220210読んだ本
「暗黒時代」にしたがるのは、その後のドラマチックな復活・復権を期待させるからだったり(@_@;)
【読んだ本】
小沢正夫『古今集の世界 増補版』(塙選書,1976年)所蔵本
/八世紀の終わりごろ、『万葉集』によって代表される奈良時代の和歌が
歴史の表面から姿をけしてから、ふたたび新しいよそおいをこらして、
平安時代の和歌として復活するまでには、およそ一世紀半の年月を要した。
その社会的にははなはだパッとしなかった一五〇年の間、和歌は当時全盛
をほこっていた漢文学の陰にささやかな生活をいとなみ、またその漢文学
からできるだけ多くの栄養分を吸収して、ゆっくりではあったけれども、
徐々に成長していったのである。/・・・
・・・/文学にせよ、音楽にせよ、古代日本の伝統が次第に低調になり、
これに反して中国風の文化が平安遷都を一つの契機として、新しい飛躍を
準備している。桓武天皇の延暦期およそ二十年間は、そういう日本文化と
中国文化との交代の時期であった。/
本書の「和歌の衰微」という節の冒頭と〆だが、平安時代初期の和歌に関する斯くの如き歴史認識は
小町谷照彦(訳注)『古今和歌集』(ちくま学芸文庫,2010)巻末の「解説」の「万葉から古今へ」と
見出しが付けられた次の一節にも共有されている(@_@;)
/国風暗黒時代などと呼ばれる九世紀の前半は漢詩文の隆盛期であり、和歌は
宮廷文学の座から遠ざかっていた時期である。・・・/だが、和歌史の命脈は
まったく断ち切れてしまったわけではなく、・・・和歌は私的な恋愛の場や
吟遊芸人の世界などに追いやられてしまったとはいえ、依然として根強く継承
されていた。・・・奈良時代末期に至って和歌は作者層を拡大しながら日常化し、
言葉に対する意識が強くなって類型的な表現によりかかった恋歌などが詠まれる
ようになったが、平安時代に入ってもそのような動向は続き、一方では漢詩文の
発想や表現の影響を受けてしだいに変容しながら、やがて来たるべき宮廷文学として
復権し開花する時期を待っていたのである。/大陸文化志向の強かった桓武天皇と
反して、平城天皇は『万葉集』に関心が深く和歌を愛好したが、薬子の変で
失脚した後、嵯峨・淳和朝は政権が安定し、漢詩文の隆盛ももたらされた。・・・
この平安初期に関する国風暗黒史観・和歌衰微史観、桓武天皇の時代には当てはまらぬ気が(@_@;)
・・・『万葉集』をひもとけば、天皇の宴や行幸などの折に和歌が詠まれた事例に
豊富に出会いますが、嵯峨朝においてはそういった機会に和歌が詠まれることも
ほとんど絶無になりました。かわって盛んに詠まれるようになったのが漢詩です。
・・・
同じ史観に立っている藤原克己『菅原道真 詩人の運命』(ウェッジ選書,2002)から引用したけど、
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)に一通り目を通した今では、この
記述は、「『日本後紀』をひもとけば、桓武天皇が宴や行幸などの折に和歌を詠まれた事例に豊富に
出会いますが、そういった機会に漢詩が詠まれることはほとんど絶無でした」と言いたくなる(^_^;)
桓武天皇の在位は天応元年(781年)~延暦25年(806年)で、延暦10年(791年)までは『続日本紀』
に出てて、『日本後紀』は桓武天皇の御代の全てをカヴァーしてるわけではないが、公的な行事のも
含めて宴では音楽を奏したり漢詩を作らせたりするよりも和歌を自ら詠む場面が一番多いぞ(⌒~⌒)
桓武天皇の政治的な中国志向(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-23 )は
文化面にも反映されていると思われがちだが、『日本後紀』には桓武天皇自身が漢詩を作った場面は
見当たらず、桓武天皇が群臣や文人に漢詩を作らせた場面すら5回しかなく、内4回は中国由来の行事
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-27 )〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
桓武天皇はパリピで、「曲宴」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-24 )
をやたら開きまくっていたが、曲宴や遊猟に伴う酒宴といった非公式の宴や更には公式の宴でも自ら
