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210227読んだ本

読書の厄介なところは、身体は疲労困憊でも頭脳明晰だったりすることである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
強風の夜にガタガタと音がしてて隣家かと思ってたら拙宅のフェンスが原因と今朝判明ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
脚立も運んで弛んだネジを締めようとするも留め具が無いので断念し、業者に頼もうかと思った瞬間、
その場所で拾ってとっておいた金属の謎の部品のことを思い出し、色々やったら締められた(ノ_-;)ホッ…
直後に突然の訪問もあったし、今日は連日の疲労から、のんびり読んで過ごす予定だったのに(-ω-、)

【読んだ本】

倉本一宏(全現代語訳)『藤原行成「権記」(上)』(講談社学術文庫,2011)

本書225~226頁にある長保元年(999年)8月18日条もチト興味深い点が〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

     十八日、戊辰。 慈徳寺供養の御諷誦料を調進/則天武后の故事と定子

    今日と明日は物忌である。覆推させたところ、重く慎しまなければならなかったので、
    外出しなかった。江学士(大江匡衡)が来た。語ったついでに云ったことには、
    「白馬寺の尼(則天武后)が宮中に入って、唐が亡んだということです。皇后(定子)
    が内裏に入ったことを思うと、内裏の火事は旧例を用いたものでしょうか」と。
    (藤原)伊祐朝臣に、来たる二十一日の朝廷の御諷誦料[ふじゅりょう]の布五百端を、
    佐渡国の臨時交易の布で代わりに充てるよう、伝え送った。先日、左府[藤原道長]
    がおっしゃったのである。そこで、その布三百五十端を集めて借り送るよう、先日、
    決めたのである。

「長徳の変」があって長徳2年(996年)5月1日に自ら落飾・出家した定子が一条天皇の寵愛によって
再び宮中に入ったために内裏が焼亡した、則天武后によって唐が滅んだ悪例の通りと大江匡衡(゚ロ゚;)
唐の則天武后が尼として入った寺は、洛陽の「白馬寺」と大江匡衡には伝わっていたのかな( ̄◇ ̄;)

読んだら意外にも面白かった(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-04-20
外山軍治『則天武后 女性と権力』(中公新書,1966)には、次のように記されているv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・先帝太宗の後宮においても、太宗とのあいだに子どもをもうけた妃たちは、
    太宗の没後もその地位をみとめられ、定められたかなりのゆたかな扶養をうける
    ことができたようであるが、太宗の子どもを生まなかった妃たちのたどった運命は、
    実にはかないものであった。彼女たちは一様に、ご用済みの女として仏寺へ送られた。
    その寺で髪を剃って尼僧となり、亡き皇帝の菩提をとむらうことに定められていたから
    である。/・・・長安の感業寺、実はこの寺が長安のどこにあったか、明らかにする
    ことができないのである。安業坊に在る安業寺というのがこれにあたるのだろう
    という説もあるが、そう断定もできない。とにかくこの寺で得度し尼僧となって
    しずかな生活に入っていた、かつての才人[←ランクは低いが唐の后の地位の一つ]
    武氏。その名は照、後年の則天皇帝がそのまれな女性であった。/彼女は、太宗から
    格別のおぼしめしにあずかることもなく、したがってまた、太宗の子を生むという
    幸運にもめぐまれず、敗残者の仲間に入れられて、この寺へ送られてきたのである。
    が、しかし彼女は、太宗の寵をえることには成功しなかったけれども、ひそかに、
    皇太子であった晋王[=高宗]の愛をうけていたらしい。すでにその胤をやどして
    いたとさえいわれる。・・・/『旧唐書』、『新唐書』や『資治通鑑』にも、
    先帝の忌日に感業寺に参拝した新帝高宗は、ここで偶然尼僧姿の武才人の姿を
    みつけたといっている。感業寺という寺はその所在も明らかでないくらいだから、
    おそらくあまり有名な大寺でなかったのであろう。そんな寺へ皇帝である高宗が
    出かけるのは、よくよくの考えがあったからだと思う。おそらく、武才人がこの寺
    にはいっていることを知っていたのであろう。・・・

wikiの「武則天」の項には、「太宗の崩御にともない、武照は出家することとなったが、額に焼印を
付ける正式な仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することと
なった。」とあるが、「白馬寺」に入ったというのが当時の日本の知識層の認識なのかねぇ(@_@;)

