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230418読んだ本

かつて某国の最高指導者は後頭部の大きな瘤が写真だと無いので瘤取り爺さんと呼ばれてた(@_@;)
買いたい古本が何冊かあるんだけど、お金が無い(-ω-、) どこかに花咲か爺はいないかな(´ヘ`;)

【読んだ本】

小松茂美編『日本の絵巻11 長谷雄草紙 絵師草紙』(中央公論社,1988)

その粗筋を先日要約紹介した(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-03-31
『長谷雄草紙』は絵と詞書(=絵の前後にあってストーリーを説明してる文章)から成る絵巻物(^^)
ところが、ストーリーとは無関係と思われ、しかも、対応している詞書も無い絵が存在し、その絵は
本来なら描かれるべきアイテムが描かれていないので、チト気になる(@_@;) その絵は、長谷雄邸
を出て双六の対戦場所へと長谷雄が牛車にも乗らず供も連れずに男に誘われるまま通りを歩く絵と、
朱雀門の前に着いてここが対戦場所だとその楼上を指さしている男と長谷雄の絵、この二つの絵の間
にある絵であり、それがどんな絵なのか本書11~13頁の説明文から引く(@_@;)

    ・・・/天をつく大きな木がそびえている。が、画面はその幹だけを描く。その根方に、
    一台の荷車が引きすえられている。網代の板壁で囲った店[たな]には、さまざまな魚
    が並べられている。みれば、野鳥もつるされている。内には草履もつり下げられている。
    店番の少年が、子供を背負った女の応援に忙しい。この魚は、ついけさがた、若狭から
    魚飛脚で運んだもの。生きのよさでは京中、当店が一番でござりますぞ。おそい夕餉の
    買い物に来た女も、少年も、店前の珍奇な道中の二人[=男&長谷雄]には、眼もくれ
    ない。/大きな荷車の轅[ながえ]が、ぐいと突き出ている。みれば、隣家の板壁の懸木
    [かけぎ]に懸けられている。その軛[くびき]に一匹の猿がつながれている。これは
    飼い猿である。/いったいわが国における飼い猿の風習が、いつのころから行なわれる
    ようになったのであろうか。たとえば、『後鳥羽院御記』(建久二年〈一二〇二〉四月
    二十に日条)によれば、「抑[そもそ]も今朝、前中納言教成が猿丸(猿使い)を召し
    て、これを見る。・・・」(原文は漢文)という記録がみえる。これによれば、すでに
    十三世紀の初めころ、貴族の邸宅に猿使いが置かれ、猿を飼っていた様子を知る。/
    さて、板壁の家の門口[かどぐち]には、太っちょの太鼓腹が、胸をはだけて、土間に
    どっかとあぐらをすいて、路上を見やりながら、蒲葵扇[ほきせん]を片手に、ゆったり
    と涼をとっている。/路上の光景はとみれば、ざんばら髪の子を、その父親らしき男が、
    羽交い絞めに抱き止めている。すそがはだけて、小さな白い褌がみえるのも愛敬、竹を
    振りかざして、なおもわめき散らしている。猿は歯をむき出して怒り狂う。おお、よし、
    よし、この子のほうが悪いのじゃ、許してたも、許してたも。と猿に向かって懸命に
    なだめる親父。/家の中の鈎[かぎ]っ鼻の男は、この太鼓腹どのの使用人か。仕事の手
    を休めながら、だんなさま、子供のことです、うっちゃっておきなさいまし、と分別顏。
    昔も今も、変わるところない一光景である。/・・・/なにっ、猿が怒ったとか。子供の
    朋輩か、はだしで現場に駆けつける。髪を元結で引き結んでいるあたり、現場の子供たち
    より年嵩[としかさ]なのであろうか。片手に脱いだ草履、片手は着物の褄を押さえて
    横っ飛び。ええい、のいてくだされ、じゃまだ、じゃまだ。/駆けつける子供に気づか
    ぬか、一人の男が現場をみている。折烏帽子・水干、腰には柄間[あい]に赤いひもを
    巻いた鞘卷[さやまき]を差している。袴のすそを脛高にたくし上げ、脚絆[きゃはん]
    をつけている。さる高貴に仕える下部の一人であろう。肩の天秤棒[てんびんぼう]には、
    前後に大きな檜曲物[ひまげもの]の桶をかついでいる。前荷・後荷に柄杓[ひしゃく]
    が結びつけられているところをみると、主家に運ぶ酒桶であろう。

御覧の通り、『長谷雄草紙』のストーリー展開に関係があるとは思えないシーンを描いている絵で、
どのような意味があるのか解らない(@_@;) 小松茂美も次のように記すのみ(本書14頁)(@_@;)

