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191006読んだ本

「書くのに技術がいるように、読むのにも技術がいる。」とは、文芸批評の神様・小林秀雄による名言
(「読書について」同『常識について』[角川文庫,1968]所収)だが、マジ得心(^^) 本のレヴューは
レヴュアー(書評者)の読解力と文章力の双方を問われてしまうのに、Amazon等にレヴューを書き込む
人は強心臓だよねぇ(^_^;) NHKが取り上げた「やらせレビュー」、本でもあったりしてヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ

【読んだ本】

新田次郎『新田次郎全集19 富士に死す・算士秘伝』(新潮社,1976)

本書は順に「富士に死す」「鳥人伝」「算士秘伝」「灯明堂物語」「時の日」「二十一万石の大名」
「梅雨将軍」「豪雪に敗けた柴田勝家」「佐々成政の北アルプス越え」「女人禁制」「赤毛の司天台」
「仁田四郎忠常異聞」「凶年の梟雄」「六合目の仇討」「近藤富士」を収録してて(「富士に死す」
のみ長篇で、他は短篇)、「六合目の仇討」「近藤富士」「富士に死す」を読んで本書も読了(^o^)丿

「六合目の仇討」は作品名の通りのストーリーで、可も無く不可も無い短篇(^_^;) キーワードである
「富士講」と「御師[おし]」の説明(前者は340頁、後者は347、348頁)をメモる_φ( ̄^ ̄ )メモメモ

    /江戸時代の後半、江戸の町民の間に富士講があった。富士講とは富士信仰を
    中心とした宗教結社で、登山期に入ると、それぞれの講中は先達を中心にして、
    二、三十人ずつの団体を作って富士山へ繰り出して行った。/・・・

    ・・・御師とは富士信仰に伴ってできた一種の神職であった。広大な御師坊をかまえ、
    講中を宿泊させた。富士講はそれぞれ、何れかの御師とつながりを持っていた。
    多くの富士講を得意先に持つ御師の家は栄え、信者の数の少ない御師の家は
    みすぼらしかった。富士吉田の町に入ると、浅間神社へ行くまでの道の両側に、
    これらの御師坊が並んでいた。/・・・

    ・・・歴史的に言えば富士山北口では船津の御師の方が栄えていたが、
    江戸の中期ころから富士講が盛んになると、江戸と直線で結ぶ、
    富士吉田のほうが登山基地として賑わいを見せ、いつの間にか
    富士吉田の御師の勢力は船津の御師を圧倒するようになっていた。
    吉田と船津は二里離れている。この距離が、吉田の御師を隆盛に導き、
    船津の御師は武士階級の支持があり、古くからの信者もあって、
    依然として信仰勢力を保っていた。/・・・

「近藤富士」は近藤重蔵の生涯を描いた短篇(^_^;) その作品名は重蔵が目黒の邸内に築いた人造富士
(富士塚)で、富士信仰・富士講の流行の産物であり、登れば富士山に登ったことになるとか(^_^;)
近藤重蔵を苑子タンは短篇「癖馬」『残照』(旺文社文庫,1987)所収や随筆「ヨウトホエルの末路」
『はみだし人間の系譜』(中公文庫,1996)所収で悪し様に描いてたけど、本作品は同情的かな(^_^;)

「富士に死す」は、富士講中興の祖である食行身禄(乞食身禄)の生涯を描いた作品で、新田次郎の
書いた伝記小説として傑作かも(⌒~⌒) 『小説に書けなかった自伝』(新潮文庫,2012)を引く(^^)

