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240508読んだ本【バカチン】

無名作家が有名作家の作からインスパイアされての作、てゆーか、パクリというのはありがち(^_^;)

【読んだ本(バカチン)】

柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫,1984)所蔵本

      名月や壁に酒のむ影法師   半綾

    読んで字の如し、月を愛でて酒を飲む。その影が壁にうつるのは、即ち月の光に
    よってである。「明月や円きは僧の影法師」という漱石氏の句は、奇において
    勝っているが、この句は自然の裡に変化を蔵している。そこに元禄らしい好所が
    ある。

李白の「月下独酌」其一(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-02 )が
元ネタかと(^_^;) その第三句~第六句を駒田信二『漢詩名句 はなしの話』(文春文庫,1982)から
引くけど、一部の漢字は字体が異なる(^_^;)

    擧杯邀明月 杯[さかずき]を挙げて明月を邀[むか]え
    對影成三人 影に対して三人と成る
    月既不解飮 月既に飲むを解せず
    影徒隨我身 影徒[いたず]らに我が身に随[したが]う

     杯を挙げて明月を迎えると、
     月と私の影法師とで三人づれになる。
     だが月は酒を飲むことを解しない。
     影はただ私の動くままに動くだけである。

岩波文庫創刊60年記念臨時増刊の図書454号(1987年)のアンケート「私の三冊」で松枝茂夫は本書
を挙げてたけどね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-08-14 )(^_^;)
タグ:俳諧 中国 古典
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240507読んだ本

アダルト系とか大人向けの本を子供が読むのは問題があるけど、逆は問題ナシオン主権(^o^)丿
Amazonマケプレ出品者の住所、番地と建物名をネット検索したら、ラヴホテルじゃん(@_@;)

【読んだ本】

窪田敏夫『古典文学全集24 和歌・歌人物語』(ポプラ社,1966)

    ・・・/順は歌人として、前にあげた人びとにはおよばないといえるかもしれません。
    しかし『古今集』からの和歌が、平安朝という時代にしだいに姿をかえていく道筋の、
    一里塚とでもいうような意味で忘れられない人だと思います。/・・・

    ・・・/順は前にもいったように、歌人としてはそうすぐれたとはいえません。
    むしろ彼は学者として、この時代の和歌の歴史のうえで、たいせつな立場に
    あった人なのでした。/・・・

本書の「源順」の50頁と52頁から抜き書きしたけど、最初から通読してるわけではないので(←本書
の読み方として間違っているわけではない)、特に前者の方は窪田敏夫が何を言わんとしているのか
よく解らない(^_^;) とまれ、本書の50~51頁から引く(^_^;)

    ・・・/これからあげる歌は、彼の家集にあるものです。応和二年(九六二)七月
    十一日(順五十二歳)に、四つになる女の子をなくし、八月六日にまた五つになる
    男の子をなくしたときのものですが、彼が当時の『万葉集』の学者であったからで
    しょう。万葉の歌、

     世の中をなににたとへむあさぼらけこぎいにし舟のあとなきがごと

    という満誓沙弥(奈良時代の歌人で、出家するまえの名を笠朝臣麿という)の歌を
    まねて、〈世の中をなににたとへむ〉という句をおいて、十首つくっています。

     世の中をなににたとへむ茜さすまの萩の上の露

     世の中をなににたとへむ夕露もまたで消えぬる朝顔の花

     世の中をなににたとへむ秋の野をほのかに照らす宵の稲妻

     世の中をなににたとへむ草も木も枯れゆくころの野辺の虫の音

    どれもみな世の中をはかなく、悲しい思いで見ていることがわかりますし、子を
    亡くした親の心の悲しさが知れます。ここで注意してみると、世の中のことや、
    人の心を、自然の姿にたとえていることです。/・・・

この満誓沙弥(「令和」の元ネタ「梅花の宴」にも参加)の歌は「世の中を何にたとへんあさぼらけ
漕ぎゆく舟の跡の白波」という風に改変された形で『拾遺抄』や『拾遺和歌集』等にも入っており、
竹鼻績『拾遺抄注釈』(笠間書院,2014)は次のように指摘する(^_^;)