    ・・・/とまれ、[本書]10ページから14ページへの長い画面を通して、見知らぬ男
    ──じつは朱雀門の鬼が、長谷雄をおびき出して、朱雀門に急ぐ場面を描く。その道
    行きの中に展開する、市井の小事件を描いて、この絵師はひと息入れようというので
    あろうか。/・・・

小松茂美編『日本の絵巻19 西行物語絵巻』(中央公論社,1988)は、西行の歌も確認してなかったり
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-04 )、遣っ付け仕事をしてるので
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-07 )、前に批判したけど、流石に
専門家だけあって、本書では素人の小生が見逃すようなディテールもちゃんと拾っていて敬服m(__)m

ちなみに、ネットで画像検索すれば当該絵も見られる(^^) 新書・叢書サイズの本に掲載されている
『長谷雄草紙』の図版は小さ過ぎて役に立たないけど、本書のサイズはB4判変型という大判ゆえ、
小松茂美が指摘してるメチャ細かいところも確認・吟味することが可能ヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪

さて、さて、さ~て!描かれるはずなのに描かれていないアイテムのことを本書13頁は指摘(@_@;)

    ・・・/そういえば、太鼓腹も、鈎っ鼻も、そして子供の父親も、一様に頭に
    かぶり物がない。当時の絵巻で、身分の高下それぞれに、露頭のまま、つまり、
    烏帽子を描かないものはない。まことに珍しい図である。/・・・

佐伯梅友&森野宗明&小松英雄(編著)『例解古語辞典 第二版 ポケット版』(三省堂,1985第3刷)
も「えぼし【烏帽子】」を「元服した男子のかぶりもの。平安時代中期以後、上、中流階級は平常に、
下層階級は外出時に用いた。」とし、〈成人男子たるもの、人前に「烏帽子」をかぶらずに出ること
は、非常識きわまりないことで、相手に対しても無礼であるという観念が強かった。絵巻物の類でも、
貴族に限らず、庶民の描写においても、成人男子を描くときには、、烏帽子姿であるのが普通。〉と
するのに、『長谷雄草紙』では「太鼓腹」「鈎っ鼻」「子供の父親」の3人の烏帽子が描かれてない
謎(@_@;) なお、「烏帽子は・・・平安時代には、上下一般に着用したもので、・・・人に面接す
るときは、室内でも病牀でも、これを被った・・・」と石村貞吉(嵐義人校訂)『有職故実(下)』
(講談社学術文庫,1987)にあり、本郷和人によれば「女性と交わっているときも、烏帽子をつけた
まま」(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2023-04-09 )だったらしい(@_@;)

一人だけなら描き漏らした可能性もあるが、三人なので、主人公の紀長谷雄は菅原道真と親しかった
平安時代の貴族だが、『長谷雄草紙』を描いた絵師は実は烏帽子を被らなくてもよい後世の人間で、
その時代感覚で烏帽子を描かなかったのかと愚考(@_@;) 阪倉篤義&本田義憲&川端善明(校注)
『新潮日本古典集成 今昔物語集 本朝世俗部四』(新潮社,1984)の「烏帽子」に付された頭注には
「男子露頂の習慣は中世以後のことで、・・・」とあるが、wikiの「烏帽子」の項には、

    ・・・/平安以降、次第に庶民にも普及し、鎌倉から室町前半にかけては被り物がない
    のを恥とする習慣が生まれた。例えば「東北院職人歌合絵巻」(東京国立博物館蔵、
    重要文化財)には、身ぐるみ失った博徒がまだ烏帽子を着けている様子が描かれている。
    つまり、烏帽子は当時の男性の象徴であり、これを取られる(または脱がされる)こと
    は屈辱的、恥辱的行為であり、紛争の発端になりやすかった。細川政元は数々の奇行で
    知られたが、烏帽子を嫌って被らなかったことも奇行として捉えられていた。しかし
    戦国時代以降、逆に日常は髷を露出し被り物を着けないのが普通となった。/・・・

とあり、根拠不明も「戦国時代以降」とある(@_@;) 『長谷雄草紙』の制作年代について小松茂美
は本書巻末の解説で、「画面の検討」から「鎌倉末期、十三・四世紀の交[ころ]」とする梅津次郎
の説、「およそ一三一〇ないしは二〇年代にかけてのころ」とする村重寧の説を紹介した上で(本書
84頁)、〈・・・私は詞書の書風の面から、「十三世紀末」に推定したである。・・・この「長谷雄
草紙」の成立年代は、一二八〇~九〇年代という数字を導き出すことが可能ではなかろうか。〉とし
てる(本書85頁)(@_@;) となると、「中世以後」の「男子露頂の習慣」で描かれたのか(@_@;)