倉本一宏(日本歴史学会編集)『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書,2003新装版)にも次の件(@_@;)

    ・・・/しかし、八月十八日に大江匡衡が則天武后の故事を行成に語り、
    内裏焼亡が定子の内裏参入によるとの見解を示すなど(『権記』)、
    公卿層は定子に冷淡であった。/・・・

「など」とあるが、『権記』が紹介する「則天武后の故事」しか挙げずに、「公卿層」は定子に冷淡
と断じちゃってる(@_@;) 大江匡衡が「定子に冷淡」なのは間違いないが、その「見解」を記録した
藤原行成も「定子に冷淡」な可能性も(@_@;) 後に、藤原道長の娘の彰子を立后するよう一条天皇に
奏上した際に、中宮定子は出家したために祭祀を勤められない禄盗人であると藤原行成は超手厳しく
批判するからである(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-05-02 )(@_@;)

近衛天皇の中宮だったのに二条天皇の后にされて「二代の后」と言われた藤原多子(藤原公能女)、
杉本圭三郎(全訳注)『平家物語(一)』(講談社学術文庫,1979)の「二代后」の訳を引く(@_@;)

    ・・・/故近衛院の后で、そのころ太皇太后宮と申された方は、大炊御門の
    右大臣公能公の御娘である。先帝、近衛天皇がなくなられた後は、宮廷を出て、
    近衛河原の御所に移り住んでおられた。前の皇后宮として、目立たないよう、
    静かにお暮しになっておられたが、永暦の頃は、御年も二十二、三になって
    おられたろうか、女の盛りも少し過ぎていらっしゃる年ごろであった。しかし、
    天下第一の美人という評判が高かったので、主上[=二条天皇]は色好みの御心で、
    ひそかに、かの玄宗皇帝が高力士に命じて美女を外宮に求めさせたように、
    側近を使者として宮廷の外に美人をたずねさせ、この大宮のところへ艶書を
    お送りになった。大宮はまったく受け入れなさらない。そこで主上は、ただいちずに
    この思いを公のことにして、后としてご入内なさるようにと、右大臣家に宣旨を
    下された。このことは天下に異例の重大事なので、公卿の会議で論議され、
    それぞれ意見が述べられた。/「まず、異国の先例を尋ねると、中国の則天皇后は、
    唐の太宗の后で、高宗皇帝の継母にあたるが、太宗がなくなった後、高宗の后に
    立たれた事がある。これは異国の先例であるうえ、特別な事例である。しかし、
    わが国では、神武天皇以来、人皇七十余代に及ぶ今日まで、まだ二代の后に
    たたれた[ママ]という例を聞いたことがない」/と、公卿たちは一同に申された。
    ・・・

「公卿たち」は則天武后を悪例とは解してないよね(@_@;) 四字の年号を奈良朝は模倣したし(^_^;)
タグ:歴史 中国
コメント(8) 
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コメント 8

tai-yama

中国の尼さんは額に焼き印を押されるとは!「肉」とか押されたり。
公卿層が定子に冷淡だったのは道長の子では無かった為な気が・・・
by tai-yama (2021-02-27 19:20) 

middrinn

困ったチャンである伊周の所為かと(^_^;)
by middrinn (2021-02-27 19:33) 

ナベちはる

フェンスも留め具も、何とかなって一安心ですね(^^;
by ナベちはる (2021-02-28 00:43) 

middrinn

ずっとガタガタと音がしてて気になってたんですよ(^_^;)
by middrinn (2021-02-28 06:43) 

そら

そんな日もありますよ
とりあえず音が収まって良かったですね(^^)
by そら (2021-02-28 06:48) 

middrinn

お金がかからずに直ったことが何よりです(^_^;)
by middrinn (2021-02-28 06:50) 

ネオ・アッキー

middrinnさんこんにちは。
読書は、静かな環境の中でしたいものです。
フェンスががたついていたとの事ですが、業者に頼まず、自力で直したとは、流石、読書にかける執念がそうさせたのでしょうか・・・?
by ネオ・アッキー (2021-02-28 16:04) 

middrinn

ナルホド(^_^;) 全く気付きませんでしたけど、
意識下の読書への執念が直させたのかも(^_^;)
by middrinn (2021-02-28 18:14) 

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