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240111読んだ本

元日銀総裁で大蔵大臣だった一万田尚登が道路公団をロード公団と言い間違えたのは座布団もの(^_^;)

【読んだ本】

森銑三『偉人暦(上)』(中公文庫,1996)所蔵本

    ・・・地形の人為的な変動も急テンポの感がある。高師の浜も埋められているし、
    岩代の結松碑も昭和三八年八月には道路拡張のため路傍に倒されていた。・・・

犬養孝『万葉の旅(中)近畿・東海・東国』(社会思想社現代教養文庫,1964)巻末の「中巻 近畿・
東海・東国のおわりに」から引いたけど、『百人一首』の祐子内親王家紀伊の「音に聞く高師の浜の
あだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」でも有名な「高師の浜」は「・・・大阪付近ではめずらしい
白砂青松の海浜だったが、現在は、臨海工業地帯として埋め立てが行なわれ、・・・」云々と、また
「結び松の碑」は山上臣憶良の「鳥翔成[つばさなす]あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知
るらむ」を引いた上で同書は次のように記述する(@_@;)

    ・・・憶良は・・・〝[有間]皇子の亡魂は空を飛んでいつも通いつづけてこの松を
    見ているであろうけれど、それは人にはわからなくても松はよく知っているだろう〟
    と、目に見えない世界を見とおした深い追慕の心をそそいでいる。これは岩代の地の
    歌枕化への過程を語るもので、結び松は後代まで回想と風趣の対象となり、名所図会
    にものって熊野街道の名所となっていた。/さきごろまで・・・松原と海を見おろす
    ところに昭和一〇年建碑の結松記念碑が立てられ小松か植えられていたが、昭和三八年
    八月、道路拡張のためとりはらわれたのは惜しい。/

同書同頁の下部に「☆碑は昭和39年6月28日,近くの西岩代バス停付近に再建された。」とも(@_@;)
同書の「近畿(二) 和歌山県」を披く気になったのは、本書の「一月十日 徳川頼宣」に次の記述が
あったから(^_^;)

    ・・・/ある時家臣の某々が、所々の土地を開拓して新田を作ることを願出た。
    頼宣これを聞いて、「わが領内にはあまたの名所や旧蹟があって、累代の和歌集
    にも載っている。汝達ただ実利ばかりを考えて、天下後世の物笑いになるな」と
    いった。そのことは沙汰やみになってしまった。/

ちなみに、深~い意味は無いけど、二階俊博は道路族の代表格とされる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
タグ:列伝 歴史 和歌
コメント(2) 
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コメント 2

tai-yama

有間皇子の亡魂はアスファルト下に・・・・
和歌集の風景は一文にもならないと判断されたのかも。
by tai-yama (2024-01-11 23:02) 

middrinn

有間皇子の怨霊を封じるため、と(^_^;) 観光立国を目指す
ことになるとは、当時の人々もびっくりでしょうね(^_^;)
by middrinn (2024-01-12 05:43) 

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