220123読んだ本【バカチン2冊】
この誤読・誤訳は、慶大教授と東大助教授、二人の研究者としてのセンスの差に起因かと(@_@;)
アナロジーに気付くか気付かないかというちょっとした差だろうけど、それがセンスかと(@_@;)
買う予定の古本が毎日1~2円値下がり始めたのは嬉しいけれど、千円切るのは夢のまた夢(@_@;)
【読んだ本(バカチン2冊)】
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)
黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)
両書ともに誤読・誤訳と思しき件があるが、先ずは延暦14年(795年)春正月乙酉(16日)条の全文を
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)74~75頁の現代語訳で(@_@;)
天皇が侍臣と宴を催した。集団の歌舞である踏歌[とうか]を奏し、次のような意味の歌
を詠った。
山城国が安楽であるのは、昔から伝えられている。天皇の宮が新造され、この上なく
めでたい。京の郊外には平坦な道が続き、千里のかなたまで望見することができる。
山河はその美しさを思う存分に示して、周囲を取り巻いている。〈新京は安泰で、
平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛[たた]えている〉。人の心は
こだわりがなく和ぎあらゆる方角に恵みを与え、わずかな日時の間に一億年も
伝えられるであろう宮が完成した。壮麗な宮は宮殿としての規模に適[かな]い、
不朽のものとして伝えられ、平安を宮名として無窮のものであることを示している。
〈新年は安楽で、平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている〉。
新年正月を迎え北極星(天皇をさす)を中心に宇宙の秩序が整い、春の長閑
[のどか]な光が満ちてどこもあけ放たれた状態である。美しい婦人たちが
春の風情とともに、列を分かち、袂を連ね、宮城で待っている。〈新年は安楽で、
平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている〉。身分の低い者も
高い者も恩沢に浴してみなが喜ばしい気持ちを抱き、内外に和やかな雰囲気が
広がり、讃め称える声が満ちている。今日舞っている新京を称える太平楽
(雅楽の一)を、これからも長く皇帝の宮の庭で奉ることにしよう。〈新京は
安楽で、平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている〉。
五位以上の者に身分に応じて物を下賜した。
同条の訓読文を黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)47頁&49頁から
引くけど、「あとがき」に「・・・齋藤融氏、三橋広延氏、梅村裕子氏等の優れた研究者に校訂や注
を分担していただいた。特に、訓読の面では佐藤道生氏の協力に負うところが多大であった。」と
黒板伸夫が記しているので(1392頁)、「執筆者」紹介欄に「・・・慶應義塾大学文学部教授。著書
『平安後期日本漢文学の研究』。」とある佐藤道生による訓読文なのだろう(@_@;)
〇乙酉、侍臣を宴す。踏歌を奏して曰く、「山城[さんじょう]楽[らく]を顕
[あきら]かにして旧来伝う。帝宅新[あらた]に成りて最も憐[あわれ]む可し。
郊野道平[たいら]かにして千里を望む。山河美を擅[ほしいまま]にして四周
連[つらな]る〈新京楽、平安楽土、万年春〉。沖襟[ちゅうきん]乃ち八方中を
眷[いつくし]み、日ならずして爰[ここ]に億載[おくさい]の宮開く。壮麗
規[き]を裁して不朽に伝え、平安を号と作[な]して無窮を験[あらわ]す
〈新年楽、平安楽土、万年春〉。新年正月北辰来たり、満宇の詔光[しょうこう]
幾処か開く。麗質の佳人春色を伴い、分行[ぶんこう]して袂を連ねて皇垓
[こうがい]に儛[ま]う〈新年楽、平安楽土、万年春〉。卑高泳沢[ひこう
えいたく]して歓情を洽[あまね]くし、中外和を含みて頌声[しょうせい]満つ。
