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210624読んだ本

読書の厄介なところは、学説状況が群雄割拠の戦国時代だったりすることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
通説や定説が君臨する状況の方が学び易くメモも楽(^_^;) それを覆そうとする新説にも萌え(〃'∇'〃)

【読んだ本】

渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』(柏書房,2021)

第10章の渡邊大門「長禄の変」に続いて、第11章の浜口誠至「応仁・文明の乱」を読んだよ(⌒~⌒)

  第11章「応仁・文明の乱」 全国を二分、戦国時代の到来を招いた混沌たる大戦乱 浜口誠至

     「応仁・文明の乱」の時代背景/「上御霊社の戦い」/東軍と西軍に分かれた大名家/
     〝二つの幕府〟の対立/地方に波及、長期化した戦乱/最近の研究に見る「構図」と
     「原因」/さまざまな要素が絡み合う乱の原因/「応仁・文明の乱」の意義/

8代将軍義政の治世は、その前半は「管領を務めた畠山徳本(持国)、細川勝元の二人が幕府政治を
主導した」ので「管領政治」、治世の中期は義政も成長したので「将軍親政」と、百瀬今朝雄『岩波
講座 日本の歴史7』(岩波書店,1976)所収論稿は呼んでる由(本書211頁)_φ( ̄^ ̄ )メモメモ ただ、
父の6代将軍「義教死後、失脚した大名は復権を図ったため、家督や領地をめぐる抗争が頻発した」由
(本書211頁)、政所執事の伊勢貞親の意向が義政の判断を動かす側近政治に対する大名たちの反発に
よって、文正元年(1466年)9月に貞親一派が失脚する「文正の政変」となり、「義政親政も後退し、
再び大名の影響力が強まることになったのである。」(本書211頁)という乱の背景_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

東軍から西軍へと転じた足利義視を将軍格として擁立し、管領・斯波義廉がいて政所執事も任命し、
奉行人や公家も加わって「幕府を模した政治体制を構築した。西軍は西幕府とも呼ばれている(百瀬:
一九七六)。さらに、文明三年(一四七一)八月、西軍は南朝の後村上天皇の末裔にあたる小倉宮家
の皇子を擁立した。将軍・天皇を擁する東軍に対し、西軍は独自の将軍・天皇を擁立することで対抗
したのである。」(本書217~218頁)由、これをもって「東西幕府の対立」とされてるらしいけど、
もはや南北朝時代ならぬ東西朝時代の様相も呈しているなどと評したら過言になるかな(^_^;)

    ・・・/「応仁・文明の乱」の研究は、戦前から通史(田中[義成『足利時代史』]
    :一九七九、初出一九二三。稲垣[泰彦『岩波講座 日本の歴史7』所収論稿]:一九
    六三[ママ])や一般向けの書籍(小川[信『山名宗全と細川勝元』人物往来社→
    吉川弘文館]:一九九四[ママ]、水島[福太郎『応仁の乱』至文堂]:一九六八、
    鈴木[良一『応仁の乱』岩波新書]:一九七三)を中心に積み重ねられてきた。中でも
    百瀬今朝雄氏の研究(百瀬:一九七六)は、伊勢貞親を将軍権力の代表とし、東軍と
    西軍の対立を東西幕府の対立と位置付けるなど独自の視点が盛り込まれ、「応仁・文明
    の乱」の研究に大きな影響を与えた。現在の「応仁・文明の乱」の通説は、百瀬氏の
    研究が基盤となっている。/だが、その後の研究の進展に伴い、近年は通説と異なる
    新説も提起されている。・・・

本書220~221頁から引いたが、本章でよく典拠として挙げられている百瀬今朝雄の論稿はチト読んで
みたい(^^) なお、本書巻末の「主要参考文献」と照らし合わせると発行年が異なるのが多いぞ(-"-)

