240405読んだ本
全くのド素人の疑問なんだけど、縫い針と筆、完全に同じように扱えるものなのだろうか(@_@;)
歩いて山を越え谷を越え図書館へ行ったのに官報はコピーも予約した本を受け取るのを失念(T_T)
こんなに寒いのに桜はどこも満開に近かったが月曜予定の桜を見る会は雨天中止になりそう(+_+)
【読んだ本】
糸賀きみ江(全訳注)『建礼門院右京大夫集』(講談社学術文庫,2009)所蔵本
高倉天皇の中宮で安徳天皇の母の建礼門院(平清盛女の徳子)に仕えた女房(藤原行成の子孫で藤原
伊行女)の家集『建礼門院右京大夫集』を「小生は(ある一点を除き)興味ナシオン主権(@_@;)」
と書いたが(240316三日前に買った本)、その「ある一点」が出てくる件を本書の訳で引く(@_@;)
/建仁三年[1203年]の年、十一月の二十何日のことでしたでしょうか。五条の
三位入道[藤原]俊成が九十歳になると後鳥羽院はお聞きあそばされて、院から
長寿を祝う宴を下賜されましたが、その折、贈り物の法服装束の袈裟に歌を書く
ようにとのことで、源師光入道の女[むすめ]宮内卿の殿に歌を命じて詠ませ、
わたくしは院のご命令で、その歌を紫の糸で刺繡をしてさし上げました。
ながらへて けさぞうれしき 老の波 やちよをかけて 君に仕へむ
生きながらえて 祝意を賜る今朝は うれしく光栄でございます
このあと幾千年も長生きして わが君にお仕えしたく存じます
という歌でした。頂戴する俊成さまの歌としてはもう少し良さそうなはずだと
思われましたが、当然そのとおりにしなければならないので、そのまま刺繡を
しました。しかし、「けさぞ」の「ぞ」文字、「仕へむ」の「む」文字を、
それぞれ「や」と「よ」とになるべきであったといって、急にその夜になって、
院の御所の二条殿へ参れという院のご命令だといって、[藤原]範光の中納言
の車が迎えに来たのでそれに乗って参上し、二文字を刺繡し直しました。その
まま祝賀の宴の様子も拝見したくて、夜通し伺候して拝見していましたが、・・・
余談だけど、増賀の辞世の歌に出てくる〈・・・「老の波」という表現自体は、これも先行例未詳で
ある。〉と三木紀人『多武峰ひじり譚』(法藏館法藏選書,1988)は指摘してる(^_^;) 話を戻すと、
春名好重『能書百話』(淡交社,1986)の「三一 藤原伊行」に次の件がある(^_^;) なお、原文では
「歟」が略字(^_^;)
・・・[三蹟の藤原行成が開祖の]世尊寺家は書の重代の家として尊重されていたから、
先祖以来の「口伝」が伝えられていたことと考えられる。・・・伊行の『夜鶴庭訓抄』は
伊行が女(建礼門院右京大夫歟)に書いて与えた秘書である。『夜鶴庭訓抄』に「家の
ならひ」「家の風」「故実」「口伝」「秘説」などを簡略に書いている。・・・
つまり、建礼門院右京大夫は世尊寺流を受け継いだ能書だった可能性があり、「袈裟に歌を書く」=
「紫の糸で刺繡」する役目を後鳥羽院から命じられたというのも然もありなん、と(^_^;) ところが、
久保田淳(校注・訳)『建礼門院右京大夫集』(久保田淳[校注・訳]『新編日本古典文学全集47
建礼門院右京大夫集 とはずがたり』[小学館,1999]所収)161頁の頭注欄に次の指摘が(@_@;)
九十賀関係の資料( →[歌番号]三五六注一一[=『俊成卿九十賀記』
『源家長日記』『俊成九十賀和歌』、新拾遺・賀・706詞書])のどれにも、
作者[建礼門院右京大夫]が糸を置いた記述は見当らない。彼女はあまりに
古女房であり、賀宴の歌を出す機会は、若い二人の才女( → 三五六注九
[=宮内卿&「俊成の女」])にしか与えられなかった。しかし、袈裟に
糸を置くのは余人のなし得ぬ大役で、入木道[じゅぼくどう=書道]の名誉
にはちがいなかった。
「糸を置くのは余人のなし得ぬ大役」なら勤め上げた人物の名前が記録されてないのは不審(@_@;)
『源家長日記』を確認すると、建礼門院右京大夫が「糸を置いた記述が見当らない」だけではなく、
更に不審な点があり、石田吉貞&佐津川修二『源家長日記全註解』(有精堂,1968初版→1979四版)
の「二三 俊成入道九十の賀(建仁三年)」から通釈を(歌の意を語釈から補って)引く(@_@;)
・・・その(入道[俊成]の)座の下に、(入道に賜わる)法衣・杖などが置かれた。