今日新京太平楽なり。年々長く我が皇庭に奉らん〈新京楽、平安楽土、万年春〉」と。
五位以上に物を賜うこと差有り。
誤読・誤訳らしいのは、現代語訳の「人の心はこだわりがなく和ぎあらゆる方角に恵みを与え」で、
訓読文の「沖襟[ちゅうきん]乃ち八方中を眷[いつくし]み」である(@_@;) 黒板伸夫&森田悌
(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)は同件の頭注で次のように説明(47頁)(@_@;)
山城盆地の風情が人の心を和らげ、あらゆる方角にわたり恵みを与えている様をいう。
藤原克己『菅原道真 詩人の運命』(ウェッジ選書,2002)によって、誤読・誤訳だと判った( ̄◇ ̄;)
/延暦十三年(七九四)十月、桓武天皇は新京に移り、翌月十一月に、「此の国は
山河襟帯(山が襟のように、河が帯のように四囲をめぐる要害の地、の意)、自然
に城を作[な]す」がごとき地勢であるので、山背国の表記を改めて山城国とする、
という有名な詔を発して、新京は平安京と名づけられました。/そして、翌春正月
十六日に宮中で催された宴では、踏歌が奏されています。踏歌とは、足を踏み鳴ら
して拍子を取りながら歌い舞う集団的な歌舞で、中国で上元(陰暦正月十五日)の
日を中心に連夜行なわれた行事ですが、とくに唐代に、首都長安や副都洛陽などの
大都会で盛大に行なわれたものでした。・・・/延暦十四年の踏歌は、宮中のなか
だけで行なわれた小規模なものだったようですが、平安新京をことほぐ七言絶句の
漢詩四首が、「新京楽。平安楽土。万年春」というリフレインをつけて歌われたと
いう点が注目されます。『日本後紀』は延暦十四年も欠巻になっていますが、やはり
先述の菅原道真が編纂した『類聚国史』のおかげで、私たちはその詩を知ることが
できます。四首のうちの二首だけ、取り上げておきましょう。
山城顕楽旧来伝。帝宅新成最可憐。郊野道平千里望。山河擅美四周連。
この山城の顕[あき]らかな楽土は、遠い昔からここにあったのだが、
今しも帝都がここに新成されたことは、まことに慶[よこ]ばしいことで
ある。郊外へと道は平らかに延びて千里のかなたまで望[みは]るかされ、
山河がその美を擅[ほし]いままにして四周に連なっている。
沖襟乃眷八方中。不日爰開億載宮。壮麗裁規伝不朽。平安作号験無窮。
[理想ノ帝都ヲ探シ求メテオラレタ]帝は沖襟[おおみこころ]もて八方を
眷[みわた]されて、幾日も経ずして爰[ここ]に億載[とわ]の宮居を
開かれた。制度文物が壮麗に備わったこの都は不朽に伝わり、平安の号[な]
にそむかぬことを無窮に験[あか]し続けるであろう。
私はここで、二首目の詩の方にとくに注目しておきたいと思います。この第一句にある
「乃眷」という言葉は、中国最古の詩集であり、儒教の経典の一つでもある『毛詩』
(『詩経』)の「皇矣[こうい]」という詩のなかに見える言葉で、「皇[おお]い
なる上帝」(宇宙を支配する神)が、殷王朝に替わるべき新しい王朝を探し求めて
周を見出した、という文脈のなかで用いられているものです。ということはとりも
なおさず、平安新京の開創を、儒教の理想とする古代の周王朝の創業にもなぞらえ
ているということにほかなりません。深読みと思われるかもしれませんが、第二句の
「不日」という言葉も、やはり『毛詩』の、「皇矣」の次にある「霊台」という詩の、
民が力を合わせて築いたので周王朝の霊台が「日ならずして成」ったという言葉を
用いたものですから、私のこの読み方はまちがっていないと思います。/桓武天皇には、
新しい王朝を創始しようという意図が強固にありました。・・・長岡京遷都の翌年の
延暦四年と六年の十一月、冬至にさいして、長岡京の南郊にあたる交野(交野が百済王氏
の本拠地でもあったことは先にもふれました)で郊祀[こうし]を行なわせていること
からも明らかにうかがわれます。郊祀とは中国において、冬至などのさいに天子が
皇城の南郊で、宇宙を支配する最高神である昊天[こうてん]上帝を祀った祭儀で、
日本の天皇がこれを行なうことは前例のないことでした。延暦十一年の時の郊祀祭文が
