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220130読んだ本

吉川英治の『三国志』に「酒中別人」とあったけど、酒に酔って現れるのは本性ではないか(@_@;)

【読んだ本】

森田悌(全現代語訳)『日本後紀(上)』(講談社学術文庫,2006)

桓武天皇はパリピで、「曲宴」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-24
をやたら開きまくっていたことは、本書を披けば誰もが首肯するはず(^_^;) そして、公的な行事のも
含めて宴では音楽を奏したり漢詩を作らせたりするよりも和歌を自ら詠む場面が実は一番多い(^_^;)

①延暦14年(795年)夏4月戊申(11日)条(本書77~78頁)

    曲宴が催された。[桓武]天皇が次の古歌を誦[しょう]した。

     いにしえの野中古道[のなかふるみち]あらためばあらたまらんや野中古道

      (人が往来している野中の古道は、たやすく変えることはできない。
       同様に、古くからの扈従者[こしょうしゃ]は大切にしなければならない)

    天皇は尚侍[ないしのかみ]従三位百済王明信に勅して応答の歌を作ることを
    求めたが、作ることができなかった。そこで、天皇は自ら明信に代わって次の
    和歌を詠んだ。

     きみこそは忘れたるらめにぎ珠[たま]のたわやめ我は常の白珠

      (陛下は私のことを忘れてしまっているかもしれませんが、私は常に光の
       変わらない白珠[しらたま]のような状態でいます)

    この応答歌に侍臣は万歳を叫んだ。

黒板伸夫&森田悌(編)『訳注日本史料 日本後紀』(集英社,2003)が頭注で解説している両歌の訳
や含意、そして、桓武天皇は百済王明信と若い頃に関係を持っていたと推定し、誘った歌と読み解く
目崎徳衛『王朝のみやび』(吉川弘文館歴史文化セレクション,2007)の解釈等は先日紹介した通り
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-10 )〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

②延暦15年(796年)夏4月丙寅(5日)条(本書99~100頁)

    □庭(掖庭[えきてい]ならば後宮の意)で曲宴を催した。酒たけなわとなり、
    天皇が次の和歌を詠んだ。

     今朝[けさ]のあさけなごといいつるほととぎすいまも鳴かぬか人の聴くべく

      (今朝鳴くといったほととぎすよ、いまは鳴いていないが宴席の場にいる人が
       聴くことができるように、鳴け)

前掲『訳注日本史料 日本後紀』67頁も「けさのあさけなごといいつるほととぎすいまもなかぬかひと
のきくべく」(同書同頁頭注に「桓武天皇の歌。今朝啼いていたほととぎすよ、宴席の場にいる人が
聞くことができるように今も啼け、の意。」)とするが、第二句「奈呼登以非都留」(同書66頁)を
「なごといいつる」とは疑問(@_@;) 調べると、片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』(講談社学術
文庫,2019)は「ケサノアサケ ナクトイヒツル ホトトギス イマモナカヌカ ヒトノキクベク」とし、
森田帝子『天皇・親王の歌 コレクション日本歌人選 077』(笠間書院,2019)4頁も〈・・・「今朝の
朝け鳴くといひつるほととぎす今も鳴かぬか人の聞くべく」(今朝の朝方に鳴くと言っていたほとと
ぎすは、今も鳴かないのか、人々はその声を聞こうとしているのに)〉としており、やはり「なご」
ではなく「鳴く」とすべきだろ( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

③延暦16年(797年)冬10月癸亥(11日)条(本書157頁)

    曲宴が催された。酒宴がたけなわとなったとき、皇帝[ママ]が次の和歌を詠んだ。

     このごろの時雨の雨に菊の花散りぞしぬべきあたらその香を

      (このごろの時雨で菊花が散ってしまうだろう。その香りが惜しまれる)

    五位以上の者に衣被を下賜した。 

前掲『訳注日本史料 日本後紀』121頁の頭注も「この頃の時雨で菊花が散ってしまい、その香が惜し
まれる、の意。」と記すだけだが、実は和歌史に名を刻む歌であることは、片桐洋一『歌枕 歌ことば
辞典 増訂版』(笠間書院,1999)の次の記述から判る_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

    ・・・『万葉集』と同時代に成立した『懐風藻』には、この重陽の宴に賜わる
    「菊酒」が見え、すでに奈良時代から行われていたことが知られる。しかるに、
    『万葉集』にまったく菊がよまれていないのは、菊が中国の行事とともに移入
    された中国の植物であって、重陽の宴という宮廷行事の場を離れては、人々の
    生活からまだ遠い存在であったためであろう。その菊がはじめて和歌によまれ
    たのは、現存の文献では、平安遷都後まもなくの延暦十六年(七九七)の
    「この頃の時雨の雨に菊の花散りぞしぬべきあたらその香を」(類聚国史)
    であるが、嵯峨天皇の弘仁五年(八一四)に重陽の宴が復活してからは、和歌
    にも漢詩にも菊が数多くよまれるようになった。・・・

④延暦17年(798年)8月庚寅(13日)条(本書176~177頁)

    天皇が北野で狩猟した。途中、伊予親王の山荘に立ち寄り、酒宴を開いた。日暮れ時
    となり、天皇は次の和歌を詠んだ。

     今朝のあさけなくちゅうしかのそのこえをきかずばいかじよはふけぬとも

      (たとえ夜更けになっても、今朝鳴くと人が言った鹿の声を聴くまでは
       立ち去るつもりはない)

