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220726読んだ本

デマを拡散するのはアホだし、そもそもデマと見抜けなかったのはバカだろオホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
厳選に厳選を重ねて購入した本にバカチン連発も見る目がないのかも〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ

【読んだ本】

河北騰『歴史物語入門』(武蔵野書院,2003)所蔵本

届いた日にバカチンを進呈した(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-07-19
本書だけど、「第四章 水鏡」に「付、水鏡をどう評価するか」(←変な節見出し)に次の件(^_^;)

    ・・・/なお、水鏡には和歌の収載が極めて少なく、全編を通じても、僅かに二首しか
    見られない。これは、他の歴史物語(栄花・大鏡・今鏡・増鏡)にあれ程多数の和歌が
    引用されて、作品自体に、しっとりとした主情的な情調を醸し出していたのと比べて、
    実に大きな特色であると思う。その二首というのは、十七代仁徳帝の例の仁政を述べる
    箇所での、

      高き屋に登りて見れば煙立つ
        民のかまどは賑はひにけり

    という歌で、古事記・日本書紀には見えない作。/今一首は、・・・/ともあれ、水鏡
    に和歌が二首だけしか見えないという特色は、今後、大きく採上げて検討を加える必要
    があろう。それは、水鏡作者の問題(資質や志向など)か、更に他の理由が考えられるか、
    又、水鏡にそれが及ぼしている効果は何か、といった諸方面からも、考えてみるのが
    肝腎であると思う。/・・・

この歌は仁徳天皇御製として『新古今和歌集』に入集も、実は藤原時平の歌であることは各注釈書が
指摘(^_^;) 更に、石田吉貞『新古今和歌集全註解』(有精堂,1960)、窪田空穂『完本新古今和歌集
評釈 中巻』(東京堂出版,1964)、久保田淳『新古今和歌集全注釈 三』(角川学芸出版,2011)等に
よると、『水鏡』も仁徳天皇御製としているらしく、窪田・前掲書から引く(^_^;)

    ・・・醍醐天皇の延喜六年、宮中では先例に従って、その道の博士を宮中に召され、
    日本書紀の連続講義をさせ、事が終わると宴を催された。宴には作歌がつきもので、
    講義に聴いた史実を題にして廷臣が作歌をした。すべて定例のことである。その時、
    藤原時平が「仁徳天皇」の題で詠んだのがこの歌である。それが「水鏡」には仁徳
    天皇の御製として記してあるのである。いつかそう誤伝されたのである。仁徳天皇
    時代には短歌形式は成立しておらず、「高き屋」も建て得られなかったのである。/

厳密に言うと、藤原時平が詠んだ歌は字句がかなり異なるけど、原歌であることは間違いない(^_^;)
しかも、この「誤伝」は『水鏡』に始まったわけではなく、久保田淳・前掲書には次の解説が(^_^;)

    /[源俊頼の]『俊頼髄脳』に、・・・と説くのを初めとして、歌学書では、顕昭の
    『万葉集時代難事』・一五や[藤原]俊成の『古来風躰抄』・五でも、仁徳天皇の詠
    として引いている。・・・『俊頼髄脳』より少し早いと考えられるが、史書である
    『扶桑略記』第二、仁徳天皇七年の条にも、・・・と見えている。・・・

坂本太郎『史書を読む』(中公文庫,1987→3版1992)が「・・・文章も構成も『大鏡』には及ばない。
・・・その基づく所がただ『扶桑略記』だけで、著者の見解もなく、新史料も引いていないのは情け
ない。・・・」と評した如く、『水鏡』の評価は低く、河北騰は本書で再評価しようと必死だけど、
『水鏡』作者は『扶桑略記』のこの「誤伝」も見抜けずに踏襲してしまったぐらいだからねぇ(^_^;)
タグ:古典 歴史 和歌
コメント(6) 
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コメント 6

tai-yama

仁徳天皇の免税の御蔭で煙が立つほどにぎわったとか言う歌ですね。
煙が立たなかったら仁徳天皇の御製としての噂も立たなかったと(笑)。
by tai-yama (2022-07-26 23:33) 

ナベちはる

デマと見抜けるかどうかは自分の力にかかっているので、それが見抜けない・拡散するというのはメディアリテラシー的にも問題ですね(^^;)
by ナベちはる (2022-07-27 01:15) 

middrinn

困窮して餓死した遺体を焼いている煙と、
tai-yama様、噂が立ったりして(^_^;)
by middrinn (2022-07-27 06:13) 

middrinn

デマを拡散するのは軽率ですけど、
ナベちはる様、デマと見抜けない
のは、マジで頭の問題かと(^_^;)
by middrinn (2022-07-27 06:24) 

df233285

製材技術が中国・朝鮮に劣る為だったのかもしれないですが。
奈良平安期よりも、むしろ弥生後期・古墳期の方が日本では、
腐らない残存土器・土製品等遺物の数量が相当に多くなるん
ですね。発掘が更に進むと、水鏡と扶桑略記のウエイトが、
更に長期低落するのは、以上の現実から物理的に、どうやっ
ても、やむを得ないのかもしれないですね。
by df233285 (2022-07-27 08:03) 

middrinn

窪田空穂の〈「高き屋」も建て得られなかった〉という件は、
吉野ヶ里遺跡の物見櫓はどうなんだろうと思いました(^_^;)
by middrinn (2022-07-27 08:36) 

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