240216読んだ本
突然5000円以上で使える1500円クーポン等が付与され在庫検索しまくったら「お買い忘れはございま
せんか?お客様へのおすすめ商品をご紹介」なるメールが「HMV&BOOKS online」から届いた(@_@;)
「お客様がこれまでにチェックされた商品を参考に、おすすめ商品を紹介させていただきます。」と
して30冊ほど「チェック」した中の10冊が「おすすめ商品」として出てたんだけど、その内の3冊が
付与の翌日の「240124読んだ本」に5000円に248円不足だが一つの「プラン」として記した倉本一宏
(全現代語訳)『藤原行成「権記」』(講談社学術文庫,2011-12)上中下巻だった(@_@;) ブログ
に書いたぐらいだから、その3冊については最初から買う気などナシオン主権だったけどね(@_@;)
モチ買う価値が無いわけではない(図書館で借り目を通したけど、その後もよく参照する)(@_@;)
クーポンの利用期限は18日なので明日は再び在庫検索しまくってみるかなo(-`д´- o)ガンバッチャウヨ!!
【読んだ本】
宇野直人&江原正士『漢詩を読む 3 白居易から蘇東坡へ』(平凡社,2011)所蔵本
駒田信二『漢詩名句 はなしの話』(文春文庫,1982)をチンタラ読んでいて、昨日は韋応物「聞雁」
(雁を聞く)の「故園渺[びょう]として何れの処ぞ」だったけど、作者の韋応物について同書は、
・・・長安(陝西省西安市)の人。若いころは任侠の徒として放埓な生活を
送ったが、後、学問に励んで進士に合格し、・・・
として歴任した官職を紹介するのみだけど、前野直彬(注解)『唐詩選 (下)』(岩波文庫,1963)
巻末の「唐詩選詩人小伝」を見ると、
・・・若いころは任侠を好み、玄宗の護衛となったが、帝の死後は行状を
あらためて読書に志した。・・・
とあり、松浦友久『中国詩選 三 唐詩』(社会思想社現代教養文庫,1972)巻末の「作者小伝」でも
・・・若いころには任侠を好み、玄宗の近衛兵となったが恩寵をたのんで
放恣だったという。のち、玄宗の成都蒙塵に従い、帝の死後は読書にはげんだ。
・・・
としており、松浦友久『唐詩の旅 黄河篇』(社会思想社現代教養文庫,1980)巻末の「作者小伝」も
・・・若いころには任侠を好み、玄宗の近衛兵となったが、恩寵をたのんで
放恣だったという。安禄山の乱のおりに、玄宗に従って成都に赴く。帝の死後は、
一転勉学にはげんだ。・・・
となってて、韋応物という詩人がチト興味深く感じられてきた次第(^_^;) そこで、本書なのだが、
「一、摸索のとき」で「内省と逡巡の人」として韋応物を取り上げているので披いてみた(@_@;)
・・・ちょっと変わった経歴で、宮中で玄宗皇帝の護衛官を務めていました。
──玄宗皇帝のボディガードだったわけですか。いくつぐらいの時ですか?
十七、八歳ごろです。代々宰相や将軍を多く出している名門の出身で、推薦を受けて
宮中に仕えました。
──推薦というからには、腕もたったんでしょうね。
小さいころから任侠、剣術に興味があったと記録が残っています。ただ名家という
後ろ盾を笠に着て、傲慢な振る舞いもあったようです。
──その辺はどこか李白に似ていますね。
そうですね。ところが間もなく安史の乱が起こって職を失い、南を放浪する生活に
入ります。でも友人たちの尽力によって、間もなく官職に復帰できました。その後は
官吏としては順調で、地方や中央の官職を転々としました。
──玄宗皇帝のボディガードには推薦でなったとのことですが、復職の際は、彼自身は
ライセンスをもっていなかったですよね?