『続日本紀』に掲載されていますが、それは唐代に行なわれた郊祀の祭文をそっくり
そのまま模したものでした。・・・郊祀のさいに昊天上帝とともに祀る王室の始祖
として、父光仁天皇を祀っていることはやはり注目されます。/踏歌といい郊祀といい、
桓武天皇が平安王朝を、前代までよりもいっそう中国的な天子専制国家にする構想を
抱いていたことは明らかです。/・・・
たしかに!ナルボトね!と思いながら読むも、素人なので「不日」(幾日も経ずして)はありふれた
表現であって『詩経』の「霊台」のを踏まえたとは限らず「深読み」ではないかと疑ってたのだが、
冒頭の「有名な詔」にも『詩経』の「霊台」から採った表現があることが判明して脱帽(^_^;) 森田悌
(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)71~72頁から延暦13年(794年)11月丁丑
(8日)条を引く(^_^;)
[桓武]天皇が次のように詔りした。
(略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は
山と川が襟と帯のように配置し、自然の要塞である城の様相を呈している。
このすばらしい地勢に因み、新しい国号を制定すべきである。そこで、
山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、
異口同辞して平安京と呼んでいる。また、近江国滋賀郡の古津は天智天皇が
都を置いたところで、いま平安京の近接地となっている。往時の地名を追って
大津と改称せよ。(略)
「また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、異口同辞して平安京と呼んでいる。」だが、黒板伸夫
&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)は「又子来[しらい]の民、謳歌の輩、
異口同辞にして、号して平安京と曰う。」(45頁)の「子来の民」を「子の父母に懐くように、民が
君主を慕うことをいう。詩経、大雅、霊台に由来する。」(1085頁)と補注で説明していた(^_^;)
ちなみに、村尾次郎(日本歴史学会編集)『桓武天皇』(吉川弘文館人物叢書,1963→1987新装版)
219頁には、「/十一月八日丁丑[ひのとうし]、詔して山背を山城に改め、新都を平安京と号した。
いうまでもなく、丁丑は天皇生誕の年の干支である。このように、遷都の諸事はすべて慎重に陰陽道
に基づいて選ばれた日に行なわれたが、こうした配慮はすべて怨霊の崇りから救われようとする恐怖
心に密接につながっていた。」とあって、ここでも丑[うし]年にこだわる桓武天皇は実はインド人
だった(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-11 )・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
「沖」は深く広い、「襟」は宸襟=天子の心か(^_^;) 「沖襟」=「こだわりのない胸の中。あっさり
した心持。」(精選版日本国語大辞典)なら、選地にあたり条件を付けず先入観を持たぬ意か(^_^;)
石川忠久『新釈漢文大系112 詩経(下)』(明治書院,2000)の「皇矣」の冒頭の通釈(101頁)(^^)
/偉大なる上帝、威光赫赫と下界に臨む。四方を見通して、民の定まらんこと
を求めた。(夏・殷の)二国は、その政道を失った。四方の諸国に、探し求め、
上帝は天子となるべき者に、その境土を増大せしめようとした。そこで西方を
顧み目をかけて、常に佑護なさった。/・・・
石川忠久は「乃眷西顧」を「乃[すなわ]ち眷[かへり]みて西に顧[かへり]み」(98頁)と訓読
して語釈で次のように解説(103頁)している(^^)
「眷」は『説文』に「眷は、顧みるなり」とあり、陳子展が「関懐」と解する如く、
気にかける、目をかけるの意。・・・
都の適地はないかと気にかけ、良い地はねがー?佳い地はねがー?と練り歩・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;ナマハゲ?
