200309読んだ本
ニット帽も手袋も今季は御役御免かな(^_^;) 庭のあちこちでに咲き始めたハナニラ、可愛い(〃'∇'〃)
暖かくなって久しぶりに遭えたから「本当にマイケルという名前なの?」と訊ねるも返事は無し(^_^;)
【読んだ本】
森野宗明(校注・現代語訳)『伊勢物語』(講談社文庫,1972)所蔵本
阿部俊子(全訳注)『伊勢物語(上)』(講談社学術文庫,1979)を基本テキストにして、片桐洋一&
福井貞助&高橋正治&清水好子(校注・訳)『新編日本古典文学全集12 竹取物語 伊勢物語 大和物語
平中物語』(小学館,1994)の福井貞助による校注・訳、石田穣二(訳注)『新版 伊勢物語 付現代語
訳』(角川文庫,1979)、森野宗明(校注・現代語訳)『伊勢物語』(講談社文庫,1972)、中河與一
(訳注)『伊勢物語 付 現代語訳』(角川文庫,1953)等で補いつつ、『伊勢物語』をチンタラと読む
アポリネールの第21回(ノ≧▽≦)ノ 歌は森野宗明の訳を借りて第21段を要約するΣ( ̄ロ ̄lll)ヅガーン!
昔、男と女はラヴラヴだったが、何があったのか、男との仲はもうこれまでと、女は歌を書きつけて
家を出て行ってしまう( ̄◇ ̄;)
出でて去なば 心軽しと 言ひやせむ 世のありさまを 人は知らねば
もし、私が夫のもとを出て去ってしまったなら、世間では、私のことを、
心の軽い女だと言うのではなかろうか、私たち夫婦の仲がどのようなものかを、
ほかの人は知らないから(でもかまわないわ、うわさはうわさ、もうこれ以上
がまんができません)。
男は身に覚えがないと泣きまくり、門を出るもどちらを探せばよいか分からないので、家に戻って、
思ふかひ なき世なりけり 年月を あだに契りて 我や住まひし
あんなに愛していたのに、そのかいもない夫婦仲だったのだなあ、このいっしょに
すごした年月を、いいかげんな気持ちで夫婦の契りをして、私はくらしてきたか、
とんでもない、誠心誠意、夫として愛を注いできたのだ。それなのに……。
と言って、女が書き残していった歌を、ただぼうぜんと眺めたのだった(-ω-、) [更に、男は、]
今はいさ 思ひやすらむ 玉かづら 面影にのみ いとど見えつつ
あの人は、さて、どうかな、やはり私と同じように相手のことを今ごろ思っている
だろうか。どうせ出て行ってしまったくらいだからその点は悲観的だが……。でも、
私は、あの人が忘れられず、あの姿が、現実にはもちろん見えるはずもないが、
まぼろしとなって、いっそうはげしく、いつも目の前に浮かんできて……。
去った女は、しばらく経って、我慢できなくなったのだろうか、次のような歌を送ってきた(@_@;)
今はとて 忘るる草の 種をだに 人の心に まかせずもがな
今はもうこれかぎり、さっぱり忘れてしまおうと言って、私のことなど忘れてしまう
忘れ草の種だけでも、せめて、どうにかして、あなたの心にまかせないですませたい
ものだわ[「かってに家を出てしまったし、またよりをもどしてとは言いかねるけれど、
せめて、私のことだけは、今でもおぼえていてほしいの、という、虫がいいというか、
かわいいというか、女の歌。」と森野宗明は評する]。
これに対する男の返歌は、
忘れ草 植[う]うとだに聞く ものならば 思ひけりとは 知りもしなまし
もしあなたの心に、そのあなたのおっしゃる忘れ草を植えたとだけでも聞きましたなら、
忘れ草を植えなければ、私のことが忘れられないわけで、ああ、去ってしまいはしたが、
やはり今まで、私のことを思っていたのだなあということは、とにかく知ることが
できるでしょうがね(でも実際は、人の心にまかせたくないなど言いながら、かってに
とび出して今までおとずれなしだったのだから、とても今でも私のことを思っているなど
信じられませんな)。
こうして、昔より、いっそう熱烈に歌を詠み交わすようになって、男は、
忘るらむと 思ふ心の 疑ひに ありしよりけに ものぞ悲しき
(以前さっぱり見当もつかないのに私のもとを去ってしまったことがあるから)今も
私のことは、ほんとうは忘れているのだろうと、つい、疑わしく思われ、そうした疑惑に
いつも悩まされ、あなたが去った昔よりも格段に、不安におののく今の方が悲しい思いを
しています。今度はだいじょうぶでしょうね。
女の返歌は、
中空[なかぞら]に 立ち居る雲の 跡もなく 身のはかなくも なりにけるかな
