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211030読んだ本

読書の厄介なところは、どんな名著・良書も興味・関心が無けりゃ屑本である〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)
でも、興味・関心のないまま試しに読んでみたら勉強になったインスパイアされたという本も(@_@;)

【読んだ本】

黒田基樹『戦国「おんな家長」の群像』(笠間書院,2021)

読了(^o^)丿 書名もテーマも思い出せぬが(手帳を調べれば判るも面倒)、黒田基樹の本は大昔一冊
読んだ記憶があり、最近も何か読んだよ・・ヘ(__ヘ)☆ヾ( ̄ヘ ̄; )最近読んだのは黒田基樹『下剋上』
(講談社現代新書,2021⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-09-12 )だろうが!

    ・・・とはいえそのように家長として存在したのは、基本的には当主や前当主であり、
    それらは男性であった。家父長制の社会であったからである。そうしたなかで、戦国
    大名・国衆家では、女性が事実上の家長として存在した事例を、かなりの数について
    検出することができる。そのように女性が家長権を行使している存在を、「おんな家長」
    として括ることで、戦国大名・国衆家の運営において、女性の果たした役割に注目する
    ことができる。/・・・

本書7頁から引いたが、「おんな家長」は黒田基樹の造語(^_^;) 〈女性が「家」の当主になったり、
事実上の当主として家長権を行使した事例〉として〈「尼将軍」北条政子や女性地頭など〉があり、
〈後者の場合などについては、「女性当主」と表現されている。ただし、当主と家長は、・・・必ず
しも一致したわけではなかった。「家」権力における最高権力者は、あくまでも家長であった。また
戦国大名・国衆家において、女性当主の存在はほとんど確認できない。〉と本書7~8頁にあるけど、
北条政子は当主であるとともに家長であったということかな(@_@;) ちなみに、いわゆる「女城主」
は〈・・・男性当主が不在のなか、事実上の当主として存在したものをいっているので、それは本書
でいう「おんな家長」にあたる。最も有名なのが、二〇一七年NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」
の主人公の、井伊直虎であろう。しかし井伊直虎は、実際には男性であり、女性説は江戸時代半ばに
成立した物語になる(拙著『井伊直虎の真実』参照)。そのため本書の対象からは外れる。〉と本書
158頁に(^_^;) そもそも視てないし、興味もないけど、一応メモっとく〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/このように室町時代半ば頃から戦国時代にかけて、公家・武家という支配者層
    においては、男性家長と女性「家」妻のコンビによって、「家」権力の統括が行われて
    いたとみなされる。男性家長は、当主であることが多いが、それに限られず、前当主の
    場合も多かった[本書6頁は、天皇家の「院」、摂関家の「大殿」、武家の前将軍である
    「室町殿」「大御所」を挙げる]。「家」妻についても、当主の正妻であることが多いが、
    やはりそれに限られず、前当主の正妻、すなわち「後室」「後家」の場合も多かった。
    そのような状況のため、「家」権力の統括者については、家長と、それと対になって
    存在した「家」妻というかたちで認識することが必要になってくる[←従来は前当主の
    正妻や当主の母がそのような役割を担ったことを「後家役割」として認識されていたと
    本書8頁にはある]。/・・・

本書9頁からメモ(^_^;) 当主と家長が必ずしも一致しないことは解るんだけど、wikiは「治天の君」
を「皇室の当主」としているが、これは家長の意なのかな(@_@;) 一夫多妻制においては、妻は複数
存在するけど、「家」妻であったものやその後継を予定されたものが「正妻」で、そうではなく家政
の管轄に携わらないものは「別妻[べつさい]」、更に当主の子を産んでても家長や「家」妻に奉公
する家臣の立場にあたる女房衆として存在したのが妾(=愛人)とある(本書9頁)_φ( ̄^ ̄ )メモメモ
「側室」は江戸時代の大名統制の一夫一妻制で「妾のうち事実妻となったもの」(本書10頁)(^_^;)

