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220828読んだ本【バカチン】

図書館で気に入って注文・購入した本にバカチンをするのは天唾の如し〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
でも、借りて読んだ際に気付いた点なので不明を恥じる必要はナシオン主権オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
ただ、借りて読んだのは一部なので、もし通読して次々とおかしな記述が出てきたらヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

【読んだ本(バカチン)】

春名好重『上代能書伝』(木耳社,1972)所蔵本

本書の「藤原敏行 神護寺鐘銘」の章の次の件、研究者ならもっと調べて書けオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

    ・・・/関白藤原基経は島田忠臣の詩才を愛し、忠臣を厚く遇した。そして、
    元慶五年(八八一)[藤原]敏行に忠臣の詩「五百余篇」を屛風十帖に書かせた。
    忠臣が敏行の書いた屛風を見て作った詩が「田氏家集」(巻之中)にある。
    すなわち、

        見藤右軍新書大相府屛風、因有寄呈、

      ・・・、

    とある。「藤右軍」は敏行である。当時の敏行は右兵衛佐であった。それ故
    「右軍」といわれたらしい。「書聖」といわれた王羲之は右軍将軍であったから、
    王羲之を「王右軍」という。そして、敏行は能書であったから「右軍」といわれた
    と考えるのは考え過ぎである。・・・

藤原敏行は「右兵衛佐」だったから「右軍」と言われたと春名好重は解しているけど、「右軍」とは
右近衛大将のことであり、藤原敏行が右近衛大将でない以上、王羲之が「王右軍」と言われてたから
ソレに倣って藤原敏行も「藤右軍」と言われたと解すべきだろうがヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

駒田信二『中国書人伝』(芸術新聞社,1985)は、王羲之は「・・・右軍将軍という官位で会稽郡内史
[=長官]の職につくことを命ぜられた。永和七年(三五一)、四十五歳のときである。/・・・/
この右軍将軍会稽郡内史という官位が、王羲之のついた最後の官であり、王右軍と呼ばれるのもその
ため・・・」とし、本間洋一(編)『日本漢詩 古代篇』(和泉書院,1996)も、所収の『田氏家集』
の「見藤右軍新書大相府?風因有寄呈」の「藤右軍」に付した頭注において「右兵衛佐藤原敏行(?-
九〇一)。神護寺鐘銘(序は橘広相、銘は菅原是善)の揮毫者と伝え、小野道風は古の上手に空海と
共に彼の名を挙げている。」と解説しており(同書88頁)、たしかに王羲之は「右軍将軍」であり、
藤原敏行が元慶5年(881年)には「右兵衛佐」だった、とされている〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

なお、wikiの「藤原敏行」の項は「右兵衛佐」ではなく「右兵衛権佐」とし、「『三十六人歌仙伝』
では正佐とするが、『日本三代実録』仁和2年6月13日条による。」と脚注しているけど、この拙稿の
論旨には影響しないので、以下も「右兵衛佐」で拙論を展開するよん〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

さて、藤原敏行を「藤右軍」と記したのは島田忠臣だけではないことが鍵なんだよねC= (-。- ) フゥー

書道の神様とされている菅原道真は実は能書ではなかったと指摘している本書の「菅原道真」の章
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-20 )に次の記述があるv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・/元慶五年・・・この年、[藤原]基経は[島田]忠臣の詩を屛風に書かせた。
    筆者は[藤原]敏行である。仁和元年に基経の五十の賀が行われた。賀宴の屛風は、
    巨勢金岡が絵を描き、道真が詩を作り、敏行がそれを色紙形に書いた。寛平七年の
    源能有の五十の賀の屛風も、金岡が絵を描き、[紀]長谷雄が本文を選び、道真が
    詩を作り、敏行が色紙形を書いた。道真の時代には敏行が第一の能書で、敏行につぐ
    能書は小野美材であった。そして、当時、道真は能書として尊重された人ではない。/

「寛平七年[895年]の源能有の五十の賀の屛風」で道真の詩を色紙形に書いた藤原敏行を「藤右軍」
と道真は呼んでて、本間洋一・前掲書は所収の『菅家文草・菅家後集』の「右金吾源亞將、・・・」
に出てくる「藤右軍」を「左近衛権中将藤原敏行(能筆として有名)。」(同書126頁)と頭注(^^)

