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230323読んだ本

受理された辞表はどうなるのかな(@_@;) 辞表博物館で収蔵・展示されてたりしてv( ̄∇ ̄)ニヤッ

【読んだ本】

春名好重『上代能書伝』(木耳社,1972)所蔵本
春名好重『能書百話』(淡交社,1986)

春名好重が『上代能書伝』の「藤原公任」の章で次のように記してて不思議に思った点が(@_@;)

    ・・・藤原忠実の日記「殿暦」の天仁元年(一一〇八)八月十三日の条に、摂政忠実の
    上表を藤原定実(行成の曾孫)が書いたことが記されている。それに関連して、長和五年
    (一〇一六)道長の摂政の辞表を公任が書いたことが記されている。定実は当時第一の
    能書である。長和五年は行成の四十五歳の時である。行成になにかさしつかえがあって
    書くことができなかったので、公任が書いたらしいが、「手書き」が書くならわしに
    なっていた摂政の辞表を公任が書いたということは、公任もすぐれた能書と認められて
    いたからである。/・・・

ちなみに、この「手書き」とは『能書百話』の「あとがき」に〈古人は書のじょうずな人を「能書」
とか「手書き」とかといった。〉(254頁)とある(^^) その『能書百話』の「二四 藤原公任」の項
でも春名好重は次のように記している(71頁)(@_@;)

    ・・・藤原忠実の日記『殿暦』の天仁元年(一一〇八)八月十三日条に、長和五年
    (一〇一六)公任が道長の摂政の辞表を書いたことが記されている。色紙形や摂政
    の辞表を書くのは手書きである。その故、公任は手書きとして尊重されていたこと
    がわかる。・・・

不思議に思ったのは『能書百話』の「二五 藤原定頼」の項に次の記述(73頁)があるから(@_@;)

    ・・・/長和五年十月二日、定頼は道長の上表を書いた。道長の日記『御堂関白記』
    に、定頼が書いた上表は「甚以美也」と書いている。長和五年に定頼は二十二歳で
    あった。早くから能書と認められていた。・・・

藤原定頼は藤原公任の子で、先ず『御堂関白記』の長和5年(1016年)10月2日条の当該件を倉本一宏
(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫,2009)の訳で引く(@_@;)

     二日、癸酉。 上表/道長第薬師法修善

    午の後剋に小雨が降った。申剋に、私は摂政・左大臣・准三后の辞表を後一条天皇
    に奏聞した。(藤原)兼綱を使者とした。(藤原)資平朝臣が、内々に勅答の草案
    を持って来た。すぐに資平が、勅答使として来た。一条院別納の直盧において、
    この勅答を奉った。南面の第三間に勅答使の座を設けた。(藤原)惟憲が、勅答使
    が来たことを申した。勅答使はすぐに倚子[いし]に着した。右衛門督(藤原頼宗)
    が、私に代わって、東方の階[きざはし]の蔭の内において拝舞を行なった。これは
    雨によるものである。式次第は、常と同じであった。辞表の作者は(藤原)広業で、
    右中弁(藤原)定頼が書いた。その書き様は、甚だ美しかった。この一条院別納の
    直盧において、辞表を献上した。・・・

藤原忠実が記しているという藤原公任が書いた「長和五年(一〇一六)」の「道長の摂政の辞表」は
『御堂関白記』の長和5年(1016年)12月7日条の可能性(@_@;) 倉本一宏・前掲書を引く(@_@;)

     七日、丁丑。 上表して左大臣を停任される。/吉書申上/大嘗会悠紀・主基両国の
            国郡司に賜禄

    ・・・私は辞表を後一条天皇に奏聞して、左大臣を停任された。この外は、「摂政は
    元のとおりとする」とのことであった。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、上表を扱う
    上卿であった。(源)朝任朝臣が、勅答使として来た。左大将(藤原頼通)が、
    代わりに拝礼を行なった。他は、常と同じであった。・・・