その袈裟の歌は女房の宮内卿が(仰せを)承り、杖の歌は[藤原]有家朝臣が(仰せを)
承った。これらの人たち(に命ぜられたの)も、代々の歌の家の人であることを思し
召されたからであろう。
(その)袈裟の歌は、
ながらへて けさやうれしき 老のなみ やちよをかけて 君につかへよ
[ながらえて今日はこのような賀を賜わり袈裟をいただいて、どんなに
うれしいことでしょうか。今後ともいつまでもながらえて(老の波を
八千代にかける)、この袈裟を八千代までもかけて、君に仕えて下さい。]
杖の歌は、
ももとせの ちかづく坂に つきそめて いまゆえすゑも かかれとぞ思ふ
[百年も近づこうとする九十の坂からこの杖をつき始めて、今後も
なおこのように老の坂をついてくれと思うことである。]
袈裟の歌は紫の糸で縫い物にして付けた。杖の歌は直接その袋に同じく
(紫の糸で)縫いつけた。・・・
『建礼門院右京大夫集』には何故か藤原有家の歌を「杖」に「縫いつけた」話が出てこない(@_@;)
仮に建礼門院右京大夫が「袈裟」も「杖」も担当したなら「袈裟」のことしか記さないのは何故か、
そもそも「九十賀関係の資料」に建礼門院右京大夫が「糸を置いた記述は見当らない」以上は彼女が
本当に「袈裟」を担当したのか、もしも担当してなかったのに斯く記したのであれば何故なのか等の
疑問が生じるが、少なくとも、彼女が「袈裟」について記したかったということだけは確実(@_@;)
歩いて山を越え谷を越え図書館へ行ったのに官報はコピーも予約した本を受け取るのを失念(T_T)
こんなに寒いのに桜はどこも満開に近かったが月曜予定の桜を見る会は雨天中止になりそう(+_+)
【読んだ本】
糸賀きみ江(全訳注)『建礼門院右京大夫集』(講談社学術文庫,2009)所蔵本
高倉天皇の中宮で安徳天皇の母の建礼門院(平清盛女の徳子)に仕えた女房(藤原行成の子孫で藤原
伊行女)の家集『建礼門院右京大夫集』を「小生は(ある一点を除き)興味ナシオン主権(@_@;)」
と書いたが(240316三日前に買った本)、その「ある一点」が出てくる件を本書の訳で引く(@_@;)
/建仁三年[1203年]の年、十一月の二十何日のことでしたでしょうか。五条の
三位入道[藤原]俊成が九十歳になると後鳥羽院はお聞きあそばされて、院から
長寿を祝う宴を下賜されましたが、その折、贈り物の法服装束の袈裟に歌を書く
ようにとのことで、源師光入道の女[むすめ]宮内卿の殿に歌を命じて詠ませ、
わたくしは院のご命令で、その歌を紫の糸で刺繡をしてさし上げました。
ながらへて けさぞうれしき 老の波 やちよをかけて 君に仕へむ
生きながらえて 祝意を賜る今朝は うれしく光栄でございます
このあと幾千年も長生きして わが君にお仕えしたく存じます
という歌でした。頂戴する俊成さまの歌としてはもう少し良さそうなはずだと
思われましたが、当然そのとおりにしなければならないので、そのまま刺繡を
しました。しかし、「けさぞ」の「ぞ」文字、「仕へむ」の「む」文字を、
それぞれ「や」と「よ」とになるべきであったといって、急にその夜になって、
院の御所の二条殿へ参れという院のご命令だといって、[藤原]範光の中納言
の車が迎えに来たのでそれに乗って参上し、二文字を刺繡し直しました。その
まま祝賀の宴の様子も拝見したくて、夜通し伺候して拝見していましたが、・・・
余談だけど、増賀の辞世の歌に出てくる〈・・・「老の波」という表現自体は、これも先行例未詳で
ある。〉と三木紀人『多武峰ひじり譚』(法藏館法藏選書,1988)は指摘してる(^_^;) 話を戻すと、
春名好重『能書百話』(淡交社,1986)の「三一 藤原伊行」に次の件がある(^_^;) なお、原文では
「歟」が略字(^_^;)
・・・[三蹟の藤原行成が開祖の]世尊寺家は書の重代の家として尊重されていたから、
先祖以来の「口伝」が伝えられていたことと考えられる。・・・伊行の『夜鶴庭訓抄』は
伊行が女(建礼門院右京大夫歟)に書いて与えた秘書である。『夜鶴庭訓抄』に「家の
ならひ」「家の風」「故実」「口伝」「秘説」などを簡略に書いている。・・・
つまり、建礼門院右京大夫は世尊寺流を受け継いだ能書だった可能性があり、「袈裟に歌を書く」=