中空にわきあがり浮いている雲がやがてあとかたもなく消えていくように、(そのように
おっしゃられると、せっかくこうして、また昔にもまして親密にお手紙など取りかわす
ような仲にもどったとはいうものの)結局、私の身が頼るべきところを失い、なんとも
心細い状態になってしまったのがよくわかりましたわ(でも、ほんとうに私はあなたを
愛しているのですよ)。
とは言うものの、それぞれ別の人と暮らすようになって疎遠に、めでたし めでたし・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
〈悲しく物思いに沈んでいた、と解すのが普通だが、「ながむ」の視覚性をもうすこし強く活かし、
女の書き残した歌をぼうぜんとして、うつろな気持ちで見ていた、と解す。〉とする森野宗明脚注に
得心も、片桐洋一『伊勢物語全読解』(和泉書院,2013)180頁の「と言ひて、ながめをり」の語釈の
「独りで物思いにふけりながらぼんやりとこの歌を口ずさんでいたのである。」もいい感じ(^_^;)
さて、この結末、何じゃそりゃ感だけど、渡辺実(校注)『新潮日本古典集成 伊勢物語』(新潮社,
1976)37頁の頭注欄解説も「・・・〈「またまた」以下[=上記要約の「こうして、昔より」以下]
は後人の追加の匂いが濃く、特に「中空に」の歌が宙に浮いている。〉と指摘してるC= (-。- ) フゥー
その「忘るらむと」と「中空に」の贈答歌、『伊勢物語』のように並んではいないけど、両歌とも
『新古今和歌集』にも入った(´・_・`) この贈答歌を鈴木日出男『伊勢物語評解』(筑摩書房,2013)
83頁は「・・・歌じたいとしての嚙みあいがたさを含んでいる。だいいち、二首に共通する語句が
一つとてない。」と指摘してて、たしかにその通りなんだけど、久保田淳『新古今和歌集全注釈 五』
(角川学芸出版,2012)は、そこにも意味を見出している( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
/『伊勢物語』では、一応贈答歌という形をとっているものの、相手の歌の句をとる
という、贈答歌で普通の詠み方は全くしていない。そのあたりにも二人の心がちぐはぐ
なことは露呈していると感じられる。・・・
また「忘るらんと」の歌について、久保田淳・前掲書は「一度ひびの入った夫婦仲は遂に元の鞘へは
戻らなかったという人生のペーソスを叙した一段の中の歌である。」と評しているC= (-。- ) フゥー
阿部俊子が、この段は「・・・こまやかな女心の機微を解さない男にあきたらなくて、別れて行った
男女の離合の微妙さを語ろうとしたものといえないであろうか。」(補説)と結論するのは「・・・
行く先がわからなければそのまま自問自答しながらもじっとしているという、男の激情的でない面が
女をいらいらさせたのであろう。」(「念じわびて」の語釈)との解釈から導き出されたかと(^_^;)
ただ、渡辺実36頁は、〈この[「人はいさ」の]歌は、後日男が女の居所を知って贈った贈歌だろう。
でないと「人はいさ」が効いてこず、次の「念じわびて」の深みがなくなり、更に後の「忘れ草」の
歌との関連が切れてします。〉(頭注2)として、「念じわびて」の意味を「返事をするまいと我慢
していた女が、耐えきれなくなって・・・」(頭注3)、「今はとて」の歌を詠んだとする(⌒~⌒)
「人はいさ」(あの人は、さあどうだろうか)という女への問いかけが鍵で、渡辺実36~37頁頭注4は
〈前の「人はいさ思ひやすらむ[あの人は、さあどうだろうか、私のことを思っているだろうか]」
がここ[=「忘れ草」の歌]まで糸を引いているのに注意。前の[「人はいさ」の歌]は女の気持ち
を打診したのだが、女が愛をなくしたわけでもないと[「今はとて」の歌で]知った今は、かえって
「今はとての歌では愛の証にならぬ」といった、女をなじるような態度をとって見せることが出来る
のである。〉と読み解き、森野宗明も「忘れ草」の歌をもって「時がたち、形勢逆転して、女が弱く
男が強い立場に立っていることに注意したい。」としているので、おそらく同旨なのだろうね(^_^;)
『伊勢物語』の成立過程という論点に興味が無いけど、片桐洋一187頁の末尾はメモっておく(^_^;)
・・・/ということは、「中空に立ちゐる雲の…」を末尾に持つこの第二十一段は、
