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230302読んだ本

権力者のことはとにかく悪く言わないと気が済まない人とかいるわな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)

昨日に続いて、峯岸義秋『歌合の研究』(三省堂,1954)を読んでいて、驚いたのが次の件( ̄◇ ̄;)

    ・・・/その前に一應明らかにして置かなければならないのは[藤原]定頼の傳
    であるが、彼は[藤原]範兼の後六々選に父[藤原]公任とともに入つてゐる
    當代の代表的歌人であるのにもかかはらず、割合後世の人には認められてゐない。
    日本文學大辭典にもこの人のためには一行もしるしてゐない。群書類従には權中納言
    定頼卿集といふ一集を傳へてゐるが、父の公任集とともに當時の歌壇や社交界のこと
    が委細うかがはれて興味深い。續群書類従にも異本權中納言定頼卿集が収録されて
    ゐるが、そのなかの廣澤の逍遥や嵯峨野の旅寝などをしるしたあたりは、物語的な
    叙述にすぐれたものを見せ、あの有名な和泉式部日記ほどの價値は認められないが、
    いろいろの意味でそれと對照される注目すべき作品だとわたくしは思つてゐる。
    寛徳元年(一〇四四)五十歳で歿したとも、寛徳二年(一〇四五)五十二歳で歿した
    とも傳へられてゐるが、その作品で勅撰集に入撰してゐるものは後拾遺集に十四首、
    以下新續古今集まで四十六首入撰してゐる。その和歌史的地位から見れば平安時代
    中期の二流歌人といふべきかも知れないが、・・・

この後、「・・・定頼が和歌史的にあまり認められてゐない理由・・・」を考察してて面白いけど、
驚いたのは勅撰集に「四十六首」入集でも「二流歌人」とされている点であるエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
何人か勅撰集入集歌数を調べちゃったけど、今日は本書の「第二章 道長の宮廷生活」の「2 儀式
について」の「道長の和歌の素養と機知」という見出しの節の冒頭(本書80~81頁)を引く(^_^;)

    /これ[=漢詩文]に対し、和歌の方はどうだったのであろうか。道長の勅撰集
    への入集は、『拾遺集』二首をはじめとして四十三首であるが、これらは歌人
    としての道長が評価されたというよりも、摂関家の祖として入集したものであろう
    (藤原定家の祖先でもある)。/・・・

この件も驚いたし、気になる点もあることはさておくとして、倉本一宏は勅撰集入集「四十三首」が
多いと考えているようだけど、藤原定頼以下だから藤原道長も「二流歌人」とされるのかな(@_@;)
ま、今まで藤原道長のことを一流歌人だなんて小生は思ったことないから、別にいいんだけど(^_^;)
タグ:和歌 歴史
コメント(5) 
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コメント 5

tai-yama

「戦いは勅撰和歌集に選ばれた数だよ兄者」とドズルが言った
のかも(笑)。藤原定頼46首なので、今風のアイドルっぽく
言うと藤定坂46(乃木坂っぽく言ってみる)。
by tai-yama (2023-03-03 00:05) 

middrinn

ドズルの名セリフとされる「戦いは数だよ兄貴!」ですね(^_^;)
島津忠夫(訳注)『新版 百人一首』(角川ソフィア文庫,1999→
2008新版16版)は、定頼を45首入集としているんてすよ(^_^;)
勅撰集入集歌数の価値は家集が何首から成るかもポイント(^_^;)
道長の勅撰集入集は「四十三首」で、『御堂関白集』は片桐洋一
『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)によると74首
しかなく、「・・・その大半が贈答歌であり、しかも道長以外の人
同士の贈答歌も多く含んでいる。」というから凄い高打率(^_^;)
by middrinn (2023-03-03 06:45) 

df233285

藤原道長には、満月の歌という代表歌が有るので、藤原定家
から百人一首に入れて貰えなくても、小野小町と同格と私見。
ちなみに、仮想外挿変則グレゴリオ暦換算変則西暦1018年
11月23日が寛仁2年10月16日で、
西暦2018年11月23日も旧暦10月の満月と、
「兵庫県の明石市立天文科学館の井上毅(たけし)館長が
調べると(そうなり)、この日は確かに満月だった」と
朝日新聞に、かつて2018年の新聞に書いてあるようだけど。
wikiを見ると、ユリウスからグレゴリオへ転換するとき、
グレゴリオ暦だけに有る、

「400で割って余るを平年」の数、1100、1300、
1400、1500で4回を、3回と間違えている疑い

があるようだ。16世紀中にグレゴリオに切替える標準繋ぎ合わせ
ユリウス暦1018年11月26日は、仮想外挿変則グレゴリオ暦
換算1018年11月22日であって、仮想外挿変則グレゴリオ暦
換算1018年11月23日では無いのではないのか。なお、完全
暦の一年は365.2422・・・日、グレゴリオ暦1年は、
365.24250日だから。仮想外挿変則完全暦換算でも、
11月21日になる事はあっても、11月23日には
なりにくいような気が、wiki表が正しいなら私にはするような。
なお、1021回帰年が12628朔望月に近いとか、wikiに
出ていて、それなら1018年に近いのは2017年であって、
2018年は遠くなりそうだけど。千年ピタリの理由は私には謎。
by df233285 (2023-03-03 09:10) 

df233285

(訂正)仮想外挿変則グレゴリオ暦換算すると1018年12月2日で
あり、仮想外挿変則グレゴリオ暦換算1018年11月22日でも
ありません。西暦2018年11月23日は、グレゴリオ暦季節の
12月頭と遠いので、当時の朝日新聞もボカシて書いてあります。
つまり記念の「日」という意味は、西暦2018年11月23日
にあんまり有りません。間999年の方が、西洋カレンダー間の
月齢が合うのも、私が1582年10月14日ユリ→グレゴリ改暦
時の、「10日飛ばし」を忘れていたのが原因で不思議がっただけ。
by df233285 (2023-03-03 12:00) 

middrinn

たしかに(^_^;) 『百人一首』の歌よりも多くの人に憶えられてそう(^_^;)
ちなみに、この歌が詠まれた夜を藤原実資は『小右記』の寛仁2年(1018年)
10月16日条で「・・・夜は深く、月は明るかった。」(倉本一宏編『現代語
訳 小右記9 「この世をば」』[吉川弘文館,2019]103頁)という描写(⇒
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-01)(^_^;)
満月の夜に丸い盃が座をぐるっと一巡して詠んだ「技巧」の「秀歌」(^_^;)
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-09
by middrinn (2023-03-03 15:37) 

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