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240414読んだ本

ボスのごり押しでスターになれた疑いのある若い女を老いた女は妬んで作り話をした可能性(@_@;)

【読んだ本】

石田吉貞&佐津川修二『源家長日記全註解』(有精堂,1968初版→1979四版)所蔵本

新古今時代を代表する若手女流歌人の宮内卿は「若いうちに死んでしまった」と『増鏡』にあるが、
建仁2年(1202年)の『水無瀬殿恋十五首歌合』では「主催者の後鳥羽院から改判の指示があった」
お陰で負を勝に改めてもらえたのに元久元年(1204年)の『春日社歌合』では「三首詠進して、全部
持という冴えない成績を残したのが、彼女の最後の歌歴」ということは、両歌合の間に後鳥羽院から
見限られた可能性(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-07 )(@_@;)
百目鬼恭三郎『新古今和歌集一夕話』(新潮社,1982)から引く( ̄◇ ̄;)

    ・・・/もっとも、彼女の死を早めた原因は他にもあるという説もある。『春日社
    歌合』の前年の建仁二年[←正しくは建仁3=1203年]十一月二十三日に和歌所で
    催された藤原俊成九十の賀で、宮内卿は院に命ぜられて、俊成に賜わる袈裟の歌
    「ながらへてけさぞうれしき老のなみ八千代をかけて君につかへむ」を作り、それを
    建礼門院右京大夫が紫の糸でぬいとった。が、夜になって急に「けさぞ」を「けさや」、
    「つかへむ」を「つかへよ」と訂正されることになった、という事実が『建礼門院
    右京大夫集』に記されている。つまり、宮内卿は、袈裟を賜わった俊成卿の気持で
    詠んだのだが、賜うほうの気持をあらわすほうが正しい、という意見が出て、この
    中途半端な訂正となったのであろう。とにかく、歌人としてはおよそ不名誉なことで、
    [石田吉貞は]『源家長日記全註解』の補注では、このショックがもとで死んだのでは
    ないかとしている。/・・・

それでは、その「補注」を本書から引く(なお、『建礼門院右京大夫集』の当該件については、既に
先日引いた⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-04-05 )(@_@;)

    宮内卿の歌は「俊成入道九十の賀」の袈裟歌以後一首も見えない。彼女は歌に熱心の
    あまり夭折したといわれるけれど、この袈裟歌の失敗がもとで死んだのではないか。
    彼女の没年は不明で、承元元年[1207年]とする説は誤りである。「宮内卿歿年考」
    (国語と国文学 昭和三十年八月号 石田吉貞)参照。

建仁3年(1203年)の「袈裟歌以後一首も見えない」とある点は「誤り」で、元久元年(1204年)の
『春日社歌合』に「三首詠進」していることは前述(@_@;) その事実を石田吉貞も認識してること
は百目鬼恭三郎・前掲書の次の記述(原文ママ)からも判る(^_^;)

    ・・・石田吉貞「宮内卿没年考」(『新古今世界と中世文学』下巻所収・北沢図書出版)
    によると、元久二年(一二〇五年)三月二日の勅命によって、現存の女流歌人の歌も
    『新古今集』の巻首に置かれることになったのに、あれほど院の寵愛の厚かった宮内卿の
    歌が巻首に置かれなかったのは、この時点で彼女がすでに死んでいたからと思われること、
    元久元年十一月十日の『春日社歌合』には出ているから、彼女の死は、元久元年十一月
    十日から、同二年三月二日までの間でなかろうかという。/・・・

思うに、石田吉貞の上記指摘は一考に値し、建仁3年(1203年)の藤原俊成九十賀の袈裟歌の一件で
後鳥羽院は宮内卿の歌才を見限ったかと(@_@;) 「・・・あれほど宮内卿の歌才を愛した後鳥羽院
さえ、後年の『後鳥羽院御口伝』では一言も彼女に言及していないのである。」とは百目鬼恭三郎が
指摘するところである(@_@;) 更に「後年」=隠岐に流されてからの「時代不同歌合」に後鳥羽院
は宮内卿の歌を3首(建仁元=1201年の『仙洞句題五十首』から2首、同年の『老若五十首歌合』から
1首と樋口芳麻呂[校注]『王朝秀歌選』[岩波文庫,1983]に)選んで入れてはいるけどね(@_@;)

ただ、袈裟歌の一件が事実なのか怪しいことは前に指摘した通りで、歌壇で脚光を浴びている若~い
宮内卿に老いて俊成九十賀の宴の歌を出す機会も与えられなかった建礼門院右京大夫が嫉妬した挙句
でっち上げた与太話だったりして(@_@;) 加えて、「給はりたらむ人の歌にては、今すこしよかり
ぬべく、心のうちにおぼえしかども」(=「頂戴する俊成さまの歌としてはもう少し良さそうなはず
だと思われましたが」)の「今すこしよかりぬべく」の語釈で糸賀きみ江(全訳注)『建礼門院右京
大夫集』(講談社学術文庫,2009)は「時の宮廷歌壇の才女宮内卿の歌に対するきわめて辛辣な批評
の言葉である。」と評してるけど、建礼門院右京大夫も「袈裟を賜わった俊成卿の気持で詠」むこと
自体には疑いを持ってない(@_@;) 「もとより、院からの贈物の装束の袈裟であるから、院の立場
で詠出する賀歌でなければならない。」(糸賀きみ江・前掲書)ことに彼女も気付いてない(@_@;)
タグ:歴史 和歌
コメント(4) 
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コメント 4

tai-yama

「セクシー田中さん」の原作者な心境になったのかも・・・
脚本家は建礼門院右京大夫っ!
by tai-yama (2024-04-14 22:29) 

middrinn

糸賀きみ江・前掲書は『建礼門院右京大夫集』は書き継がれて貞永元年(1232年)まで
には成立としか記してないけど、当該件は宮内卿の死後に書かれたんじゃないか(@_@;)
by middrinn (2024-04-15 05:48) 

df233285

なるほど。囲碁・将棋も好きだった後鳥羽院は、今の日本の国会
などとは真逆で、馬力の有る若者だけで、取り巻き側近を造ろうと
していたという事らしいですね。その時代の、将棋の指し手の主体
に関する実態を想像する、手がかりを頂きたいへんありがたいです。
by df233285 (2024-04-15 06:16) 

middrinn

後鳥羽院の宮内卿に対する態度は泣かずに馬謖を斬る感(^_^;)
by middrinn (2024-04-15 14:45) 

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