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220308読んだ本

チト高い本を明らかに損な方法で注文しちゃったのは副反応で正常な判断が出来・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
新品15400円のを某書店へ行って取り寄せ頼めば1540円引きで買えたけど、現金で前払いが必要だし、
入荷に時間がかかるし(早ければ明後日だが、おそらく来週)、取りに行かなければならないので、
在庫有の楽天ブックスに712p使って注文し最低でも831p獲得予定とはいえ勿体無いことをした(^_^;)

【読んだ本】

海音寺潮五郎『武道伝来記』(光文社時代小説文庫,1990)所蔵本

本書所収の短篇小説「法皇行状録」を久しぶりに再読、てゆーか、同『王朝』(角川文庫,1965)や同
『王朝』(富士見書房時代小説文庫,1987)でも読んだから4読目だけど、好色ダメ男な主人公なのに
女性との会話シーンがユーモラスに描かれていて何度目でも面白い(^_^;) 故・藤原伊尹の末娘を入覚
と名乗る「みすぼらしい旅よそおい」の僧が訪ねて来た場面から始まるが、その「日に灼け黒ずんだ
痩せた顏」、「髪が少しのび、口許やアゴ先きにも薄いヒゲがのびかけていた」という描写は主人公
が如何に厳しい修行を経て帰京したかを読み手に想像させる意図だろう(^_^;)

    ・・・どんないきさつから出家されたにしても、その後の入覚法皇の御修行ぶりは
    目をおどろかすほどのものがある。太上皇としての待遇も辞してお受けにならず、
    一介の修行僧として、ある時は叡山に、ある時は播州書写山に、またある時は熊野に
    こもって、一筋に求道につとめておられる。/熊野に行かれた時にはこんなことさえ
    あった。途中の千里浜というところで急に病気になられて、浜べに石を枕にして
    おやすみになったが、近くに塩竈があって、それから細々と煙の立っているのを
    ごらんになって、さすがに心細くなられたのであろう。こう御歌されたという。

      旅の空夜半の煙とのぼりなば
        蛋[あま]の藻塩火焚くとかや見む

    ・・・

この昨日取り上げた花山院の御製は、犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊18 後拾遺和歌集
新釈 上巻』(笠間書院,1996)の訳(担当は松林純子の由)だと「(このまま病で死んで)旅の空で
(火葬にふされ)夜半の煙となって立ち上ったならば、人はただ海士が藻塩を焼いている煙とみるだ
ろうなあ。」で、同歌の「詠歌事情」について次のように記している(@_@;)

    『粉河寺縁起』には花山院の御幸について「正暦二年の冬熊野山より御下向の次に
    當寺に御参詣あり。扈従の人は入道民部御能俊。入道左大弁惟成。三井寺元清阿闍梨
    なり。」と記され、『栄花物語』でも正暦二年(九九一)の圓融院の葬送の記事の
    直後に記載される。ただし『粉河寺縁起』文中の惟成はこれより二年前の永祚元年
    (九八九)没で、年次に疑問がある。

『粉河寺縁起』の記述を紹介、藤原惟成が既に没していることの指摘は他の注釈書より良いのだが、
兼経法師の歌を参照するよう注記してない点はチト残念(^_^;) てゆーか、犬養&平野の過失か(^_^;)
当該歌とその訳&作者&詠歌事情の各項(担当は船崎多恵子の由)を犬養廉&平野由紀子&いさら会
『笠間注釈叢刊19 後拾遺和歌集新釈 下巻』(笠間書院,1997)から引く(^_^;)

      花山院御ともに、くまのにまゐりはべりけるみちに、すみよしにて
      よみはべりける

    すみよしのうらかぜいたくふきぬらしきしうつなみのこゑしきるなり

       花山院の御供で熊野へ参詣しました途中、住吉でよみました歌

     住吉の浦風が大そう吹いているらしい、岸にうちよせる波の音が
     盛んにたっていることだ。


    兼経 未詳。旧部類では恵慶法師の歌となっている。『粉河寺縁起』花山法皇御幸第六に
    見える、三井寺元清を当てる説があるが、故人の惟成を登場させるなど、同縁起の資料的
    価値は低いと思われ、従い難い。なお、元清も伝未詳。後拾遺のみ。