「乱の構図」について「四つの対立要因」が挙げられると本書は言うんだけどね(本書221頁)(^_^;)
「1・細川氏と山名氏の覇権争い」は、「戦前にはすでに定説(田中:一九七九、初出一九二三)と
なっており、戦後も継承(百瀬:一九七六)されている。」(本書221頁)が、細川勝元と山名宗全は
元々は提携関係にあったし、「2・将軍権力の分裂」説が家永遵嗣(論稿多数)によって近年出され、
「将軍権力による有力大名抑圧政策が行われていた義政期に次期将軍候補者となった足利義視が、抑圧
された大名(山名宗全、斯波義廉、畠山義就)と接近したため、対大名政策の違いが将軍権力の分裂
を招いたとする。そして、親義視派の大名たちは義政から義視への将軍交替が間近に迫ったことから
政権奪取を図り、義政政権を支える細川勝元との対立に至ったと説明する。」(本書221~222頁)と
あるが、よく解らん(@_@;) 「3・細川派と反細川派の対立」(末柄[豊『岩波講座 日本の歴史8』
所収論稿]:二〇一四)は「文正の政変」時の義政派(斯波義敏、赤松政則、畠山政長、京極生観)
が東軍、反義政派(山名宗全、斯波義廉、一色義成、土岐成頼)が西軍に参加し、政変時に京都には
いなかった畠山義就と大内政弘を反細川派に位置付け、「この説では、・・・従来の細川派と山名派
の対立を乱勃発後の構図と位置付けている。」(本書223頁)のに対し、「4・個別の対立要因」では
「複数の大名に共通する対立構図の他に、個別の大名ごとの対立関係がある。」(本書223頁)として
足利将軍家、畠山氏、斯波氏等の家督をめぐる争い、山名氏と赤松氏の播磨・備前・美作、一色義直
と武田信賢の若狭の守護職をめぐる争いを挙げて、〈「応仁・文明の乱」を機に顕在化した大名たち
の対立は乱後も続き、戦乱の長期化と地方への拡大をもたらしたのである。〉(本書224頁)と(^^)

「乱の原因」も「四つの理由が、近年提唱されている。」(本書224頁)由〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
「1・細川氏と山名氏の対立」は、「覇権争いの他に細川勝元の後継者をめぐる確執が指摘され」、
一つは、細川勝元が山名宗全の子の豊久を養子に迎えながら実子政元が生まれると出家させたこと、
もう一つは、細川勝元が山名宗全の養女(山名煕貴の娘)との間に生まれた実子政元がいるにもかか
わらず、一門(野州家)の勝之(細川教春の子)を養子に迎えたこと、これらによって両者の関係が
悪化したとする説だが、家永遵嗣の『日本歴史』742号(2010年)掲載論稿が批判している由(⌒~⌒)
「2・足利将軍家の家督問題」を原因とする説は、やはり家永遵嗣(論稿多数)による批判があり、
日野富子が足利義尚の庇護を山名宗全に依頼したというのは『応仁記』が作り上げた虚構とか(゚o゚;)
〈なお、『応仁記』の評価ならびに日野富子と「応仁・文明の乱」の関係については研究者の間で評価
が分かれており、現在も論争(桜井[英治『歴史学研究』982号掲載論稿]:二〇一九、家永[遵嗣
『歴史学研究』992号掲載論稿]:二〇二〇)が続いている。〉とし(本書226頁)、面白そう(^_^;)
「3・諸大名の動向の影響」は以上の「従来の定説」に対し〈近年新たに提起されたのが、諸大名の
動向により細川勝元と山名宗全の提携が壊れたために、「応仁・文明の乱」が起きたとする説(家永
[『歴史遊学』掲載論稿]:二〇〇一、二〇一一[←同年の論稿が「主要主要参考文献」に2本])で
ある。〉として、細川勝元は、赤松氏の再興や山名宗全の畠山義就との提携で山名宗全と、斯波義廉
も畠山義就との提携で、大内政弘とは伊予河野氏の家督問題をめぐり、対立があったとする(⌒~⌒)
「この説では、細川勝元と山名宗全の対立が大名たちを動かして乱が起きたのではなく、大名たちの
動きにより細川勝元と山名宗全の提携関係が壊れ、乱が起きたとする。」(本書227頁)よん(⌒~⌒)
「4・山名宗全による畠山義就の支援」として、本書227頁は次のように紹介する(⌒~⌒)