和歌を詠むこと6回である(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-30 )(^^)
こうなると、桓武天皇個人は実は中国趣味ではなく、漢詩より和歌を好んだのではないかと(⌒~⌒)
モチ桓武天皇の時代の文化を桓武天皇個人の趣味・嗜好だけで説明しようとするのは無理があるが、
和歌を詠んだのは桓武天皇だけではなかった可能性が(@_@;) 小沢正夫は『類聚国史』から「延暦
十七年七月十三日」の記述(前に引いた『日本後紀』「④延暦17年(798年)8月庚寅(13日)条」)
を引き、〈・・・この文章の「群臣をして之に和せしめ」というのは天皇の御製を群臣たちにもうた
わせたことか、それとも、御製に和して別の歌をつくらせたのかはわからないが、・・・〉とするし、
片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』(講談社学術文庫,2019)も桓武天皇が詠んだ和歌を列挙して、
百済王明信を歌で誘った場面(「①延暦14年(795年)夏4月戊申(11日)条」)に関して「天皇の歌
だけしか記載されていないが、宴に参加した人達もそれぞれに歌を作ったと考えてよい。そんな雰囲気
であったからこそ、天皇みずからが返歌の形でこの歌を作ったのであろう。」と、(前述)「④延暦
17年(798年)8月庚寅(13日)条」の場面についても〈「気佐能阿挟気[ケサノアサケ]」がお気に
入りの言葉か、延暦十五年四月の曲宴に続いてまた使っているのであるが、要するに朝に及ぶまで宴
は続いたのであり、その宴で詠まれた歌が帝の歌だけであったとは思えないのである。〉と指摘し、
『日本後紀』等には「その場において詠まれた歌のすべてが掲出されているわけではない。これらの
歌と同時に、かなり多くの和歌が作られていたと考えなければならないのである。」と総括(@_@;)
「かなり多くの和歌が作られていた」なら国風暗黒史観・和歌衰微史観は維持できるのかね(@_@;)
ただ、平安初期に関する国風暗黒史観・和歌衰微史観は、和歌が詠まれたのは私的な曲宴であって、
公的な行事では無いことを強調する(@_@;) 例えば、小沢正夫は本書で次のように指摘する(@_@;)
・・・和歌のうたわれた場合であるが、前の用例にあげたように、曲宴、すなわち
私宴の余興としてうたわれた場合が非常に多いのである。また、曲宴でなく、公式
の宴会の場合でも、たとえば、延暦二二年の遣唐使の送別の宴の条に、
宴設の事は一[もは]ら漢法に依りき。酒酣にして、上、葛野麻呂を御床の下に
喚[め]し、酒を賜いき。天皇歌いて曰いしく。
(日本紀略)
とあるように、儀礼的な宴会がすんで、その後の酒盛りになってからである。結局、
和歌は朝廷でも人々がうちくつろいだ時の座興にふさわしいものであって、当時の
宮廷の儀式においては、ほんの旁系的な位置しかあたえられなかったのである。・・・
この「儀礼的な宴会がすんで、その後の酒盛りになってから」という小沢正夫の解釈が不審(@_@;)
前掲『日本後紀(上)』287頁は、この「⑥延暦22年(803年)3月庚辰(29日)条」の当該件を、
・・・宴の設営はすべて中国風で、酒宴もたけなわになると、天皇は葛野麻呂を
自分の席の側に喚[よ]んで酒を賜い、次の和歌を詠んだ。
と訳しており、何か根拠があるのか小沢正夫は「儀礼的な宴会」とするが、「中国風」の「宴」では
「酒盛り」などは無い、と言うのかねぇ(^_^;) 国風暗黒時代で和歌が衰微したとする史観が先立ち、
無理矢理ソレに合わせようと史実を解釈しているように見えるのは、小生だけであろうか(@_@;)
【読んだ本】
小沢正夫『古今集の世界 増補版』(塙選書,1976年)所蔵本
/八世紀の終わりごろ、『万葉集』によって代表される奈良時代の和歌が
歴史の表面から姿をけしてから、ふたたび新しいよそおいをこらして、
平安時代の和歌として復活するまでには、およそ一世紀半の年月を要した。
その社会的にははなはだパッとしなかった一五〇年の間、和歌は当時全盛
をほこっていた漢文学の陰にささやかな生活をいとなみ、またその漢文学
からできるだけ多くの栄養分を吸収して、ゆっくりではあったけれども、
徐々に成長していったのである。/・・・
・・・/文学にせよ、音楽にせよ、古代日本の伝統が次第に低調になり、
これに反して中国風の文化が平安遷都を一つの契機として、新しい飛躍を
準備している。桓武天皇の延暦期およそ二十年間は、そういう日本文化と
中国文化との交代の時期であった。/
