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210730読んだ本

読書の厄介なところは、司馬遼太郎作品の影響から脱することの難しさである〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)

【読んだ本】

渡邊大門『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社,2021)

読了(^o^)丿 副題が示しているように、本能寺の変から大坂の陣までの長~いスパンで関ケ原の戦い
を取り上げ(駆け足なとこあり)、近年の研究動向・成果も紹介しており、勉強になる一冊(⌒~⌒)

    はじめに

    巻頭図-1 関ヶ原合戦前(1590年代)の主な大名の配置(概図)
    巻頭図-2 近世の主な地名・交通路(陸路)
    巻頭図-3 東西両軍関係図(概図)

    第一章 秀吉の晩年・没後の政治状況

     本能寺の変以後の秀吉の履歴/秀吉の致命的弱点/秀吉の遺言/秀吉ファミリーの
     一員、宇喜多秀家への期待/秀吉の最期/通説としての五大老と五奉行/五「大老」、
     五「奉行」の意味/秀吉への起請文に見る五大老の「原型」/秀吉が定めた、五大老
     連署による「五つの掟」/五大老の職務/五奉行の職務/五奉行に屈服した家康/
     五奉行側に接近する毛利輝元/

    第二章 七将による石田三成への襲撃

     前田利家の死と、七将による石田三成襲撃事件/七将のメンバーと三成への遺恨/
     朝鮮出兵をめぐる加藤清正と小西行長の対立/黒田長政・蜂須賀家政の、三成への
     恨み/三成への遺恨を募らせる朝鮮出陣組の武将たち/日記類に見る三成襲撃事件
     の経過/襲撃された三成は家康邸には逃げ込んではいない/事件の真相は「襲撃」
     ではなく「訴訟」/三成の敗訴により苦境に立たされた輝元/その後の三成と家康
     の意外な関係/襲撃事件を機に政権中枢に躍り出た家康/書状のやり取りによる
     「家康与党」の形成/固い絆を結ぶ黒田長政と吉川広家/

    第三章 諸大名が抱える家中問題

     家臣団の統制に苦しむ大名たち/毛利家一門の状況/吉川元春・元長父子の相次ぐ死
     /実子のいなかった小早川隆景の死と、養子・秀秋/毛利宗家の後継者問題と秀吉の
     影/輝元の嫡子・秀就誕生がもたらした毛利一門の危機/秀吉の寵を得ていた毛利
     秀元が輝元に出した起請文/輝元と五奉行の結託/父と兄を亡くした吉川広家の、
     黒田家・家康とのつながり/島津氏の、鎌倉期以来の九州での覇権争い/秀吉による
     九州征伐と、島津氏領国の分割/兄弟不和や一揆で弱体化する島津氏/島津忠恒
     (家久)による重臣・伊集院幸侃の暗殺/幸侃の子・忠真による庄内の乱、勃発/
     家康の介入を許す島津氏/宇喜多氏の来歴と「宇喜多騒動」の勃発/日記に見る
     宇喜多騒動の概要/宇喜多家を辞去した秀家の側近を襲撃したのは誰か/騒動の背景
     にあった宇喜多家の過酷な検地/騒動以前からあった宇喜多家内部の確執/宇喜多家
     が抱える「国衆型家臣」と「家中型家臣」/家中型家臣を求めた秀家/宇喜多家中への
     家康の関与/家康に起請文を捧げる秀家と、前田利長の失脚/

    第四章 動揺する上杉氏

     東北の押さえとして会津へ移封/直江兼続を中心とした領国整備の推進/景勝の京
     から会津への帰国/「家康暗殺計画」と家康の大坂城への転居/暗殺計画の首謀者
     とされた前田利長への追及/景勝による城の新築・修築を警戒する家康/上杉家を
     出奔した重臣・藤田信吉の来歴/家康のもとに走った信吉/信吉はなぜ出奔したのか
     /景勝に代わり越後に移った堀秀治の苦境/堀氏の家老・堀直政による家康への
     会津報告/家康を警戒する景勝の居城移転計画/景勝に冷静に対応した家康/家康の
     腹心・西笑承兌とは/西笑承兌が直江兼続に宛てた書状/兼続と親しかった承兌/
     承兌が上杉氏に提出を求めた「霊社之起請文」とは/「霊社之起請文」に見る家康の
     真意/