アナロジーに気付くか気付かないかというちょっとした差だろうけど、それがセンスかと(@_@;)
買う予定の古本が毎日1~2円値下がり始めたのは嬉しいけれど、千円切るのは夢のまた夢(@_@;)
【読んだ本(バカチン2冊)】
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)
黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)
両書ともに誤読・誤訳と思しき件があるが、先ずは延暦14年(795年)春正月乙酉(16日)条の全文を
森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)74~75頁の現代語訳で(@_@;)
天皇が侍臣と宴を催した。集団の歌舞である踏歌[とうか]を奏し、次のような意味の歌
を詠った。
山城国が安楽であるのは、昔から伝えられている。天皇の宮が新造され、この上なく
めでたい。京の郊外には平坦な道が続き、千里のかなたまで望見することができる。
山河はその美しさを思う存分に示して、周囲を取り巻いている。〈新京は安泰で、
平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛[たた]えている〉。人の心は
こだわりがなく和ぎあらゆる方角に恵みを与え、わずかな日時の間に一億年も
伝えられるであろう宮が完成した。壮麗な宮は宮殿としての規模に適[かな]い、
不朽のものとして伝えられ、平安を宮名として無窮のものであることを示している。
〈新年は安楽で、平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている〉。
新年正月を迎え北極星(天皇をさす)を中心に宇宙の秩序が整い、春の長閑
[のどか]な光が満ちてどこもあけ放たれた状態である。美しい婦人たちが
春の風情とともに、列を分かち、袂を連ね、宮城で待っている。〈新年は安楽で、
平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている〉。身分の低い者も
高い者も恩沢に浴してみなが喜ばしい気持ちを抱き、内外に和やかな雰囲気が
広がり、讃め称える声が満ちている。今日舞っている新京を称える太平楽
(雅楽の一)を、これからも長く皇帝の宮の庭で奉ることにしよう。〈新京は
安楽で、平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている〉。
五位以上の者に身分に応じて物を下賜した。
同条の訓読文を黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)47頁&49頁から
引くけど、「あとがき」に「・・・齋藤融氏、三橋広延氏、梅村裕子氏等の優れた研究者に校訂や注
を分担していただいた。特に、訓読の面では佐藤道生氏の協力に負うところが多大であった。」と
黒板伸夫が記しているので(1392頁)、「執筆者」紹介欄に「・・・慶應義塾大学文学部教授。著書
『平安後期日本漢文学の研究』。」とある佐藤道生による訓読文なのだろう(@_@;)
〇乙酉、侍臣を宴す。踏歌を奏して曰く、「山城[さんじょう]楽[らく]を顕
[あきら]かにして旧来伝う。帝宅新[あらた]に成りて最も憐[あわれ]む可し。
郊野道平[たいら]かにして千里を望む。山河美を擅[ほしいまま]にして四周
連[つらな]る〈新京楽、平安楽土、万年春〉。沖襟[ちゅうきん]乃ち八方中を
眷[いつくし]み、日ならずして爰[ここ]に億載[おくさい]の宮開く。壮麗
規[き]を裁して不朽に伝え、平安を号と作[な]して無窮を験[あらわ]す
〈新年楽、平安楽土、万年春〉。新年正月北辰来たり、満宇の詔光[しょうこう]
幾処か開く。麗質の佳人春色を伴い、分行[ぶんこう]して袂を連ねて皇垓
[こうがい]に儛[ま]う〈新年楽、平安楽土、万年春〉。卑高泳沢[ひこう
えいたく]して歓情を洽[あまね]くし、中外和を含みて頌声[しょうせい]満つ。
今日新京太平楽なり。年々長く我が皇庭に奉らん〈新京楽、平安楽土、万年春〉」と。
五位以上に物を賜うこと差有り。
誤読・誤訳らしいのは、現代語訳の「人の心はこだわりがなく和ぎあらゆる方角に恵みを与え」で、
訓読文の「沖襟[ちゅうきん]乃ち八方中を眷[いつくし]み」である(@_@;) 黒板伸夫&森田悌
(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)は同件の頭注で次のように説明(47頁)(@_@;)
山城盆地の風情が人の心を和らげ、あらゆる方角にわたり恵みを与えている様をいう。
藤原克己『菅原道真 詩人の運命』(ウェッジ選書,2002)によって、誤読・誤訳だと判った( ̄◇ ̄;)
