中に家時が自害したのは、源氏将軍観の復活で足利本宗家がクローズアップ
され、「・・・家時は佐介氏の謀叛に担がれたか、あるいはそのように誤解されても仕方のない事態
が起きていたとみられる。」(本書77頁)由ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 「常識をこえた行動」をする足利尊氏の
性格を説明するために足利本宗家は「異常な血統」で家時も「変死者」とされたけど、違うと(^_^;)
ただ、「弘安・・・十年[1287年]六月には右近衛大将に任官して源頼朝と同じ官位に就いたことを
踏まえると、幕府は惟康を頼朝になぞらえようとした」としているけど、4ヶ月後の10月には親王宣下
を受けて源氏将軍じゃなくなったということは、目的を達成して御用済みということなのか(@_@;)
更に、wikiの「源氏将軍」の項には、源氏将軍観が御家人の中に根強かったから源氏将軍(源惟康)
が復活した旨の説明もあるなど、本書の所論とは異なるところが結構あるのも気になるわな(@_@;)

斯波氏&吉良氏の高い家格と源氏将軍観復活がリンクするのが〈「物狂所労」を患う貞氏〉の節で、
足利本宗家の貞氏(家時の嫡子で、尊氏・直義の父)が長年「物狂所労[ものぐるいのしょろう]」
だったのは対得宗家に気を配ったためだけでなく、斯波氏&吉良氏にも神経を使ったからの由(゚o゚;)
んで、足利一門の「嫡流家の立場の明確化」による斯波氏&吉良氏との「差別化」を課題として貞氏
は認識していたとし(本書82頁)、次のように指摘する(本書83~84頁)( ̄◇ ̄;)

    ・・・/そこで注目されるのが、貞氏の嫡子高義[正妻=金沢顕時の娘との間の子]の
    名乗りである。・・・家時という例外は存在するものの、鎌倉期の足利本宗家の当主の
    名乗りは、基本的に得宗の実名の一字と本宗家の通字となった「氏」字とを組み合わせて
    構成された。ところが、高義という名は、得宗北条高時(貞時の嫡子)の「高」字と
    「義」字によって構成されたのである。「氏」字ではなく、あえて「義」字が選択された
    ことには何かしら意味があったはずだが、それは本宗家こそが足利氏の嫡流家である
    という意思表示ではなかったか。/・・・将軍惟康王は源氏賜姓を受けて頼朝になぞらえ
    られたが、これは源氏将軍観の復活とともに頼朝権威の高揚をもたらした(鈴木由美
    [「鎌倉期の『源氏の嫡流』」日本史史料研究会編『将軍・執権・連署』吉川弘文館]、
    二〇一八)。鎌倉末期の御家人たちは、頼朝の家人となった先祖によって自らの家が開創
    されたという歴史認識を持っていたことが指摘されているが(田辺旬[「鎌倉期武士の
    祖先観と南北朝内乱」『鎌倉遺文研究』四二]、二〇一八)、これは頼朝権威の高揚が
    もたらした所産と考えられる。また、鎌倉末期の御家人には、頼朝の家人となった先祖の
    実名の一字を名乗る傾向がみられるようになるというが(市村高男[「鎌倉期成立の
    『結城系図』二本に関する基礎的考察」峰岸純夫&入間田宣夫&白根靖大編『中世武家
    家系図の史料論 上巻』高志書院]、二〇〇七)、これも頼朝権威の高揚にともなう現象
    と理解でき、足利本宗家も同様だったと思われる。すると、貞氏は嫡子の元服にさいし、
    御家人足利氏を開創した足利義兼・義氏父子を意識して「義」字を選び(鎌倉末期の足利
    本宗家は義兼・義氏父子を始祖と認識していた)、「高義」という名を用意したと考え
    られよう。ここには、本宗家こそが御家人足利氏の嫡流家であるという意味合いが込め
    られたはずである。なお、鎌倉末期の吉良氏の当主は貞義(満氏[長氏の嫡子]の子)
    だったが、同じく「義」字を使用していることに着目すると、吉良氏への対抗心の現れ
    としても理解できよう。/・・・

新田本宗家も同様で(目次の「朝氏の改名」に補筆した通り)朝氏(義貞の父)から朝兼への改名も
〈・・・この「兼」字は、おそらく御家人新田氏を開創した新田義兼を意識したものだったと考えら
れるのである。〉と本書84~85頁は指摘( ̄◇ ̄;) 新田氏の惣領の地位は政義の失脚で世良田頼氏に
移るも二月騒動で頼氏が失脚し再び本宗家に戻るが、惣領の地位を一度失ったことで本宗家が嫡流家
であることが自明ではなくなったために、始祖義兼を意識して「朝兼」と改名したとしてる( ̄◇ ̄;)
みどりん家は「緑」が通字で、歴代の名前は、黄緑、青緑、薄緑・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;おそ松くんかよ?

・田中大喜『対決の東国史3 足利氏と新田氏』(吉川弘文館,2021)

「プロローグ 足利氏と新田氏の格差」「一 格差のはじまり」

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-01

・植田真平『対決の東国史4 鎌倉公方と関東管領』(吉川弘文館,2022)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-02-27
タグ:歴史 列伝
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

吉良上野介がここで出て来る吉良氏になりますね。
世が世なら、赤穂浪士は将軍をぶっ殺したと(笑)。
by tai-yama (2022-05-24 23:25) 

ナベちはる

備忘録は自分が書いたはずなのに、未来の自分はそれを見ても分からないとなったらなんのための備忘録だとなってしまいますね(^^;)
そうならないためにも、適当に書かずに書けるだけ詳細に書いた方がいいですね。
by ナベちはる (2022-05-25 01:30) 

middrinn

ただ、たしか、足利尊氏も父の貞氏と同じように「差別化」を推進してて、
tai-yama様、斯波氏や吉良氏が「足利」を名乗るのを禁じたはず(^_^;)
by middrinn (2022-05-25 04:55) 

middrinn

たしかに、備忘録とは忘れることを前提にしてますし、
ナベちはる様、詳細に書かないといけませんね(^_^;)
by middrinn (2022-05-25 05:19) 

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