兵衛府の「右兵衛佐」と近衛府の「左近衛権中将」を等しく「右軍」と呼ぶこと、〝左〟近衛権中将
なのに〝右〟軍というおかしさに気付かないのは、研究者のくせに節穴かよオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)

川口久雄(校注)『日本古典文学大系72 菅家文草 菅家後集』(岩波書店,1966)もチトおかしくて、
同書410頁の『菅家文草』巻第五の「右金吾源亞將、・・・」の中の「書ハ先ヅ藤右軍ニ屬[アツラ]
ヘリ」の「藤右軍」に付されている頭注14は「名筆藤原敏行。→補九。」となっていて、巻末の補注
を見ると、〔八〕に次の説明(同書709~710頁)(@_@;)

    「右軍」は、将軍のこと。この唐名は六衛府の官人のうち。例えば、王羲之を「王右軍」
    といった。/職事補任、宇多院蔵人頭の条に「左近中将従四位下藤敏行、寛平七年十月
    廿九日補」、また三十六人歌仙伝に「従四位上行右兵衛督藤原朝臣敏行、寛平七年十一月
    兼春宮亮」とある。

「この唐名は六衛府の官人のうち」がイミフ(@_@;) 「六衛府」=左近衛府+右近衛府+左兵衛府+
右兵衛府+左衛門府+右衛門府に属している全ての「官人」を「右軍」と言うの意なのかな(@_@;)
でも、〝左〟はおかしいし、また六衛府の下位の「官人」まで「将軍」と呼ぶなんて変かと(@_@;)

春名好重が挙げた「仁和元年[885年]に基経の五十の賀が行われた。賀宴の屛風は、・・・道真が詩
を作り、敏行がそれを色紙形に書いた」こととは、川口久雄・前掲書240頁の『菅家文草』巻第二の
「右親衛将軍、厩亭の諸僕を率ゐて、相国が五十年を賀し奉る。宴座の後の屛風の図の詩五首。〈序
を幷せたり〉」の中の「藤將軍ハ之[=詩]を書シ」の件のことで、この「藤將軍」に付した頭注19
は「→補五。」となっており、巻末の補注を見ると、〔五〕に次の説明(同書679頁)が(@_@;)

    左親衛将軍ならば、参議藤原有実左中将をさす。ただしこの人が名筆家であったか
    どうか確証はない。おそらく藤右軍のことで、名筆藤原敏行であろう。

仁和元年(885年)に藤原敏行は「右兵衛佐」(仁和2年に右近衛少将)で、「右兵衛佐」を「將軍」
と呼ぶのはチト盛ってて、藤原敏行に「將軍」という美称を用いたいという意図を感じる(@_@;)

右軍将軍の王羲之が「王右軍」と呼ばれていたことに倣って藤原敏行を「藤右軍」と呼んだと解する
のは、そもそも「右兵衛佐」や「左近衛権中将」を「右軍」とは言わないからである( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

例によって例の如く、国際日本文化研究センターの「摂関期古記録データベース」で「右軍」を検索
すると、藤原実資の日記『小右記』の2件がヒットするv( ̄∇ ̄)ニヤッ

倉本一宏編『現代語訳 小右記8 摂政頼通』(吉川弘文館,2019)から長和5年(1016年)3月16日条の
一部(同書24頁)を引く(⌒~⌒)

    ・・・貞信公[藤原忠平]の承平四年九月十二日の御記に云ったことには、「右大弁
    (紀淑光[よしみつ])が、一上の申文と前々の符案を見せた。まずは右丞(藤原仲平)
    ・右軍[うぐん](藤原保忠[やすただ])が申し行なうということを命じた。・・・」
    と。〉/

「便りに右丞・右軍等に申し行なふべき状を仰す」の「右軍」を「うぐん」と読むのは疑問だけど、
承平4年(934年)の藤原保忠は右近衛大将で、「右兵衛佐」「左近衛権中将」に非ずv( ̄∇ ̄)ニヤッ

倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)の寛仁3年(1019年)正月7日
条の一部(同書192頁)を引く(⌒~⌒)

    ・・・左軍(教通)が御屛風の下に就いて、内侍に託して退帰した際、私は母屋[もや]
    の東間に歩み進んで過ぎた〈大臣が左将軍で、右将軍が納言である時は、東廂に留まり
    立つ。左将軍を過ぎて奏を進上する。これは口伝である。〉。・・・