ええ、科挙試験は受けていませんでした。安史の乱という非常事態に直面して、それまで
の生活態度を反省したのでしょうか、復職してからむしろ勉学に励んだようです。それで
四十代後半からは南の方へ長官として赴任し、善政を布いたと言われています。ただ
変わっているのは、いろんな官職を転々とする中で、一つの官職を辞めるたびに山に
こもって隠居しているんです。
──は?それ、どういうことなんでしょう?一つの職ごとに人間関係に爪突[つまづ]い
たり、何か想うことがあって、リセットするためにこもったんですかね。
ああ、そうかも知れません。ただ、その隠居の時期に学問や詩作に励んだとされています。
何を「後ろ盾」にして「傲慢な振る舞い」があったかは解釈・評価の違いだけど、駒田信二が「進士
に合格」と記しているのに「科挙試験は受けていません」と宇野直人が答えているのは不審(@_@;)
でも、先に進むと、聞き手の江原正士のリードによって修正(訂正)が図られているような(@_@;)
──なるほど。最初の詩[「観田家」(田家を観る)]はいくつぐらいの時の作品ですか?
四十五、六歳ごろの詩で、すでに官僚としてのルートが安定してからの作です。
──では、ちゃんと科挙試験に受かって任地に赴いたと。努力したんですね。
江原正士の「ちゃんと科挙試験に受かって」発言を宇野直人は否定してないし、また「復職の際」は
「科挙試験は受けていません」との前言から、韋応物は「復職後」の「官職を辞めるたび」の「隠居
の時期に学問・・・に励ん」で科挙試験に合格したというのが宇野直人の認識なのだろうか(@_@;)
──玄宗皇帝のボディガードをしている頃は当然、食べるのには困りませんでしたよね。
それが安史の乱に巻き込まれて失職してから勉強して科挙試験を受けたのは、一族の財産
だけで食べていくことが難しくなって、実務能力をつけなきゃいけないということも
あったんですかね。
ああ、その可能性はあります。
安史の乱に伴う「失職」から「復職」するまでの間に「科挙試験を受けた」と読めるのだが(@_@;)
「進士に合格」したのは「復職」の前か後か、どっちだ(@_@;) なお、外山軍治『則天武后 女性と
権力』(中公新書,1966⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-04-20 )には
中宗の皇后の韋后の父の韋玄貞について「韋氏の家は京兆万年(陝西省西安)、いわゆる関隴[かん
ろう]集団に属する名家の一つである。」(同書94~95頁)と説明し、また同書161頁には「・・・
宰相の一人韋安石・・・」が登場するけど、これらの人たちとも韋応物は関係があるのかな(@_@;)
・「草堂記」「微之に與ふる書」も読まずにテキトーなことゆーな!ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-02-11
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(全現代語訳)『藤原行成「権記」』(講談社学術文庫,2011-12)上中下巻だった(@_@;) ブログ
に書いたぐらいだから、その3冊については最初から買う気などナシオン主権だったけどね(@_@;)
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クーポンの利用期限は18日なので明日は再び在庫検索しまくってみるかなo(-`д´- o)ガンバッチャウヨ!!
【読んだ本】
宇野直人&江原正士『漢詩を読む 3 白居易から蘇東坡へ』(平凡社,2011)所蔵本
駒田信二『漢詩名句 はなしの話』(文春文庫,1982)をチンタラ読んでいて、昨日は韋応物「聞雁」
(雁を聞く)の「故園渺[びょう]として何れの処ぞ」だったけど、作者の韋応物について同書は、
・・・長安(陝西省西安市)の人。若いころは任侠の徒として放埓な生活を
送ったが、後、学問に励んで進士に合格し、・・・
として歴任した官職を紹介するのみだけど、前野直彬(注解)『唐詩選 (下)』(岩波文庫,1963)
巻末の「唐詩選詩人小伝」を見ると、
・・・若いころは任侠を好み、玄宗の護衛となったが、帝の死後は行状を
あらためて読書に志した。・・・
とあり、松浦友久『中国詩選 三 唐詩』(社会思想社現代教養文庫,1972)巻末の「作者小伝」でも
・・・若いころには任侠を好み、玄宗の近衛兵となったが恩寵をたのんで
放恣だったという。のち、玄宗の成都蒙塵に従い、帝の死後は読書にはげんだ。
・・・
としており、松浦友久『唐詩の旅 黄河篇』(社会思想社現代教養文庫,1980)巻末の「作者小伝」も
・・・若いころには任侠を好み、玄宗の近衛兵となったが、恩寵をたのんで
放恣だったという。安禄山の乱のおりに、玄宗に従って成都に赴く。帝の死後は、
一転勉学にはげんだ。・・・
となってて、韋応物という詩人がチト興味深く感じられてきた次第(^_^;) そこで、本書なのだが、
「一、摸索のとき」で「内省と逡巡の人」として韋応物を取り上げているので披いてみた(@_@;)
・・・ちょっと変わった経歴で、宮中で玄宗皇帝の護衛官を務めていました。
──玄宗皇帝のボディガードだったわけですか。いくつぐらいの時ですか?
