201001読んだ本
今夜は「中秋の名月」だね(〃'∇'〃)ヾ( ̄o ̄;)オイオイそんなことよりも国勢調査を早く済ませとけよ!
【読んだ本】
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版→2004改版)所蔵本
根拠があるのかは定かではないが、紫式部を崇拝するバカチン国文学者によって和歌は「不得手」と
決めつけられた藤原実資(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )に、
碩学・土田直鎮も同様の評価を本書で下している(@_@;)
・・・/さて、ここで実資が返歌を詠むはめになったが、かれはどうもだいたい
詩歌管弦のほうは、知識や理解は深かったが、実技になると自信がなかったらしい。
そこでつぎのように答えて、うまく切り抜けた。/・・・
この人物評が記されているのは、藤原実資が藤原道長の詠んだ歌に対する返歌を詠まなかった場面、
すなわち、藤原実資の日記『小右記』の寛仁2年(1018年)10月16日条の中の一場面を紹介した件で、
倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)103頁から引く(⌒~⌒)
十六日、乙巳。 藤原威子立后/一家三后/道長、藤原顕光の失儀を罵る/「この世をば」
今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である〈前太政大臣(道長)の第三娘。
一家が三后を立てるのは、未曾有である。〉。・・・太閤[道長]が戯れて
云ったことには、「右大将(実資)は、我が子〈摂政[頼通]である。〉に
勧盃するように」と。私は盃を執って摂政に勧めた。摂政は左府(顕光)に
渡した。左府は太閤に献上した。太閤は右府(公季)に渡した。序列どおりに
流し巡らせた。・・・太閤が下官[実資]を招き呼んで云ったことには、
「和歌を読もうと思う。必ず和すように」ということだ。答えて云ったことには、
「どうして和し奉らないことがありましょうか」と。また、云ったことには、
「誇っている歌である。但し準備していたものではない」ということだ。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば(この世を
我が世と思う。望月が欠ける事も無いと思うので)」と。私が申して云った
ことには、「御歌は優美です。酬答する方策もありません。満座は、ただ
この御歌を誦すべきでしょう。元?の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、
深く賞嘆して、終日、吟詠していました」と。諸卿は私の言に響応して、
数度、吟詠した。太閤は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、
月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。/・・・
教養が無い土田直鎮は「この望月の歌が、和歌としてどれほどの水準のものかは知らない」らしいが
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-09 )、月の明るい夜に丸い盃が一巡
したのに興が乗って即詠した道長に実資が返歌をしなかったのは、「自信がなかった」のではなく、
「大体すぐれた歌に対して、それに劣るような返歌はしないのがしきたり」(小沢正夫&後藤重郎&
島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』[塙書房,1974])だからなんだよオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
にしても、「不得手」「自信がなかった」の判断根拠を示せよ(-"-) イメージには合ってるが(^_^;)
・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26
・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04
[追記201018]
倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)の巻頭の「本巻の政治情勢と
実資」にも次のように解説(同書12~13頁)されている_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
・・・/そして十月十六日がやって来た。立后の儀式が終わり、土御門第において
行なわれた本宮の儀の穏座(二次会の宴席)のことであった。『御堂関白記』には、
賜禄の儀の後、「私は和歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱した」としか記されて
いない。/しかし、実資が珍しくこの宴に参列し、この「この世をば」の歌を記録した
『小右記』の記事が散逸せずに広本(抄略せずに原本を多く伝えた写本)で残っている
おかげで、道長が歌を詠んだ経緯や、摂関期という時代を象徴するこの歌が今日まで
伝わっているのである。しかも、前田家本は和歌の部分が焼損しており、焼損の前に