    ・・・[藤原]公任は『新撰髄脳』で「昔のよき歌」としてあげたほか、『金玉集』
    『深窓秘抄』『和漢朗詠集』などにも撰んでいる。また、『古今六帖』(一八二一)
    にも撰ばれているが、いずれも『[拾遺]抄』と同じように「あとの白波」とある。
    「跡無如」を「あとの白波」と翻案したことで多くの支持をえたと思われる。それは
    『万葉集』の訓読に携わった源順などの功績であろうか。・・・

更に菅野禮行(校注・訳)『新編日本古典文学全集19 和漢朗詠集』(小学館,1999)の指摘も(^_^;)

    /世の中のはかなさを白波にたとえる。『源氏物語』総角巻に・・・、『方丈記』に
    ・・・。謡曲などにも多く引かれるが、無常観の詠出であったものから、『新古今集』
    春下に・・・とあるごとく、後世は琵琶湖の景を詠むものとしても広く引かれるように
    なった。/

こうなると、「源順などの功績」はたしかに凄いな(^_^;) 「学者として、この時代の和歌の歴史の
うえで、たいせつな立場にあった人」という本書の上記の人物評も当たっている気がしてきた(^_^;)
ちなみに、『平家物語』では「跡は白波」とあり、分かる人にしか分からないギャグ=駄洒落として
使われている(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-05-07 )(⌒~⌒)ニヤニヤ

なお、上記の源順の「秋の野を」の歌は『後拾遺和歌集』に入集し、犬養廉&平野由紀子&いさら会
『笠間注釈叢刊19 後拾遺和歌集新釈 下巻』(笠間書院,1997)の高重久美によると、この連作十首
は、唯摩経十喩の電喩を詠んだ当該歌を含めて五首が唯摩経十喩と重なり、四首が勅撰集に入集し、
紀時文や大中臣能宣も源順と同時に「世の中を何にたとへん」を上の句に置いた歌を詠んだ由(^_^;)

相模が、初句に「いかにせむ」を、五句に「かくれなき身を」を、ともに置いて詠んだ連作の九首は
もしかして源順を超えようとしたのか(^_^;) とまれ、本書はポプラ社の児童書とはいえ侮れん(^^)
タグ:列伝 歴史 和歌
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240506読んだ本【バカチン】

オーパーツが描かれてるようなものゆえ後世の(偽)作で鑑定は誤りかとオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

【読んだ本(バカチン)】

江橋崇『ものと人間の文化史189 百人一首』(法政大学出版局 ,2022)

「・・・これまで発見されたことのない様式の新出史料であり、極めて貴重で、史料価値が高い。」
という〈吉田家伝来「百人一首歌絵合せかるた」〉を本書は紹介してて、それは「・・・歌人画抜き
に上の句札、下の句札の双方に一組の歌意図を描いた・・・」もの、つまり、「・・・一対二枚の札
を横にならべると一幅の絵画になるという芸術的な仕組み・・・」を具えたかるたで、その制作年代
を「私は、元禄年間前期(一六八八~九六)頃のものと判断している。」由(本書114頁)(@_@;)

「芸術的な仕組み」といっても、江橋崇は「対の画像の食い違い」や「歌意と画像の不調和」のある
札の存在も指摘・紹介しており(図2-21、図2-22)、後者は和歌を正しく読み解いた上で絵画化でき
てるのかという小生の関心から特に興味深いけど、そもそも、このかるたの「・・・図像は基本的に
風景図で・・・」(本書115頁)、晩年の藤原定家の趣味で恋歌が多い『百人一首』なのに〈・・・
どの札にも人物を描いたものはなく、わずかに「参議雅経」の札に「衣うつなり」の女性像が小さく
描かれているのが唯一の例外である。〉(本書117頁)となると、興味ナシオン主権であるよ(^_^;)

