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210101読んだ本【バカチン】

有名な研究者が岩波新書でデタラメな記述を書き散らすんじゃねーよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
届いた年賀状(購入枚数は前年の3分の2に減らした)で出してなかった数人分を書いて投函してから、
お寺にお金等を納めに尾根道を歩く(^_^;) お墓もキレイにしたから消えた蔵書も見付かるはず(^_^;)

【読んだ本(バカチン)】

今谷明『歴史の道を歩く』(岩波新書,1996)所蔵本

昨日に続き、本書の「Ⅰ 歌枕となった奥羽三関の一を訪ねる 東山道・白河関」の中の「能因法師は
奥州行脚したのか」という見出しが付けられた冒頭の節にも呆れたぞ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですと!?

      都をば 霞とともに立ちしかど

        秋風ぞ吹く 白河の関    

    勅撰の『後拾遺和歌集』に収められたこの歌は、能因法師(九八八~一〇五一?)
    の代表作の一つである。白河関は古来歌枕として多くの歌人に詠まれてきており、
    ・・・冒頭の能因の歌は格調といい、季節感といい名歌の名に恥じぬものだが、
    後世、この歌について奇怪な説が流布したのは、能因のためには気の毒なこと
    であった。/能因没後ほどなく成立した和歌書『袋草紙』は、都を出立したと
    見せかけた能因が舞いもどり、洛中で籠居してこの歌を詠んだとし、鎌倉時代以降に
    成立した『古今著聞集』『十訓抄』などの説話集になると、話におひれがついて、
    能因は都の巽(南東の方角)、宇治の草庵にひきこもって毎日日向ぼっこし、
    顔を黒く日焼けさせて、奥州帰りをよそおったのだという。現地へ赴かず想像で
    名勝地を歌に詠むことを題詠というが、能因は行ったと見せかけて詠んだのだから
    ペテンというわけである。では、実際はどうだったのだろうか。/能因自作歌を
    集めた家集『能因法師集』には、この歌の詞書として万寿二年(一〇二五)春
    「白河の関に宿りて」とあるので、彼が旅行したときの作であるというのは
    国文学界ではいちおう定説になっている。実際、能因は出家後、歌枕探訪で
    二一ヵ国を行脚しているので、白河関を踏破する必然性は十分にあった。
    ペテン説は能因の異常なまでの風雅狂ぶりが一部の人士の嫉妬を買ったから
    かもしれない。『袋草紙』によると、能因は初対面の藤原節信と和歌の道で
    意気投合し、錦の袋に秘蔵していた鉋屑一きれを取り出して、「これは長柄橋
    (歌枕の一)築造の折のもの」と称したことがみえている。・・・

今谷明は本書において『袋草紙』を読んでいる風に「見せかけて」いるけど、おそらくは孫引きで、
てゆーか、『古今著聞集』『十訓抄』も見てないヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 能因法師と逆・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;

第一に、「能因没後ほどなく成立した和歌書『袋草紙』」と記しているが、能因法師の没年は63歳の
「一〇五一?」で、この話が載ってる『袋草紙』上巻が保元2年(1157年)~平治元年(1159年)頃の
「成立」ゆえ100年の開きがあるのに「能因没後ほどなく成立」かよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

本書の前年に出て版元も同じ藤岡忠美(校注)『新日本古典文学大系29 袋草紙』(岩波書店,1995)
巻末「解説」の「二 『袋草紙』の書名と成立年時」から引く〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

    ・・・/これによって『袋草紙』上巻の原本は平治元年[1159年]十月より以前に
    成っていたことが知られるのであるが、近年の久曾神昇・樋口芳麻呂氏の積み重ね
    られた成果によって、より精確な成立年時が推定されることとなった。その要点を
    列挙してみると次の通りである。

     (1)『袋草紙』上・下巻の根幹部分は、保元二年(一一五七)八月九日から
        保元三年八月十一日までの満一年間に成立した(・・・)

第二に、「『古今著聞集』『十訓抄』などの説話集になると、話におひれがついて、能因は都の巽
(南東の方角)、宇治の草庵にひきこもって毎日日向ぼっこし、顔を黒く日焼けさせて、奥州帰りを
よそおったのだという。」と記しているが、例示列挙されてる『古今著聞集』と『十訓抄』に「都の
巽(南東の方角)、宇治の草庵に」引き籠もったという件など無いヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