    第五章 「直江状」の真偽をめぐって

     西笑承兌への返書「直江状」が抱える多くの問題/「直江状」の追而書(追伸)を
     読む/「直江状」の全文意訳/戦国時代の書状を読み解くための留意点/「直江状」
     への否定的見解/「直江状」への肯定的見解①/「直江状」への肯定的見解②/
     「直江状」への肯定的見解③/「直江状」は「家康への大胆不敵な挑戦状」ではない
     /「直江状」の不自然な文言①/「直江状」の不自然な文言②/「直江状」と西笑
     承兌書状の対応関係/景勝への上洛要請と、家康の朝鮮再出兵計画/従来説による、
     承兌書状と「直江状」の発信日付/承兌書状と「直江状」の発信日付を検証する/
     景勝が上洛しなかった真意/「直江状」は完全なる偽文書か/承兌書状の発給から
     会津征伐までの時系列的整理/「直江状」の真偽をめぐる二つの可能性/

    第六章 家康の会津征討

     景勝と三成による「家康挟み撃ち」の真偽/三成書状に見る「越後口での攪乱作戦」
     の虚実/景勝と三成による事前盟約はなかった/真田昌幸を頼り上杉氏への接近を
     図る三成/家康を諌めたとされる「三中老」とは何か/会津征討を諌める三中老に
     よる連署状/三中老の連署状の不審点/家康は「景勝は上洛しない」という前提で
     軍備していた/家康が会津征討を決定するまで/会津征討計画の内容/伏見を発つ
     家康/家康の江戸までの路程と軍令の制定/小山へ向かう家康/三成、決起す──
     「内府ちがひの条々」の発出/西軍の「二大老・四奉行」体制、開始/「三奉行と
     輝元は、三成や吉継に加担せず」との情報/輝元の積極果敢な反家康行動/ようやく
     西軍の決起を知った家康/小山評定での福島正則と山内一豊/小山評定はあったのか、
     なかったのか/慶長五年七月下旬~八月初旬の黒田長政の動向/「小山評定はなかった」
     説の根拠とそれへの反論/福島正則宛の家康書状の日付はいつか/慶長五年七月
     二十五日に家康は小山にいたか/家康の軍事指揮権の範囲/脚色された小山評定と、
     会津征討のメンバー/「東軍」「西軍」という呼称をめぐる見解/家康は私心から
     三成らと対立したのではない/西軍方の諸将の危機感を煽った家康の行為/

    第七章 関ヶ原合戦への道のり

     家康・秀忠それぞれの進軍ルート/軍隊を構成する基本単位「備」とは/兵站を担当
     する「小荷駄隊」と軍法/家康の軍勢の構成と質/秀忠の軍勢の構成と質/家康・秀忠
     両軍の「譜代家臣」の人数/家康・秀忠両軍の「備の質」の比較/京都での開戦──
     西軍による伏見城の包囲/『島津家譜』の矛盾と、伏見城を守備した鳥居元忠の忠節/
     小早川秀秋が西軍に与するまでの経緯/家康に心を寄せていた秀秋/西軍についた
     脇坂安治・安元父子の苦悩/毛利氏による阿波占拠/細川幽斎の籠る丹後田辺城での
     戦い/後陽成天皇による幽斎の助命嘆願/幽斎が西軍の赤松広秀に宛てた書状/広秀
     の返書と田辺城戦に臨んだ西軍諸将の本心/毛利氏の伊予侵攻作戦/伊予侵攻の実行/
     加藤嘉明方による毛利氏奇襲の実際/膨大な書状で多数派工作をする家康/石田三成
     の本格始動と勝利への執念/交通の要衝・伊勢を制圧すべく東進する西軍/安濃津城
     への西軍襲来に備える伊勢の諸将/安濃津城の戦いと吉川広家の参戦/北陸での前田
     利長の進撃と大谷吉継の逆襲/西軍に与した岐阜城主・織田秀信/岐阜に進軍する
     福島正則隊と池田輝政隊/岐阜界隈で織田軍を撃破する東軍/岐阜城の落城/京極
     高次の籠る大津城での戦い/大津城の落城/