書写された秘閣本や陽明文庫本などの新写本が残っているおかげで、我々はこの歌を
知ることができるのである。/もっとも、摂関政治=天皇を蔑[ないがし]ろにした
悪しき政治体制といった従前の歴史理解を考えると、その象徴ともいえるこの歌が
残されたことは、はたして道長や平安貴族や日本の歴史にとって、幸いであったか
どうかは、また別の問題である。/なお、一般には、実資が道長の拙い歌に和す気に
なれなかったとか、傲りたかぶった道長の態度に嫌気がさして和さなかったとか
考えられているようであるが、『小右記』を虚心に読むかぎりでは、別にそういった
わけではなさそうである。/・・・
たしかに、本書94頁の寛仁2年(1018年)10月7日条にも次のようにあるね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
七日、丙申。 道長に一家三后の慶賀を申す/土御門第行幸の馳馬について建言/
維摩会講師、辞退/立后の日は鎌足の忌日
巳の終剋の頃、大殿に参った。宰相[藤原資平]が扈従した。太閤(道長)は馬場に
いらっしゃった。そこで直ちにに進んだ。工匠が数多く、造営していた。また、石を
立てられていた。拝謁し奉った次いでに申したことには、「一家三后の事は、未曽有
であるばかりです」と。・・・
【読んだ本】
土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫,1973初版→2004改版)所蔵本
根拠があるのかは定かではないが、紫式部を崇拝するバカチン国文学者によって和歌は「不得手」と
決めつけられた藤原実資(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-09-29 )に、
碩学・土田直鎮も同様の評価を本書で下している(@_@;)
・・・/さて、ここで実資が返歌を詠むはめになったが、かれはどうもだいたい
詩歌管弦のほうは、知識や理解は深かったが、実技になると自信がなかったらしい。
そこでつぎのように答えて、うまく切り抜けた。/・・・
この人物評が記されているのは、藤原実資が藤原道長の詠んだ歌に対する返歌を詠まなかった場面、
すなわち、藤原実資の日記『小右記』の寛仁2年(1018年)10月16日条の中の一場面を紹介した件で、
倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)103頁から引く(⌒~⌒)
十六日、乙巳。 藤原威子立后/一家三后/道長、藤原顕光の失儀を罵る/「この世をば」
今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である〈前太政大臣(道長)の第三娘。
一家が三后を立てるのは、未曾有である。〉。・・・太閤[道長]が戯れて
云ったことには、「右大将(実資)は、我が子〈摂政[頼通]である。〉に
勧盃するように」と。私は盃を執って摂政に勧めた。摂政は左府(顕光)に
渡した。左府は太閤に献上した。太閤は右府(公季)に渡した。序列どおりに
流し巡らせた。・・・太閤が下官[実資]を招き呼んで云ったことには、
「和歌を読もうと思う。必ず和すように」ということだ。答えて云ったことには、
「どうして和し奉らないことがありましょうか」と。また、云ったことには、
「誇っている歌である。但し準備していたものではない」ということだ。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば(この世を
我が世と思う。望月が欠ける事も無いと思うので)」と。私が申して云った
ことには、「御歌は優美です。酬答する方策もありません。満座は、ただ
この御歌を誦すべきでしょう。元?の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、
深く賞嘆して、終日、吟詠していました」と。諸卿は私の言に響応して、
数度、吟詠した。太閤は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、
月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。/・・・
教養が無い土田直鎮は「この望月の歌が、和歌としてどれほどの水準のものかは知らない」らしいが
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-09 )、月の明るい夜に丸い盃が一巡
したのに興が乗って即詠した道長に実資が返歌をしなかったのは、「自信がなかった」のではなく、
「大体すぐれた歌に対して、それに劣るような返歌はしないのがしきたり」(小沢正夫&後藤重郎&
島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』[塙書房,1974])だからなんだよオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
にしても、「不得手」「自信がなかった」の判断根拠を示せよ(-"-) イメージには合ってるが(^_^;)
・「古今集に次ぐ勅撰和歌集である拾遺集」だとぉ!土田直鎮も無教養ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26
