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240218読んだ本

歴史のプロセスにおけるポイント・オブ・ノーリターン(不可逆点)というものを考えると、例えば、
戦国時代の武田氏の滅亡では、長篠の戦いにおける敗戦より、むしろ高天神城の落城ではないかと
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-01-14 )(@_@;) 平氏の滅亡では
石橋山の戦いで挙兵した源頼朝を討ち漏らした時点になるのかな(@_@;) その後の平清盛の死去も
モチ大きいけど、高倉上皇の21歳での崩御も歴史のプロセスを加速させ、軽視できないかと(@_@;)

【読んだ本】

森本元子『私家集全釈叢書13 殷富門院大輔集全釈』(風間書房,1993)所蔵本

      正月十四日、高倉の院うせさせ給ひて、あはれなる事など
      申しかはしたりし人のかへり事に

    この春は谷のうぐひすいでずとも我がはつねをやたれもなくらん

      かへし              但馬守経正

    ひきかへて人のなくねをこの春はあはれとやきく谷のうぐひす

       正月十四日、高倉院がお崩[かく]れになって、悲しみにたえない由など
       申してよこされた人への返事として(詠んだ歌)

     今年の春はうぐいすが谷から出てきてなかなくても、誰もが皆自分の初音として
     泣くことでしょう。

       返歌               但馬守経正

     例年とは逆に今年の春はわれわれ人間のなく声を、谷のうぐいすはあはれなことよ
     と聞くのでしょうか。

素人の感想だけど、殷富門院大輔のもモチ良いが、平経正は「・・・作歌にすぐれ、父経盛とともに
平家歌壇の中心として活躍。[藤原]俊成に師事した。・・・」(本書)とある通り、巧いな(^_^;)
高倉天皇は治承4年(1180年)2月21日に東宮言仁親王(安徳天皇)に譲位すると、平経正は井上宗雄
『平安後期歌人伝の研究 増補版』(笠間書院,1988)の「第五章 平家の歌人たち」の「二 経盛・
経正」によれば、「・・・/[治承]四年二月廿四日新院高倉の別当になった(山槐記)。」とある
ので、高倉上皇と近かったのかな(@_@;) 高倉院の崩御が治承5年(1181年)の1月14日ということ
から、時節柄、鶯(の初音)が詠まれ、福田秀一&岩佐美代子&川添昭二&大曾根章介&久保田淳&
鶴崎裕雄(校注)『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店,1990)に収録されている
大曾根章介&久保田淳(校注)『高倉院升遐記』という源通親(新院別当)による「・・・高倉院を
偲ぶ追悼の記。」(同書)にも鶯を詠んだ哀傷歌が含まれていて、脚注の歌意を補って引く(´・_・`)

    ・・・/谷の底に鶯の声聞きて、

      鶯のさへづる声はそれながらかはれる春ぞ悲しかりける

       [鶯のさえずる声は例年のままながら、例年と異なった諒闇の春は悲しい。]

    ・・・

日本野鳥の会が客席審査をカウントした結果、源平歌合戦は平家勝利・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;村上源氏!

・盗作将軍源実朝は辞世とされる歌も在原業平、藤原清正、式子内親王、菅原道真のコラージュ(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-04-22
タグ:歴史 和歌
コメント(4) 
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コメント 4

ぽ村

最近、ちょうどこの武田家滅亡あたりを読み返したところですが、長篠の後も旺盛な対外戦争・領地拡張をしていたりするところを見ると高天神城は大きいなって思いましたー

過去の歴史だと軽く触れられていた程度の高天神城が、かなり気合入れた防備と支援と人材(人質?)の結晶だったんですね…



あとは勝頼の体制変更とかですかねー?
漫画では中央集権的な体制変更への不満が、ドミノ倒しのように一気に出てきた的な状況悪化っぷりが印象的でした。
信玄晩年の対外策変更に振り回されたと言われてますが、勝頼さん可哀想
by ぽ村 (2024-02-18 20:55) 

tai-yama

平氏の滅亡は頼朝の処刑をしなかったことが・・・
今年は暖冬の影響で鶯も鳴いていそうな気も。
by tai-yama (2024-02-18 22:53) 

middrinn

実際、長篠の戦いの後に、「勝頼[は]、信玄時代を超える
最大版図を実現」(平山優『武田三代 信虎・信玄・勝頼の
史実に迫る』[PHP新書,2021])してますからね(^_^;)
ぽムたん、漫画より平山優の著作の一読を薦めます(^_^;)
by middrinn (2024-02-19 05:40) 

middrinn

源頼朝の同母弟の源希義は頼朝と同様に助命され(土佐へ)流されましたけど、
河内祥輔『頼朝の時代 一一八〇年代内乱史』(平凡社,1990年)が「・・・
治承4年頃に希義は熊野などの海上勢力と提携して南海に独自の反平家勢力圏
を構築する動きを取っていた・・・」(wikiの「源希義」の項)とするように、
tai-yama様、挙兵しても鎮圧可能だったので、助命は不可逆点に非ず(^_^;)
by middrinn (2024-02-19 06:04) 

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