皇太后宮越後本や小式部内侍本が流動しているのと同時期、つまり『伊勢物語』が
流動しながら形成されてゆく頃の姿を留めているということにもなる。そして、
このように見て来ると定家本系統だけが第二十一段の末尾に置いている「おのが世々
になりにければ、うとくなりにけり」という文も、その流動的生成過程のある時期に
加えられたものと思われるのである。『伊勢物語』がかなり長い時間をかけて、
何人もの作者によって形成されたということは、もはや常識となっているかと
思っていたが、それに反対して、一人の作者が一回に作ったのだと主張する研究者が
まだいたということを最近知ったのは大きな驚きであった。しかし、この第二十一段を
中心として、今、このように見て来たことを、一回成立説、単独作者説の立場からは、
どのように説明するのか、知りたいものである。/
ここまで書いといて、その「研究者」の名前を挙げないなんて生殺しだぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! イケズ!!
最後に、阿部俊子補説の次の記述、やはり和歌に詳しくない研究者だったことが判明ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
(36)「出て去なば心軽しといひやせむ……」の歌は、『古今六帖』に紀友則、
一本では業平の作と記されている。『古今六帖』の記す作者名が必ずしも信頼
出来るものでないことは言われているとおりであるが、・・・
片桐洋一189頁には〈[荷田]春満が「此歌、『六帖』に見えて友則の歌なり。異本には『業ひら』と
したる」と言っているのは、『古今六帖』の作者名表記が当該歌だけの作者を示すものであることを
知らずに、勅撰集と同じく前歌の作者名「友則」が次の歌にも及ぶものと誤解しての言辞であろう。〉
とあるぞオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 後半については、片桐189頁も「・・・『古今六帖』の作者名表記
が伝承をも含んで、かなり信じがたいものである上に、・・・」と指摘している___φ( ̄^ ̄ )メモメモ
・『伊勢物語』が描く「みやび」( https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-28 )、
日本文化として脈々と受け継がれているとされるがイタリア人こそが「みやび」・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-29
・17歳年下から17歳年上まで、この男の守備範囲の広さはゴールデングラブ賞ものやね( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-05
・在原業平の歌は鬼たちを感じ入らせるほどじゃなかったということかしらオホホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-07
・今井源衛の頭の悪さは知ってたが、敢えて言おう、バカチンであるとヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-22
・小野小町と在原業平による好色歌合戦と解釈する〈お笑い伊勢物語〉∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-02-24
暖かくなって久しぶりに遭えたから「本当にマイケルという名前なの?」と訊ねるも返事は無し(^_^;)
【読んだ本】
森野宗明(校注・現代語訳)『伊勢物語』(講談社文庫,1972)所蔵本
阿部俊子(全訳注)『伊勢物語(上)』(講談社学術文庫,1979)を基本テキストにして、片桐洋一&
福井貞助&高橋正治&清水好子(校注・訳)『新編日本古典文学全集12 竹取物語 伊勢物語 大和物語
平中物語』(小学館,1994)の福井貞助による校注・訳、石田穣二(訳注)『新版 伊勢物語 付現代語
訳』(角川文庫,1979)、森野宗明(校注・現代語訳)『伊勢物語』(講談社文庫,1972)、中河與一
(訳注)『伊勢物語 付 現代語訳』(角川文庫,1953)等で補いつつ、『伊勢物語』をチンタラと読む
アポリネールの第21回(ノ≧▽≦)ノ 歌は森野宗明の訳を借りて第21段を要約するΣ( ̄ロ ̄lll)ヅガーン!