    序章 なぜ「おんな家長」に注目するのか

     「おんな家長」とは/戦国大名・国衆家の「家」構造/「おんな家長」への視点/

    第一章 戦国最初の「おんな家長」洞松院 (赤松政則後室)

     洞松院の出自[細川勝元の娘で政元の姉]/赤松政則との結婚/政則後室となる/
     洞松院黒印状の登場/黒印状の内容/義村の成人と晴政の相続/その後の洞松院/
     洞松院の歴史的性格/

    第二章 最も活躍した「おんな家長」 寿桂尼(今川氏親後室)

     寿桂尼の出自[中級公家の中御門宣胤の次女]と結婚/北川殿[伊勢盛定の娘で
     今川義忠後室で氏親生母]のこと/当主代行の始まり/「おんな家長」になる/
     「おんな家長」としての政務/「おんな家長」としての性格/「家」妻としての活躍
     /「家」妻への復帰と引退/「家」妻からの引退と死去/寿桂尼の歴史的性格/

    第三章 古河公方家の「おんな家長」 芳春院殿(足利晴氏後室)・古河姫君(足利義氏嫡女)

     古河公方家とは/芳春院殿[北条氏綱の娘]の結婚/晴氏との別居/
     芳春院殿の公文書発給/古河公方家の「御台様」として/芳春院殿の政務の内容/
     芳春院殿の死去/古河姫君の登場/古河公方家の「おんな家長」として/
     古河公方家滅亡後の動向/芳春院殿と古河姫君の歴史的性格/

    第四章 関東の「おんな家長」

     関東国衆家の「おんな家長」たち/小山秀綱後室登場の経緯/小山秀綱後室の政務の内容
     /葛山氏広後室/山木大方(堀越六郎後室)の登場/山木大方の印判状/
     妙印尼(由良成繁後室)/

    第五章 陸奥の「おんな家長」

     たくさんいた陸奥国衆家の「おんな家長」たち/岩城親隆妻(桂樹院)/
     二階堂盛義後室(大乗院)/芦名盛隆後室/田村清顕後室(渓山院)/
     田村隆顕後室(小宰相)/八戸直政後室(清心尼)/

    第六章 著名な「おんな家長」の実像

     著名だが実像が不明の「おんな家長」たち/戸次誾千代(戸次道雪嫡女)/
     遠山景任後室/飯尾連竜後室/

    第七章 最後の「おんな家長」 浅井茶々(羽柴秀吉後室)

     浅井茶々の立場/羽柴家の「おんな家長」になる/片桐且元の追放/茶々の最期/
     浅井茶々の歴史的性格/

    終章 「おんな家長」が活躍した時代

     「おんな家長」登場の背景/「おんな家長」の役割/「おんな家長」の消滅/

    あとがき

    主要参考文献

知らない人物の話も多かったけど、特に興味・関心も無いもんだから、〈・・・将軍足利義藤(のち
義輝)から「義」字の偏諱を得て、幸千代王丸は実名藤氏を名乗った。これは[古河公方]晴氏が、
藤氏を嫡男に定めたことを意味する。〉(本書73頁)の誤植に気付く程度の流し読みとなった(^_^;)

    ・・・/これらのことから、「おんな家長」が登場する場合というのは、男性当主
    あるいは家長権を保持した男性の前代当主などが不在となり、さらに家臣のなかで
    当主の政務代行を務める家宰や執政までもが不在、という状況でのことであった、
    と認識できる。家父長制社会であったため、男性の当主もしくはそれに匹敵する存在、
    さらには当主の政務代行を務める存在があれば、政務はそれらが執ったが、それらが
    全くみられなくなると、「家」妻が、それもが不在の場合には、前当主の嫡女が、
    当主の政務を執り仕切ることになったのであった。/その意味では、「おんな家長」
    の登場は、かなり限定された状況でのことであったといえる。しかし逆に、その事例が
    十八人も存在したということは、戦国大名・国衆家では、かなりの頻度で、そのように
    男性の執政者が不在という状態がみられ、そのために「おんな家長」がそれなりの頻度
    で登場するものとなった、と認識できる。/・・・