本書の「和歌の衰微」という節の冒頭と〆だが、平安時代初期の和歌に関する斯くの如き歴史認識は
小町谷照彦(訳注)『古今和歌集』(ちくま学芸文庫,2010)巻末の「解説」の「万葉から古今へ」と
見出しが付けられた次の一節にも共有されている(@_@;)
/国風暗黒時代などと呼ばれる九世紀の前半は漢詩文の隆盛期であり、和歌は
宮廷文学の座から遠ざかっていた時期である。・・・/だが、和歌史の命脈は
まったく断ち切れてしまったわけではなく、・・・和歌は私的な恋愛の場や
吟遊芸人の世界などに追いやられてしまったとはいえ、依然として根強く継承
されていた。・・・奈良時代末期に至って和歌は作者層を拡大しながら日常化し、
言葉に対する意識が強くなって類型的な表現によりかかった恋歌などが詠まれる
ようになったが、平安時代に入ってもそのような動向は続き、一方では漢詩文の
発想や表現の影響を受けてしだいに変容しながら、やがて来たるべき宮廷文学として
復権し開花する時期を待っていたのである。/大陸文化志向の強かった桓武天皇と
反して、平城天皇は『万葉集』に関心が深く和歌を愛好したが、薬子の変で
失脚した後、嵯峨・淳和朝は政権が安定し、漢詩文の隆盛ももたらされた。・・・
この平安初期に関する国風暗黒史観・和歌衰微史観、桓武天皇の時代には当てはまらぬ気が(@_@;)
・・・『万葉集』をひもとけば、天皇の宴や行幸などの折に和歌が詠まれた事例に
豊富に出会いますが、嵯峨朝においてはそういった機会に和歌が詠まれることも
ほとんど絶無になりました。かわって盛んに詠まれるようになったのが漢詩です。
・・・
同じ史観に立っている藤原克己『菅原道真 詩人の運命』(ウェッジ選書,2002)から引用したけど、
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)に一通り目を通した今では、この
記述は、「『日本後紀』をひもとけば、桓武天皇が宴や行幸などの折に和歌を詠まれた事例に豊富に
出会いますが、そういった機会に漢詩が詠まれることはほとんど絶無でした」と言いたくなる(^_^;)
桓武天皇の在位は天応元年(781年)~延暦25年(806年)で、延暦10年(791年)までは『続日本紀』
に出てて、『日本後紀』は桓武天皇の御代の全てをカヴァーしてるわけではないが、公的な行事のも
含めて宴では音楽を奏したり漢詩を作らせたりするよりも和歌を自ら詠む場面が一番多いぞ(⌒~⌒)
桓武天皇の政治的な中国志向(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-23 )は
文化面にも反映されていると思われがちだが、『日本後紀』には桓武天皇自身が漢詩を作った場面は
見当たらず、桓武天皇が群臣や文人に漢詩を作らせた場面すら5回しかなく、内4回は中国由来の行事
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-27 )〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
桓武天皇はパリピで、「曲宴」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-24 )
をやたら開きまくっていたが、曲宴や遊猟に伴う酒宴といった非公式の宴や更には公式の宴でも自ら
和歌を詠むこと6回である(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-30 )(^^)
こうなると、桓武天皇個人は実は中国趣味ではなく、漢詩より和歌を好んだのではないかと(⌒~⌒)
モチ桓武天皇の時代の文化を桓武天皇個人の趣味・嗜好だけで説明しようとするのは無理があるが、
和歌を詠んだのは桓武天皇だけではなかった可能性が(@_@;) 小沢正夫は『類聚国史』から「延暦
十七年七月十三日」の記述(前に引いた『日本後紀』「④延暦17年(798年)8月庚寅(13日)条」)
を引き、〈・・・この文章の「群臣をして之に和せしめ」というのは天皇の御製を群臣たちにもうた
わせたことか、それとも、御製に和して別の歌をつくらせたのかはわからないが、・・・〉とするし、
片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』(講談社学術文庫,2019)も桓武天皇が詠んだ和歌を列挙して、