    ・・・/「怒る富士」を書き終えた私にはもう一つどうしても書かねばならない、
    富士山ものがあった。富士講にまつわる小説である。富士山がある以上、富士山を
    対象とした宗教の存在を忘れることはできぬ。特に江戸時代に全盛をきわめた富士講に
    触れずして富士山を語ることはできない。富士講の前身は戦国時代の終りころから
    あったが、全国的な流行を見たのは江戸時代中期以降である。末期になると、
    江戸は広くて八百八町、江戸は多くて八百八講とうたわれたほどの富士講があった。
    大きな講中になると千人近い信者を持っていた。このような富士講の隆盛を見たのは
    享保十八年(一七三三)、富士講行者の身禄が吉田口七合五勺の岩穴で、
    入定(宗教的自殺)をして以来のことである。身禄が岩穴にこもり食を断ち、
    水だけを飲んで三十一日間、富士講の神文を唱えながら入定したことは
    泰平の世の庶民感情を大きく動かした。私はこの身禄の人間性に興味を持ち、
    彼の生涯を小説とした。身禄を書くことによって、当時の富士信仰の底にあるものを
    書きたかったのである。/「富士に死す」は昭和四十八年四月に書き上げて、
    「別冊文藝春秋」誌上に一気に掲載した。富士山を舞台にした長篇を時代順に並べると
    「怒る富士」「富士に死す」「芙蓉の人」「蒼氷」「富士山頂」の五作となり、
    中篇として「強力伝」そのほか短篇が十篇ほどになった。富士山もの五作を
    書き上げることは作家になって以来の長い間の念願であった。私はこの念願が
    かなえられたことでたいへん気をよくしていた。・・・

実直な人柄の主人公、幸が薄いの(;_;) 「金のために神や仏が出しものになっている」(本書22頁)
富士講の道者や御師に背を向け、独り激しい行を続けて、最後は富士山で入定する姿は爽やか(T_T)
富士講の始祖の角行から数えて五代目にあたる月行(身禄は五世月行から六世を継いだ)のキャラが
強烈で好き(〃'∇'〃) 四世の月旺は、月行と月心という2人の弟子にそれぞれ五世を譲ったとされ、
月行と月心、更には、六世身禄と六世光清(五世月心の後継者で大名光清と呼ばれる)とを対称的な
キャラとして描いているから、月行や身禄の純粋性がヨリ際立った印象になるね(^_^;)

芸術新潮2013年9月号の「世界文化遺産登録記念 大特集 富士山 その絵画と信仰」に、編集部による
「信仰篇 神の山、仏の山 宗教スポットをめぐる旅」もあって、富士講や御師についての記述もあり、
色々と勉強になったんだけど、新田次郎「富士に死す」を読むと気になる記述が散見された(@_@;)

    ・・・/ここでふたたび登山の方へ話を戻す。取材班には、・・・もうひとつ目標が
    あった。それは八合目の元祖室[がんそむろ]。富士講の中興元祖、食行身禄
    [じきぎょうみろく]が63歳で即身入定(断食自殺)した場所に設けられた小室で、
    富士講信者にとっては最重要の霊跡のひとつだ。標高3250メートル。建物などは
    ともかく、そこからの眺望に興味があった。/当日は幸い快晴。青息吐息ながら
    ようやくたどりついた元祖室から撮ったのが、92頁の写真である。享保18年(1733)
    6月15日、食行はこの広大な風景に向き合いながら断食に入り、約1か月後の
    7月13日に絶命する。その間、介添えの弟子・北行鏡月に教えを説き続け、
    北行はそれを筆記して「三十一日の巻」にまとめた。/・・・
    
前半と後半、それぞれに気になる点があるが、後半の方は誰もが気付いたことと思う( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
「6月15日」から「7月13日」まで、どう数えても「三十一日」ないじゃんオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
新田次郎の「富士に死す」の記述(本書111頁)を引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    身禄は閉じた眼を再び開くことはなかった。遷化したのである。/享保十八年
    (一七三三年)七月十三日であった。時に、身禄は六十三歳。六月十三日に
    岩小屋に籠ったその日から数えて、三十一日目であった。/田辺十郎右衛門は、
    身禄が七合五勺の岩小屋に入ってから入定するまでの三十一日間の聞き書きを
    整理して、三十一日の巻とした。この三十一日の巻が身禄派の教典となり、
    身禄派の発展をうながし、ひいては富士講の全盛時代を築き上げた。/・・・

