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220114読んだ本

法則はありえないにしても因果関係の説明を歴史書には期待しちゃう〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
戦国時代最強だった武田氏が滅亡してしまった原因は浅間山の大噴火・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;チガウダロ!

【読んだ本】

平山優『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』(PHP新書,2021)

    第3部 武田勝頼

     1 武田勝頼の攻勢

      信玄、敵対した諏方頼重の息女を側室とする/義信事件で運命が一変/
      波乱の家督相続/織田・徳川の反撃──足利義昭追放/勝頼、織田・徳川を撃破/
      高天神城攻略/

     2 長篠合戦

      長篠合戦の契機/信玄三回忌と勝頼出陣/長篠城攻防戦/
      両軍の動向──武田方の索敵・諜報不足/酒井忠次の奇襲/長篠合戦/
      「旧戦法」対「新戦法」の衝突?/騎馬衆の実態/織田と武田は何が違っていたのか/
      奥三河の争奪戦は鉱山をめぐる争い?/勝頼の戦後処理と軍団再編/
      織田・徳川方の反攻と勝頼/

     3 武田勝頼、再起を目指す

      足利義昭と武田勝頼/信玄の葬儀/甲相越三国和睦交渉と甲芸同盟/
      甲相同盟の強化と北条夫人の輿入れ/御館の乱勃発/勝頼、上杉景勝と結ぶ/
      武田氏、信濃国全域を領国に編入/景勝・景虎の停戦成立/上杉景虎、苦況に陥る/
      上杉景虎の滅亡/甲相同盟の決裂と甲越同盟/甲佐同盟と徳川信康事件/
      織田・徳川・北条同盟の成立/

     4 武田勝頼の栄光と挫折

      甲佐同盟、北条氏政を圧迫す/沼田城攻略/勝頼、信玄時代を超える最大版図を実現/
      勝頼・氏政・家康の戦い続く/「甲江和与」交渉/「甲濃和親」交渉の挫折/
      徳川方の高天神城包囲網/高天神城落城──勝頼の焦燥を利用した信長/
      新府築城──築城開始時期をめぐって/上野国の混乱/駿豆国境の異変/
      信長、勝頼打倒に向けて動く/

     5 武田氏滅亡

      木曾義昌の離反/武田勝頼、最後の出陣/下伊那の崩壊/鳥居峠合戦/
      徳川家康の出陣/穴山梅雪謀叛の衝撃/高遠城陥落──ある女性の壮烈な最期/
      最後の軍議/新府城炎上と信濃の崩壊/小山田信茂の離反/武田勝頼の最期/
      恵林寺炎上──快川和尚の偈/織田信長の戦後処理/