上表を書いた本人が「上表を扱う上卿」だったのか(@_@;) ちなみに、『御堂関白記』の寛仁元年
(1017年)3月16日条に「摂政を辞任する表を天皇に献上した。辞表は天皇の手許に留められ、勅答
が有った。」(倉本一宏・前掲書)云々として道長の摂政辞任は認められて頼通が摂政となったこと
が記されている(^^)

さて、小生が不思議に思ったのは、道長は「右中弁定頼、之を書く。其の書様、甚だ以て美なり。」
と定頼の書を称賛したのに2ヶ月後にはその定頼ではなく公任に書いてもらったことである(@_@;)

伊井春樹&津本信博&新藤協三『私家集全釈叢書7 公任集全釈』(風間書房,1989)には「長和五年
(一〇一六)六月に公任は赤痢をわずらって病臥したことが『小右記』に記される。この五二九番の
歌はおそらくその折の詠作と思われる。」云々とあり、『御堂関白記』の長和5年(1016年)8月3日
条に「(藤原)定頼朝臣は、この何日か、大納言(藤原公任)の病によって参ってこない。・・・」
(倉本一宏・前掲書)との道長の発言もあるから療養中の公任の代わりに定頼に依頼したか(@_@;)

んにゃ、チャールズ・ライト・ミルズの社会学的想像力ならぬ歴史学的妄想力の出番( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

・行成が「寛仁」なのに前年号の「長和」と書き間違えたのには理由があるオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-03

・「権中納言で正二位の行成が(当時は身分の賤しい)経師の家へ行くことはできない」のか(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-02-18

・王羲之が王右軍と言われたから藤原敏行も藤右軍と言われたんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-28

・書道の神様とされている菅原道真は実は能書ではなかったと春名好重『上代能書伝』は断定(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-20

・藤原道長は、たられば能書であって、能書とは言えないのではないか〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-21
タグ:列伝 書道 歴史
コメント(4) 
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コメント 4

df233285

本日の記事に対するres.ではなくて、前記事に対するコメの
続きなんですが。「張り紙の6尺は芭蕉筆で無い」の私の見解は、
とんだ失態であり、何んとお詫びしてよいものやら、分かりま
せんです。度量衡の「体積」に対して、江戸時代の御上は
年貢の量に関連するので、異常にうるさく、長さの数値を大きく
言うのは一升の定義、4.9寸×4.9寸×2.7寸に
関連して、出版書で堂々と書くのは危険だったとみられますね。
特に松尾芭蕉は、実家が年貢関連地頭系なので、熟知でしょう。
その為、元々が1センチ・2センチの誤差から派生した話だった
んですが。指摘で数字を小さくしたとすれば、話が合います。
問題の本は芭蕉本物作の可能性が高いと、私には思えてきました。
by df233285 (2023-03-23 20:23) 

tai-yama

民間企業だと「退職届」だったり。辞表のイメージが強いけど違うん
ですよね~。栗山監督の辞表は手書きかな。字キレイそうだし。
そして後任は中嶋監督の噂も・・・・・
by tai-yama (2023-03-23 23:38) 

middrinn

芭蕉以外が清書した写本に芭蕉自身が貼紙で訂正は
長さん様、有り得そうと思いましたけどね(@_@;)
芭蕉自筆説が本文も貼紙もともに芭蕉自筆、井口洋
はともに芭蕉以外としているのは両者の字は書き癖
等から同一人物によるものと判断したのか(@_@;)
尺を偽る必要性があったのか判りかねます(@_@;)
by middrinn (2023-03-24 05:06) 

middrinn

「辞表」「退職願」「退職届」がありますね(^_^;)
tai-yama様、栗山英樹監督の場合は契約期間満了に
よる退任なので退任の意思を伝えるだけでは(@_@;)
稲葉篤紀→栗山英樹→中嶋聡では日ハム色が(^_^;)
中嶋監督は、育成をしたくて二軍監督という話だった
のでオリに戻り、一軍の監督になっても勝利と育成を
掲げてるので、代表監督は引き受けない気が(^_^;)
by middrinn (2023-03-24 06:42) 

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