「手前味噌で恐縮だが、新潮社の校閲部と言えば、出版業界では“超一流”として知られた存在。」
と週刊新潮2016年10月20日号が自画自賛した新潮社の校閲部が見逃したとは思えないから、何かしら
文献に基づいて、上記のような記述になったんだろうけど、気になるところですねぇC= (-。- ) フゥー

前半の記述も、新田次郎の「富士に死す」の次の記述(本書114頁)に照らすと、気になるね(@_@;)

    ・・・/富士講中興の祖、身禄の遺骨は、死後何者かによって傷つけられたことが
    あったので、田辺十郎右衛門が[身禄が断食して入定した]七合五勺の岩小屋から
    七合目の田辺十郎右衛門の石室小屋に移し、石櫃に入れて埋葬した。七合五勺
    (もと七合)の石室小屋の中の身禄殿がそれであったが、この七合五勺は戦後は
    新八合目の元祖室と呼ばれるようになった。身禄の墓地は現在も尚、彼が入定した
    烏帽子岩の間近にあるのである。/・・・

新田次郎によると、元祖室は身禄が「即身入定(断食自殺)した場所に設けられた小室」ではなく、
身禄が「この広大な風景に向き合」ったとホントに言えるのかしらね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

芸術新潮編集部の取材班は、新田次郎「富士に死す」を読んでないのかと思ったら、読んでた(^_^;)

    ・・・/食行の入定が与えた感銘と、北行ら弟子たちの持続的な布教が、富士講の
    勢力拡大をもたらし始めたのは、食行の三十三回忌のころかららしい。一方この間に、
    北口本宮富士浅間神社の社殿・・・を造営・修復する大事業をなしとげたのが
    村上光清だ。新田次郎が書いた食行の伝記小説『富士に死す』(1974年 文藝春秋)には、
    大名光清と呼ばれるほど富俗な商人だった光清が金にあかせて社殿を造営したことに
    反撥した人びとが、乞食身禄と呼ばれた食行の自己犠牲に共感し、身禄派がたちまち
    大勢力となったように記してある。とても面白い小説だが、この評価はいささか
    光清に気の毒なように思う。そもそも光清による社殿造営は食行没後だし、
    食行を慕って富士講に投じた人たちもまた、光清によって輝くばかりに造り改められた
    北口本宮に参拝してから富士に登ったのである。むしろ。この両者の活躍があって、
    吉田口登山道の他にぬきんでた繁栄がもたらされたとすべきだろう。/・・・

「光清による社殿造営は食行没後」とあるが、同誌の北口本宮富士浅間神社の各写真のキャプション、
「・・・享保18年(1733)から延享2年(1745)にかけて、富士講中興の祖・村上光清に
よって、大々的整備された。」「享保18年(1733)、村上光清の創建。」とあって、身禄が遷化した
享保18年と同じ年から始まったようだけど、その開始の日付が「食行没後」=享保18年7月13日以降と
断定できる文献でもあるのかしら(^_^;) 「富士に死す」には、享保17年の夏に御師全員が浅間神社へ
集まるようにと通達があって「光清様が先頭に立たれて、おおよそ千五百両ほどの金ができました。
それで浅間神社をすっかり建てかえることになりました。それについての細かい相談です。」という
台詞(本書97頁)が描かれているけど、この辺は気象庁の測器課長として富士山頂に気象レーダーを
設置するという一大プロジェクトを担当した新田次郎らしい描写かと(^^) 「そもそも光清による社殿
造営」の話自体は「食行没後」ではなくソレ以前からあったと考えるのが常識的かとC= (-。- ) フゥー

・時代科学小説「二十一万石の数学者」で新田次郎が描く日本の和算のレヴェルの高さとギルド問題(^^)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-09-16

・〈梅雨と信長〉の関係性に着目した「梅雨将軍信長」は気象庁出身の直木賞作家として本領発揮(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-09-23

