220806読んだ本
紫式部のパクリは言わばパクリの世代間連鎖かも(^_^;) んにゃ、パクリの遺伝子・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
アノ伯父さんだって盗作してるんだからワタシがパクっても別にいいわよね、と思ったのかも(^_^;)
【読んだ本】
萩谷朴『おもいっきり侃侃』(河出書房新社,1990)所蔵本
本書所収の「清少納言と作家的良心の問題」(初出は1960年10月)の次の件に目が留まった(@_@;)
・・・/このところ幾度か、戦後派作家の盗作問題がゴシップ欄を賑わせたが、
和歌敷島の道では、昔から本歌取りというテクニックがあって、本歌取りと剽窃
との限界は、極めてデリケートな問題を提供していた。偉大なる『源氏物語』の
作者紫式部なども、実は何食わぬ顔で虚実皮膜の間に跳梁した押しの強い女流作家
であったが、今までその問題に触れられたことはない。/・・・
自信作らしく紫式部が記した「めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代をめぐらめ」は
『後拾遺和歌集』に入っている伯父の藤原為頼の「もちながら千代をめぐらんさか月の清きひかりは
さしもかけなん」のパクリなのに宮崎莊平(全訳注)『紫式部日記(上)』(講談社学術文庫,2002)
は全く言及していない(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-11-18 )(^_^;)
上記引用からも判るように、宮崎莊平の如き紫式部の信者ではない萩谷朴が『日本古典評釈・全注釈
叢書 紫式部日記全注釈 上巻』(角川書店,1971)で為頼の歌に触れてないのも謎だけど、この為頼
の歌は実は斎宮女御こと徽子女王の家集『斎宮女御集』に入っている徽子女王と前内侍との贈答歌の
返歌と全く同一という謎が存在する(@_@;) 平安文学輪読会『斎宮女御集注釈』(塙書房,1981)は
「この前内侍は、あるいは為頼と何らかの関係がある人で、為頼か内侍がその歌を自分の歌として
利用することがあって、後拾遺集にも作者名が異伝されたものであろうか。」とするが、同書が指摘
してるように「為頼は女御の一世代あとの人である。」ことから疑問(@_@;) 前内侍は「かつて女御
の女房だった人で、女御が斎宮であった時の内侍として仕えていた・・・」(同書)以上、徽子女王
が斎宮に卜定されたのは8歳の時で伊勢に下ったのは10歳か12歳の時なので、内侍は徽子女王よりも
年輩と思われ、この贈答歌の時に「女御の一世代あとの人」である為頼と接点があるのかね(@_@;)
犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊19 後拾遺和歌集新釈 下巻』(笠間書院,1997)では
上山真由美が次のように読み解いていた( ̄◇ ̄;)
・・・この為頼歌と『斎宮女御集』に見る「前内侍」歌とは全く同一の歌であり、
二者の先後関係は不明。ただ前内侍歌は返歌であり、贈歌に即して詠むことが
要求され、他人詠をそのまま利用することは難しい状況にある。実際、この贈答歌
は共通して三句に「さかづきの」と置き、初二句は三句の修飾語とし、四句にも
ほぼ同義の語を据えて、構造の面で対応を見せる上、四・五句では「光をどうせよ
と言うのか」という問いかけに「光をさしかけてほしいのだ」と答え、内容面でも
即応している。前内侍詠の方が先行するのではないか。/
『後拾遺和歌集』撰者が作者名を誤記したのでなければ、為頼が盗作したということになる(@_@;)
紫式部は、伊勢タンと並んで女流歌人の代表と言うべき和泉式部のことを「古歌の知識や詠作の理論
などからすると、本格的な歌の詠みぶりとは言えない」などとエラソーに批判していたぐらいだから
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-02-03 )、「古歌の知識」にお詳しく、
この歌が前内侍の詠であることは御存知でしょうし、敬愛する伯父の為頼が盗作したことも(⌒~⌒)
アノ伯父さんだって盗作してるんだからワタシがパクっても別にいいわよね、と思ったのかも(^_^;)
【読んだ本】
萩谷朴『おもいっきり侃侃』(河出書房新社,1990)所蔵本
本書所収の「清少納言と作家的良心の問題」(初出は1960年10月)の次の件に目が留まった(@_@;)
・・・/このところ幾度か、戦後派作家の盗作問題がゴシップ欄を賑わせたが、
和歌敷島の道では、昔から本歌取りというテクニックがあって、本歌取りと剽窃
