屑本を出して紙を無駄遣いしてる出版社に自然保護団体が抗議活動したりしてヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
屑本であることに気付かずにレヴュー等で褒めている人は森林破壊に加担・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

【読んだ本(バカチン)】

河北騰『歴史物語入門』(武蔵野書院,2003)所蔵本

本書の「第一章 栄花物語」の「1 村上朝のみやび」の一節、誤りに幾つ気付くかな( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・この村上朝は醍醐朝に劣らずゆとりがあり、そして「みやび」を尊ぶ時代
    であった事を、栄花物語は初めに力説している。こういう村上朝のみやびについて、
    後宮での女御芳子と中宮安子に関し、具体的に見て行くことにしよう。/先ず芳子
    女御は師尹の娘で、・・・村上帝の寵愛は格別に篤かったという。/父の師尹は、
    娘時代の芳子に向かい頻りに、「一には御手(書道)を習ひ給へ。次には琴[きん]
    の御琴。果ては、古今二十[はた]巻を皆、浮かべさせ給へ」と、最高貴族の女性
    として三つの必須教養を徹底して修得することを、彼女にやかましく要求したらしい、
    すなわち、書道・音楽・和歌の三方面である。貴族子女の家庭教育というものを、
    よく窺うことができる話であるが、これもやはり大鏡に出ている話である。/次の
    例は、そういう教養がどんな成果を挙げたかを語るものであり、枕草子にも大鏡にも、
    全く同一の記事として採上げられている。即ち、芳子女御が父の特訓で古今集を全部
    暗記していると聞いた帝が、彼女を試して見ようと、一日、急に彼女の部屋を訪れた。
    驚く彼女に、帝は古今集の写本など一切の書物を見ないよう厳命しておき、さて手当り
    次第に古今集の歌を採上げては、「この歌の下の句は」「この歌の上の句は何という」と、
    逐一にわたり丹念に問い試みられた所が、彼女は唯の一問も間違えず正しくお答えし、
    完全な答えぶりだったので、帝も驚嘆された。女御がテストを受けている旨の使いが
    急報したので、父師尹は自宅で身を潔めて精進し、娘が及第するよう一心に祈り続けた
    という事だが、これは余りに過ぎた振舞いですねと、大鏡では師尹へ非難めいた口吻り
    を示している。/・・・

先ず「一には御手」云々を「これもやはり大鏡に出ている話である」とするが、これは『枕草子』で
中宮定子が語っている話の中に出てくるもので、『大鏡』にはねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
裏書に出ている本もあるけど、その書き出しには「枕─曰、・・・」とあるように『枕草子』からの
引用であると明記されてるし(佐藤謙三[校注]『大鏡』[角川文庫,1969])、本書は要約のつもり
かもしらんが引用も不正確で、萩谷朴(校注)『新潮日本古典集成 枕草子 上』(新潮社,1977→2004
:15刷)だと「一つには、御手をならひたまへ。次には、琴の御ことを、人よりことに弾きまさらむ
とおぼせ。さては、古今の歌廿巻を、みなうかべさせたまふを、御学問にはせさせたまへ」だ(^_^;)
また「次の例」を「枕草子にも大鏡にも、全く同一の記事」とするのは言い過ぎで、第一に河北騰は
「この歌の下の句は」「この歌の上の句は何という」と、村上帝が「上の句」を読んで「下の句」を
答えさせたり、あるいは「下の句」を読んで「上の句」を答えさせたとしているが、『枕草子』では
「『某の月、何のをり、某の人のよみたる歌は、いかに』と、問ひきこえさせたまふを」云々とあり、
詞書を読んで歌を答えさせてるし(萩谷朴・前掲書の頭注は「いつ、どんな時に、誰それが詠んだ歌
はどうかと訊くのだから、上の句を読んで下の句を答えさせるよりもむつかしい。」と)、『大鏡』
では「先づの句の言葉を仰せられつつ問はせたまひけるに」云々とあり、石川徹(校注)『新潮日本
古典集成 大鏡』(新潮社,1989)の頭注は「・・・歌の第一句五文字の言葉を、帝がおっしゃるので
あろう。上の句ではあるまい。」としており、ただ、保坂弘司『大鏡全評釈 上巻』(學燈社,1979)
は「上の句」と解しているが、どちらにせよ(下の句を読んで)「この歌の上の句は何という」など
『枕草子』にも『大鏡』にも出てない(^_^;) 第二に「これは余りに過ぎた振舞いですねと、大鏡では
師尹へ非難めいた口吻りを示している」とあるが、そんな「非難めいた口吻り」などは『大鏡』には
無いし(なお、石川徹・前掲書は「〔皇子誕生の〕祈願」と解している)、『枕草子』では中宮定子
が「すきずきしう、あはれなることなり」(萩谷朴・前掲書は「実に風雅で、感動的な話です」)と
締めくくっており、この点でも『枕草子』と『大鏡』が「全く同一の記事」とは言えないだろ(^_^;)
日本の古典に関して誤読・曲解・付会しまくっている中村真一郎は非専門家(作家・評論家)だが、
既にバカチンを進呈した本書(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-07-19
以外にも河北騰は誤読してて(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-11-13 )、
専門家(国文学者)なんだから、流石に如何なものかと思うんだけどね〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

・『平家物語』で「貴族社会の世論」は「二代の后」を「肯定」せずヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-07-18

・「女性」は中納言の妻のままで、「一段ずつ下って行った」は誤読ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-07-20

・「女は人は病気で死ぬのであって、恋愛で死ぬのではないと認識」はどこから出てくるんだ(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-01

・喜びや期待で「胸をときめかし」たのではなく危険や不安で「胸がどきどきし」たんだよヾ(`◇´)ノ

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-04

・岩波新書の執筆者は各分野の大家が多いから編集者は原稿の誤りに気付いても言えないとか(@_@;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-14

・この逸話が「フィクション」なら中村真一郎『色好みの構造─王朝文化の深層─』の論旨瓦解(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-08-16

・中村真一郎は王朝文化を「色好み」と把握しようとするけど、藤原実頼は反「色好み」だろう(^_^;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-09-27