・「仁田四郎忠常異聞」から話は『現代語訳 吾妻鏡7 頼家と実朝』注釈者の無教養ぶりへC=(-。- )フゥー

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-09-22

・「凶年の梟雄」は陶晴賢を滅ぼすまでの毛利元就で、「佐々成政の北アルプス越え」に涙腺が(;_;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-09-24

・「鳥人伝」「算士秘伝」「灯明堂物語」「時の日」「女人禁制」「赤毛の司天台」も読んだよ(^o^)丿

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-10-03
コメント(14) 
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コメント 14

Rifle

読む技術!?うーん...確かに、前提となる知識の有無で内容が変わっちゃう場合もあるでしょうしねぇ。(^^;)
by Rifle (2019-10-06 14:18) 

middrinn

技術や技法というのは、表現はアレですけど、
能力というのは知識と並んで必要かと(^_^;)
by middrinn (2019-10-06 15:23) 

たじまーる

富士山信仰の富士講ですが
今まで良く知らなかった
今回の記事で勉強になりました。
やはり富士山登頂はかつては女人禁制だったのですね。
by たじまーる (2019-10-06 18:36) 

middrinn

本書15頁には「二合目には幾つかの小祠があり、茶店があった。女人禁制の立札が
あった。女はそれ以上奥へ入ることは許されない。[富士講の]白衣の女道者たちが
遥拝所に立って手を合わせているのが見えた。」とあります(@_@;) 「女人禁制」
という短篇では女人禁制だったのに男装して五合目まで登る女性がいたとか(^_^;)
by middrinn (2019-10-06 18:52) 

ニッキー

読む技術・・・確かに作者の書きたかったことを
読み取るために必要かもしれませんが
そこまでの技術がない私は、単純に楽しめれば良いかなと(⌒-⌒; )
昔は女人禁制の場所っていろいろありましたが
富士山もそうだったんですねぇ(°_°)
by ニッキー (2019-10-06 21:20) 

middrinn

マジ得心と書いておいてナンですけど、必要なのは技術・技法ではないような(^_^;)
ちなみに、このブログを読むのに必要なのは技術ではなく根気オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
by middrinn (2019-10-06 21:31) 

tai-yama

角行の入定地は見に行ったことがあったり。ボランティアさんが
説明してくれますよ~。かつては(江戸の)庶民信仰の象徴だった
富士山も、今やチャイナな人だらけと。
by tai-yama (2019-10-06 23:09) 

ナベちはる

「やらせレビュー」、もしかしたら本でもあるかもしれませんね(;`・_・´)
by ナベちはる (2019-10-07 00:20) 

middrinn

本書には角行の入定の話は出てきませんでした(^_^;)
tai-yama様も愛車を担いで一緒に登山しましょ(^o^)丿
by middrinn (2019-10-07 06:25) 

middrinn

出版社が「やらせレビュー」を募集してたら、
ナベちはる様、是非ご一報下さいな(^o^)丿
by middrinn (2019-10-07 06:26) 

そら

読む技術かぁ、確かにありそうですね
私は読むのも遅いし理解するのにも時間が掛かる
もう少しスラスラ読めると楽しめると思います!!
by そら (2019-10-07 06:33) 

middrinn

御自身の蔵書なら付箋を貼りながら読むとかありますね(^^)
スラスラ読めると、頭に入ってないのでは?と不安に(^_^;)
by middrinn (2019-10-07 06:41) 

えくりぷす

またしても「出版業界では“超一流”」の新潮社校閲部が見逃したものを、みどりん様があっさり発見したという図ですね。
富士山には学生時代に5合目から登りましたが、辛くて辛くて…、2度と登るまいと思いました。
by えくりぷす (2019-10-07 10:36) 

middrinn

本書の江戸から富士山で断食を始めるまでの日程は細かく慎重に記述されてるので
説得力はありますね(^_^;) 芸新は何かの文献に依拠したんでしょうけど、合理的
疑いが(^_^;) お年を重ねられると、再び登りたくなるかもしれませんよ(〃'∇'〃)
by middrinn (2019-10-07 20:30) 

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