十七、八歳ごろです。代々宰相や将軍を多く出している名門の出身で、推薦を受けて
宮中に仕えました。
──推薦というからには、腕もたったんでしょうね。
小さいころから任侠、剣術に興味があったと記録が残っています。ただ名家という
後ろ盾を笠に着て、傲慢な振る舞いもあったようです。
──その辺はどこか李白に似ていますね。
そうですね。ところが間もなく安史の乱が起こって職を失い、南を放浪する生活に
入ります。でも友人たちの尽力によって、間もなく官職に復帰できました。その後は
官吏としては順調で、地方や中央の官職を転々としました。
──玄宗皇帝のボディガードには推薦でなったとのことですが、復職の際は、彼自身は
ライセンスをもっていなかったですよね?
ええ、科挙試験は受けていませんでした。安史の乱という非常事態に直面して、それまで
の生活態度を反省したのでしょうか、復職してからむしろ勉学に励んだようです。それで
四十代後半からは南の方へ長官として赴任し、善政を布いたと言われています。ただ
変わっているのは、いろんな官職を転々とする中で、一つの官職を辞めるたびに山に
こもって隠居しているんです。
──は?それ、どういうことなんでしょう?一つの職ごとに人間関係に爪突[つまづ]い
たり、何か想うことがあって、リセットするためにこもったんですかね。
ああ、そうかも知れません。ただ、その隠居の時期に学問や詩作に励んだとされています。
何を「後ろ盾」にして「傲慢な振る舞い」があったかは解釈・評価の違いだけど、駒田信二が「進士
に合格」と記しているのに「科挙試験は受けていません」と宇野直人が答えているのは不審(@_@;)
でも、先に進むと、聞き手の江原正士のリードによって修正(訂正)が図られているような(@_@;)
──なるほど。最初の詩[「観田家」(田家を観る)]はいくつぐらいの時の作品ですか?
四十五、六歳ごろの詩で、すでに官僚としてのルートが安定してからの作です。
──では、ちゃんと科挙試験に受かって任地に赴いたと。努力したんですね。
江原正士の「ちゃんと科挙試験に受かって」発言を宇野直人は否定してないし、また「復職の際」は
「科挙試験は受けていません」との前言から、韋応物は「復職後」の「官職を辞めるたび」の「隠居
の時期に学問・・・に励ん」で科挙試験に合格したというのが宇野直人の認識なのだろうか(@_@;)
──玄宗皇帝のボディガードをしている頃は当然、食べるのには困りませんでしたよね。
それが安史の乱に巻き込まれて失職してから勉強して科挙試験を受けたのは、一族の財産
だけで食べていくことが難しくなって、実務能力をつけなきゃいけないということも
あったんですかね。
ああ、その可能性はあります。
安史の乱に伴う「失職」から「復職」するまでの間に「科挙試験を受けた」と読めるのだが(@_@;)
「進士に合格」したのは「復職」の前か後か、どっちだ(@_@;) なお、外山軍治『則天武后 女性と
権力』(中公新書,1966⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-04-20 )には
中宗の皇后の韋后の父の韋玄貞について「韋氏の家は京兆万年(陝西省西安)、いわゆる関隴[かん
ろう]集団に属する名家の一つである。」(同書94~95頁)と説明し、また同書161頁には「・・・
宰相の一人韋安石・・・」が登場するけど、これらの人たちとも韋応物は関係があるのかな(@_@;)
・「草堂記」「微之に與ふる書」も読まずにテキトーなことゆーな!ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2024-02-11
頑張っちゃうのは「権記」上中下巻を購入することかと思ったり(笑)。
韋応物さんも、勉強o(-`д´- o)ガンバッチャウヨ!!な感じで山籠りへ・・・
by tai-yama (2024-02-17 19:03)
優れた詩人だったようなので、能力は元々高かったのかも(@_@;)
by middrinn (2024-02-18 04:07)