西尾光一&小林保治(校注)『新潮日本古典集成 古今著聞集 上』(新潮社,1983→2019新装版)で
『古今著聞集』巻第五の和歌第六の「能因法師の祈雨の歌と白河関の歌の事」の当該説話を引く(^^)

    ・・・/能因は、いたれるすきものにてありければ、

      都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

    とよめるを、都にありながらこの歌をいださむこと念なしと思ひて、
    人にも知られず久しく籠り居て、色をくろく日にあたりなして後に、
    「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。/

同書巻末の「解説」には『古今著聞集』の同説話は『十訓抄』からの後記抄入とあるけど、浅見和彦
(校注・訳)『新編日本古典文学全集51 十訓抄』(小学館,1997)で『十訓抄』下巻の十ノ十の当該
説話も一応引いておく( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ・・・/能因は、いたれる数寄者なり。

      都をば霞とともにたちしかど
      秋風ぞ吹く白川の関

    とよめりけるを、都にありながら、この歌を出さむこと、無念と思ひて、
    人にも知られず、久しく籠り居て、色を黒く、日にあぶりなしてのち、
    「陸奥の方へ修行のついでによみたり」とぞ披露しける。/

第三に、「能因は行ったと見せかけて詠んだ」と疑うのは「奇怪」でも何でもなく合理的な疑いで、
能因法師ではなく、この「名歌」そのものに不審な点があるんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

久保田淳&平田喜信(校注)『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店,1994)の脚注には、
「都を、春霞が立つのとともに出発したが、いつのまにか秋風が吹く季節になってしまったことだ。
この白河の関では。」と同歌を訳した上で、「参考事項」として次の記述がある( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

    ▽能因の初度陸奥行を示す作。道のりの遠さを歌う。ただ春から秋への旅程は長すぎる
    ことから、袋草紙・雑談では下向の事実を疑い、以後、十訓抄などの説話類では下向
    そのものを虚構とする逸話を載せる。

再三指摘してきたように、久保田淳&平田喜信(校注)『後拾遺和歌集』(岩波文庫,2019)は、この
新日本古典文学大系本の「文庫化」と言いながら、脚注の「参考事項」がほぼ一律削除されており、
この「春から秋への旅程は長すぎる」という同歌への疑問も載ってない〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

京都から白河の関までの旅程は、小島憲之&新井栄蔵(校注)『新日本古典文学大系5 古今和歌集』
(岩波書店,1989)の巻末の〈「延喜式」による行政区分および京からの行程〉という付図によれば、
京都から陸奥国までの下りは25日であり、白河の関は陸奥国の最南端に位置し、その国府に比べれば
はるかに京都に近いので、25日もかからない(^^) なのに、京都を「春霞が立つのとともに出発」して
「秋風が吹く季節」に白河の関に着くなんて、不審に思う方がフツーなんだよオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!

ちなみに、歴史学者の目崎徳衛は「能因の伝における二、三の問題」(同『平安文化史論』[桜楓社,
1968]所収)で「・・・傍証ばかりで断定することはもとより不可能であるけれども、[能因法師の
奥州行の目的である]俗用が馬を将来し交易することにあったのではないかという仮説は、提出する
余地があるのではあるまいか。」と論じている〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ だとすると、馬の代金
を持参している以上、京都から陸奥国への下向は、ゆっくりのんびりは出来ないと思うのだが(^_^;)

とまれ、能因法師は「いたれる数寄者」ゆえ道中の歌枕探訪によって旅程が長くなったのかも(^_^;)

第四に、『袋草紙』『古今著聞集』『十訓抄』などの「ペテン説は能因の異常なまでの風雅狂ぶりが
一部の人士の嫉妬を買ったからかもしれない」だなんて、もし『袋草紙』を読んでたら、ありえない
妄説で、能因法師が和歌の世界で〈愛されキャラ〉であることを知らないのかねエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?