    むすびにかえて──武田氏滅亡、それから

    主要参考文献一覧

    あとがき

さて、「はしがき」「序章 名門源氏意識─戦国武田三代を呪縛し続けたもの」「第1部 武田信虎」
「第2部 武田信玄」に続き、「第3部 武田勝頼」「むすびにかえて──武田氏滅亡、それから」
「あとがき」を読んで、ついに本書も読了(^o^)丿 本書の「はしがき」を読んだ時に、〈本書には16
~17頁に「武田信玄の最大版図(1573年頃)」、18~19頁に「武田勝頼の最大版図(1581年頃)」と
いう地図が載ってて、主要な城・館・神社仏閣・合戦の場所しか出てない(´ヘ`;) 甲斐国&信濃国
の地方・地域名も載せてくれないと、例えば、佐久とかどこだか分んないよ(-ω-、)〉と書いたけど、
421頁に「図3-1 織田信長の知行割図」というのが平山優『武田氏滅亡』角川選書から転載されてて、
佐久郡、小県郡、伊那郡等が一応どの辺りか分ったよ(^_^;) 長篠合戦の平山優の旧著は読了済も憶え
てないのでメモるが、決戦前日の勝頼の「長閑斎」宛て書状は「長く長坂釣閑斎光堅に比定され、彼
が長篠に出陣していないことの根拠とされ・・・『甲陽軍鑑』が信頼できぬ、動かぬ証拠だといわれ
ていた」が駿河国久能城代の今福長閑斎と判明してるし(282~283頁)、鉄砲3000挺の連射=「三段
撃ち」という新戦法で騎馬攻撃という旧来の戦法を撃破とされるも、「だが、この十年ほどで、織田
権力や戦国大名の軍隊編成に関する研究は飛躍的に進んだ。その結果、兵農分離という概念そのもの
が再検討を余儀なくされ始めている。織田も、武田も、在村被官の動員という点において違いはない
どころか、そもそも兵農分離の実証研究が存在しておらず、イメージ先行という異常さなのである。
/また、保守的な武田という点で言えば、武田氏が鉄砲を軽視していたということ自体が、事実に反
することも明確になっている。・・・鉄砲の動員に関する、武田側の史料は、織田信長のそれを遥か
に凌ぎ、その大量導入に躍起になっていたことがわかっているのだ。」と288~289頁にある( ̄◇ ̄;)
織田領国の兵農分離は常識のようになってたけど、誰が言い出して定着させたのかな(@_@;) んで、
平山優曰く、「恐らく、長篠合戦で、武田軍は、織田軍鉄砲衆に銃数だけでなく、豊富に用意された
玉薬に圧倒され、まったく途切れることのない弾幕にさらされ、敗退したのだろう。逆に、武田軍
鉄砲衆は、早い段階で、弾切れとなり、沈黙を余儀なくされたとみられる。」(292頁)と推定して、
その背景に戦国期は鉄砲玉の原材料であり銀の精錬技術である灰吹法にも必要不可欠だった鉛の需要
が西日本では急増しており(石見銀山の採掘が盛んになってたから)、国内産では賄えず、「中国や
朝鮮との東アジア貿易のほかに、南蛮貿易による輸入が、日本における鉛の需要(銀精錬と戦争)を
支えていたのである。/南蛮貿易が日本の戦争を支えていたのは、鉛だけではなかった。火薬の原材料
である硝石も、海外からの輸入に頼っていた。/こうした日本の海外貿易は、九州や堺などが窓口に
なっていた。」と293~294頁で解説( ̄◇ ̄;) んで、295頁の〆を引く(⌒~⌒)

    ・・・/このようにみてくると、長篠合戦とは、「新戦法対旧戦法」ではなく、
    豊富な物流と物資を誇る西国、畿内を背景とした織田と、それに乏しい東国の
    武田の戦い、つまり西と東の激突といえるだろう。むしろ、物量の差という
    側面こそを重視すべきである。/