/延暦十三年(七九四)十月、桓武天皇は新京に移り、翌月十一月に、「此の国は
山河襟帯(山が襟のように、河が帯のように四囲をめぐる要害の地、の意)、自然
に城を作[な]す」がごとき地勢であるので、山背国の表記を改めて山城国とする、
という有名な詔を発して、新京は平安京と名づけられました。/そして、翌春正月
十六日に宮中で催された宴では、踏歌が奏されています。踏歌とは、足を踏み鳴ら
して拍子を取りながら歌い舞う集団的な歌舞で、中国で上元(陰暦正月十五日)の
日を中心に連夜行なわれた行事ですが、とくに唐代に、首都長安や副都洛陽などの
大都会で盛大に行なわれたものでした。・・・/延暦十四年の踏歌は、宮中のなか
だけで行なわれた小規模なものだったようですが、平安新京をことほぐ七言絶句の
漢詩四首が、「新京楽。平安楽土。万年春」というリフレインをつけて歌われたと
いう点が注目されます。『日本後紀』は延暦十四年も欠巻になっていますが、やはり
先述の菅原道真が編纂した『類聚国史』のおかげで、私たちはその詩を知ることが
できます。四首のうちの二首だけ、取り上げておきましょう。
山城顕楽旧来伝。帝宅新成最可憐。郊野道平千里望。山河擅美四周連。
この山城の顕[あき]らかな楽土は、遠い昔からここにあったのだが、
今しも帝都がここに新成されたことは、まことに慶[よこ]ばしいことで
ある。郊外へと道は平らかに延びて千里のかなたまで望[みは]るかされ、
山河がその美を擅[ほし]いままにして四周に連なっている。
沖襟乃眷八方中。不日爰開億載宮。壮麗裁規伝不朽。平安作号験無窮。
[理想ノ帝都ヲ探シ求メテオラレタ]帝は沖襟[おおみこころ]もて八方を
眷[みわた]されて、幾日も経ずして爰[ここ]に億載[とわ]の宮居を
開かれた。制度文物が壮麗に備わったこの都は不朽に伝わり、平安の号[な]
にそむかぬことを無窮に験[あか]し続けるであろう。
私はここで、二首目の詩の方にとくに注目しておきたいと思います。この第一句にある
「乃眷」という言葉は、中国最古の詩集であり、儒教の経典の一つでもある『毛詩』
(『詩経』)の「皇矣[こうい]」という詩のなかに見える言葉で、「皇[おお]い
なる上帝」(宇宙を支配する神)が、殷王朝に替わるべき新しい王朝を探し求めて
周を見出した、という文脈のなかで用いられているものです。ということはとりも
なおさず、平安新京の開創を、儒教の理想とする古代の周王朝の創業にもなぞらえ
ているということにほかなりません。深読みと思われるかもしれませんが、第二句の
「不日」という言葉も、やはり『毛詩』の、「皇矣」の次にある「霊台」という詩の、
民が力を合わせて築いたので周王朝の霊台が「日ならずして成」ったという言葉を
用いたものですから、私のこの読み方はまちがっていないと思います。/桓武天皇には、
新しい王朝を創始しようという意図が強固にありました。・・・長岡京遷都の翌年の
延暦四年と六年の十一月、冬至にさいして、長岡京の南郊にあたる交野(交野が百済王氏
の本拠地でもあったことは先にもふれました)で郊祀[こうし]を行なわせていること
からも明らかにうかがわれます。郊祀とは中国において、冬至などのさいに天子が
皇城の南郊で、宇宙を支配する最高神である昊天[こうてん]上帝を祀った祭儀で、
日本の天皇がこれを行なうことは前例のないことでした。延暦十一年の時の郊祀祭文が
『続日本紀』に掲載されていますが、それは唐代に行なわれた郊祀の祭文をそっくり
そのまま模したものでした。・・・郊祀のさいに昊天上帝とともに祀る王室の始祖
として、父光仁天皇を祀っていることはやはり注目されます。/踏歌といい郊祀といい、
桓武天皇が平安王朝を、前代までよりもいっそう中国的な天子専制国家にする構想を
抱いていたことは明らかです。/・・・
たしかに!ナルボトね!と思いながら読むも、素人なので「不日」(幾日も経ずして)はありふれた
表現であって『詩経』の「霊台」のを踏まえたとは限らず「深読み」ではないかと疑ってたのだが、
冒頭の「有名な詔」にも『詩経』の「霊台」から採った表現があることが判明して脱帽(^_^;) 森田悌
(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)71~72頁から延暦13年(794年)11月丁丑
(8日)条を引く(^_^;)
[桓武]天皇が次のように詔りした。
(略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は
山と川が襟と帯のように配置し、自然の要塞である城の様相を呈している。
このすばらしい地勢に因み、新しい国号を制定すべきである。そこで、
山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、
