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220307読んだ本

歌人は「ちさと」で歌手は「せんり」の如く、浜の名も古典では「ちさと」で現在は「せんり」(@_@;)
運動は控えるようにと3回目接種でも言われたが本を読んでブログ書くのに脳内は毎日大運動会(@_@;)

【読んだ本】

小松茂美編『日本の絵巻19 西行物語絵巻』(中央公論社,1988)

本書44頁に「西行、千里の浜で夢の中に俊恵に会う」という見出しが付けられている、萬野美術館本
『西行物語絵巻』の詞書を本書44~45頁から、その訳だか解説だかを本書44頁から、引く(@_@;)

    /かくて、まどひありくほどに、登蓮法師人を/すゝめて、百首のうたを
    あつらへけれど、い/なび申て熊野へまいるみち、紀伊国千里/のはまの
    あまのとまやに、ふしたりける夜の/夢に、三位入道俊恵など申ていはく、
    「むかし/にかはらぬ事は和歌のみちなり。これを/よまぬ事をなげく」とみて、
    おどろきてよみて/おくりけるに、このうたをかきそへて/つかはしける。/


    /京に名高い登蓮法師という歌人が、みずから勧進して、人々に百首歌を勧めていた。
    西行にも、ぜひ加わるようにと、誘いがかかった。が、西行はそれを断わって、
    熊野詣でに発足してしまった。道行くほどに紀伊国千里の浜の、漁夫の家に一夜の宿を
    借りた。海鳴りの音を耳にしながら、慣れぬ旅枕に、いつしか深い眠りにおちた。/
    その夜の夢に、三位入道俊恵に会った。かれは有名な歌人源俊頼の子。十七歳で父に
    死別して、東大寺の僧となった。父の血脈を受けて歌人として頭角を現わし、
    当時の歌壇に重きを成した。ところで、夢枕に立った俊恵が西行にいう。昔に変わらぬは
    和歌の道なり。これを詠まぬとはいったい、どういう魂胆なるぞ。と、眼をつり上げて
    怖い顔。とたんに西行は夢から覚めた。/すぐさま、かれは京の登蓮に百首歌の自詠を
    送った。そのとき、〈末の代もこの情のみ変はらずと みし夢なくばよそにきかまし〉の
    一首を添えた、という。/

俊恵が「三位」なんて高位のわけがねーだろ!と先ず思うも、西行の『新古今和歌集』入集歌の詞書
だと登場人物が全く異なっている事実すら小松茂美は指摘せず、遣っ付け仕事だねぇC= (-。- ) フゥー
峯村文人(校注・訳)『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』(小学館,1995)の訳で引く(^o^)丿

     寂蓮法師、人々すすめて百首歌よませ侍りけるに、いなび侍りて、
     熊野に詣でける道にて、夢に、何事も衰へゆけど、この道こそ
     世の末に変らぬものはあれ、なほこの歌よむべき由、別当湛快、
     三位俊成に申すと見侍りて、おどろきながら、この歌を急ぎ
     よみ出して遣はしける奥に書き付け侍りける

    末の世も この情のみ 変らずと 見し夢なくは よそに聞かまし

      寂蓮法師が、人々にすすめて百首の歌を詠ませました時に、ことわりまして、
      熊野に参詣しました道で、夢に、「何事も衰えていきますけれど、この歌の道は
      末世にも変らないものがあります。やはりすすめられた百首の歌を詠むのがよい
      でしょう」ということを、別当湛快が三位俊成に申しあげると見まして、
      はっと目を覚しましたままに、例の百首の歌を急いで詠み出して贈りました、
      その奥に書き付けました歌

     末世にも、この和歌の風雅の道だけは変らないと見た夢がなかった
     としましたならば、この百首の歌のこともかかわりのないものと
     聞いたことでしょうに。