頼朝以来連戦連勝だった東国が西国によって初めて土をつけられたわけか(@_@;) ←単なる思い付き
なので真に受けないよーに( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚ 信康事件に関して太田牛一『信長記』の古写本は〈・・・
時期を経るにつれて、ニュアンスを変えて記述されている(ただし、太田牛一は最終的に『信長記』
『信長公記』から信康事件そのものを削除している)。/太田牛一も、当初は、事件の真相は「岡崎
三郎殿逆心」(信康謀叛)だったと記しているのに、その後、「狂乱」に書き換えているのだ。これ
は、天下人家康に忖度した結果であろう。『三河物語』も、家康に配慮し、信長にすべての罪を着せ
ようとしていると思われる。実際のところ、信康は、父家康を排除し、徳川の路線を反信長に転換さ
せようと企図していたのではないか。〉と332頁にあった( ̄◇ ̄;) にしても、最近の本には「忖度」
という語がよく出てくるな(^_^;) 小生好みの情報では、416~417頁の〈つまり、「安禅不必須山水、
滅却心頭自火涼」という『碧巌録』を出典とする偈は、高山玄寿が言ったものであり、快川ではなか
ったのだ。ところが、江戸時代前期になると、この偈を言い放ち、快川国師は従容と遷化したと言わ
れるようになり、定説化してしまった。〉とか、383~384頁の「ところが、[天正10=1582年]二月
十四日夜、天変地異が発生した。何と、浅間山が天文三(一五三四)年以来、四十八年ぶりに大噴火
を起こしたのである。この火柱は、京都、奈良、遠くは九州豊後国でも確認された。安土にいた信長
も、空を赤く染める現象を見て、大吉事だと喜んだという。当時の人々は、甲斐・信濃を始めとする
東国で異変が起こる時には、浅間山が噴火するという俗信があった。浅間山大噴火は、あまりにも
タイミングが良過ぎたといえる。これが、人々に武田勝頼没落と信長勝利を告げる神意と受け止めら
れたことは、想像に難くない。」とか(^_^;) 天文3年(1534年)の浅間山噴火では何か「東国で異変
が起」きたのかな(@_@;) その年に織田信長が誕生したことが東国にとって災厄・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
この手の話では、「いっぽうの織田信忠は、三日に高遠から杖突峠を越えて諏方に着陣すると、諏方
大社に火を放ち、壮麗な伽藍を焼き尽くした。この煙は、甲州からもみえたという。後に、神長官
[じんちょうかん]守矢信真は、本能寺の変における織田信長・信忠父子の横死を、諏訪大明神の神罰
であると記録している。」(399頁)、「それは、武田氏滅亡から、わずか八十日後のことであった。
諏方大社上社神長官守矢信真は、信長の横死は諏訪大明神の神罰だと公言して憚らなかった。」(426
頁)ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ 浅間山の「火柱」が「豊後国でも確認された」とか、諏訪大社を焼いた「煙は、
甲州からもみえた」とか、どんだけ凄かったんだ( ̄◇ ̄;) にしても、そんなに遠くまで昔は見えた
のかなぁ(@_@;) 昔の人は目が良かっ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 新田次郎の『武田信玄』『武田勝頼』は
好きな歴史小説だけど、前者の後半から後者の半ばまで真田昌幸と臥龍・鳳雛のような智慧者として
大活躍する曾根内匠昌世のことが気になっていた(@_@;) 『武田勝頼』の半ばから消えてしまって、
会津に転封された蒲生氏郷の下で若松城の縄張を担当してるのを何かで読んだから、生き延びたのは
知ってたけど(@_@;) 本書を読んで長年の謎が解けたけど、ちょっとショック(^_^;) 349頁に勝頼が
信勝に家督を譲った際に武田一族や重臣の官途が一斉変更された中に「曾根内匠助昌世→下野守昌世
[まさただ]」、そして、375頁に次の記述が∑( ̄ロ ̄|||)ニャンと!?

    ・・・天正八年(1580年)ごろから武田氏の譜代衆、御一門衆、先方衆からも
    内通者が出始めていたといい、この中には、曾根下野守昌世(信玄の両眼と
    いわれたとされる譜代重臣)、駿河の有力国衆岡部正綱、そして武田一門の重鎮
    穴山梅雪などが含まれていたという。穴山梅雪が、数年前から織田・徳川方に
    内通していたのは事実である。/・・・