異口同辞して平安京と呼んでいる。また、近江国滋賀郡の古津は天智天皇が
都を置いたところで、いま平安京の近接地となっている。往時の地名を追って
大津と改称せよ。(略)
「また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、異口同辞して平安京と呼んでいる。」だが、黒板伸夫
&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)は「又子来[しらい]の民、謳歌の輩、
異口同辞にして、号して平安京と曰う。」(45頁)の「子来の民」を「子の父母に懐くように、民が
君主を慕うことをいう。詩経、大雅、霊台に由来する。」(1085頁)と補注で説明していた(^_^;)
ちなみに、村尾次郎(日本歴史学会編集)『桓武天皇』(吉川弘文館人物叢書,1963→1987新装版)
219頁には、「/十一月八日丁丑[ひのとうし]、詔して山背を山城に改め、新都を平安京と号した。
いうまでもなく、丁丑は天皇生誕の年の干支である。このように、遷都の諸事はすべて慎重に陰陽道
に基づいて選ばれた日に行なわれたが、こうした配慮はすべて怨霊の崇りから救われようとする恐怖
心に密接につながっていた。」とあって、ここでも丑[うし]年にこだわる桓武天皇は実はインド人
だった(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-11 )・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
「沖」は深く広い、「襟」は宸襟=天子の心か(^_^;) 「沖襟」=「こだわりのない胸の中。あっさり
した心持。」(精選版日本国語大辞典)なら、選地にあたり条件を付けず先入観を持たぬ意か(^_^;)
石川忠久『新釈漢文大系112 詩経(下)』(明治書院,2000)の「皇矣」の冒頭の通釈(101頁)(^^)
/偉大なる上帝、威光赫赫と下界に臨む。四方を見通して、民の定まらんこと
を求めた。(夏・殷の)二国は、その政道を失った。四方の諸国に、探し求め、
上帝は天子となるべき者に、その境土を増大せしめようとした。そこで西方を
顧み目をかけて、常に佑護なさった。/・・・
石川忠久は「乃眷西顧」を「乃[すなわ]ち眷[かへり]みて西に顧[かへり]み」(98頁)と訓読
して語釈で次のように解説(103頁)している(^^)
「眷」は『説文』に「眷は、顧みるなり」とあり、陳子展が「関懐」と解する如く、
気にかける、目をかけるの意。・・・
都の適地はないかと気にかけ、良い地はねがー?佳い地はねがー?と練り歩・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;ナマハゲ?
山背と言っているのに、"郊外へと道は平らかに延びて千里のかなた
まで"と言うのはなんか矛盾が。原文も?になるけど。
そもそも、琵琶湖までの道も結構山だらけ。
郊外への道が千里まで平らかとなると江戸ぐらいなのではと思ったり。
by tai-yama (2022-01-23 23:13)
買われる予定の古本、毎日1円~2円の値下がりだと希望価格になるまで地道に待たないといけないので根気が必要ですね…
by ナベちはる (2022-01-24 01:08)
『詩経』などの中国の漢詩文に基づいたレトリックなのかも(^_^;)
tai-yama様、当時の人々は日本最大の平野の関東平野のことは知り
ませんし、平安京は京都盆地のほんの一部を占めるだけゆえ「郊外
へと道は平らかに延びて千里のかなたまで望るかされ」かも(^_^;)
by middrinn (2022-01-24 07:40)
他の人に買われてしまわないか
ナベちはる様、チト心配ですし、
かなり忍耐力が必要かも(^_^;)
by middrinn (2022-01-24 07:47)
私も、漢文読むとき「平安京は日本の首都として
一番長くて、いっときの砦ではなかった」といっ
たたぐいの後知恵で、自分が読んでないかどうか
注意しようと思いました。「已準備好更新」は、
2月頃まで、相手にするとedgeが動作しなくなる
等で、バグ改善まで待たないと危ないとパソコン修理
業者の方が自身のブログに書かれている、「21年
11/18前後の、win10の更新プログラムが
有るよ」という、osを使った宣伝に間違いないと
は思うんだけれどもね。
by df233285 (2022-01-24 08:11)
やはり書かれた時の状況を前提に読み解かないといけませんよね(^_^;)
善意でやっている人は稀でしょうから、おそらく商売でしょうね(^_^;)
by middrinn (2022-01-24 08:38)