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220124読んだ本【18禁】

「30歳過ぎなのにラーメンの汁を飲み干す」のを「吉木りさに怒られた」としても止められぬ(-ω-、)

【読んだ本(18禁)】

村尾次郎(日本歴史学会編集)『桓武天皇』(吉川弘文館人物叢書,1963→1987新装版)

    ・・・/『水鏡』には、光仁天皇と井上皇后との間にたがいに美男と美女とをそれぞれ
    かけた雙六[すごろく]の勝負が行なわれ、皇后が勝って山部親王[=後の桓武天皇]を
    天皇に要求し、天皇と親王とを苦悶におとしいれたが、[藤原]百川の強いてのすすめで
    親王がやむなく皇后宮に参じたため、老天皇は内心の怒りをおさえきれず、廃后の後も
    山部親王を皇太子候補者から外されたのに対し、百川は玉座の前にすわりこみを続けて
    親王の立太子を天皇に要請し奉ったといううわさ話をのせている。作家の室生犀星氏は
    この不道徳きわまる『水鏡』の説に一面嫌悪をおぼえながら他面魅力を感じたとみえて、
    それを文学的に処理するために井上皇后を稀にみる美人でやさしい心根の女性にしたて、
    親王をこれまたまれ[ママ]にみる教養深く徳操高い貴公子にして、二人のあいだに
    うららで清い敬愛の情の流れをとらえた。古人を見る目はこのように温かく清らかなもの
    でありたいとは思うが、『水鏡』という著作は平安末期の社会を覆った偽悪趣味の産物で
    あり、人間の悪魔性をもてあそぶことに異常の関心を示しつつ物された書なのであるから、
    あえて犀星氏がしたような処理をまつまでもなく、無根の俗説としてしりぞけうる。・・・

本書43~44頁から引いたけど、道学者みたい(^_^;) 大昔にサンケイ新聞(産経新聞)をとってた頃、
読んでなかったけど、村尾次郎が元文部省主任教科書調査官という肩書で正論欄に執筆してたような
メチャ不確かな記憶が(@_@;) 坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→3版1992)も『水鏡』を
「・・・文章も構成も『大鏡』には及ばない。・・・その基づく所がただ『扶桑略記』だけで、著者
の見解もなく、新史料も引いていないのは情けない。・・・[ただし、]『水鏡』の叙述にはオリジ
ナリティーはないが、[抄略本ではない]『扶桑略記』の欠[けている部分]を補って、珍しい伝聞
や事実を示すという効はある。」という評価でしかない(^_^;) 谷沢永一の「在野の眼で皮肉に見た」
という高評価(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-28 )は何なんだ(^_^;)
成立が『水鏡』の直後である『古事談』も「称徳天皇が道鏡の男根でもなお不満足にお思いになり、
山芋で男根の形を作り、お使いになっていたところ、折れて抜けなくなった。」(源顕兼[編]伊東
玉美[校訂・訳]『古事談 上』[ちくま学芸文庫,2021]の訳)という一文で始まるけど、これまた
「平安末期の社会を覆った偽悪趣味の産物」かな(@_@;) ちなみに、両書とも成立は鎌倉初期(^_^;)
海音寺潮五郎『悪人列伝 古代篇』(文春文庫,2006)の「藤原薬子」は次のように解釈する(@_@;)

    ・・・/水鏡のこの記述をどこまで信用すべきか、山部親王は後に桓武天皇となる
    人だが、その後年の性行から見て、たとえ義母子の中[ママ]とはいえ、こんな
    不倫なことがあったろうとは思えないし、老皇后も多淫にすぎるようであるし、
    信じかねるような気もする。/しかしながら、皇后は聖武の皇女で、先帝孝謙
    [=称徳]の妹だ。それにひきかえ、光仁は孝謙生存中は皇族としては最も勢いの
    なかった天智系で、禍を恐れて酒に韜晦していなければならなかったほどの境遇に
    あった人だ。結婚当初から皇后の方が強く、光仁は恐妻的であったのではなかろうか。
    とすれば、その習慣が皇位についてからまでつづき、皇后は驕慢で、常に夫帝を凌ぐ
    気があったと見てよい。自分を呪詛までする皇后に思い切った処断をとり得ないのも、
    こう解釈すれば自然である。あるいはまた孝謙に似て井上皇后も多淫の体質を遺伝
    していたのかも知れない。/・・・