昔、男と女はラヴラヴだったが、何があったのか、男との仲はもうこれまでと、女は歌を書きつけて
家を出て行ってしまう( ̄◇ ̄;)
出でて去なば 心軽しと 言ひやせむ 世のありさまを 人は知らねば
もし、私が夫のもとを出て去ってしまったなら、世間では、私のことを、
心の軽い女だと言うのではなかろうか、私たち夫婦の仲がどのようなものかを、
ほかの人は知らないから(でもかまわないわ、うわさはうわさ、もうこれ以上
がまんができません)。
男は身に覚えがないと泣きまくり、門を出るもどちらを探せばよいか分からないので、家に戻って、
思ふかひ なき世なりけり 年月を あだに契りて 我や住まひし
あんなに愛していたのに、そのかいもない夫婦仲だったのだなあ、このいっしょに
すごした年月を、いいかげんな気持ちで夫婦の契りをして、私はくらしてきたか、
とんでもない、誠心誠意、夫として愛を注いできたのだ。それなのに……。
と言って、女が書き残していった歌を、ただぼうぜんと眺めたのだった(-ω-、) [更に、男は、]
今はいさ 思ひやすらむ 玉かづら 面影にのみ いとど見えつつ
あの人は、さて、どうかな、やはり私と同じように相手のことを今ごろ思っている
だろうか。どうせ出て行ってしまったくらいだからその点は悲観的だが……。でも、
私は、あの人が忘れられず、あの姿が、現実にはもちろん見えるはずもないが、
まぼろしとなって、いっそうはげしく、いつも目の前に浮かんできて……。
去った女は、しばらく経って、我慢できなくなったのだろうか、次のような歌を送ってきた(@_@;)
今はとて 忘るる草の 種をだに 人の心に まかせずもがな
今はもうこれかぎり、さっぱり忘れてしまおうと言って、私のことなど忘れてしまう
忘れ草の種だけでも、せめて、どうにかして、あなたの心にまかせないですませたい
ものだわ[「かってに家を出てしまったし、またよりをもどしてとは言いかねるけれど、
せめて、私のことだけは、今でもおぼえていてほしいの、という、虫がいいというか、
かわいいというか、女の歌。」と森野宗明は評する]。
これに対する男の返歌は、
忘れ草 植[う]うとだに聞く ものならば 思ひけりとは 知りもしなまし
もしあなたの心に、そのあなたのおっしゃる忘れ草を植えたとだけでも聞きましたなら、
忘れ草を植えなければ、私のことが忘れられないわけで、ああ、去ってしまいはしたが、
やはり今まで、私のことを思っていたのだなあということは、とにかく知ることが
できるでしょうがね(でも実際は、人の心にまかせたくないなど言いながら、かってに
とび出して今までおとずれなしだったのだから、とても今でも私のことを思っているなど
信じられませんな)。
こうして、昔より、いっそう熱烈に歌を詠み交わすようになって、男は、
忘るらむと 思ふ心の 疑ひに ありしよりけに ものぞ悲しき
(以前さっぱり見当もつかないのに私のもとを去ってしまったことがあるから)今も
私のことは、ほんとうは忘れているのだろうと、つい、疑わしく思われ、そうした疑惑に
いつも悩まされ、あなたが去った昔よりも格段に、不安におののく今の方が悲しい思いを
しています。今度はだいじょうぶでしょうね。
女の返歌は、
中空[なかぞら]に 立ち居る雲の 跡もなく 身のはかなくも なりにけるかな
中空にわきあがり浮いている雲がやがてあとかたもなく消えていくように、(そのように
おっしゃられると、せっかくこうして、また昔にもまして親密にお手紙など取りかわす
ような仲にもどったとはいうものの)結局、私の身が頼るべきところを失い、なんとも
心細い状態になってしまったのがよくわかりましたわ(でも、ほんとうに私はあなたを
愛しているのですよ)。
とは言うものの、それぞれ別の人と暮らすようになって疎遠に、めでたし めでたし・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
〈悲しく物思いに沈んでいた、と解すのが普通だが、「ながむ」の視覚性をもうすこし強く活かし、
女の書き残した歌をぼうぜんとして、うつろな気持ちで見ていた、と解す。〉とする森野宗明脚注に
得心も、片桐洋一『伊勢物語全読解』(和泉書院,2013)180頁の「と言ひて、ながめをり」の語釈の
「独りで物思いにふけりながらぼんやりとこの歌を口ずさんでいたのである。」もいい感じ(^_^;)