摂関期古記録データベースの書き下し文には「左軍、御屏風の下に就き、内侍に付して退帰する間、
余、母屋の東間に歩み進み、相過ぐ〈大臣、左将軍たり、右軍、納言たる時、東廂に留まり立つ。
左軍を相過ぎて奏を進る。是れ口伝なり。〉。」となっていて、同書の寛仁3年(1019年)正月1日条
に「左大将(藤原教通)」(同書177頁)とあることから「左軍(教通)」は左近衛大将藤原教通で、
「右軍」とは右近衛大将のことを指していることは間違いないかとv( ̄∇ ̄)ニヤッ

以上のことから、「右軍」とは右近衛大将のことであり、右近衛大将ではなかった藤原敏行のことを
「藤右軍」と島田忠臣や菅原道真が漢詩文の中で表現したのは、藤原敏行の能書の才を称えるために
「書聖」とされた王羲之が「王右軍」と呼ばれていたことに倣ったと解するのが合理的v( ̄∇ ̄)ニヤッ

なお、「右軍」をネット検索すると、「コトバンク」の、ともに「ゆうぐん」と読む、『精選版 日本
国語大辞典』と『普及版 字通』の次の解説がヒットする(@_@;)

    ① 天子の率いる三軍のうちの、隊列の右翼に配置される軍。〔広益熟字典(1874)〕
     〔春秋左伝‐桓公五年〕
    ② (①の将であった王羲之を王右軍と称したところから) 能書家の高官を敬っていった語。
     ※菅家文草(900頃)五・月夜翫桜花「書先属二藤右軍一。詩則汝之任也」


    天子三軍の右軍。晋の王羲之が右軍将軍であったことから、王羲之をさす。・・・

『精選版 日本国語大辞典』の②と『普及版 字通』の各説明は疑問(@_@;) 「王羲之をさす」だけと
する『普及版 字通』は論外だし、『精選版 日本国語大辞典』の「能書家の高官を敬っていった語」
は『田家家集』『菅家文草』の「藤右軍」には該当するが、『小右記』の「右軍」は単に右近衛大将
を指しており、「能書家」かどうかは無関係(@_@;) 藤原保忠について、川端善明&荒木浩(校注)
『新日本古典文学大系41 古事談 続古事談』(岩波書店,2005)は「音楽に優れる.」(人名一覧)、
「笙の名手。」(脚注)として(西尾光一&小林保治[校注]『新潮日本古典集成 古今著聞集 上』
[新潮社,1983]には藤原保忠が歌舞音曲に長けている説話が二つ)、「能書家」とは聞かぬ(@_@;)

・藤原道長は、たられば能書であって、能書とは言えないのではないか〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-21
タグ:列伝 歴史 書道
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

「天唾」と「天理」と読んでしまいそうになるのは高校野球の影響。
右と左に属している「官人」をスイッチ官人と言えばすべて
解決するかも(笑)。
by tai-yama (2022-08-28 23:04) 

ナベちはる

おかしな記述が一部だけで済むといいですが、それが次々と出てきたら…怖いですね(-_-;)
by ナベちはる (2022-08-29 01:09) 

middrinn

右と左に属してる官人をスイッチ官人、
tai-yama様、イミフですねぇ(^_^;)
by middrinn (2022-08-29 06:23) 

middrinn

未読の知らなかった能書の章はおかしな記述が、
ナベちはる様、あっても気付かないかも(^_^;)
by middrinn (2022-08-29 06:37) 

df233285

左軍も右軍も、将棋の駒の名前になっています。
大局将棋だけなので、将棋の方は江戸時代成立。なるほど、
平安時代の役職の別称だったんですね。知りませんでした。
左軍は左将、右軍は右将の成り駒。大大将棋にも左将・右将
があり、大局将棋はその模倣。ただし大大将棋は、恐らく
初期配列図の習字が目的の将棋なので、相手駒を取っても
成りません。大局将棋は相手陣11段目以遠に突入で左将・
右将(玉将と同じ動き)も軍駒へ成ります。最低25手必要。
by df233285 (2022-08-29 07:49) 

middrinn

『小右記』は貞信公藤原忠平の御記を引用してますから、
藤原実資だけの特殊な呼称ではないと解せるかと(^_^;)
ただ、川口久雄が言う如く「唐名」なのかは不明(^_^;)
by middrinn (2022-08-29 08:18) 

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