    花山法皇の熊野巡礼は、今井源衛の『花山院の生涯』(桜楓社 昭43)によると、
    正暦二年(九九一)末か翌三年初のころに入山し、同三年八月以前に帰京している。
    京から淀川口に出、海岸沿に陸路を南下して粉河街道に入り、粉河寺、紀の川、
    千里浜を通って那智山に詣でている。この時に限らず花山院の参詣には多くの人が
    従ったらしく、「修行」とはかけはなれた風雅の旅だったと思われる。

『粉河寺縁起』に関して「年次に疑問」どころか「資料的価値は低い」と厳しいが、何よりも最後の
一文が痛烈である(^_^;) 実は今井源衛『大和物語評釈 下巻 笠間注釈叢刊28』(笠間書院,2000)に
次の記述(『権記』の引用は省略も原文ママ)がある(^_^;)

    ・・・花山法皇が寛和二年(九八六)秋、書写山行幸の際の供奉者は十数人、
    長保四年三月再度の書写山行幸の折は、同じく八十四人であった。その時、
    院は播磨国司の接待の不行き届きに大いにきげんが悪かったという(『書写山
    円教寺旧記』)、また花山院は長保元年十一月にも熊野行幸を企てたが、
    道長や一条天皇は「路次之愁」、ことに収穫期に当り、「・・・」(権記
    十一月十五日)とする道長や一条天皇の意向で遂に中止になった。多勢の
    供奉者を伴なった一行に食事を供し、宿泊の設備をする事は、現地の人には
    大きな負担であったらしい。

「寛和二年(九八六)秋」の最初の「書写山」御幸に関し、更に「政治的な思惑を邪推」をすると、
この「十数人」の「供奉者」は、一条天皇が即位式をしている京に花山法皇が戻らないよう藤原兼家
からつけられた監視役だったりして(^_^;) 問題の熊野参詣は初度のだからそれほど大人数ではないと
愚考するが、そうだとしても西行や芭蕉が花山院を追慕したというのが何か怪しく思えてきた(^_^;)

・花山院が播磨国で月の光の明るさに都を恋しがる歌を詠んでいるのが意味深に思えてしまう(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-28

・花山天皇は清涼殿から眺める月こそ素晴しいという和歌を詠んでいる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-29

・よく知られている花山天皇が藤原道兼に騙されて退位・出家するシーン、誤訳ではないかと(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-10-31
タグ:歴史 和歌
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

人も海辺で焼かれれば藻塩と同じと(笑)。
私も焼かれたら脂ののった良い匂いの煙になるかも。
by tai-yama (2022-03-08 23:17) 

爛漫亭

 千里浜は海亀の産卵で知られています。
有間皇子が浜松が枝を引き結んだ岩代と
続いています。
 若い頃、千里浜でキャンプした思い出が
あります。
by 爛漫亭 (2022-03-08 23:46) 

ナベちはる

いろいろと考えると、使用したポイントよりも多くポイントが手に入るとしても勿体なく感じますね。
高額な本だと、「いかにして得して手に入れるか」を特に考えてしまいますね(^^;A

by ナベちはる (2022-03-09 02:13) 

middrinn

こってりした食事やお菓子を常に完食!完食!完食!の
tai-yama様は脂身が多そうだから匂いを嗅いだだけで
高カロリー高コレステロールで病気になりそう(^_^;)
by middrinn (2022-03-09 06:20) 

middrinn

花山院が枕にしたという石と歌碑の写真が保坂弘司
『大鏡全評釈 上巻』(學燈社,1979)に出てますが、
爛漫亭様は石を枕にキャンプではないですね(^_^;)
by middrinn (2022-03-09 06:30) 

middrinn

真剣に考えちゃいます(^_^;) 色々とキャンペーンに参加しましたが、
ナベちはる様、更に712pも獲得することは難しい気がします(^_^;)
by middrinn (2022-03-09 06:57) 

Cazz

平安時代では旅の途中で病気になってしまったら即、死体になってしまう確率が高そうですね。石を枕に浜辺、なんて心細いんでしょ。
今はコロナの蔓延で入院先が見つからず即、死体になりそうな危機が・・・・?
by Cazz (2022-03-09 13:29) 

middrinn

街道沿いに白骨とか多そうですね((;゚Д゚)ヒィィィ! この火葬の煙が
仁徳天皇の国見の故事の如く民が豊かになったと誤解されたら、
更に哀れヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 『伊勢物語』78段に、この千里の浜で
素晴しい石が採れたとして藤原良相に献上されたことが出ている
ので、この花山院が枕にした石も素晴しい色・形状かも(^_^;)
by middrinn (2022-03-09 14:53) 

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