さて、この結末、何じゃそりゃ感だけど、渡辺実(校注)『新潮日本古典集成 伊勢物語』(新潮社,
1976)37頁の頭注欄解説も「・・・〈「またまた」以下[=上記要約の「こうして、昔より」以下]
は後人の追加の匂いが濃く、特に「中空に」の歌が宙に浮いている。〉と指摘してるC= (-。- ) フゥー
その「忘るらむと」と「中空に」の贈答歌、『伊勢物語』のように並んではいないけど、両歌とも
『新古今和歌集』にも入った(´・_・`) この贈答歌を鈴木日出男『伊勢物語評解』(筑摩書房,2013)
83頁は「・・・歌じたいとしての嚙みあいがたさを含んでいる。だいいち、二首に共通する語句が
一つとてない。」と指摘してて、たしかにその通りなんだけど、久保田淳『新古今和歌集全注釈 五』
(角川学芸出版,2012)は、そこにも意味を見出している( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
/『伊勢物語』では、一応贈答歌という形をとっているものの、相手の歌の句をとる
という、贈答歌で普通の詠み方は全くしていない。そのあたりにも二人の心がちぐはぐ
なことは露呈していると感じられる。・・・
また「忘るらんと」の歌について、久保田淳・前掲書は「一度ひびの入った夫婦仲は遂に元の鞘へは
戻らなかったという人生のペーソスを叙した一段の中の歌である。」と評しているC= (-。- ) フゥー
阿部俊子が、この段は「・・・こまやかな女心の機微を解さない男にあきたらなくて、別れて行った
男女の離合の微妙さを語ろうとしたものといえないであろうか。」(補説)と結論するのは「・・・
行く先がわからなければそのまま自問自答しながらもじっとしているという、男の激情的でない面が
女をいらいらさせたのであろう。」(「念じわびて」の語釈)との解釈から導き出されたかと(^_^;)
ただ、渡辺実36頁は、〈この[「人はいさ」の]歌は、後日男が女の居所を知って贈った贈歌だろう。
でないと「人はいさ」が効いてこず、次の「念じわびて」の深みがなくなり、更に後の「忘れ草」の
歌との関連が切れてします。〉(頭注2)として、「念じわびて」の意味を「返事をするまいと我慢
していた女が、耐えきれなくなって・・・」(頭注3)、「今はとて」の歌を詠んだとする(⌒~⌒)
「人はいさ」(あの人は、さあどうだろうか)という女への問いかけが鍵で、渡辺実36~37頁頭注4は
〈前の「人はいさ思ひやすらむ[あの人は、さあどうだろうか、私のことを思っているだろうか]」
がここ[=「忘れ草」の歌]まで糸を引いているのに注意。前の[「人はいさ」の歌]は女の気持ち
を打診したのだが、女が愛をなくしたわけでもないと[「今はとて」の歌で]知った今は、かえって
「今はとての歌では愛の証にならぬ」といった、女をなじるような態度をとって見せることが出来る
のである。〉と読み解き、森野宗明も「忘れ草」の歌をもって「時がたち、形勢逆転して、女が弱く
男が強い立場に立っていることに注意したい。」としているので、おそらく同旨なのだろうね(^_^;)
『伊勢物語』の成立過程という論点に興味が無いけど、片桐洋一187頁の末尾はメモっておく(^_^;)
・・・/ということは、「中空に立ちゐる雲の…」を末尾に持つこの第二十一段は、
皇太后宮越後本や小式部内侍本が流動しているのと同時期、つまり『伊勢物語』が
流動しながら形成されてゆく頃の姿を留めているということにもなる。そして、
このように見て来ると定家本系統だけが第二十一段の末尾に置いている「おのが世々
になりにければ、うとくなりにけり」という文も、その流動的生成過程のある時期に
加えられたものと思われるのである。『伊勢物語』がかなり長い時間をかけて、
何人もの作者によって形成されたということは、もはや常識となっているかと
思っていたが、それに反対して、一人の作者が一回に作ったのだと主張する研究者が
まだいたということを最近知ったのは大きな驚きであった。しかし、この第二十一段を
中心として、今、このように見て来たことを、一回成立説、単独作者説の立場からは、
どのように説明するのか、知りたいものである。/
ここまで書いといて、その「研究者」の名前を挙げないなんて生殺しだぞヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! イケズ!!