との限界は、極めてデリケートな問題を提供していた。偉大なる『源氏物語』の
作者紫式部なども、実は何食わぬ顔で虚実皮膜の間に跳梁した押しの強い女流作家
であったが、今までその問題に触れられたことはない。/・・・
自信作らしく紫式部が記した「めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千代をめぐらめ」は
『後拾遺和歌集』に入っている伯父の藤原為頼の「もちながら千代をめぐらんさか月の清きひかりは
さしもかけなん」のパクリなのに宮崎莊平(全訳注)『紫式部日記(上)』(講談社学術文庫,2002)
は全く言及していない(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-11-18 )(^_^;)
上記引用からも判るように、宮崎莊平の如き紫式部の信者ではない萩谷朴が『日本古典評釈・全注釈
叢書 紫式部日記全注釈 上巻』(角川書店,1971)で為頼の歌に触れてないのも謎だけど、この為頼
の歌は実は斎宮女御こと徽子女王の家集『斎宮女御集』に入っている徽子女王と前内侍との贈答歌の
返歌と全く同一という謎が存在する(@_@;) 平安文学輪読会『斎宮女御集注釈』(塙書房,1981)は
「この前内侍は、あるいは為頼と何らかの関係がある人で、為頼か内侍がその歌を自分の歌として
利用することがあって、後拾遺集にも作者名が異伝されたものであろうか。」とするが、同書が指摘
してるように「為頼は女御の一世代あとの人である。」ことから疑問(@_@;) 前内侍は「かつて女御
の女房だった人で、女御が斎宮であった時の内侍として仕えていた・・・」(同書)以上、徽子女王
が斎宮に卜定されたのは8歳の時で伊勢に下ったのは10歳か12歳の時なので、内侍は徽子女王よりも
年輩と思われ、この贈答歌の時に「女御の一世代あとの人」である為頼と接点があるのかね(@_@;)
犬養廉&平野由紀子&いさら会『笠間注釈叢刊19 後拾遺和歌集新釈 下巻』(笠間書院,1997)では
上山真由美が次のように読み解いていた( ̄◇ ̄;)
・・・この為頼歌と『斎宮女御集』に見る「前内侍」歌とは全く同一の歌であり、
二者の先後関係は不明。ただ前内侍歌は返歌であり、贈歌に即して詠むことが
要求され、他人詠をそのまま利用することは難しい状況にある。実際、この贈答歌
は共通して三句に「さかづきの」と置き、初二句は三句の修飾語とし、四句にも
ほぼ同義の語を据えて、構造の面で対応を見せる上、四・五句では「光をどうせよ
と言うのか」という問いかけに「光をさしかけてほしいのだ」と答え、内容面でも
即応している。前内侍詠の方が先行するのではないか。/
『後拾遺和歌集』撰者が作者名を誤記したのでなければ、為頼が盗作したということになる(@_@;)
紫式部は、伊勢タンと並んで女流歌人の代表と言うべき和泉式部のことを「古歌の知識や詠作の理論
などからすると、本格的な歌の詠みぶりとは言えない」などとエラソーに批判していたぐらいだから
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2019-02-03 )、「古歌の知識」にお詳しく、
この歌が前内侍の詠であることは御存知でしょうし、敬愛する伯父の為頼が盗作したことも(⌒~⌒)
タグ:和歌
「みんなでパクれば怖くない」なんてことでなければいいのですが…(^^;A)
by ナベちはる (2022-08-07 01:33)
もはや文化となり、パクリ文化、コピペ文化ですね(^_^;)
by middrinn (2022-08-07 06:06)
コピペは100%かな。ならパクリは何%似ているのでしょうか、素人には難問(>_<) 醤油の信者ではありませんが、この歌はこうも使える...としたのかも(^_^;)
by yokomi (2022-08-07 09:36)
『後拾遺和歌集』の作者名が誤記でないなら、為頼は前内侍の歌を盗作したわけで、
その動機・目的によって免責されることはないですし、紫式部も同様です(^_^;)
by middrinn (2022-08-07 10:04)
「実は何食わぬ顔で虚実皮膜の間に跳梁した押しの強い女流作家」
この文章って必要なのか?とか思ったり。
パクリじゃないんです。オマージュです。と今の時代なら・・・・
by tai-yama (2022-08-07 23:24)
紫式部は言わば刑務所の塀の上を歩いてて、
剽窃の疑いがあると言いたいかと(^_^;)
by middrinn (2022-08-08 05:55)