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220903読んだ本

政界の権力者の七光りもあれば、学界の権威の七光りもあるからな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

春名好重『上代能書伝』(木耳社,1972)所蔵本

    ・・・この「白楽天詩巻」は[藤原]行成の書跡のうち最もすぐれているばかりでなく、
    「白氏文集」の詩を書いた古筆のうち最もすぐれているといってよい。/・・・/・・・
    /第九張の余白に本文と同筆で「長和」と書き、それを見せ消ちにしている。そして、
    行をかえて「寛仁二年八月廿一日書之以経師筆点画失所来者不可㗛ゝゝゝ」と四行に
    書いている。これは「寛仁二年八月廿一日、これを書く。経師の筆をもってす。点画所を
    失ふ。来者笑ふべからず、笑ふべからず。」と読むべきである。長和六年(一〇一七)
    四月二十三日「寛仁」と改元された。それ故、寛仁二年(一〇一八)八月二十一日は
    改元後一年四箇月も経過している。おそらく誤って不用意に「長和」と書いたらしい。
    そして、誤って書いたことに気付き、書き直したのである。・・・

「寛仁二年に行成は四十七歳で、正二位権中納言兼侍従であった。」し、立場的に「寛仁」に決めた
改元定にも参加してたはずなのに間違えたのは何か思い煩うことがあり集中できなかったからでは?
と歴史学的妄想力(¬。¬ )ヾ( ̄o ̄;)チャールズ・ライト・ミルズの『社会学的想像力』が元ネタ?

しかし、藤原行成の日記『権記』で寛仁2年(1018年)8月21日を調べようと倉本一宏(全現代語訳)
『藤原行成「権記」(下)』(講談社学術文庫,2012)を披くも、寛仁2年8月が載ってない(´ヘ`;)
藤原実資の日記『小右記』も倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)
が同様なので、藤原道長の日記『御堂関白記』を倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」
(下)』(講談社学術文庫,2009)で一応チェックしたけど、藤原行成を悩ませそうな出来事などは、
これといって見当たらなかった(ノ_-;)ハァ… 黒板伸夫(日本歴史学会編集)『藤原行成』(吉川弘文館
人物叢書,1994新装版)も参照したが、案の定「因みに今に残る『白氏詩巻』はこの年に書かれた。」
(同書219頁)とあるのみで、妻の永井路子の方が歴史の研究者としてのセンスが・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

そこで、国文学的妄想力の出番である(^o^)丿ヾ(-_-;)オイオイそもそも歴史学も国文学も専門外じゃん!

『栄花物語』を調べると、この5ヶ月前の寛仁2年(1018年)3月に藤原道長の子の長家を藤原行成が娘
の婿としたとの叙述キタ━━━━゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚━━━━!!!! ちなみに、この娘は早世し猫に(;_;)

松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(三)』(角川書店,1972)502頁の「三月は廿
余日の程と」の語釈が源経頼の日記『左経記』の寛仁2年(1018年)3月13日条を引用している通り、
「今夜、侍従中納言[藤原行成]殿、中将君[=藤原長家]と因縁を取りて婿に入る。」(国際日本
文化研究センター「摂関期古記録データベース」)とあるので、正確には寛仁2年(1018年)3月13日
に婚儀となるが、その後の『栄花物語』の叙述を松村博司・前掲書507頁の訳から引くv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    ・・・この中納言[藤原行成]殿はひたすらこの中将君[=藤原長家]の御世話に
    かかりきりであるのも、道理と思われた。/・・・

更に、『栄花物語』は「・・・かの侍従の中納言[藤原行成]は、三位の中将[藤原長家]のお世話が
経済上十分にできないので・・・」(松村博司『日本古典評釈・全注釈叢書 栄花物語全注釈(四)』
[角川書店,1974])、大宰権帥を望んで任ぜられたとしているが、迫徹朗『王朝文学の考証的研究』
(風間書房,1973)は「まず、婿の長家をもてなすに足る財力がなかったため、身入りのよい大宰権帥
(『栄花物語』に言う大弐は権帥と同じ意味)の職を望んだという点であるが、中納言という職は大臣
ほどではないが相当高額の収入が得られる地位である。しかも、行成の祖父伊尹は摂政という最高位に
登った人であるから、可なりの財産を残したであろうし、妻の実家からの物質的援助も考えられよう。
十五、六歳の婿一人を養うのに、辺鄙な九州までわざわざ出かける気になったかどうか疑いなきをえ
ない。」と指摘してて、藤原行成が大宰権帥になった理由に関する『栄花物語』の叙述は怪しい(^_^;)

それはさておくとしても、黒板伸夫・前掲書は『小右記』の記述から藤原長家の「・・・苦労知らず
のわがままさ・・・」を指摘し(同書225頁)、次のように記している(同書226頁)(^_^;)

    ・・・/道長の子の義父ともなれば、権帥任官にみられるような余徳はあるものの、
    怖いもの知らずの婿にかしずく行成の気苦労もたいへんであったと思われる。/・・・

この人物叢書の執筆も伯父の黒板勝美の「余徳」・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 冗談はさておき、結論としては
藤原行成は困ったちゃんな婿「長家」のことで頭が一杯だったので「長和」と書き間違えた(⌒~⌒)

・王羲之が王右軍と言われたから藤原敏行も藤右軍と言われたんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-28

・書道の神様とされている菅原道真は実は能書ではなかったと本書の「菅原道真」の章は指摘(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-20

・藤原道長は、たられば能書であって、能書とは言えないのではないか〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-21

[追記221101]

〈立場的に「寛仁」に決めた改元定にも参加してたはず〉と書いてるけど、倉本一宏(全現代語訳)
『藤原行成「権記」(下)』(講談社学術文庫,2012)の419~422頁の寛仁元年(1017年)4月23日条
(逸文で出典は『改元部類記』の由)が「寛仁」を選んだ改元定で、やはり行成は出席してた(^_^;)
コメント(6) 
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コメント 6

ナベちはる

七光りは、どこの世界にもありますね…((+_+))
by ナベちはる (2022-09-04 01:47) 

middrinn

七光りばかりで光り輝いている国ジパング(^_^;)
by middrinn (2022-09-04 05:18) 

df233285

藤原行成が長和にこだわるのは。後一条天皇と独楽で遊んだのが
印象深かったからではないかと私は疑う。なお大鏡の話と私のコ
メは、実在の団体・人物とは、いっさい正確にはつながりません。
by df233285 (2022-09-04 07:39) 

middrinn

寛仁2年でも後一条天皇はまだ11歳なので独楽で遊んでそう(^_^;)
by middrinn (2022-09-04 07:55) 

tai-yama

年号を間違って書いてしまったのは「かんにんな」とか
だったり(笑)。
by tai-yama (2022-09-04 22:53) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 間違って書いてしまったのは「かんにんな」座布団1枚 ♪
by middrinn (2022-09-05 06:39) 

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