歌道の六条藤家を代表する歌人で碩学の藤原清輔による歌学書『袋草紙』から能因法師に関する記述
を問題の件も含めて小沢正夫&後藤重郎&島津忠夫&樋口芳麻呂『袋草紙注釈 上』(塙書房,1974)
の現代語訳で幾つか引くから、能因法師がどのように扱われているか、よぉーく読めC= (-。- ) フゥー

    ・・・むかしの歌の名人といわれた人はみな風流だったのである。それだから
    能因は人に向かって、「風流になりなさい。風流になればよい歌はよめるのです」
    といったのである。/能因は古曾部から毎年花盛りのころに都へ行き、大江公資の
    五条東洞院の家に泊った。この家の南の庭に桜の木があったので、その花を賞美する
    ためであった。勧童丸という召使いの少年一人だけを連れていた。公資の孫の公仲には
    いつも「風流の心を持てよ。風流になれば歌はよめるのだ」と教訓していた。・・・/
    能因は実際には奥州に下ったことがないが、この[都をば・・・の]歌をまことらしく
    よんでやろうとて、こっそりとわが家にひきこもり、奥州下向のよしの風評を立てさせた
    という。しかし二度下ったとの説もあり、一度は本当であろう。『八十島記』という
    紀行文も書いている。/・・・/源頼綱が能因に会ったといっていうには、「以前に
    能因が東山に住んでいたころ、人々と一緒に訪問して清談をしたことがある。能因は
    『私が歌に上達したのは心を風流にすることができたからである』といい、・・・    

能因法師への「嫉妬」が読み取れるなんて心が汚・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 〈古への歌仙は皆すけるなり、
然れば能因は人に、「すき給へ、すきぬれば秀歌はよむ」とぞ申しける。〉などを始め、優れた歌人
(になるため)の一つのモデルとして取り上げてて能因法師への敬愛を小生は感じるね♡(*'ε`*)チゥ

今谷明は本書で「国文学界」にも詳しそうな口ぶりだけど、『袋草紙』の「都をば」の歌の件は現に
以下のように解釈されてるv( ̄∇ ̄)ニヤッ 先ず伊藤嘉夫他編『和歌文学大辞典』(明治書院,1962)の
清水文雄執筆による「能因」の項は次の通り([ ]内は原文では小文字)(⌒~⌒)

    ・・・家集によると、万寿二[1025]以後両度の奥州行脚を試みたことが知られ、
    〈都をば霞とともに…〉の歌は初度下向の折の詠である。このことを承知
    していたはずの『袋草紙』の著者が〈能因実ニハ・・・風聞云々〉といってるのは、
    事実の説話化によって、逆に、〈スキタマヘ。スキヌレバ秀歌ハヨム〉[袋草紙]と
    人に教え、みずからも、〈いたれるすき者〉[古今著聞集]と目されていた
    能因の真面目を伝えようとしたものであろうか。・・・

藤岡忠美(校注)『新日本古典文学大系29 袋草紙』(岩波書店,1995)の脚注も次の通りv( ̄∇ ̄)ニヤッ

    この話は十訓抄・古今著聞集・愚秘抄にも見える。しかし「都をば…」の歌は、
    能因法師集一〇一では万寿二年(一〇二五)陸奥に実際に初度下向した折の詠
    と記す。「すき」に徹した能因の真骨頂を伝えるために脚色された話か。

高重久美『コレクション日本歌人選045 能因』(笠間書院,2012)75頁も同歌について次の記述(^_^;)

    ・・・実際に奥州へ二度も下向しているにも拘わらず、『袋草紙』の「能因実[まこと]
    には奥州に下向せず、此歌を詠まん為、竊[ひそ]かに籠居して奥州に下向の由を風聞す
    と云々」を始めとする逸話が生まれたのは、「数寄」に徹した能因の真骨頂を伝えるために
    脚色されたものであろう。・・・

この解釈が「国文学界ではいちおう定説になっている」のではないかと〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
つまり、『袋草紙』『古今著聞集』『十訓抄』などの「ペテン説は能因の異常なまでの風雅狂ぶりが
一部の人士の嫉妬を買ったからかもしれない。」なんて論外なんだよヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!

なお、清水文雄が「このことを承知していたはずの『袋草紙』の著者」とするように、『袋草紙』は
「一度においては実か。八十島記を書けり。」として能因法師の奥州行を否定はしてないヾ(`◇´)ノ

[追記210104]

藤本一恵(全訳注)『後拾遺和歌集(二)』(講談社学術文庫,1983)の「都をば」の歌の〔参考〕欄
も次のように記している(⌒~⌒)

    この有名な歌について、『袋草紙』「雑談」に、「・・・」といっているが、能因法師は
    二度奥州に下向している。事実を説話化した「いたれる数寄者」(『古今著聞集』)能因
    法師の面影を伝えた話だと見ることもできよう。

[追記210105]

犬養廉&後藤祥子&平野由紀子(校注)『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店,1994)に
犬養廉&平野由紀子(校注)『能因集』が収録されてるのを完全に失念してて、同集の「都をば」の
歌の脚注には次の通り(^_^;)