    第八章 関ヶ原合戦の開戦

     大垣周辺での決戦を意識していた三成/家康の江戸進発/大谷吉継が真田父子に
     宛てた書状/秀忠の進軍と上田城攻撃/秀忠の関ヶ原遅参の背景/決戦前日の衝突、
     杭瀬川の戦い/決戦前日の東軍の軍議と、家康・輝元の和睦/関ヶ原での東西両軍
     の布陣/なぜ関ヶ原という場所だったのか/井伊直政と松平忠吉の「抜け駆け」に
     よる開戦/新井白石の「松平忠吉=家康の名代」説/関ヶ原に至るまでの忠吉の
     行軍ルート/忠吉が先鋒を務めた理由/抜け駆け説への疑問/家康書状に見る、
     直政と忠吉の抜け駆けの真相/福島軍と宇喜多軍の激闘/小早川秀秋に向けられた
     家康の「問鉄砲」の真偽/やむなく西軍についていた秀秋/決戦前日に秀秋に示さ
     れた東西両軍からの起請文/秀秋を東軍に引き入れた黒田長政の尽力/松尾山に着陣
     した秀秋の逡巡/東軍に寝返った諸将への戦後の処遇/黒田長政とその家臣たちの
     奮戦/三成の参謀・島清興(左近)の最期/西軍壊滅の背景/

    第九章 東北の戦い

     伊達政宗、上杉方の白石城を攻撃/家康に会津方面への出陣要請をする政宗/家康
     ・秀忠が政宗に宛てた書状/直江兼続による越後侵攻作戦と上杉遺民一揆/兼続は
     遺民一揆に期待をかけていたのか/兼続は、三成誅伐に向かう家康を討つべしと進言
     したか/家康より政宗を警戒していた兼続/家康が政宗に与えた「百万石のお墨付き」
     /敵に四方を囲まれた上杉方の備え/上杉氏による最上氏攻めの開始/最上領・
     長谷堂での戦い/最上勢の援軍として伊達氏参戦/兼継書状「上方散々ニ罷成候由」
     は西軍敗北の意味か/「上方散々ニ罷成候由」の別の解釈/景勝、政宗それぞれに
     西軍敗報が届いた時期/

    第十章 九州の戦い

     西軍勢が多くを占めた九州/復権した大友吉統の履歴/吉統の豊後入部のいきさつ/
     黒田孝高が家康に要望した「九州の切り取り自由」/加藤清正と黒田孝高の強固な
     協力関係/吉統を東軍に引き入れようとする孝高/吉統入部で窮地に立たされた杵築
     城代・松井康之/清正の援助で西軍への抗戦を決意した康之/九州における東軍の
     生命線だった杵築城/吉統の豊後上陸/孝高の快進撃と吉統生け捕り/孝高の驚嘆
     すべき進撃プラン/九州平定を目論んでいた孝高と清正/捕らわれた吉統のその後/
     吉統の配流先の諸説と、大友氏の滅亡/孝高による安岐城・富来城攻め/怒濤の勢い
     で進撃を続ける孝高/小西行景の宇土城を「はだか城」にする清正/持ちこたえた
     行景と、島津氏・相良氏の動き/島津氏以外の西軍勢力の降伏/家康の薩摩への進軍
     計画/島津氏のなりふり構わぬ弁明/黒田長政の仲裁と薩摩侵攻の中止/家康の決定
     に抗議する清正/

    第十一章 戦後処理と大名配置

     島津惟新らの関ヶ原からの脱出劇「島津退き口」/「捨て奸」による逃亡/惟新ら
     の複数説ある逃亡ルート/苦難の末、薩摩に帰還/家康による時間をかけた領知
     配分決め/家康が「領知宛行状」を発給しなかった理由/領知をめぐり大名の意向
     を事前確認/豊臣系武将の西国への配置/徳川一門・譜代への知行配分/豊臣秀頼
     は「摂河泉の一大名」に没落したのか/伊達政宗書状に見る秀頼の威光/石田三成
     の最期/安国寺恵瓊の最期/スケープゴートにされた三成、恵瓊、小西行長/所領
     安堵を懇望する毛利輝元/輝元の大坂城西の丸退去/家康への背信を暴露された輝元
     /毛利氏の処遇に苦悩する黒田孝高・長政父子/毛利氏への裁定下る/幻となった
     「百万石のお墨付き」/「お墨付き」が反故にされた背景/問題視された政宗の
     和賀一揆扇動/上杉氏の上洛と大減封/宇喜多秀家の逃亡/秀家、薩摩で匿われる
     /秀家が滞在した大隅郡牛根郷/助命を願う秀家/島津氏による秀家の助命嘆願運動
     /秀家、駿河国久能から、下田、八丈島へ/八丈島への同行者/秀家が暮らした
     八丈島大賀郷/旧臣たちから秀家への仕送り/秀家の最期と、宇喜多一族のその後/