「湛快は熊野の別当であるから、[西行は]託宣と取ったものと思われる。」とは、窪田空穂『完本
新古今和歌集評釈 下巻』(東京堂出版,1965)の指摘(⌒~⌒) 久保田淳『新古今和歌集全注釈 六』
(角川学芸出版,2012)によると、この歌は後に『西行上人集』に入ったけど、『新古今和歌集』の
「依拠資料は未詳。」で、「なお、現在この百首歌での詠と認定できる作は見いだされない。」由、
チト気になる(@_@;) 「『西行物語』諸本では、萬野家本『西行物語絵巻』詞書で、この歌について
語っている。」として先に引いた同詞書も載せてて、久保田淳はいい仕事してますねぇv( ̄∇ ̄)ニヤッ
桑原博史(全訳注)『西行物語』(講談社学術文庫,1981)は略本系の正保三年版本を底本としたため
に出てない話があり(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-04 )、この話
も実はそう(´ヘ`;) ただ、西行が陸奥で対面した藤原秀衡から恋歌百首を詠むよう勧められた場面
には「・・・とかく否みて詠まざりけるが、千里の浜、草の枕にて見たりし夢の事なむ思ひ出でて、
・・・」という件があって、桑原博史は同書の語釈で〈底本以外の[広本系の]「文明本」や「西行
一生涯草紙」には出家後の西行が伊勢に来る前、熊野から大峰山にはいる話がある。〉として、上述
の萬野美術館本『西行物語絵巻』の詞書とほぼ同記述を引用した上で、「底本はその文章を機械的に
省略しているために、ここに照応する記述だけが残ったのであろう。」とするから、まだマシ(^_^;)
さて、さて、さ~て!チト気になったのは、桑原博史が〈観賞〉でしていた次の指摘である(@_@;)

    ・・・/千里の浜で見た夢とは、語釈にあげたように、底本が省略した記述を
    うけている。その話は、『大鏡』第三巻花山天皇伝[←藤原伊尹伝が正しい]
    の挿話にも、

      熊野道に千里の浜といふ所にて、御心地そこなはせ給へれば、浜づらに
      石のあるを御枕にて、御殿籠りたるに、いと近く海人の塩焼く煙のたち
      昇る心細さ、げにいかにあはれにおぼされけむな。

       旅の空夜半の煙と昇りなば海人の藻塩火焼くかとや見む

    とあるように、熊野信仰にともなう共通の説話の型によるものであった。/・・・

たしかに、「熊野」「千里の浜」「夢」「和歌」は「共通」も、同様に「共通の説話」が他にあるの
かね(@_@;) この御製は『後拾遺和歌集』入集も詞書に「千里の浜」は出てなく、久保田淳(監修)
『新日本古典文学大系別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)の「地名索引」にも片桐洋一『歌枕 歌
ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)にも「千里の浜」は無い(@_@;) 「千里の浜」に言及してる
『枕草子』『伊勢物語』、手元の各注釈書を参照するも収穫ナシオン主権(@_@;) ちなみに、西行が
熊野で修行して那智に籠った時の「木のもとにすみけるあとを見つるかな那智の高嶺の花を尋ねて」
は花山院の『詞花和歌集』入集歌「木の下をすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」
を踏まえたものであり、その詞書にも〈・・・花山院の御庵室の跡の侍りける前に、年旧りたりける
桜の木の侍りけるを見て、「すみかとすれば」と詠ませ給ひけんこと思ひ出でられて〉とあるけどね
(後藤重郎[校注]『新潮日本古典集成 山家集』[新潮社,1982→2015新装版])( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

[追記220308]

tai-yama様から頂戴したコメント、たしかに!と思って枕の冒頭の一文を修正しましたm(__)m
タグ:和歌 説話 絵画
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

「千里の浜」って実は「ちさとのちさと」と読むのかな?とか
思ったり(笑)。九十九里海岸より大きな海岸線はないことを
考えると千里の浜は無理な気が。
by tai-yama (2022-03-07 23:38) 

ナベちはる

「せんり」で「ちさと」で…頭の中が混乱してきます(^^;
by ナベちはる (2022-03-08 01:34) 

middrinn

九十九里海岸を見たことが無い人が、
tai-yama様、名付けたかも(^_^;)
by middrinn (2022-03-08 05:38) 

middrinn

「千里」という名前も、どちらか判り難い難読ゆえ、
ナベちはる様、キラキラネームに近いかも(^_^;)
by middrinn (2022-03-08 05:58) 

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