「紫の糸で刺繡」する役目を後鳥羽院から命じられたというのも然もありなん、と(^_^;) ところが、
久保田淳(校注・訳)『建礼門院右京大夫集』(久保田淳[校注・訳]『新編日本古典文学全集47
建礼門院右京大夫集 とはずがたり』[小学館,1999]所収)161頁の頭注欄に次の指摘が(@_@;)
九十賀関係の資料( →[歌番号]三五六注一一[=『俊成卿九十賀記』
『源家長日記』『俊成九十賀和歌』、新拾遺・賀・706詞書])のどれにも、
作者[建礼門院右京大夫]が糸を置いた記述は見当らない。彼女はあまりに
古女房であり、賀宴の歌を出す機会は、若い二人の才女( → 三五六注九
[=宮内卿&「俊成の女」])にしか与えられなかった。しかし、袈裟に
糸を置くのは余人のなし得ぬ大役で、入木道[じゅぼくどう=書道]の名誉
にはちがいなかった。
「糸を置くのは余人のなし得ぬ大役」なら勤め上げた人物の名前が記録されてないのは不審(@_@;)
『源家長日記』を確認すると、建礼門院右京大夫が「糸を置いた記述が見当らない」だけではなく、
更に不審な点があり、石田吉貞&佐津川修二『源家長日記全註解』(有精堂,1968初版→1979四版)
の「二三 俊成入道九十の賀(建仁三年)」から通釈を(歌の意を語釈から補って)引く(@_@;)
・・・その(入道[俊成]の)座の下に、(入道に賜わる)法衣・杖などが置かれた。
その袈裟の歌は女房の宮内卿が(仰せを)承り、杖の歌は[藤原]有家朝臣が(仰せを)
承った。これらの人たち(に命ぜられたの)も、代々の歌の家の人であることを思し
召されたからであろう。
(その)袈裟の歌は、
ながらへて けさやうれしき 老のなみ やちよをかけて 君につかへよ
[ながらえて今日はこのような賀を賜わり袈裟をいただいて、どんなに
うれしいことでしょうか。今後ともいつまでもながらえて(老の波を
八千代にかける)、この袈裟を八千代までもかけて、君に仕えて下さい。]
杖の歌は、
ももとせの ちかづく坂に つきそめて いまゆえすゑも かかれとぞ思ふ
[百年も近づこうとする九十の坂からこの杖をつき始めて、今後も
なおこのように老の坂をついてくれと思うことである。]
袈裟の歌は紫の糸で縫い物にして付けた。杖の歌は直接その袋に同じく
(紫の糸で)縫いつけた。・・・
『建礼門院右京大夫集』には何故か藤原有家の歌を「杖」に「縫いつけた」話が出てこない(@_@;)
仮に建礼門院右京大夫が「袈裟」も「杖」も担当したなら「袈裟」のことしか記さないのは何故か、
そもそも「九十賀関係の資料」に建礼門院右京大夫が「糸を置いた記述は見当らない」以上は彼女が
本当に「袈裟」を担当したのか、もしも担当してなかったのに斯く記したのであれば何故なのか等の
疑問が生じるが、少なくとも、彼女が「袈裟」について記したかったということだけは確実(@_@;)
冒頭の図書館での一コマ話を読むと、右肩下がり国家の雰囲気が
良く感じられますねぇ。前世紀でしたが。筑波で顔認定から私は
来客をリアルタイム割り出しするシステムを見た事があるような
記憶が有ります。その延長なら今頃は、公立の図書館で来た利用者
が、依頼本の受け取りを忘れて帰りそうになったら、入口の防犯
装置で、ブザーが鳴り、引取り忘れ案内の出るような時代になって
いたはずですよね。寝てても良いが、スマホで会議中、ド忘れ事
を調べようと、Netで問い合わせると怒られる、某国国会みたい
なものですかねえ。
by df233285 (2024-04-06 06:48)
図書館の利用に顏の登録が必要となりますね(^_^;)
マイナカードが図書館利用証になったりして(^_^;)
予約本を受け取らずに出ようとすると盗難防止用の
ブックディテクションシステム(BDS)作動(^_^;)
by middrinn (2024-04-06 14:56)
90歳でも針の穴に糸が通せたと(驚)。
「幾千年も長生きして」・・・一応、真言宗の総本山では、弘法大師
様はまだ生きているっ(ことになっている)。
by tai-yama (2024-04-06 19:28)
俊成の90歳のお祝いの袈裟に建礼門院右京大夫が刺繡ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
by middrinn (2024-04-07 05:00)