こう本書198頁は記しているけど、そのような「状況」でも「おんな家長」にはなりえなかった事例は
あるのかな(@_@;) もしあるなら「おんな家長」となりうるための要件も明らかになりそう(@_@;)
管領家の細川氏や後北条氏とか後ろ楯となりそうな有力大名の存在=出身かなとか最初思ったけど、
紹介されている事例を読んでいくと、そうとは限らないね(@_@;) 最後に、本書で目が留まった件を
本書188~189頁から引いておこう〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/大坂の陣においても、茶々の羽柴家[=豊臣家]の事実上の家長としての
    存在感がいくつか示されている。・・・また十二月十五日、徳川方との和睦交渉が
    すすめられていたなか、徳川方では、「城中のことはすべて『秀頼御母(茶々)』
    の命令によっている」(『駿府記』)と認識している。戦陣のなかでも、秀頼の
    意向よりも茶々の意向が重視されていたことがわかる。/ちなみにそこでは、
    「女性のため、万事について急がないため、返事が遅れている」と評されている。
    ここには当時における、「女性はのんびりしている」というレッテルの存在を知る
    ことができるが、実際には茶々は、「のんびり屋」であったようである。先に触れた
    慶長七年に推定される二月に[片桐]且元に出した消息でも、前年から書状を出そう
    と思っていたが、遅くなってしまった旨が書かれていた。とはいえこのことが、茶々
    の生来の個性であったのか、政治経験が浅いがゆえの慎重さによるものだったのか、
    どのように判断したらよいのかはわからない。しかし先[本書185頁]にみた
    今木[こんぼく]一政の発言[「このようなことは女房衆が考えることではない」
    と本書185頁に]を踏まえると、この慶長年間終わりの時期には、女性は政治・軍事
    には向かないとする風潮が顕著にみられ出していたように思われる。/・・・

タグ:歴史 列伝
コメント(8) 
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コメント 8

ナベちはる

どんなにいい本でも、興味や関心を持たないとほとんど意味をなさないですよね…(^^;
by ナベちはる (2021-10-31 01:09) 

middrinn

豚に真珠、猫に小判といったところでしょうか(^_^;)
by middrinn (2021-10-31 06:57) 

df233285

安土桃山時代末期の豊臣の最期の頃って、
これに近いんじゃないんですか。2代目・
3代目が家康の進撃を防ごうとしていたって
話もあんまり聞かないんですが。
その前に、跡目相続をめぐるイザコザを
避けるため人選を絞ると、イザという想定外
のときに、大体こうなるのではと疑う。
鎌倉幕府が後鳥羽上皇に、あわやツケ入られ
そうになったのも、その手の絡みが幾分ある
のでは。やはり代表は皆で選挙で選んでいた
国の方が、レベルが少し高かったんですかね。

by df233285 (2021-10-31 07:43) 

middrinn

ナルホド( ̄◇ ̄;) 御家騒動を避けるため、
当主候補の数を意図的に減らしたことが、
「おんな家長」登場の背景であると(゚o゚;)
足利義氏死去時に長女の古河姫君は9歳で、
7人の義氏近臣が「集団で政務にあたった」
(本書88頁)由、これも衆議かな(^_^;)
by middrinn (2021-10-31 08:42) 

ニッキー

興味が全くなかった分野の本でも、
読んでみると面白かったりしますよねぇ=(^.^)=
でもやっぱり読む気が起きない方が多いですがw
by ニッキー (2021-10-31 19:31) 

middrinn

興味の無い人間すら有無を言わさず面白がらせるのは、
名著・良書中の名著・良書なのかもしれませんね(^^)
by middrinn (2021-10-31 19:48) 

tai-yama

会社内だと"おんな課長"は結構いますよ~。
立花宗茂は養子だったため、道雪一人娘の誾千代に頭があがらなかった
とか。実際、仲も良くなかったし子供もいないし・・・
by tai-yama (2021-10-31 23:08) 

middrinn

会社ではおんな課長に頭が上がらないから、
ツーリングで現実逃避・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2021-11-01 07:19) 

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