事実なら、岡部正綱もショックだけど、新田次郎の『武田勝頼』が破綻してしまうよヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
天正10年(1582年)2月2日に木曾義昌の離反を受けて勝頼が「最後の出陣」をした時の「武田領国に
おける諸城の状況」として列挙した中の駿河国駿東郡に「興国寺城(沼津市)……曾根下野守昌世」
(381頁)とあり、391~392頁には「北条軍は、逃げる甲州衆を吉原まで追撃し、多数を討ち取ったと
いう。勝頼が精魂を傾けて築城し、要害堅固を誇った沼津三枚橋城も、あっけなく北条氏の手に落ち
たのである。なお北条軍は、曾根昌世が在城する興国寺城には手出しをしていない。恐らく、すでに
織田・徳川に内通していたので、北条方に手出し無用の要請が届いていたのだろう。」とあるけど、
曾根昌世は名将だから「手出し」することは出来なかったと思いたい(;_;) 信長が旧武田領国を分割
解体して重臣らへの知行割を定めた件に「・曾根昌世……駿河興国寺城領(但し、これは確実な記録
からは確認できないので今後の検証がまたれる)」(421頁)とあり、更に「また、小山田信茂などの
ように、勝頼から土壇場で離反した者たちも容赦なく断罪された。信茂は穴山梅雪や曾根昌世らと
違って、数年前から内通していたのではなく、土壇場で変心したため、不忠者と忌まれたようだ。」
(423頁)とあり、こうなると「数年前から内通していた」ことは間違いないようだ(´;ω;`)ウッ…
小生が興味・関心のある武田水軍についての記述も結構あったヤッタネ!!(v゚ー゚)ハ(゚▽゚v)ィェーィ♪ 345頁に
「そして[天正8=1580年]四月、武田水軍向井兵庫助正綱、小浜民部左衛門尉景隆らと、北条水軍の
梶原景宗らが沼津沖で衝突した(沼津沖海戦)。この海戦は、武田水軍が勝利したらしく、その後、
武田水軍は伊豆沿岸部の数ヵ村を撃破し、北条方の軍船を拿捕している。」、368頁に「天正九年[=
1581年]三月から六月にかけて、武田水軍は、駿河湾の制海権奪取を目指し、攻勢を仕掛けた。三月
二十九日、伊豆国久竜津(静岡県沼津市久料)を、武田水軍小浜景隆・向井政綱・伊丹虎泰らが攻撃
した。北条水軍梶原備前守景宗は迎撃に出たが、船三艘を撃沈もしくは拿捕され、数十人の戦死者を
出した。小浜同心小野田筑後守は、北条方の船を拿捕し、勝頼から褒賞されている。」、369頁には
「五月、武田水軍は、夜半に伊豆国田子浦(西伊豆町)に奇襲上陸し、山本太郎左衛門尉正次の屋敷
に攻めかかった。山本氏らは懸命に防戦し、自らも負傷しながら、早朝まで戦い抜き、ようやくこれ
を撃退したという。さらに、六月、武田水軍小浜景隆は、伊豆国子浦(南伊豆町)を襲撃し、周辺の
村々に甚大な被害を与え、多数を討ち取った。/武田水軍の攻勢に、北条氏は危機感を抱き、駿河国
獅子浜(沼津市)の土豪で、口野五ヵ村(獅子浜・江浦・尾高・多比・田連)の代官植松佐渡守に
新船の建造を命じている。」とある(^o^)丿 向井正綱と向井政綱、どちらが正しいのか気になるが、
こんなに大活躍してる小浜景隆、白石一郎『戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆』(文春文庫,1995
https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2016-06-22 )では主人公の敵役としてぞんさい
な扱いをされてた記憶が(-"-) へぇ~!と思ったのが、354~355頁の〈天正七年[=1579年]以来、
遠江国吉田城の在番にかわって、高天神城将として籠城していたのが、駿河衆の重鎮岡部丹後守元信
である。彼は、武田水軍の統括者の一員でもあった。高天神城は、当時は城下の付近まで、入江(菊川
入江)が入り込み、遠州灘と繋がっており、城の近くには、今川時代以来の良港である「浜野浦」も
存在していた。つまり、高天神城は、陸路での補給が困難となりつつあったため、海上からの補給を
頼みの綱としていた。岡部元信が配置されたのも、武田水軍による海上からの補給を意図してのもの
であろう。〉( ̄◇ ̄;) となると、高天神城も現地取材とか意味が無いということ(^_^;) 岡部元信も
桶狭間の戦い直後には主君今川義元の首級を信長から貰い受けて堂々と鳴海城から撤退するなど名将
だったのに、海上からの補給は徳川方から妨害され、「もはや、高天神城を救う手立ては、武田勝頼
本隊の後詰め以外になくなった。」(355頁)のに、勝頼は救援に来なかった(´;ω;`)メロス…