さて、さて、さ~て!そんな小生の目が留まったのは、本書116頁の記述だったエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

    ・・・なお、「柿本人麿」の札には山鳥が、「猿丸大夫」の札【図2-19】には鹿が、
    「中納言家持」の札には鵲[かささぎ]が、「清少納言」の札には鷄が、「皇太后宮
    大夫俊成」の札には鹿が、「後京極摂政前太政大臣」の札にはきりぎりすが描かれて
    いるが、・・・

「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ」の後京極摂政前太政大臣藤原良経
の札の歌意図を確認しようとするも、本書本文に掲載されているモノクロの図にも本書巻頭のカラー
口絵の〈④吉田家伝来「百人一首歌絵合せかるた」(元禄年間以降)〉にも同札は無かった(ノ゚ο゚)ノ

ネット検索したら、「日本かるた文化館」が「吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた」を全札公開してて
(⇒ https://japanplayingcardmuseum.com/yoshidake-hyakuninisshu-utaawase/ )、同札を
ズームすると、色的にコオロギではなく、マジでキリギリスだったΣ( ̄ロ ̄lll)ニャンですと!?

前記の如く本書巻頭カラー口絵のキャプションには「(元禄年間以降)」と何故かなっているけど、
〈制作当時の元来の収納箱、制作者による添付文書、後代の所蔵者による記録等の史料に欠けている
ので残された「かるた」札だけから判断することにな〉り(本書114頁)、「銀色紙」及び「歌人名
と和歌本文の表記」から「元禄年間前期(一六八八~九六)の作品」と江橋崇は鑑定するが(本書
122頁)、この歌が詠まれた鎌倉初期は勿論、「元禄年間」でも「きりぎりす忘れ音に啼く火燵哉」
(芭蕉)等があるように、「きりぎりす」とはコオロギのことだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
江戸中期の与謝蕪村(1716~1784)にも「きりぎりす自在をのぼる夜寒哉」があるし、誤鑑定(^_^;)

永青文庫について「ここはプライドが高く、所蔵資料の管理が厳格で、私たちのような在野の研究者
では相手にされず、所蔵史料の閲覧、利用が無理であった。」云々と本書101頁に書かれてたけど、
「日本かるた文化館」も「吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた」の画像を非公開に転じたりして(^_^;)
タグ:俳諧 歴史 和歌
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240505読んだ本【バカチン】

最近リテラシーという言葉を見かけないけど「△■に隠された◇▼の暗号」の類いは胡散臭い(^_^;)

【読んだ本(バカチン)】

中西進『辞世のことば』(中公新書,1986)所蔵本

    ・・・/ここで宗祇は死を迎えた。うわ言のように「定家卿に会った」など
    といっていたが、冒頭の句[=「眺むる月にたちぞ浮かるる」]を沈吟し、
    「我は付けがたし。皆々付け侍れ」といって死んだという。眺めている月に
    心が誘われて浮かれてしまうという句で、この上の句を空白のままにして
    口を閉じたのである。・・・

中西進は「眺むる月にたちぞ浮かるる」を和歌の下の句の七七と解し、宗祇は弟子たちに「上の句」
の五七五を考えて「◇△▼▲□ ◆□■◇▲△▲ □▲□△■ 眺むる月に たちぞ浮かるる」という
五七五七七の辞世の歌を完成させなさいと遺言したと(@_@;) しかし、中西進は参照してないが、
宗祇の最期を看取った弟子の宗長は『宗祇終焉記』で次の如く記している(福田秀一&岩佐美代子&
川添昭二&大曾根章介&久保田淳&鶴崎裕雄[校注]『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』
[岩波書店,1990]所収の鶴崎裕雄&福田秀一(校注)『宗祇終焉記』から引く)( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・又此たびの千句[=〈先の「鎌倉近き所」で行った千句連歌〉]の中にありし
    前句にや、「ながむる月にたちぞうかるゝ」といふ句を沈吟して、「我は付がたし。
    皆〻付侍れ」などたはぶれに言ひつゝ、灯火の消ゆるやうにして息も絶えぬ・・・