百済王明信を歌で誘った場面(「①延暦14年(795年)夏4月戊申(11日)条」)に関して「天皇の歌
だけしか記載されていないが、宴に参加した人達もそれぞれに歌を作ったと考えてよい。そんな雰囲気
であったからこそ、天皇みずからが返歌の形でこの歌を作ったのであろう。」と、(前述)「④延暦
17年(798年)8月庚寅(13日)条」の場面についても〈「気佐能阿挟気[ケサノアサケ]」がお気に
入りの言葉か、延暦十五年四月の曲宴に続いてまた使っているのであるが、要するに朝に及ぶまで宴
は続いたのであり、その宴で詠まれた歌が帝の歌だけであったとは思えないのである。〉と指摘し、
『日本後紀』等には「その場において詠まれた歌のすべてが掲出されているわけではない。これらの
歌と同時に、かなり多くの和歌が作られていたと考えなければならないのである。」と総括(@_@;)
「かなり多くの和歌が作られていた」なら国風暗黒史観・和歌衰微史観は維持できるのかね(@_@;)
ただ、平安初期に関する国風暗黒史観・和歌衰微史観は、和歌が詠まれたのは私的な曲宴であって、
公的な行事では無いことを強調する(@_@;) 例えば、小沢正夫は本書で次のように指摘する(@_@;)
・・・和歌のうたわれた場合であるが、前の用例にあげたように、曲宴、すなわち
私宴の余興としてうたわれた場合が非常に多いのである。また、曲宴でなく、公式
の宴会の場合でも、たとえば、延暦二二年の遣唐使の送別の宴の条に、
宴設の事は一[もは]ら漢法に依りき。酒酣にして、上、葛野麻呂を御床の下に
喚[め]し、酒を賜いき。天皇歌いて曰いしく。
(日本紀略)
とあるように、儀礼的な宴会がすんで、その後の酒盛りになってからである。結局、
和歌は朝廷でも人々がうちくつろいだ時の座興にふさわしいものであって、当時の
宮廷の儀式においては、ほんの旁系的な位置しかあたえられなかったのである。・・・
この「儀礼的な宴会がすんで、その後の酒盛りになってから」という小沢正夫の解釈が不審(@_@;)
前掲『日本後紀(上)』287頁は、この「⑥延暦22年(803年)3月庚辰(29日)条」の当該件を、
・・・宴の設営はすべて中国風で、酒宴もたけなわになると、天皇は葛野麻呂を
自分の席の側に喚[よ]んで酒を賜い、次の和歌を詠んだ。
と訳しており、何か根拠があるのか小沢正夫は「儀礼的な宴会」とするが、「中国風」の「宴」では
「酒盛り」などは無い、と言うのかねぇ(^_^;) 国風暗黒時代で和歌が衰微したとする史観が先立ち、
無理矢理ソレに合わせようと史実を解釈しているように見えるのは、小生だけであろうか(@_@;)
暗黒時代と言うと、最近のオリックス・・・・
徹夜で和歌を詠み合うと言う催しはある意味凄いかも。
私なら寝ているだろうな(笑)。
by tai-yama (2022-02-10 23:37)
暗黒時代、後々いい展開にしたいからといってそれをしてしまうのは「ご都合主義」みたいな何かを感じます(^^;
by ナベちはる (2022-02-11 02:18)
「今朝のあさけなくちゅうしかのそのこえを
きかずばいかじよはふけぬとも」(たとえ夜
更けになっても、今朝鳴くと人が言った鹿の
声を聴くまでは立ち去るつもりはない)」と
桓武天皇が詠まれると、「すると鹿が鳴き、
天皇は喜んで群臣に唱和することを求めた。
夜分となったが、天皇は宮へ帰った。」と、
tai-yama様、あるので徹夜してない(^_^;)
by middrinn (2022-02-11 07:07)
盛り上げるための劇的な展開の一つとして、
ナベちはる様、たしかに手なのかも(^_^;)
by middrinn (2022-02-11 07:18)
奈良時代後期にも能力の有る人間は大勢いて
和歌は作られたが。お坊様が近くに居るので
遠慮して、編集して文書に残さなかっただけ
なのでは?
by df233285 (2022-02-11 07:31)
この『日本後紀』は、漢詩全盛期の嵯峨天皇の時代に
編纂されたので御製以外の和歌は載せなかったのかも
しれませんが、漢詩を載せてないのが謎です(^_^;)
by middrinn (2022-02-11 08:52)
本でもブログでも作者のスタンスを考えてから見たいですね(^_^;)
by yokomi (2022-02-13 10:41)
何でもポジショントークで片付けてしまうのは困りもの
ですが、その疑いは常に持つ必要があるかと愚考(^_^;)
by middrinn (2022-02-13 16:53)