    ・・・/高天神城落城は、勝頼に計り知れない政治的打撃を与えた。当時の人々は、
    勝頼が信長の武威を恐れ、武田領国各地の名だたる人々を救援することなく、
    無残な死に追いやったと認識した。かくして勝頼の求心力と威信は完全に失墜し、
    「天下の面目を失った」といわれるほどであった。武田氏にとって、もはや
    取り返しのつかぬ事態となったのである。/では、なぜ勝頼は高天神城救援に
    動かなかったのだろうか。それは、この時期、勝頼が織田との和睦交渉(甲江和与」
    「甲濃和親」)を行っていたからだと推定される。勝頼は、織田との和睦を実現し、
    さらに家康とも和睦することで、高天神城を救おうと考えていたのではあるまいか。
    だが、信長は、交渉を長引かせつつ、勝頼から譲歩を引き出し、息子信房[=美濃国
    岩村城にいた御坊丸]まで取り返した。その間、高天神城は追い詰められ、落城した
    のだった。信長は、上杉景勝の家臣新発田重家を叛かせ、上杉への攻勢を強め
    [甲越同盟も揺さぶ]ると、勝頼との交渉を打ち切ったのである。/つまり信長には、
    最初から和睦の意志はなく、・・・

358~359頁から引いたけど、この「高天神城落城に伴う武田氏の求心力低下」(367頁)は、本書でも
何度か言及されてて、武田氏滅亡の原因の一つで、ポイント・オブ・ノーリターンかと愚考(@_@;)
本書は武田三代の通史なので、武田氏滅亡の原因は第一にコレコレ第二にコレコレと纏められている
わけではなく、てゆーか、そもそも「滅亡の原因」とはっきりと書いてなくて、原因と思しきことが
断片的に語られ、モチ序列も付けられていない(@_@;) 例えば、「つまり武田氏の新府築城動員は、
国衆、在村被官、領民などすべての階層にとって、過酷なものだった可能性が高いのだ。新府築城が、
武田氏からの離反を決定づけたという説が根強いが、その可能性は無視できないだろう。」(363頁)
といった感じ(@_@;) しかも、通史なるがゆえに、その説明がかなり後になされるケースも(@_@;)
「沼田城攻略」の節で「沼田城と引き換えに、勝頼は莫大な所領を藤田信吉[←後に上杉景勝に仕える
も会津征伐直前に出奔]に保証したのだった。だが、これが後に上野国における武田氏の凋落ら直結
する事態になってしまうことになる。」(343頁)という記述、20頁以上も後の「上野国の混乱」の節
で「この他に、最も大きかったのは、上野衆への恩賞問題である。武田氏は、天正八年[=1580年]
八月の沼田城開城時に、用土新左衛門尉(藤田信吉)に対し、降伏、開城すれば恩賞は望みのままと
するという条件を与えており、その結果、旧沼田城領土のほとんどが彼の知行地になってしまうという
結果を招いた。そのため武田氏は、天正七年以後、東上野の北条方を調略する際に、彼らに約束した
恩賞を沼田周辺で与えることが出来なくなり、その代替地の捻出に腐心することとなる。この代替地
の決定は長引き、天正九年になっても、まったく解決の見通しが立たなかった。勝頼も真田昌幸も、
東上野衆を懸命に宥め、信濃などでの替地宛行に奔走していたが、彼らを納得させるにはほど遠かっ
たようだ。これらの恩賞問題と、高天神城落城の余波が、上野国での相次ぐ謀叛に繋がっていたのだ
ろう。武田氏は斜陽を迎えつつあった。」(367~368頁)と説明(@_@;) 忘れてしまったのか、204
~205頁において「義信事件は、大事に至らず済んだとはいえ、信玄の嫡男が廃嫡され、多くの家臣が
処刑されたこともあり、その後の武田家中に大きな傷痕を残した。このことが、武田氏滅亡への扉を
開いたと、私は考えている。」とあったけど、どういう意味なのか最後まで説明が無かった(´ヘ`;)

