220612読んだ本
「いや しかし いつかニセモノは本物に駆逐されますぜ」と反論するフジタに、「しかし ニセモノは
滅びませんよ。この世に本物がある限り……ね。」はともかく、その後の「この世にニセモノを求める
大衆のあるかぎり!」とか「しかし、ハッキリ言えば、大衆はニセモノが大好きなんですよ!」という
台詞(細野不二彦『ギャラリーフェイク 008』[小学館文庫,2003])は、チト理解に苦しむ(@_@;)
【読んだ本】
久保田淳『久保田淳著作選集 第一巻 西行』(岩波書店,2004)
本書の〈Ⅱ 『山家集』巻末「百首」読解考〉に収められ、1983年初出の〈『山家集』巻末「百首」〉
という論稿の冒頭部分(本書199~200頁)は非常に興味深い内容v( ̄∇ ̄)ニヤッ
/一首の和歌、一句の発句で、要するに一篇の短詩型文学において、作者自身が何を
表現しようと意図したかということと、その作品が作者自身の意図とは関りなく、
どのような解釈に堪えうるか、どのような解釈の可能性を蔵しているかということとは、
明らかに次元を異にする問題である。そして、国文学の研究者に要求されている課題は、
まず作者自身が何を表現しようと意図したかという疑問の解明であろう。その次の段階
として、その作品についてどのような読みが可能であるか、その可能性を最大限に探る
ことも試みられてよいであろうが、それは研究者の仕事の枠を超えて、批評家の仕事と
なり、又は鑑賞者の自由な精神の領域に属することであるように思う。もとより、
研究者と批評家や鑑賞者が両立しえないわけではなく、むしろすぐれた研究者は同時に
鋭い批評家であり、卓抜な鑑賞者であるのだろうが、その研究の確かさは先に述べた
最初の課題を追究するその度合如何によるところが大きいのではないかと考えられる
のである。/西行の和歌について考える時、私はいつもこのことを思う。というのは、
西行の和歌の大部分が作者自身の表現意図が必ずしも明確でない状態で我々の前にある
からである。それはたとえば藤原定家の和歌の比ではない。そして過去においてそれら
についてはさまざまな解釈が試みられ、現代の我々にとってすら更に新たな試みが可能
であるかもしれないからである。そのような多様な解釈を許容する幅の広さという点
では、西行はおそらく定家を凌駕するであろう。西行の和歌の面白さと共に、難しさ、
そして怖さはここにある。/西行という作家はこちらの思い入れが深ければ深いだけ、
さまざまに読めてくる。さまざまに解しうる人であると思う。それだけに読む当人には
面白くてならない存在ということにもなるのであるが、それが果して彼の文学の真実の
姿であり、彼の実人生であったか否かという問題になると、それは保証の限りではない。
/それ故、西行の和歌の解釈に際しては、(実は西行に限ったことではないのだが)
まずこちらで既に抱いている西行その人に対する思い入れ、思い込みを極力排除して、
歌の言葉そのものの意味を一つ一つ辿って全体に及ぶという、当然の手続きを経ない
ことには、収拾がつかない結果となるのではないであろうか。/・・・
「西行[の和歌]に限ったことではない」し、そもそも「和歌」に「限ったことではない」(@_@;)
また久保田淳のような泰斗がこう書いてるんだから、西行以外の和歌の解釈においても、同じような
問題が存在するのかも(@_@;) それに、「国文学の研究者に要求されている課題」としているけど、
「批評家や鑑賞者」にも、作者への勝手な「思い入れ、思い込み」など先入観から付会したにすぎぬ
誤った解釈を「作者自身の表現意図」・「文学の真実の姿」を明らかにしたものであるかの如く大声
で主張する輩がいる(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-28 )(@_@;)
「鑑賞者の自由」とはいえ「解釈の可能性」のない=ありえない妄説を披露するミュージシャンまで
いて俗耳に入り易い尤もらしい内容なので真に受ける人も(「181006読んだ本」のコメ欄)(@_@;)
難しいのは、「国文学の研究者」も「批評家や鑑賞者」も、本人達は「作者自身が何を表現しようと
意図したかという疑問の解明」に努めたつもりになっていることであり、受け取る側もまたそう思い
込んでいるらしく、その愚説・妄説を正しい解釈と誤信する(@_@;) そもそも「批評家や鑑賞者」の
所説など専門家・研究者によるものではなく、もっと専門性の尊重を!と思うが、専門書を照らし合
わせながら読んでいると素人目にもバカチンな専門家・研究者が存在するから始末に負えぬ(@_@;)
・丸谷才一は「ちよつと気取つて書け」と言う前に「少しは調べて書け」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-27
滅びませんよ。この世に本物がある限り……ね。」はともかく、その後の「この世にニセモノを求める
大衆のあるかぎり!」とか「しかし、ハッキリ言えば、大衆はニセモノが大好きなんですよ!」という
台詞(細野不二彦『ギャラリーフェイク 008』[小学館文庫,2003])は、チト理解に苦しむ(@_@;)
【読んだ本】
久保田淳『久保田淳著作選集 第一巻 西行』(岩波書店,2004)
本書の〈Ⅱ 『山家集』巻末「百首」読解考〉に収められ、1983年初出の〈『山家集』巻末「百首」〉
という論稿の冒頭部分(本書199~200頁)は非常に興味深い内容v( ̄∇ ̄)ニヤッ
/一首の和歌、一句の発句で、要するに一篇の短詩型文学において、作者自身が何を
表現しようと意図したかということと、その作品が作者自身の意図とは関りなく、
どのような解釈に堪えうるか、どのような解釈の可能性を蔵しているかということとは、
明らかに次元を異にする問題である。そして、国文学の研究者に要求されている課題は、
まず作者自身が何を表現しようと意図したかという疑問の解明であろう。その次の段階
として、その作品についてどのような読みが可能であるか、その可能性を最大限に探る