実はこの絵の前後の絵(上述)においても烏帽子が変なことを小松茂美は見逃してなかった(@_@;)
「おや、私はいま大きな違いを発見したのである。」として長谷雄を朱雀門へと誘う男の狩衣の色が
長谷雄邸を訪ねた時と異なること(←長い年月で緑だった狩衣の緑青が剝落しただけ)を指摘した後
(本書18頁)、次のように指摘している(本書18頁)(@_@;)

    ・・・/さらにもう一つ、長谷雄邸に推参した時、この男は烏帽子であった。
    が、路上を急ぐ時、また、朱雀門下にたたずむこの男の頭には、折烏帽子を
    頂くではないか。/・・・

そこで、問題の絵とその前後の絵も別の後世の絵師が後から描き足した(から対応する詞書もない)
のかなと思ったりもしたが、巻末の解説にこの絵巻の制作過程は「・・・あらかじめ一巻に調巻した
巻物に、絵師が画面を埋めていく。のちに、詞書の清書が加えられた、という次第。」(本書84頁)
とあったので妄想に終わった(@_@;) 結局、『長谷雄草紙』が制作された「一二八〇~九〇年代」
には既に「男子露頂の習慣」が始まっていて、その「習慣」の影響で無意識に絵師は烏帽子を描かな
かったのかなというとりあえずの結論に小生の中では落ち着いた(@_@;) ところが、参考になるか
と披いてみた本で、東大のセンセーが胡散臭~い指摘をしていた∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃ!?
タグ:古典 絵画 歴史
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df233285

京都では鎌倉期までは、郊外以遠と異なり、時報が
14分前後位ごとに鳴り響いていた事からしても、
ほかの場所から入ってくると平安期には、騒音が
ひどく、うるさい場所という話を、前にこのブログ
か、どこか別のところで聞いたような気が私には
します。どんな音であるにせよ、絵画で騒音に
満ちているという雰囲気の場面を描いて、道中が
京都市内である事を表現しているだけのように、
今回話題の絵のコマの意味については疑いました。
by df233285 (2023-04-18 22:23) 

tai-yama

宝くじとかTOTOならみずほ銀行の前にありますよ~。
一攫千金のチャンスは結構ありますし(当たるかどうかは別)。
鎌倉から室町前半でも被り物がないと恥とおもってしまう時代だった
とは。今の時代だと、頭の頭皮がモロに見えている場合のみ被り物
が必要になるけど・・・
by tai-yama (2023-04-18 23:19) 

middrinn

多分それは拙ブログではないでしょう(@_@;)
ナルホド!この「市井の小事件」は騒然とした
平安京内であることを暗示していると( ̄◇ ̄;)
長さん様、本書の「詞書釈文」だと、『長谷雄
草紙』冒頭(第一段)の詞書に「中納言長谷雄
卿は・・・或日、夕暮れ方に内[=内裏]へ参
らんとせられける時、身も知らぬ男の、・・・」
とあり(本書93頁)、平安京が舞台と(@_@;)
by middrinn (2023-04-19 05:48) 

middrinn

当たらねーよ!(ノ;ω;)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ナカナイデー!!
tai-yama様が「ここ掘れワンワン!」と教えてm(__)m
「一二八〇~九〇年代」には被り物をしない人も(^_^;)
今の時代には紫外線対策で被り物をしている人が(^_^;)
by middrinn (2023-04-19 07:34) 

爛漫亭

 わたしの子供の頃、1950年代は、大人は外では帽子を被る
のが普通でした。ソフトとかハンチング、パナマとか。学生は
学生帽。古い映画に残っています。
by 爛漫亭 (2023-04-19 11:45) 

middrinn

同時代の『サザエさん』でも波平が被ってましたね(^_^;)
外国のファッションからの影響だったんですかね(@_@;)
飯塚信雄『ファッション史探険』(新潮選書,1991)には
「私たちは挨拶の時、帽子を脱ぐのを当り前のように考え
ているが、実はこの習慣が一般に普及したのは、ようやく
十八世紀になってからだった。」、「着帽の習慣がファッ
ションになったのは、そう遠い昔ではなく、ヨーロッパ
では十四世紀からのことだった。」とあるので、14世紀
~18世紀の欧州は日本の平安時代と似てるのかも(^_^;)
by middrinn (2023-04-19 15:47) 

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