    第十二章 関ヶ原体制から徳川公儀の確立へ

     家康の征夷大将軍就任と江戸幕府の成立/家康や諸大名は秀頼にどう対したか/
     秀忠の将軍就任の祝賀セレモニー/家康による鉱山直轄化と都市部への奉行配置/
     京都所司代設置の意味/諸大名と姻戚関係を結ぶ家康/関白就任を取り沙汰された
     秀頼/秀頼の関白就任を家康は妨害したか/家康による武家官位の推挙権の独占/
     御前帳と国絵図の徴収/江戸城の天下普請と秀頼の協力/駿府城の普請と「五百石夫」
     というシステム/秀頼に「普請役」を課さなかった家康/筒井定次の改易と藤堂高虎
     の入封/前田茂勝の改易と松平康重の入封/西国への大名移封による豊臣包囲網の
     形成/家康の上洛と後陽成天皇の譲位/家康への挨拶のため二条城に向かう秀頼/
     家康が諸大名に誓約させた三ヵ条の法令/三ヵ条の法令に唯一誓約しなかった秀頼
     /家康・秀頼は対等だったとする「二重公儀体制」説/二重公儀体制説への批判/
     二重公儀体制はいつまで続いたか/関ヶ原体制の終焉/

    おわりに

    主要参考文献

御多分に漏れず関ヶ原合戦も研究が進み、従来の通説や(通説をなぞり逸話をまぶした小説によって
形作られた)一般的な理解は次々と覆され、歴史学の近年の研究成果も紹介する本書は有り難い(^^)
小生(だけ?)が知らなくて一番驚いたのは、本書327頁と本書335~336頁の両記述である( ̄◇ ̄;)

    ・・・/一連の攻防を東軍の勝利に導いたのは、小早川秀秋が東軍に寝返って、
    西軍の大谷吉継の軍勢に攻め込んだことだった。ただし、詳しくは後述するが、
    実際には秀秋は開戦当日の朝に東軍の一員としてすぐさま西軍に攻め込んだこと
    が指摘されている。これにより宇喜多氏のみならず、西軍は総崩れとなった。・・・

    ・・・/関ヶ原合戦の当日になると、白峰[旬]氏が指摘したとおり、秀秋は
    合戦開始時から東軍に属して西軍に攻撃を仕掛けた(「堀文書」)。・・・/
    井伊直政と松平忠吉が先鋒として西軍に攻撃すると、そのほかの東軍の軍勢も
    それに続いて突撃した。東軍の勢力が西軍の要害へ攻め込んで戦いがはじまると、
    小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠・祐滋父子が西軍を裏切って東軍に味方し、
    やがて西軍は劣勢となり敗北を喫したのである。/史料の「此四人御味方被申、
    うらきり(裏切り)を被致[いたされ]候」という記述からすると、この四人は
    開戦直前まで西軍に味方していたというのが、東軍側の認識だったと推測される。
    /右の戦闘の経過については、『十六・七世紀イエズス会日本報告書』の記述
    でも確認できる。すでに触れた白峰氏の指摘のとおり、秀秋は開戦と同時に
    東軍の一員として、西軍に攻撃したことが明白である。こうして秀秋は大いに
    軍功を挙げるとともに、東軍を勝利に導いたのである。/・・・

実働兵力では数倍はある東軍の猛攻にも西軍が耐えて善戦し膠着状態となった戦況に焦れた家康から
鉄砲を撃ち込まれたのを契機に秀秋が寝返って、その結果、勝敗も決して西軍が負けた、という理解
だったが、「秀秋は開戦と同時に」寝返って「西軍に攻撃し」「西軍は総崩れとなった」とは(゚ロ゚;)