    ・・・/「応仁・文明の乱」の原因として近年重視されているのが、「上御霊社の戦い」
    で山名宗全が畠山義就を支援したことである。細川勝元は足利義政の要請を守り、
    畠山政長を支援しなかったが、弓矢の道に背くとして世間から厳しく非難されることと
    なったことは先述した。そのため、武士のメンツを潰された細川勝元が宗全に遺恨を抱き、
    その報復が乱の拡大につながったとするものである(桜井[英治『日本の歴史12 室町人の
    精神』講談社学術文庫]:二〇〇一[初刊]、末柄:二〇一四、呉座[勇一『応仁の乱』
    中公新書]:二〇一六)。この説では、細川勝元と山名宗全は当初から合戦をするつもり
    だったわけではなく、個々の要因が積み重なったことが結果として長く続く大乱を招いた
    と捉えている。/・・・

本書228頁は「応仁・文明の乱」の意義として、「戦乱の地方への拡大を招いた」ことは今更だけど、
「室町幕府は、政権基盤である大名たちが在京し、将軍とともに幕府を運営することで成り立って
いた」わけで、室町幕府の「基本制度」「根幹」である「大名在京制が変質した」ことを先ず挙げ、
「在京大名の減少、大名の在国の常態化」によって「幕府の政権基盤は縮小」と指摘する( ̄◇ ̄;)

・秦野裕介「観応の擾乱」は「九州だけは南朝が・・・支配した」とするが、「九州」は誇張(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-22

・市川裕士「明徳の乱」は教わることが多く目から鱗ボロボロも『明徳記』を誤読してる疑い(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-05-23

・浅野友輔「応永の乱」、「満兼が中国の革命思想によって天命をかかげたこと」は一顧だにせず(..)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-05

・千葉篤志「上杉禅秀の乱」では虚偽の情報に振り回される貞成親王の『看聞日記』が笑える(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-09

・中根正人「永享の乱」、『鎌倉持氏記』が用いられるようになったのは国文学者の研究が契機(゚o゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-14

・前川辰徳「結城合戦」、「結城氏朝は当初幕府方として反乱軍の鎮圧にあたっていた」とは( ̄◇ ̄;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-16

・大内義弘は南朝の皇子を奉じて出陣してて南朝再興を目指してた可能性もと田中義成は記す(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-19

・渡邊大門「嘉吉の乱」から将軍義教の恐怖政治が室町歌壇にも及んだ話へと膨らませちゃった(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-20

・秦野裕介「禁闕の変」、北朝と後南朝の争いではなく、北朝内の二つの皇統の争いだったとは(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-21

・谷口雄太「享徳の乱」、「東関東」と「西関東」に分かれ、「変化と連続の両側面」が興味深い(^^)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-22

・渡邊大門「長禄の変」、「神璽が戻ってきたにもかかわらず、一人しらけた態度を取る人物」(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-06-23
タグ:歴史
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

北と南の対立から西と東の対立へ・・・
同等勢力が2つでき争いが長期化するのが室町時代なイメージだったり。
by tai-yama (2021-06-25 00:33) 

ナベちはる

勢力争い、研究が盛んに行われていると思えば良い気もしてきますが、その結果で通説が変わったりしたらそれはそれで厄介な気もしてきます…(~_~;)
by ナベちはる (2021-06-25 00:45) 

middrinn

ナルホド!( ̄◇ ̄;) たしかに、争いに、
tai-yama様、決着をつけられるような
絶対的な存在がいないからかも(^_^;)
天皇も2人いたり権威なき時代(^_^;)
by middrinn (2021-06-25 06:01) 

middrinn

学ぶ立場からすると、しっかりとした通説があると、
ナベちはる様、それだけ憶えればいいですし(^_^;)
by middrinn (2021-06-25 06:03) 

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