210106読んだ本【バカチン】
「歴女」という言葉が誕生・注目されたのは、女性は歴史が苦手と思われていたからかしら(@_@;)
【読んだ本(バカチン)】
天野慶(著)Kei(画)『百人一首百うたがたり』(幻冬舎エデュケーション,2013)
「はじめに」の左隅(3頁)に小さ~く「*この物語は史実に基づいたフィクションです」とあるが、
伊勢タンの「難波潟 短き葦の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや」の書き出し(61頁)は
「史実に基づ」くどころか、歴史を改変してるじゃんヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
/私、新しい恋をいたしました。/愛する人を亡くしたばかりなのに
もう次の方にときめいてしまうなんて、私も戸惑いました。それも
亡くなった恋人のご子息だなんて……。/宇多天皇、そして
その第四皇子であられる敦慶親王。このおふたりが私の恋のお相手で
ございます。/・・・
ウダダを「亡くしたばかり」なのに「亡くなった」ウダダの子の敦慶親王と恋にとあるが、ウダダが
承平元年(931年)に亡くなる前の延長8年(930年)に敦慶親王は没ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
・・・伊勢と中務卿敦慶親王は、音楽を通じて急速に親しくなったように思われるので
あるが、二人のこのような関係は、いったい、いつの頃から始まったのであろうか。/
その第一の手がかりは、二人の間に生まれた娘である中務の年齢である。平安時代の
女房歌人の常として、彼女の生没年を確定することは出来ぬが、『日本古典文学大辞典』
(岩波書店)に書いたように、延喜十二年(九一二)頃に生まれ、永祚元年(九八九)
より後に、数え年八十一歳以上で没したと考えられる。とすれば、伊勢が中務卿敦慶親王
の寵を受けたのは延喜十二年(九一二)より少し前であったということになろう。/・・・
このように、片桐洋一『日本の作家7 恋に生き 歌に生き 伊勢』(新典社,1985)は推定しているが、
「延喜十二年(九一二)より少し前」、ウダダは健在で「亡くなっ」てないオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
・・・/[藤原仲平との恋に破れ]傷心の私は田舎に戻り、静かに心の傷を癒して
おりました。しばらくのち、[ウダダの后で仲平の姉]温子さまよりふたたびお仕え
するように熱心な文をいただき、優しく退屈なふるさとに別れを告げ、都へと戻り
ました。/宮中に戻った私を待っていたのは、私を捨てたはずの仲平さまでした。
そして、その弟君であられる時平さままで恋文をくださって。/・・・
本書61~62頁から引いたが、仲平との破局後に伊勢タンが訪れた大和(過去に住んだことはある)を
「田舎に戻り」とか「ふるさと」としてるけど、当時、大和守だった父親の任地に赴いただけだし、
言うまでもないことだが、藤原時平は藤原仲平の「弟君」ではなく兄ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
この現代女流歌人、奥付に次のような紹介あるが、こんなデタラメ教えてるのかエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
・・・京都・時雨殿での「はじめての百人一首教室」をはじめ、全国の小・中学校に
向けてワークショップを行い、短歌・百人一首の魅力を発信している。・・・
「幻冬舎エデュケーション」、間違いだらけの本書も「教育関連書籍」扱いなのかな((;゚Д゚)ヒィィィ!