    すると鹿が鳴き、天皇は喜んで群臣に唱和することを求めた。夜分となったが、
    天皇は宮へ帰った。

前掲『訳注日本史料 日本後紀』139頁は「けさのあさけなくちゅうしかのそのこえをきかずはいかじ
よはふけぬとも」とし、138頁の頭注は「たとえ夜更けになったとしても、今朝啼くと人が言った鹿の
声を聞くまでは、立ち去るつもりはない、の意。」としてる_φ( ̄^ ̄ )メモメモ ちなみに、片桐洋一は
前掲『古今和歌集全評釈(上)』で、〈「気佐能阿挟気[ケサノアサケ]」がお気に入りの言葉か、
・・・〉と指摘(^_^;)

⑤延暦20年(801年)春正月丁酉(4日)条(本書255~256頁)

    曲宴が催された。本日、雪が降り、天皇が次の和歌を詠んだ。

     梅の花恋いつつおれば降る雪を花かも散ると思いつるかも

      (梅の花を恋い慕っている自分には、降る雪が梅の花が散っているかのように
       思われた)

    五位以上に身分に応じて物を下賜した。

前掲『訳注日本史料 日本後紀』212頁の頭注も「歌意は、梅の花を恋いし慕っている自分には、降る
雪が梅の花が散っているかのように思われる。」___φ( ̄^ ̄ )メモメモ 橘在列の漢詩文を和歌に訳した
だけの藤原公能「梅の花をりてかざしにさしつれば衣にをつる雪かとぞみる」を、上條彰次(校訂)
『和泉古典叢書8 千載和歌集』(和泉書院,1994)は「従来の梅花歌はほとんどが香を詠むのに対し、
梅を視覚的に詠む点新古今への進展を示す萌芽か。」としてたから、藤原公能以前の「梅を視覚的に
詠」んだ歌を数首挙げたけど(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-26 )、
この桓武天皇の歌も「梅を視覚的に詠む点新古今への進展を示す萌芽か。」と評するのかねぇ(^_^;)

⑥延暦22年(803年)3月庚辰(29日)条(本書287頁)

    遣唐大使藤原葛野麻呂[かどのまろ]・副使石川道益[みちます]に餞の宴を賜わった。
    宴の設営はすべて中国風で、酒宴もたけなわになると、天皇は葛野麻呂を自分の席の側に
    喚[よ]んで酒を賜い、次の和歌を詠んだ。

     この酒はおおにはあらずたいらかにかえりきませと斎[いわ]いたる酒

      (この酒はただの酒ではない。無事帰国できるよう祈りを込めた酒である)

    葛野麻呂は雨のような涕[なみだ]を流し、宴席に参列している群臣らもみな
    涕を流した。葛野麻呂に天皇の着用する被[ふすま]三領・天皇の着用する衣一襲
    [ひとかさね]・金二百両、道益に天皇の着用する衣一襲・金百五十両を下賜した。

前掲『訳注日本史料 日本後紀』239頁頭注も「今、葛野麻呂に下賜する酒はただの酒ではない、無事
帰国できるよう祈りを込めた酒である、の意。」とするが、海音寺潮五郎『悪人列伝 古代篇』(文春
文庫,2006)は「天皇は葛野麻呂に罪をつぐなわせるために、このいのちがけの仕事をあてがった」と
推論していること、「藤原宇合を西海道節度使におくる時に、聖武天皇がしたしく酒をたまわって、
御製をおよみになったことと好一対の話である」という小沢正夫『古今集の世界 増補版』(塙選書,
1976年)の指摘等は紹介済(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-28 )(^_^;)

以上、桓武天皇には和歌を詠みたがる酒癖があったのかも(^_^;) 目崎徳衛が前掲『王朝のみやび』で
「曲宴は何よりも君主の自由意志と個人的好尚によって随時に企てられる。」と指摘してるように、
桓武天皇の「個人的好尚」が飲酒効果で顕在化したが、ソレは漢詩ではなく和歌だったのでは(^_^;)
桓武天皇の政治的な中国志向が文化史でも援用されるが、自身は実は中国趣味じゃないのかも(^_^;)
タグ:歴史 和歌
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

葛野麻呂の時は別れ歌として(酒宴で)詠んでいますね。
一歩間違えればワカメ酒と思えたり(笑)。
桓武天皇もワカメ酒たくさん飲んだんだろうな(羨ましい)。
by tai-yama (2022-01-30 22:44) 

ナベちはる

酒を飲んだら出てくるのは、その人の別人格…ではないですよね(^^;
by ナベちはる (2022-01-31 01:10) 

middrinn

別れ歌???「無事帰国できるよう」、
tai-yama様、詠んだ歌ですよ(^_^;)
by middrinn (2022-01-31 06:52) 

middrinn

よっぽど普段の人柄と違ってれば別人格に見えますけど、
ナベちはる様、やはり本性を現しただけですよね(^_^;)
by middrinn (2022-01-31 07:04) 

df233285

経文のスタイルに嫌気の意識が有る桓武天皇は、
見た目に調子の違う和歌を重んじて、奈良時代
の日本には明らかに無かった見方である、
「奈良の仏教は隣町が中心」と認識された
「平安時代」を作ろうとしていたのだと思う。
以上後知恵。

by df233285 (2022-01-31 07:31) 

middrinn

子供の頃に漢字ドリルを桓武天皇はしなかった・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
誦するにしても和歌には経文とは違ったリズムがありますね(^_^;)
by middrinn (2022-01-31 09:42) 

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