    ・・・袋草紙、十訓抄、古今著聞集、愚秘抄、西公談抄等には、能因の数寄者ぶりを
    示す例として陸奥下向を疑う逸話が載せられている。

[追記220320]

久保田淳&平田喜信(校注)『後拾遺和歌集』(岩波文庫,2019)に新日本古典文学大系本の「春から
秋への旅程は長すぎる」という疑問が載ってない理由は、平田喜信没後の久保田淳の意向かも(^_^;)
久保田淳『旅と草庵の歌人 西行の世界』(日本放送出版協会新コンパクト・シリーズ,1988)には、
「・・・昔の京から陸奥への旅が遠く遥かなものであったことはいうまでもない。中世における京都
鎌倉間の旅の所要日数は、だいたい十五日前後であったらしい。しかし、もとより、急ぐことなく
あちこち滞在したりすれば、さらに多くの日数を要することになる。春に都を出発したと仮定して、
陸奥にさしかかった時にはもはや秋であったとしても不思議はない。」などと記していたから(^_^;)

コメント(14) 
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コメント 14

enosan

本年もよろしくお願いします。
by enosan (2021-01-01 16:17) 

middrinn

こちらこそ宜しくお願い申し上げますm(__)m
by middrinn (2021-01-01 16:34) 

アニマルボイス

この歌、中学だったか高校だったかの古文の教科書に載っていました。授業中に、
「半年もかかったんですか?」
 と、質問したこと思い出しました。
 教師は、なんてバカな質問をするんだという顔をして、
「昔の旅は大変だったんだよ」(^^;
by アニマルボイス (2021-01-01 16:38) 

middrinn

( ^o^)ノ◇ 山田く~ん 特製「昔の旅は大変だったんだよ」お正月座布団1枚 ♪
アニマルボイス様はその教師のお蔭で古文がさぞ出来るように・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
by middrinn (2021-01-01 17:02) 

nikki

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
by nikki (2021-01-01 21:37) 

爛漫亭

 ご解説にて能因の一連の話が整理できました。
こんな講義を受けたいものです。
by 爛漫亭 (2021-01-01 22:00) 

そら

明けましておめでとうございます
今年も宜しくお願い致しますm(_ _)m
私も墓参りに行きたいのですが、このご時世とこの小指の傷・・・
小正月までに行くかな。
by そら (2021-01-01 22:47) 

tai-yama

秋の京都でも、朝早い時間に霞がかる日もあるので、東京まで
下道20時間、東京から白河まで(夜出発なら)下道5時間なので
バイクなら余裕で成立するかも。能因法師の馬=バイク説。
by tai-yama (2021-01-01 23:06) 

middrinn

こちらこそ今年も宜しくお願い申し上げますm(__)m
nikki様がお出かけ出来る一年になるよう祈念(^o^)丿
by middrinn (2021-01-02 07:33) 

middrinn

ブログは枚数とか気にせずに書けますけど、
爛漫亭様、今回は論点を絞りました(^_^;)
捨てるには惜しい論点とかあったのですが、
あれもこれもとなると、冗長散漫に(^_^;)
by middrinn (2021-01-02 07:37) 

middrinn

こちらこそ今年も宜しくお願い申し上げますm(__)m
何か菌とかが入ったりしたら、大変ですからね(+_+)
そら様のところは大寺院だから人も多そうです(^_^;)
by middrinn (2021-01-02 07:40) 

middrinn

片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典 増訂版』(笠間書院,1999)に、
〈『万葉集』では・・・秋にも霞が「霧[き]らふ」とよまれ
ていたが、平安時代になると、春は霞、秋は霧と互いに分担する
ようになった・・・〉とあるように、同じ気象現象のようですが、
tai-yama様、秋は霞ではなく霧と呼ぶからバイク説却下(^_^;)
by middrinn (2021-01-02 07:46) 

ニッキー

明けましておめでとうございます^^
皆がたくさんの楽しい笑顔が出来る年になりますように(_ _)
今年もよろしくお願いいたします( ^ω^ )

墓参り、年末に行きそびれたので
1月の三連休に行く予定です(⌒-⌒; )
by ニッキー (2021-01-02 10:47) 

middrinn

あけましておめでとうございま~す(^o^)丿
今年も宜しくお願い申し上げますm(__)m
せめて笑える事が多いといいですね(^_^;)
by middrinn (2021-01-02 13:48) 

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