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221210読んだ本

性欲と出世欲、どちらに解すべきか(@_@;) どちらにしても73歳にしてはギラギラしてる(^_^;)

【読んだ本】

倉本一宏編『現代語訳 小右記15 道長薨去』(吉川弘文館,2022)

「道長薨去」と並ぶ本書のハイライトは、藤原実資に同性愛者の疑いがかけられている記述(@_@;)
それは藤原実資の日記『小右記』の長元2年(1029年)9月24日条で、本書313~314頁から引くけど、
同年に、右大臣の実資は73歳、関白の藤原頼通(道長の子)は35歳年下の38歳(本書226頁)(@_@;)

     二十四日、己卯。 清涼殿東廂で頼通と抱擁して臥す夢想

    今朝、夢想があった。清涼殿の東廂[ひがしびさし]に、関白[頼通]が下官(実資)と
    共に、烏帽子[えぼし]を着さずに懐抱して臥していた際、私の玉茎は木のようであった。
    着していた白綿の衣は、はなはだ凡卑であった。恥ずかしいと思っていたうちに、夢から
    覚めた。もしかしたら私に大慶が有るのであろうか。

「・・・余の玉茎、木のごとし。」と記しているけど、鋼鉄のようじゃないんだ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
倉本一宏は本書巻頭の「本巻の政治情勢と実資」という内容紹介&簡単な解説で、次のように記して
いる(本書16~17頁)(@_@;)

    ・・・/この長元二年九月二十四日、実資は清涼殿の東廂で、頼通と共に烏帽子も
    被らずに懐抱して臥していたという夢を見た。その間、実資の玉茎は、木のようであり、
    着していた白綿の衣は、はなはだ凡卑なものであったという。「恥ずかしい」と
    思っていると、夢から覚めたとある。夢から醒めた実資は、「もしかしたら大慶が
    有るのであろうか」と記している。/この夢は、男色の史料として解釈されるのが
    常であった。しかし、実資が抱き合っていた相手と場を考えると、これは「大慶」
    つまり昇進を予想した人事に関する夢と解するべきなのである。つまり、抱き合った
    相手は関白頼通、人事権を握る職である。また、その場は清涼殿東廂、除目を行なう
    場である(大臣召は除目とは違うが、夢の中で混同していたのであろう)。/この年の
    京官除目は十一月四日に始まるのであるが、その場において人事権を握る人物と
    抱き合っていたというのは、目前の出世の願望、あるいは予測の現われであろう。
    当時、七十三歳の太政大臣藤原公季は、この年の十月十七日に薨じることからも
    わかるように、すでに病悩していたと思われる。また、関白・左大臣の頼通は、
    九月十六日に上表し、この夢のあった翌二十五日に再び上表していた。/すでに
    九月十四日、実資が太政大臣を望んでいるとの風聞があることを、[藤原]資平から
    伝えられていた。実資が、頼通の後任の関白に補されると自認していたとは考えにくい
    としても、公季の後任の太政大臣に任じられるであろうと予測していた可能性は高い。
    /実際には、太政大臣は欠員のままとされ、実資はその後、十七年も右大臣を続ける
    ことになるのであるが、七十歳を越えてこれだけの上昇志向を保ち続けることが、
    長寿の秘訣なのであろうか。/実資が夢の中で「恥ずかしい」と思ったというのは、
    頼通と抱き合って「玉茎」が「木のよう」に怒張したことが恥しいのではなく(それは
    むしろ当時としては喜ばしいことだったであろう)、烏帽子も被らず凡卑な装束を
    着していたことに対してであろう。/・・・

この解説に先に目を通していたので、実資と頼通の関係性には留意しながら本書も読んできたけど、
そーゆー関係とはちょっと考え難いし、そもそも実資は女性に目が無い好色としている説話もあるし
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-08-16 )、有名なエピソードだけど、
公の場でも「相模を懐抱して秀歌を案ずるの間、公事闕如するか」(藤岡忠美[校注]『新日本古典
文学大系29 袋草紙』[岩波書店,1995])という性的ジョークを飛ばしたような人物(^_^;) 小沢正夫
&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』(塙書房,1974)による訳を引いておく(^_^;)

    ・・・/和歌というものはあまり好きだと不利益なことがある。大江公資が
    大外記になることを望んでいたころ、公卿の会議の時に多くの公卿がそれに
    任じられてよかろうと思ったが、藤原実資が「彼は相模を抱いてうまい歌を
    考えているから、公務を怠るだろう」といった。公卿たちは大笑いとなり、
    結局惜しいことに大外記になれなかった。それは公資が相模を妻としていた
    ころであった。彼女は公資が相模守なので「相模」と呼ばれたが、以前の名は
    「乙侍従」であった。/・・・

また当該条の記述の解釈においては、倉本一宏が説明しているように、それに至るまでの流れも考慮
しないと(^_^;) 奇抜な説というのは摘み食いに基づく誤読が多いかと(^_^;) 参考までに、倉本一宏
の説明に関係する長元2年(1029年)9月14日条(本書304~305頁)、同21日条(本書310~311頁)、
同22日条(本書311~312頁)、同23日条(本書312~313頁)を引いておく(^_^;)

     十四日、己巳。 前陸奥守から進物/頼通、重態/斉信、大臣を望むとの風聞/
             太政大臣公季、辞任して実成を大納言に望むとの風聞/実資、
             太政大臣を望むとの風聞