桓武天皇の「後年の性行」ねぇ(@_@;) 若い頃に関係を持ったかもしれないとはいえ、今は右大臣の
藤原継縄の妻となっている尚侍の百済王明信に対して誘うような和歌を、侍臣もいる曲宴で詠んだ話
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-10 )があり、多淫・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

この時の「曲宴」について、村尾次郎は本書231頁で「延暦十四年四月に曲水の宴(内宴という意味も
ある)が宮中であったとき、天皇は、/いにしへの 野なか古路・・・」と叙述しているのを見ると、
「曲宴」を「曲水の宴」(の略称)と勘違いしてるねオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! 森田悌(全現代語訳)
『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)30頁は「曲宴(小規模な宴)」としか説明してないし、
黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)13頁の頭注の「曲宴」も「一部
の少数の臣下に賜う宴。続紀には見えない語である。」と解説するけど、目崎徳衛『王朝のみやび』
(吉川弘文館歴史文化セレクション,2007)は次のように説明する( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・「曲宴」とは、令制に規定された恒例の節日以外に行なわれた臨時の宴のこと
    である。雑令には、正月一日、七日、十六日、三月三日、五月五日、七月七日、十一月
    大甞日[おおなめのひ]が「節日」と規定され、その他にも・・・など多くの主要行事
    があった。これらの行事はいずれも文武百官全体を参加者とする大規模なもので、
    参加者に与えられる多量の禄物が彼等の重要な収入となり、行事が国政の重要部分を
    形成する意味があった。ところが曲宴はこれと全く対照的な契機から出現したもので
    ある。/曲宴は何よりも君主の自由意志と個人的好尚によって随時に企てられる。
    参加者は五位以上の貴族、ないしはいっそう狭い範囲の天皇の侍臣に限定される。
    詩・和歌・音楽・芸能が余興又は目的として用いられる。天皇の常の住居や離宮、
    あるいは皇親・貴族の私第・別業など、その場所を選ばない。その財源は公費だけ
    ではなく、皇親・貴族や中央・地方の官司・官人による私的な献上物にも求められる。
    ・・・

なお、目崎徳衛の同書は「・・・延暦十年で完結する『続日本紀』には、「曲宴」の文字はまだ全く
みえない。これはもとより延暦十年以前に曲宴の実体が全くなかったのではなく。『続日本紀』が
これを「曲宴」と明記しなかったのにすぎないが、・・・」としており、『訳注日本史料 日本後紀』
の頭注の説明は舌足らずオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ! 桓武天皇はパリピ(パーティ・ピープル)(⌒~⌒)
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

私はもうすぐ50歳になるような年だけどラーメンは飲み干し
ますよ~。桓武天皇も飲み干す系かも(笑)。
姉が姉なので井上皇后も・・・そして桓武天皇は道鏡並みっ!
by tai-yama (2022-01-24 23:45) 

ぽ村

いつも半分残すように心がけているけど、寒いと完飲(新日本語その1)しちゃうねラー汁(新日本語その2)
by ぽ村 (2022-01-25 01:09) 

ナベちはる

ラーメン、汁まで美味しいので最後まで飲み干してしまいますね。
by ナベちはる (2022-01-25 01:12) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 桓武天皇は道鏡並みっ!座布団1枚 ♪
tai-yama様、宴で必ず物を下賜するし飲み干さない系かも(^_^;)
by middrinn (2022-01-25 07:16) 

middrinn

出された食べ物は残さず食べるのが、
ぽムたん、作った人への礼儀(^_^;)
by middrinn (2022-01-25 07:29) 

middrinn

全て飲み干してしまうのは、健康に良くないと言われてますけど、
ナベちはる様、美味しい物は健康に良く無い物が多い気が(^_^;)
by middrinn (2022-01-25 07:35) 

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