御覧の通り、宗祇は「眺むる月にたちぞ浮かるる」の七七を前句として五七五の付句を促しており、
「眺むる月に たちぞ浮かるる ◇△▼▲□ ◆□■◇▲△▲ □▲□△■」の形の連歌だよね(^_^;)

とはいえ、小生は連歌には詳しくないので、廣木一人『シリーズ日本の旅人 連歌師という旅人 宗祇
越後府中への旅』(三弥井書店,2012)234~235頁から引く(^_^;)

    ・・・/ところが、宗祇は夜中になると急に苦しみ出す。夢で藤原定家に会ったという。
    そして、「玉の緒よ」の和歌を口ずさんだ。回[ママ]りの人々はこの歌は式子内親王
    の歌なのに、といぶかしがった。人々は宗祇の意識が混濁して誤ったと思ったのかも
    知れない。しかし、金子金治郎も『旅の詩人 宗祇と箱根』の中で指摘しているように、
    当時、定家と内親王は恋愛関係にあったとする伝承があった。金春禅竹の謡曲『定家』は
    その伝説を扱った作品である。宗祇は夢の中で歌聖、藤原定家に出会い、その悲恋に思い
    を馳せたのではなかろうか。/さらに宗祇は鎌倉あたりで行った千句の中の句、

      眺むる月に立ちぞ浮かるる

    を口にし、付けるのがむずかしいと弟子たちに付句を促した。/この句は宗祇自身の作品
    ではないと思われるが、名月の美しさに気持ちが浮かれてくる、という内容で、風雅に
    生きた宗祇を象徴するかのような句と言えるものであろう。生涯、文学に生きた宗祇に
    ふさわしい、安らかな最期であったことを暗示して、宗長は宗祇の死を伝えている。
    ・・・

「眺むる月に立ちぞ浮かるる」は亡くなる数日前に鎌倉近くで行なった千句連歌での句で、しかも、
「この句は宗祇自身の作品ではないと思われる」となると、辞世の句には相応しくないような(^_^;)

これまた前にも引いたけど、この鎌倉の近くで行なわれた千句連歌について宗長は『宗祇終焉記』で
次のように記している(^_^;)

     ・・・

      老の波幾返りせば果てならん

       [←「宗祇の付句。波のように毎年寄せ来る老いの年を幾度
        繰り返せば人生は終わるのだろうか。」と前掲書の脚注]

    思へば、今際[いまは]のとぢめの句にもやと、今ぞ思ひ合せ侍る。/・・・

つまり、「老の波幾返りせば果てならん」が辞世の句だと宗祇没後に宗長は気付いたというのだが、
廣木一人・前掲書228~229頁は次のように指摘している( ̄◇ ̄;)

    ・・・宗祇はここ[「鎌倉近き所」]で元気に千句連歌に参加した。『宗祇終焉記』
    にはその中から「八十まで」と「老の波」の付句二句が前句とともに載せられている。
    /はじめの付句は、今日までの命だと思いながら暮らしていた頃は遠い昔になってしま
    った、という前句に対して、いつ八十歳になるまで生きながらえようと思ったことか、
    とした句である。/次の句は、旧年から新年への年の瀬を越えていく人、つまり新しい
    歳を加える人がいない、という前句に対して、私の方は波のように寄せてくる年齢を
    何度繰り返せば人生の終わりになるのであろうか、とする。/連歌における平句は一般
    には実際の心情を詠むことはないが、宗長はこれらの句に宗祇の真情を読み取ったので
    ある。/・・・

奥田勲(日本歴史学会編集)『宗祇』(吉川弘文館人物叢書,1998新装版)231頁も次の指摘(@_@;)