最後に、阿部俊子補説の次の記述、やはり和歌に詳しくない研究者だったことが判明ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
(36)「出て去なば心軽しといひやせむ……」の歌は、『古今六帖』に紀友則、
一本では業平の作と記されている。『古今六帖』の記す作者名が必ずしも信頼
出来るものでないことは言われているとおりであるが、・・・
片桐洋一189頁には〈[荷田]春満が「此歌、『六帖』に見えて友則の歌なり。異本には『業ひら』と
したる」と言っているのは、『古今六帖』の作者名表記が当該歌だけの作者を示すものであることを
知らずに、勅撰集と同じく前歌の作者名「友則」が次の歌にも及ぶものと誤解しての言辞であろう。〉
とあるぞオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*) 後半については、片桐189頁も「・・・『古今六帖』の作者名表記
が伝承をも含んで、かなり信じがたいものである上に、・・・」と指摘している___φ( ̄^ ̄ )メモメモ
・『伊勢物語』が描く「みやび」( https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-28 )、
日本文化として脈々と受け継がれているとされるがイタリア人こそが「みやび」・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-29
・17歳年下から17歳年上まで、この男の守備範囲の広さはゴールデングラブ賞ものやね( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-05
・在原業平の歌は鬼たちを感じ入らせるほどじゃなかったということかしらオホホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-07
・今井源衛の頭の悪さは知ってたが、敢えて言おう、バカチンであるとヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-01-22
・小野小町と在原業平による好色歌合戦と解釈する〈お笑い伊勢物語〉∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-02-24
2020-03-09 18:33
コメント(12)
今朝はちょっと肌寒かったので上着を着て出社しましたが
帰りは暑かったので手荷物になりました(⌒-⌒; )
冬用の上着をそろそろクリーニングに出したいけど
毎年冬用を片付けると寒い日がやってくるので
「もう少し待つつもり」とかみさんが言ってますw
by ニッキー (2020-03-09 21:56)
えーい。女々しい。すっぱり分かれろ!と応援したり(笑)。
流れ的には女性に男ができたっぽいけど・・・
by tai-yama (2020-03-09 23:48)
久し振りに会えたはいいも、時間が経っていた関係でハナニラ側がmiddrinn様を憶えていなくて無言だったかもしれませんね(^^;
by ナベちはる (2020-03-10 01:36)
おはようございます^^
ニット帽も手袋も一応3月末まで手元に置いておこうと思うわたくしです。
「なんじゃこりゃ」ですよ^^ こう言うの一番嫌いね。
by mimimomo (2020-03-10 06:53)
ニッキー様のジンクスでしょうか(^_^;)
今朝は小雨なのに13度もありましたし、
湯タンポも今日から止めるなど少しずつ
春仕様へと変えていくつもりです(^_^;)
by middrinn (2020-03-10 09:30)
石田穣二が第22段の補注で述べてるのですが、
第21段で最初に女が出て行ってしまったのは、
男の浮気が原因ではないかと述べていまして、
tai-yama様、元々男に問題ありそう(^_^;)
by middrinn (2020-03-10 09:34)
その想像は物語の一部みたいで素敵ですね(^^)
ナベちはる様の内面世界は詩人のよう(〃'∇'〃)
by middrinn (2020-03-10 09:39)
洗濯して仕舞っちゃって、未練を断ち切るつもりです(^_^;)
mimimomo様、今朝なんか小雨なのに13度も((;゚Д゚)ヒィィィ!
一度ヒビが入ってしまうと修復できないのが男女の仲かも(..)
by middrinn (2020-03-10 09:43)
人の心、男女の仲、今も昔もあまり変わらないのかな^^;
それにしても無観客場所のなんと味気ないこと。
まさに気の抜けた炭酸飲料(華やかさパチパチがない)。
特に土俵入りでそれを感じたので、1人TVの前で「よ!照ちゃん!!」「琴ノ若!がんばれーーー!」「炎鵬~~♡」「栃ノ心!」ふだんは聞こえてくる声援を1人でやっていました^^;
今日も休みなので13時からBS観戦します。
どうか中止になりませんように…
by よしころん (2020-03-10 11:49)
いったん逸れてしまうと、交わらないのかも(-ω-、)
山中に声援が響いて、こだまするかもヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
TV中継に映る有名人や綺麗所を探す愉しみも(+_+)
by middrinn (2020-03-10 11:57)
我が家でも出て行かれるのだろうか!?? いい立場に居たいです(^_^)v
by yokomi (2020-03-10 21:28)
一心不乱に探して追いかけないとダメですよ(^o^)丿
by middrinn (2020-03-10 21:30)