    中納言[藤原資平]が来て云ったことには、「関白の邸第に参ります。・・・」と。/
    頭弁[源経頼]が来た。関白[藤原頼通]の書状を伝えて云ったことには、「・・・」と。
    ・・・また、云ったことには、「昨日は悩んでいた所が、頗る宜しかったです。今日は
    吟じられる声が有りました。悩まれているのでしょうか。まったく食されませんでした」
    と云うことだ。晩方、中納言が来た。・・・中納言が云ったことには、「一昨夜、関白は
    急に不覚に悩まれました。すでに万死一生でした。時剋が変わった後、漸く蘇生しました。
    昨日は頗る宜しくなりました。今日は発[おこ]り煩われました。春宮大夫(藤原頼宗)
    が密談しました。また、『(藤原)斉信卿が、丞相を望む事が有った。また、左中将
    (藤原兼頼)の事が有った。方忌を違えさせなければならない事である。太政大臣(藤原
    公季)が、その職を辞退し、息の(藤原)実成を大納言を任じることを申請しようと
    思っている』と云うことです。『右府(実資)に太政大臣を望む意向が有る』と云うこと
    でした。(藤原)能信卿が密かに私(資平)に語りました。答えて云ったことには、
    『聞いたことのないものです』と」と。

     二十一日、丙子。 再び千古婚儀の日を覆問/頼通、諸社に馬を奉献/真衣野牧駒牽

    ・・・中納言[藤原資平]が関白[藤原頼通]の邸第から帰って来て云ったことには、
    「・・・」と。また、云ったことには、「頭弁[源経頼]が密かに語って云ったことには、
    『関白が云ったことには、「関白と大臣の両職を、やはりどうしても一職は辞そうと思う。
    この事は、右府[藤原実資]に問うて、述べたところを聞こうと思う。語る次いでに伝える
    ように」ということでした』と」と。穢を過ぎてから伝え談るということを申した。・・・

     二十二日、丁丑。 駒牽の状況/頼通、小康/定頼・重尹、福来病を患う/
              公季、太政大臣辞任は誤説と語る

    ・・・[菅野]敦頼朝臣が云ったことには、「関白の御心地は、大したる事はおありに
    なりません。・・・」と云うことだ。/前大僧都扶公が云ったことには、「・・・」と。
    また、云ったことには、「昨日、直接、太相府([藤原]公季)に拝謁しました。次いで
    が有って、太政大臣を辞されて、中納言実成を大納言に任じられたいとのことを朝廷に
    奏請する実不について問いました。答えられて云ったことには、『大いに実の無いこと
    である。大将を辞し、実成を中納言に申請して任じられたことがある。重ねて太政大臣を
    辞して大納言を奏請する事は、事がすでに重畳である。便宜が無いであろう。また、
    実成も願っていないところである』ということでした」と。

     二十三日、戊寅。 興福寺維摩会不足米宣旨/松尾・梅宮祭の供奉欠怠所司に恩赦を適用
              /頼通の関白・大臣辞任について回答/季御読経定・不堪佃田申文の
              予定/頼通の病状

    ・・・頭弁[源]経頼が覆奏文を持って来た。奏聞させた。密かに語って云ったことには、
    「関白[藤原頼通]には懇切に、関白と大臣を辞すとの御気持が有ります。世間が云う
    ところは、如何でしょう。汝の申すところの趣旨を聞こうと思われています」と。答えて
    云ったことには、「関白は敢えて辞されてはならない職です。たとえ容納が有ったとしても、
    先に上下の文書を申すようにとの宣旨を下されれば、まったく差別は無いはずのものです。
    大臣は、必ずしも辞されることはありません。倹約を衛護とすべきでしょう。これは内々に
    思ったものです。歯外[しがい]してはならない事です。但し一家の風として、大臣を
    辞される先例が有りまます。ただその御心によるべきでしょう」と。感心して退去した。
    ・・・夜に入って、中納言[藤原資平]が来て云ったことには、「関白の御心地は、昨夜、
    発り悩まれました。今日は宜しくなりました」と云うことだ。

あれだけ批判しておいて、頼通に取って代わって関白になりたいという権力欲は無いんだな(@_@;)

・相模国から京都までの長~い旅路には多くの名所・名勝があるのに、「思い出」となるのが京都も
 目前に迫った近江の老蘇森でのホトトギスの一声だけだったという大江公資の歌を考える(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2018-05-15
タグ:和歌 歴史
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tai-yama

藤原実資は金属バットではなく木製のバットだったと(笑)。
(バット例えは昭和っぽくなるけど)
アメリカだと80歳近くでも大統領になろうとしている人が
居るのに・・・
by tai-yama (2022-12-10 21:07) 

middrinn

夜の三冠王といった表現も使われていましたね(^_^;)
平安時代の73歳ですから現代では何歳なのか(^_^;)
でも、「その後、十七年も右大臣を続けることになる」
わけですから関白を務めることも可能でしたね(^_^;)
by middrinn (2022-12-11 07:18) 

df233285

11世紀に成立した出土鉄製品に、錆止めしたものを余り
見掛け無いのと、≪その材質≫の選択との間には、何か
関連性が有るのでしょうかね? 井戸跡出土の「木製品」
の初出は更に遡りますから。水に晒しておけば、≪木製品≫
なら腐らないことは、≪博学≫の藤原実資なら、当時当然
知っていたことだと私は思う。平安期成立の≪その木製品≫は、
近世の≪それ≫と同様、現在も墨書呪術木簡等といっしょに
発掘され、発掘報告書等でも、特に古さが問題にならない
程度に、ありきたりなよう。
by df233285 (2022-12-11 07:59) 

middrinn

小生には分かりかねます(^_^;)
単純に、当時はまだ金属が稀少で、
他方で、木の多い国だからとしか
思い付かなかったですね(^_^;)
by middrinn (2022-12-11 08:50) 

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