ことも試みられてよいであろうが、それは研究者の仕事の枠を超えて、批評家の仕事と
なり、又は鑑賞者の自由な精神の領域に属することであるように思う。もとより、
研究者と批評家や鑑賞者が両立しえないわけではなく、むしろすぐれた研究者は同時に
鋭い批評家であり、卓抜な鑑賞者であるのだろうが、その研究の確かさは先に述べた
最初の課題を追究するその度合如何によるところが大きいのではないかと考えられる
のである。/西行の和歌について考える時、私はいつもこのことを思う。というのは、
西行の和歌の大部分が作者自身の表現意図が必ずしも明確でない状態で我々の前にある
からである。それはたとえば藤原定家の和歌の比ではない。そして過去においてそれら
についてはさまざまな解釈が試みられ、現代の我々にとってすら更に新たな試みが可能
であるかもしれないからである。そのような多様な解釈を許容する幅の広さという点
では、西行はおそらく定家を凌駕するであろう。西行の和歌の面白さと共に、難しさ、
そして怖さはここにある。/西行という作家はこちらの思い入れが深ければ深いだけ、
さまざまに読めてくる。さまざまに解しうる人であると思う。それだけに読む当人には
面白くてならない存在ということにもなるのであるが、それが果して彼の文学の真実の
姿であり、彼の実人生であったか否かという問題になると、それは保証の限りではない。
/それ故、西行の和歌の解釈に際しては、(実は西行に限ったことではないのだが)
まずこちらで既に抱いている西行その人に対する思い入れ、思い込みを極力排除して、
歌の言葉そのものの意味を一つ一つ辿って全体に及ぶという、当然の手続きを経ない
ことには、収拾がつかない結果となるのではないであろうか。/・・・
「西行[の和歌]に限ったことではない」し、そもそも「和歌」に「限ったことではない」(@_@;)
また久保田淳のような泰斗がこう書いてるんだから、西行以外の和歌の解釈においても、同じような
問題が存在するのかも(@_@;) それに、「国文学の研究者に要求されている課題」としているけど、
「批評家や鑑賞者」にも、作者への勝手な「思い入れ、思い込み」など先入観から付会したにすぎぬ
誤った解釈を「作者自身の表現意図」・「文学の真実の姿」を明らかにしたものであるかの如く大声
で主張する輩がいる(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-03-28 )(@_@;)
「鑑賞者の自由」とはいえ「解釈の可能性」のない=ありえない妄説を披露するミュージシャンまで
いて俗耳に入り易い尤もらしい内容なので真に受ける人も(「181006読んだ本」のコメ欄)(@_@;)
難しいのは、「国文学の研究者」も「批評家や鑑賞者」も、本人達は「作者自身が何を表現しようと
意図したかという疑問の解明」に努めたつもりになっていることであり、受け取る側もまたそう思い
込んでいるらしく、その愚説・妄説を正しい解釈と誤信する(@_@;) そもそも「批評家や鑑賞者」の
所説など専門家・研究者によるものではなく、もっと専門性の尊重を!と思うが、専門書を照らし合
わせながら読んでいると素人目にもバカチンな専門家・研究者が存在するから始末に負えぬ(@_@;)
・丸谷才一は「ちよつと気取つて書け」と言う前に「少しは調べて書け」ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ!バカチンガァ!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-05-27
タグ:和歌
昔、深夜のラジオで、ラジオのパーソナリティがごちゃごちゃ
アルバムについて感想を述べていたら、アルバムの主、柴咲コウさん
が「そんなこと考えずに普通に聞いてくださいよー」と言っていた
事を思い出したり。西行さんも只感じたまま読んでねと思っていたかも。
by tai-yama (2022-06-12 23:02)
大衆でもニセモノよりホンモノがいいので、「大衆はニセモノが大好き」というのは首をかしげてしまいますねσ(゜゜)
by ナベちはる (2022-06-13 01:29)
柴咲コウと西行を同列に扱うのは、流石にちょっと・・・彼女には失礼ですけど(^_^;)
tai-yama様、本人が気付いてない無意識の「表現意図」を明らかにすることも(^_^;)
by middrinn (2022-06-13 05:39)
ですよねぇ(^_^;) ニセモノをニセモノと判ってて求めるのは、
ナベちはる様、一部の好事家だけだとフツー考えますね(^_^;)
by middrinn (2022-06-13 06:03)
文学表現の解釈間違いは、少なくとも命に係わる事は少ないが。
軍事兵器についても、素人目に見てもおかしな論が最近は目立つ。
たとえば、「マッハ6以上ものかつてない速度で突っ走る『極超
音速ミサイル』」は、小さいので、忍者のように見つかりにくく、
迎撃できないから危険なだけだ。ロケットは1950年代の
レベルでも、マッハ23以上出せないと人工衛星にはなれない。
by df233285 (2022-06-13 07:58)
ソ連のSS20に対抗するために米国がパーシングⅡ型を西ドイツに配備しようとした時に、
射程距離的にモスクワまで届かないのに首刈り兵器として朝日新聞は反対しました(^_^;)
by middrinn (2022-06-13 08:31)
チト理解に苦しむ...のはその通りかと(^_^)v 例えばモナリザ等は唯一無二。なので「大衆はニセモノが大好き...」なのではなく「仕方なく」模造品を求めているだけです。教えてやりたい(^_^;)
by yokomi (2022-06-14 17:45)
ニセモノが人気なのは間違いではなく、SSブログでも・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2022-06-14 18:27)