最後に、気になる点としては、「小山田信茂の離反」の叙述に混乱が(@_@;) 小山田信茂が支配する
都留郡(郡内)の岩殿城に籠城することとなって、「明けて天正十(一五八二)年三月四日、勝頼は、
夜明けとともに柏尾大善寺を後にし、駒飼宿の石見某のもとで旅装を解き、岩殿城の準備が整うまで、
小山田信茂とともにここで待つことになった。」(401頁)→「三月六日、織田信忠の軍勢が、遂に
甲府を占領した(ただし、信忠の甲府入りは翌七日)。甲府陥落の情報は、その日のうちに、駒飼の
勝頼のもとにも知らされた。勝頼主従は、焦れていたが、小山田信茂の迎えはなかなかやってはこな
かった。」(402頁)→「三月七日夜半、小山田信茂は、都留郡の検分に向かうこととなった。この時
信茂は、勝頼の許しを得て、生母ら人質を連れ、駒飼を発ったという。」(403頁)となってる(^_^;)

・「武田信玄の最大版図(1573年頃)」作製者は本書の原稿を読んでない(ノ ̄皿 ̄)ノアホカ!┫:・’

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-07

・「武田家における源氏意識は、戦国期において、政治・外交路線に大きな影響を与えていた」(゚ロ゚;)

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

・武田信玄の「風林火山」、その「侵掠如火」から焦土戦術を連想してしまうじゃんか((;゚Д゚)ヒィィィ!

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-12

・「現地調査で合戦の模様を考察することには無理がある」というのは素人にも解る( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚

 ⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2021-12-15
タグ:列伝 歴史
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コメント 8

ナベちはる

歴史書にはそれまでを覆す何かが載っていることもあって、何が載っているかと期待してしまいますね♪
もし本当に載っていたら、思わず驚くか感動するかしてしまいそうです。
by ナベちはる (2022-01-15 01:11) 

middrinn

社会常識にもなっているようなことを、覆され
たりすると、読んで良かったと思いますね(^^)
by middrinn (2022-01-15 07:33) 

df233285

永享の乱では、幕府軍には西軍も少しは居るとして、
西軍の勝ちの結果ではないかと思います。結城合戦
もその類か。享徳の乱は引き分け?


by df233285 (2022-01-15 08:00) 

middrinn

たしかに、永享の乱はそうですね(^_^;) ただ、西の幕府方は、
駿河の今川、越後の上杉が主力っぽくて東国同士のよう(^_^;)
by middrinn (2022-01-15 08:40) 

Cazz

武田勝頼はもともと後継でなかったし、信玄から冷遇されていたとかいう噂・・・それで人がついて行かなかったのかと思ってましたが一言では言い切れないのですね。中央道で勝頼がたどり着けなかった岩殿山を見る度に切ないです。

by Cazz (2022-01-15 14:28) 

middrinn

たしかに、信玄にとって勝頼は孫の信勝に継がせるまでの中継ぎ、という話が
あったような(^_^;) 本書の勝頼最期で感動的だったのは小宮山友晴が現われた
場面で、wikiには〈天正3年(1575年)の長篠の戦い以降、主君・武田勝頼の
側近衆である秋山摂津守らと険悪で、長篠の戦いで敵前逃亡した武田信廉など
御親類衆に対しても厳しい態度で臨み、時折非難したたという。長坂の讒言等
もあり、勝頼からも疎まれ、蟄居させられたという。/『甲陽軍鑑』『甲乱記』
によれば、天正10年(1582年)3月の織田信長の甲州征伐において、武田氏御
親類衆の穴山梅雪・木曾義昌が寝返り、武田信廉は一戦も弓を交えず早々と逃亡
する状況の中においても、「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬ
のは末代までの恥辱」であり、「御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と
自身の忠節を貫く為に勝頼最後の地・天目山に駆け付けた。友晴は奮戦するも
衆寡敵せず鳥居畑で討死を遂げた。〉とあり、裏切者続出の中一服の清涼剤(;_;)
by middrinn (2022-01-15 15:40) 

tai-yama

信康の件は23年の大河でどうかかれるか・・・・
築山御前とつるんで勝頼に味方して徳川乗っ取りが目的になることを
ドラマ化したら凄いな~。(過去の大河の時の描写と違うものになるし)
by tai-yama (2022-01-15 19:27) 

middrinn

23年の大河???検索して家康をやることを知りました(^_^;)
この信康事件は、まさに「どうする家康」だったりして(^_^;)
by middrinn (2022-01-15 19:35) 

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