・「兼家の死後、息子の道隆・道兼が摂政となる」だなんて歴史を勉強し直せオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-02
・「父は私を含め子どもたちを出世させなかった」だなんてデタラメヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-03
【読んだ本(バカチン)】
天野慶(著)Kei(画)『百人一首百うたがたり』(幻冬舎エデュケーション,2013)
「はじめに」の左隅(3頁)に小さ~く「*この物語は史実に基づいたフィクションです」とあるが、
伊勢タンの「難波潟 短き葦の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや」の書き出し(61頁)は
「史実に基づ」くどころか、歴史を改変してるじゃんヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
/私、新しい恋をいたしました。/愛する人を亡くしたばかりなのに
もう次の方にときめいてしまうなんて、私も戸惑いました。それも
亡くなった恋人のご子息だなんて……。/宇多天皇、そして
その第四皇子であられる敦慶親王。このおふたりが私の恋のお相手で
ございます。/・・・
ウダダを「亡くしたばかり」なのに「亡くなった」ウダダの子の敦慶親王と恋にとあるが、ウダダが
承平元年(931年)に亡くなる前の延長8年(930年)に敦慶親王は没ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
・・・伊勢と中務卿敦慶親王は、音楽を通じて急速に親しくなったように思われるので
あるが、二人のこのような関係は、いったい、いつの頃から始まったのであろうか。/
その第一の手がかりは、二人の間に生まれた娘である中務の年齢である。平安時代の
女房歌人の常として、彼女の生没年を確定することは出来ぬが、『日本古典文学大辞典』
(岩波書店)に書いたように、延喜十二年(九一二)頃に生まれ、永祚元年(九八九)
より後に、数え年八十一歳以上で没したと考えられる。とすれば、伊勢が中務卿敦慶親王
の寵を受けたのは延喜十二年(九一二)より少し前であったということになろう。/・・・
このように、片桐洋一『日本の作家7 恋に生き 歌に生き 伊勢』(新典社,1985)は推定しているが、
「延喜十二年(九一二)より少し前」、ウダダは健在で「亡くなっ」てないオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
・・・/[藤原仲平との恋に破れ]傷心の私は田舎に戻り、静かに心の傷を癒して
おりました。しばらくのち、[ウダダの后で仲平の姉]温子さまよりふたたびお仕え
するように熱心な文をいただき、優しく退屈なふるさとに別れを告げ、都へと戻り
ました。/宮中に戻った私を待っていたのは、私を捨てたはずの仲平さまでした。
そして、その弟君であられる時平さままで恋文をくださって。/・・・
本書61~62頁から引いたが、仲平との破局後に伊勢タンが訪れた大和(過去に住んだことはある)を
「田舎に戻り」とか「ふるさと」としてるけど、当時、大和守だった父親の任地に赴いただけだし、
言うまでもないことだが、藤原時平は藤原仲平の「弟君」ではなく兄ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
この現代女流歌人、奥付に次のような紹介あるが、こんなデタラメ教えてるのかエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
・・・京都・時雨殿での「はじめての百人一首教室」をはじめ、全国の小・中学校に
向けてワークショップを行い、短歌・百人一首の魅力を発信している。・・・
「幻冬舎エデュケーション」、間違いだらけの本書も「教育関連書籍」扱いなのかな((;゚Д゚)ヒィィィ!
・「兼家の死後、息子の道隆・道兼が摂政となる」だなんて歴史を勉強し直せオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-02
・「父は私を含め子どもたちを出世させなかった」だなんてデタラメヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-01-03
えぇ、ちょっと調べればちゃんとわかる
そんな初歩的なミスをする人に教わると
間違った知識を覚えてしまいそうでやだなぁ(ー ー;)
by ニッキー (2021-01-06 21:07)
田辺聖子『田辺聖子の小倉百人一首』角川文庫や
白洲正子『わたしの百人一首』新潮文庫なんかを
「参考文献」(本書262頁)で「筆者のおすすめ」
として挙げてるので、類は友を呼ぶ、かも(^_^;)
by middrinn (2021-01-06 21:22)
女性は「歴史」だけでなく「地図」も苦手と言われていますね。
天野慶さんも歴史が苦手なので、生没年を間違えたのかも・・・
敦慶親王と宇多天皇の順が逆だったら誤魔化せた・・・かな?
by tai-yama (2021-01-06 23:25)
middrinnさんおはようございます。
学校では、世界史を選択したので、日本史は全く習っていない、わたくしは「歴女」ということになるかしら?
by ネオ・アッキー (2021-01-07 05:36)
歴史と言うものは昔から勝者が作ると言いますよね
どの位の信憑性があるのでしょうか?
by そら (2021-01-07 06:36)
ウダダの寵を受けた後に敦慶親王と恋に落ちるので、
tai-yama様、この文章はどうやっても破綻(^_^;)
by middrinn (2021-01-07 07:24)
「歴女」というのは、日本史のイメージが、
ネオ・アッキー様、しませんかね(^_^;)
by middrinn (2021-01-07 07:25)
たとえ勝者が作っていても、そのことを考慮した解釈をしていれば、
そら様、宜しいかと(^_^;) 勝者に有利な記述は割り引くとか(^^)
by middrinn (2021-01-07 08:00)