    ・・・さらに江戸城滞在の折、宗祇は重態になったが、回復した。驚くべき生命力で
    ある。しかも連歌に触れると気力もよみがえり、鎌倉近くの相模守護代上田の館(現
    横浜市神奈川区幸ヶ谷)で、七月二十四日から二十六日にかけての千句連歌に出座し、
    百韻中、十句、十二句などの句数をこなしている。上田の名は[三条西]実隆の
    「再昌草」によって知られる。宗長も当然参加していて、宗祇の句に注目している。
    高齢病身でありながら、普段よりも面白い句が多いことに感嘆し、さらに、「けふのみ
    と住む世こそ遠けれ」に付けた宗祇の句「八十までいつかたのみし事ならむ」とか、
    「年のわたりはゆく人もなし」に付けた「老のなみいくかへりせばはてならん」などに、
    後から考えて、師は自らの死を予感していたのだと思い当たったと述べている。連歌の
    付合は、個人的な感慨よりも詩としての流れが優先するものだが、宗祇は随所に自らの
    想いをちりばめることをしていたのである。/・・・

奥田勲によれば「宗祇は随所に自らの想いをちりばめることをしていた」ようだけど、宗祇は例外で
あるらしく、「連歌における平句は一般には実際の心情を詠むことはない」、「連歌の付合は、個人
的な感慨よりも詩としての流れが優先するもの」という連歌の一般論が興味深い(⌒~⌒) 明智光秀
の「時は今雨が下しる五月哉」を発句とする愛宕百韻には「打倒平氏・源氏台頭の寓意が込められて
いた」とか何とかね(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-11 )(^_^;)
タグ:伝記 紀行 歴史
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240504読んだ本【バカチン】

辞世の歌で下の句に「それにつけても金の欲しさよ」・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;あの世も金次第であると?
一昨日、ブックオフで『更級日記』角文の220円をスルーし、ランチは貯まったスタンプで500円引き
になるも、1000円余の期間限定販売のチョコを買っちった(@_@;) 節約6年!o(-`д´- o)ガンバル!!

【読んだ本(バカチン)】

竹内玄玄一(著)雲英末雄(校注)『俳家奇人談・続俳家奇人談』(岩波文庫,1987)所蔵本

杜国に関する記述の誤り(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-11-01 )や
宗祇と芭蕉の句の間違い(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-22 )が
本書にはあることを指摘してきたが、宗祇の「世を辞するの歌」として本書が紹介している次の歌に
ついては「不審(@_@;)」と先日は記した(^_^;)

         はかなしや鶴の林の煙にも立ちおくれぬる身こそ恨むれ

この胡散臭~い「世を辞するの歌」の元ネタと思われる歌が、奥田勲(日本歴史学会編集)『宗祇』
(吉川弘文館人物叢書,1998新装版)の次の記述(同書223頁)から判明v( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・/明応十年(一五〇一、文亀元年)、八十一歳/宗祇は越後で正月を迎えた。
    二月十五日、京都の三条西実隆のもとに新年の挨拶の書状が届いた(「再昌草」)。
    それには「思ひやれ鶴の林の煙にもたちをくれぬる老のうらみを」という歌が書き
    添えてあった。鶴の林は釈迦の八十歳入滅を言っているから、それにも遅れて徒に
    齢を重ねた恨みを八十一歳の正月に当たって述懐した歌と理解できるが、「立ち遅れ」
    に後土御門[天皇]の[前年の9月28日]崩御を偲ぶ気持ちが込められているとする
    解釈(金子[金治郎]『宗祇と箱根』)も捨てがたい。/・・・

竹内玄玄一による捏造なら論外だが、そうでなかったとしても、宗祇の「世を辞するの歌」で間違い
ないと思って紹介しているんだから、この竹内玄玄一は宗祇に関して(も)詳しくないようだ(^_^;)

廣木一人『シリーズ日本の旅人 連歌師という旅人 宗祇越後府中への旅』(三弥井書店,2012)から
も引いておこう(同書176~177頁)( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・/越後に下向しての最初の正月、宗祇は三条西実隆に、自分が釈迦の歳を越えて
    八十一歳になったことを詠んだ歌を添えた手紙を送った。実隆の家集『再昌草』にその
    ことに関わる詞書と歌が見える。

