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230115読んだ本

正月のウルトラセールで買ったのに以前と違って今月末までの1割引券を貰えなかったな(@_@;)
小生は殻刑民でアプリ会員じゃないからか(@_@;) あるいはブックオフも苦しいのかな(@_@;)

【読んだ本】

倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社現代新書,2013)

本書の「第二章 道長の宮廷生活」の「2 儀式について」の中の「作文会への意欲」という見出し
が付された節の冒頭を引く(本書78~79頁)(@_@;)

    /道長は漢詩がいたって好きなようである。自邸や宇治別業で作文会(漢詩を作る会)
    を頻繁に開いているのみならず、内裏でおこなわれた作文会も主導しているかのよう
    である。/なお、一条朝二十五年間に内裏において開かれた作文会は四十六回、道長
    主宰で開かれた作文会は三十九回を数える。道長主宰の作文会は、年代別では、一条朝
    の長徳年間に三回、長保年間に五回、寛弘年間に三十一回である。/ところが三条朝に
    なると、内裏作文会も開かれることはなくなり、道長邸で開かれた作文会も、寛弘八年
    (一〇一一)後半から長和四年(一〇一五)までで、わずか四回となる。三条天皇との
    関係は、もはや作文会など開いている場合ではなくなったのであろう。/後一条朝と
    なると、長和五年に一回、寛仁元年(一〇一七)はなし、寛仁二年に二回、寛仁三年に
    一回となる。そして出家後は、さすがに開かれなくなるようである。一条朝が文芸隆盛
    の聖代と称されるゆえんである。/・・・

倉本一宏は「道長は漢詩がいたって好き」だったから一条朝で作文会を「頻繁に開い」たとするが、
「三条天皇との関係」、つまり、三条天皇と不仲だったから作文会も開かれなくなったというなら、
自分の孫である後一条天皇の御代には作文会を「頻繁に開」かないとおかしいだろ(^_^;) 「漢詩が
いたって好き」なのに三条朝では作文会を我慢してたのなら後一条朝になって好きなだけ開けたはず
なのに全く増えてない(^_^;) 「道長は漢詩がいたって好き」という説は一条朝→三条朝→後一条朝
での道長主宰作文会の数の増減を説明できてないよね(^_^;) 道長が作文会を「頻繁に開い」たのは
一条天皇に気に入られるために一条朝の流行や一条天皇の御趣味に付き合ってただけの可能性が高い
と愚考(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-10-19 )(^_^;) 後一条天皇は
自分の孫だから気に入られる必要性もないので作文会を開かなくなった、と考えるのが合理的(^_^;)

・同じ趣味だと思っていたのに実は賄賂のためだったなんて(ノ;ω;)ノ ~┻┻ (/o\) ミドリン ナカナイデー!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-08

タグ:歴史
コメント(5) 
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コメント 5

tai-yama

実は一条天皇を"かんし(監視)"するために作文会をたくさん開催して
いたのかも(笑)。もちろん、後一条天皇は孫なので監視する必要
はなく・・・
by tai-yama (2023-01-15 22:43) 

middrinn

不仲な三条天皇こそ監視するため作文会を開くべきで、
本書の論理だと作文会の回数が少ない後一条天皇とも
不仲だったことになり、やはり開くべきかと(^_^;)
臣下が天皇と対立なんて大和朝廷時代なら敢死だけど、
三条天皇の政道を正そうと諌死もしませんね(^_^;)
by middrinn (2023-01-16 06:12) 

df233285

道長の漢詩好きを知って、中国人交易商人が漢詩の書を
名指しで賄賂として送ってきて、交易の便宜を図って
いたといった話が無いとすれば、その趣味が海外で著名
で無かった事は確かだと思う。そのとき後一条天皇が何
を貰ったのかは謎だが。内裏の火災後改装時、名指しか
余り物か?三条天皇から孔雀を回して貰っていたようだ。
by df233285 (2023-01-16 07:40) 

middrinn

『御堂関白記』の寛弘3年(1006年)8月6日条に道長が一条天皇に『白氏文集抄』を
献上したとありますが、約2ヶ月後の10月20日条には曾令文から道長に『白氏文集』
『五臣注文選』が献上されたことが出ているので、道長が一条天皇の御機嫌を取ろうと
漢詩集を献上してるという情報を宋の商人は入手していたのかもしれませんね(^_^;)
三条天皇から孔雀下賜という『日本紀略』の記事は『御堂関白記』との齟齬が気になり
まして、『百錬抄』の同日条は「右大臣」=顕光に孔雀下賜となってますしね(^_^;)
by middrinn (2023-01-16 09:27) 

middrinn

その後は、長和2年(1013年)9月14日条に入宋僧の念救から摺本の『白氏文集』を、
長和4年(1015年)7月16日条に宋僧の常智から『白氏文集』を送られたと(^_^;)
by middrinn (2023-01-16 10:08) 

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