ただ、気になる点を指摘しておくと、開戦時刻について「慶長五年(一六〇〇)九月十五日の早朝、
いよいよ関ヶ原合戦がはじまった。戦いの口火を切ったのが、井伊直政と松平忠吉だったという。」
(本書316頁)、あるいは「いずれも二次史料の記述であるが、おおむね開戦時の午前十時頃には霧が
晴れていたと書かれている。」(本書324頁)とあり、開戦時刻は「早朝」あるいは「午前十時頃」と
しておきながら、「関ヶ原合戦当日の午後二時頃、西軍は総崩れとなり、敗北は決定的になった。」
(本書410頁)は変(@_@;) 「開戦と同時に」秀秋が寝返り「西軍は総崩れ」なら瞬殺のはず(^_^;)

なお、「その後、孝高や清正のターゲットになったのは、関ヶ原から逃げて帰ってきた筑後柳川城
(福岡県柳川市)主の立花宗茂であった。」(本書402頁)といったケアレスミスが数ヵ所(´ヘ`;)
タグ:歴史
コメント(6) 
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コメント 6

ナベちはる

作品が人に与える影響、とてつもなく大きいことがありますよね。
似た作品を作るだけでなく、場合によっては人生を変えてしまう…ある意味で怖くなってきます。
by ナベちはる (2021-07-31 01:55) 

middrinn

しかも、司馬史観とまで言われて社会にも影響を与えてますからね(^_^;)
by middrinn (2021-07-31 05:29) 

アニマルボイス

「龍馬がゆく」にしたって冒頭の道場のくだり、「燃えよ剣」にしたって六車、七里なんて敵役のくだりを読めば、歴史上の人物、事件をモデルにしたフィクションとして読めませんかねえ。まあ、後年の作品はより「史実」らしさが増してはいますが、それだって「史記列伝」の見てきたような歴史記述のようなもの。「司馬史観」なんてのは、マスコミの持ち上げでしょう(だからダメだと言っているわけではないですよ。上記2作など、おもしろい「小説」です(^^)/)。
ところで「西軍に攻撃」という言葉が出てきます。ふつうですと「西軍を攻撃」だと思うのですが、書き手には何か意味が込められているのでしょうか?
by アニマルボイス (2021-07-31 18:16) 

middrinn

太田満明の「司馬遼太郎『覇王の家』とその依拠史料」という論文がネットで読め、
その冒頭に〈忍者小説等を書いていた作家活動の初期に、従前の歴史・時代小説の
スタイルを踏襲していたが、『竜馬がゆく』の執筆にとりかかった昭和三十七年頃
から、司馬は数多くの史料にあたり、その検証に力を加えはじめる。やがて、昭和
四十三年から書き始めた『坂の上の雲』で、司馬本人の所謂「小説とは本来フィク
ション」なのだが「フィクションをいっさい禁じて書く」ところにまで高めていった
ところで、概ね司馬の評価は定まったようである。・・・ここに、・・・司馬作品
に歴史書に近い評価が与えられるに至ったのである。〉とあり、マスコミに限らず、
司馬本人も小説家ではなく歴史家という意識で執筆していたのではないかと(^_^;)
「西軍に攻撃」、おっしゃる通りでして、最初は小生も「[ママ]」を付けようか
と思ったのですが、引用部分に2ヵ所もあって、諸般の事情で止めました(^_^;)
by middrinn (2021-07-31 19:00) 

tai-yama

実は小早川秀秋は一度東軍として攻めるも、西軍に寝返って
その後、家康の怒りを買い大砲を打ち込まれた後、再度東軍に
寝返ったとか(笑)。実際は紙一重の勝利な点もあるので、秀秋の
裏切りがなかったら或いは・・・
by tai-yama (2021-07-31 19:14) 

middrinn

となると、秀秋は大忙しでしたねぇ(^_^;) 「大砲」を
関ヶ原で使ったのは石田三成と言われてますよ(^_^;)
西軍勝利なら豊臣の関白が続き今も大坂が首都(^_^;)
by middrinn (2021-07-31 19:40) 

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