・土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』は『紫式部日記』を誤読してるヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-12-04
[追記201018]
倉本一宏編『現代語訳 小右記9 「この世をば」』(吉川弘文館,2019)の巻頭の「本巻の政治情勢と
実資」にも次のように解説(同書12~13頁)されている_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
・・・/そして十月十六日がやって来た。立后の儀式が終わり、土御門第において
行なわれた本宮の儀の穏座(二次会の宴席)のことであった。『御堂関白記』には、
賜禄の儀の後、「私は和歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱した」としか記されて
いない。/しかし、実資が珍しくこの宴に参列し、この「この世をば」の歌を記録した
『小右記』の記事が散逸せずに広本(抄略せずに原本を多く伝えた写本)で残っている
おかげで、道長が歌を詠んだ経緯や、摂関期という時代を象徴するこの歌が今日まで
伝わっているのである。しかも、前田家本は和歌の部分が焼損しており、焼損の前に
書写された秘閣本や陽明文庫本などの新写本が残っているおかげで、我々はこの歌を
知ることができるのである。/もっとも、摂関政治=天皇を蔑[ないがし]ろにした
悪しき政治体制といった従前の歴史理解を考えると、その象徴ともいえるこの歌が
残されたことは、はたして道長や平安貴族や日本の歴史にとって、幸いであったか
どうかは、また別の問題である。/なお、一般には、実資が道長の拙い歌に和す気に
なれなかったとか、傲りたかぶった道長の態度に嫌気がさして和さなかったとか
考えられているようであるが、『小右記』を虚心に読むかぎりでは、別にそういった
わけではなさそうである。/・・・
たしかに、本書94頁の寛仁2年(1018年)10月7日条にも次のようにあるね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
七日、丙申。 道長に一家三后の慶賀を申す/土御門第行幸の馳馬について建言/
維摩会講師、辞退/立后の日は鎌足の忌日
巳の終剋の頃、大殿に参った。宰相[藤原資平]が扈従した。太閤(道長)は馬場に
いらっしゃった。そこで直ちにに進んだ。工匠が数多く、造営していた。また、石を
立てられていた。拝謁し奉った次いでに申したことには、「一家三后の事は、未曽有
であるばかりです」と。・・・
かみさんに付き合ってもらって買い物に行った際に
店を出たらとっても綺麗な中秋の名月に出会えました♪( ´▽`)
国税調査、届いた次の日にサクッとネットで提出しました^^→後で・・・と思って期限切れになるタイプですw
by ニッキー (2020-10-01 21:39)
月、綺麗ですねぇ!
でも私にはウサギが見えない(^^;
国勢調査はネットで済ませんました、簡単でしたよぉ(^^)
by そら (2020-10-01 22:31)
望月の歌に返歌は誰もできないかと。
「たけきものもつひにはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」
と返歌したら、間違いなく左遷だろうな・・・
by tai-yama (2020-10-01 23:38)
月がきれいでした。
国勢調査、ネットで回答しました、紙より簡単かも。
画像プロフィールまで考えてなかった。
by nikki (2020-10-02 00:11)
今日の月、とても綺麗でした☆彡
月を観ているときに、隣に「月が綺麗ですね」なんて言える人がいたらもっと良かったのですが…( ̄m ̄〃)
by ナベちはる (2020-10-02 00:41)
お月様、ホントきれいでしたね(〃'∇'〃)
ニッキー様は仕事が早いですね( ̄◇ ̄;)
by middrinn (2020-10-02 06:38)
お腹が空いてたからピザに見えましたよ(^_^;)
そら様、小生はアナログ派ゆえ郵送かな(^_^;)
by middrinn (2020-10-02 06:39)
歌は詠歌事情も踏まえて評価されるので、
盃=月、一巡=丸い円、そして世=夜と、
場に合った技巧をこらしている歌なので、
tai-yama様、一般に思われている政治的
驕りを詠んだ歌ではないのですよ(^_^;)
by middrinn (2020-10-02 06:44)
折角の返信用封筒なので使わないと(^_^;)
nikki様、「名古屋よ~ん」?「名古屋市」?
by middrinn (2020-10-02 06:46)
たしかに隣に「月が綺麗ですね」なんて言える人がいたら、
ナベちはる様、ロマンチックで素敵でしょうねぇ(〃'∇'〃)
by middrinn (2020-10-02 06:49)
国勢調査、まだでした(^_^;)
by yokomi (2020-10-03 20:45)
明日ネットでやろうかと愚考中です(^_^;)
by middrinn (2020-10-03 20:51)