        宗祇法師、越の国に侍りしが、今年八十一歳になりぬることを申して、
        文の奥に書き付けて送りたりし、

      思ひやれ鶴の林の煙にもたち遅れぬる老の恨みを

        返事に

      末の法[のり]残りの年をしたふかな鶴の林の春過ぎしより

        この文、二月十五日になん来たりたりし。

    釈迦は八十歳で亡くなった。「鶴の林」は釈迦が亡くなった場所に生えていた沙羅双樹の
    木が悲しんで白鶴のように白く枯れたことをいう。「末の法」は末法の世のことをいう。
    左注に宗祇の手紙が届いたのが二月十五日であるとするのは、この日が釈迦入滅の日で
    あるからであろう。/このようなことを見てくると、宗祇が『宗祇終焉記』の中で「我も
    この国にして限りを待ち侍れば」と述べていることも含めて、終の棲家を求めて越後府中
    へ来たということの信憑性は確かになりそうである。果たしてそうであったかどうかは
    熟考してみる必要があるかも知れないが、それはそれとして、老齢になっての遠国への旅
    はいつもそれなりの覚悟があってのことであったとするべきであるし、今回はその覚悟は
    切実なものであったとは思われる。/・・・

丁寧かつ慎重に考察を進めている廣木一人は同書において更に次の指摘(同書194~195頁)(⌒~⌒)

    ・・・/このような中で、新年を迎える。文亀二年、宗祇八十二歳、最後の年である。
    『宗祇終焉記』の次の部分を引く。

       元日には宗祇、夢想の発句にて連歌あり。

        年や今朝あけの忌垣[いがき]の一夜[ひとよ]松

       この一座の次いでに、

        この春を八十[やそぢ]に添へて十歳[ととせ]てふ道のためしやまたも始めん

       と賀し侍りし。返し、

        いにしへのためしに遠き八十だに過ぐるはつらき老の恨みを

       おなじき九日、旅宿にして一折[ひとをり]つかうまつりしに、発句、

        青柳も年に真拆[まさき]の葛[かづら]かな  宗祇

    夢想の発句は「一夜松」、託宣により京都の右近馬場に一夜にして千本の松が生え、
    そこに菅原道真を祀る北野天満宮を建立したという伝説に関わる事柄を詠み込んだ
    もので、連歌神である北野天神を寿いだ発句である。「夢想」は夢の中で神仏から
    示された句をいい、建前上、この句は宗祇の口を借りて神が詠んだということになる。
    老人であることと昨年末のつらい状況を絡めれば、今年もまた新年を迎えることが
    できたという感慨と取れるが、新年の発句はいずれもこのような祝言と言えるものが
    一般であるから、特に宗祇の個人的心情を汲み取る必要はないかも知れない。/次の
    和歌は宗長のものである。歌道関係者には八十歳に十歳を加え、九十の賀を祝った
    藤原俊成の例もある。同じように先生も九十歳に向かって道をお進みください、という
    祝賀の歌である。これも正月の歌として取り立てて言うべきことのないものである。
    /次の「いにしへ」のは宗長の歌に対する宗祇の返歌で、こちらは正月にはふさわしく
    ない「つらい老の恨み」が読まれている。一年前、宗祇は八十一歳になった時、実隆に
    手紙の中で次の歌を送っていた。先にも引いたが、『再昌草』に見えるものである。

      思ひやれ鶴の林の煙にもたち遅れぬる老の恨みを

    この歌と心情は同じだと言える。これが宗祇の新年を迎えた時の感慨であったのである。
    /・・・

この「宗長の歌に対する宗祇の返歌」からも、宗長が「駿河の医者にかかることをすすめた」とか、
そして、それを宗祇が受け入れて「駿河」への旅に出たかの如く記述してる中西進『辞世のことば』
(中公新書,1986)の宗祇の項が如何にバカチンであるかは理解できるかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
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