220418読んだ本
ギニュー特戦隊は偽乳特戦隊と聞えるし擬人化と聞くとギシン星を連想・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;六神合体!
犬や猫といった動物よりも植物や物体を擬人化する方がやはり難しいかな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
【読んだ本】
岡村繁『新釈漢文大系99 白氏文集 三』(明治書院,1988)
白居易(白楽天)の「戲問山石榴(戲[たはむ]れに山石榴[さんせきりう]に問ふ)」(1005)を
本書452~453頁から通釈も含めて引く(返り点は省略し、一部の字体は異なるし、訳注稿は竹村則行
が担当している由)(^^)
小樹山榴近砌栽
半含紅萼帯花來
爭地司馬婦人妬
移到庭前便不開
小樹[せうじゅ]の山榴[さんりう] 砌[せい]に近く栽[う]う、
半ば紅萼[こうがく]を含み 花を帯びて來[きた]る。
爭[いかで]か知る 司馬夫人の妬み、
庭前[ていぜん]に移し到りてより 便[すなは]ち開かず。
山つつじの小木を石だたみの近くに栽えた。
半ば紅萼のついたまま、花ごと移し植えたのである。
ところが、どうして司馬の私の奥様の嫉妬を感知したのか、
庭先に移したら、そのとたんに花が咲かなくなった。
「花が咲かなくなった」ことを嘆くのではなく、ほのぼのしてる(〃'∇'〃) 「奥様の嫉妬」の対象は
花の美しさだろうけど、その花の美しさに夫=白居易(白楽天)の気持ちが奪われてしまうとの含意
なら、惚気を詠んだのかも(^_^;) と所謂個人の感想です的なことをテキトーに書いたけど、他の作品
と同様に、本書はこの詩に関しても「庭の山石榴に戯れに問いかけた詩である。・・・」云々と解題
するだけで、どう味読・鑑賞したらいいのか、全く解説してくれてないのが残念(^_^;) また詩題には
「問ふ」とあるのに、この通釈は「問いかけた」ような訳にはなってないし(^_^;) その点では、次の
「山中問月(山中 月に問ふ)」(0980)は「山中にあって、月に問いかけた詩である。」(本書427
頁)と解題されている通りで、本書428頁から同じように引く(^^)
爲問長安月 誰敎不相離
昔隨飛蓋處 今照入山時
借助秋懐曠 留連夜臥遲
如歸舊郷國 似對好親知
松下行爲伴 谿頭坐有期
千巖將萬壑 無處不相隨
爲[ため]に問ふ 長安の月、誰[たれ]か相離[あひはな]れざらしむ
昔は蓋[がい]を飛ばす處に隨ひ、今は山に入る時を照す。
借助して 秋懐曠[むな]しく、留連[りうれん]して 夜臥[やぐわ]遲し。
舊郷國[きうきゃうこく]に歸るが如く、好親知[かうしんち]に對するに似たり。
松下 行くゆく伴[はん]を爲し、谿頭[けいとう] 坐して期有り。
千巖[せんがん]と萬壑[ばんがく]と、處として相隨はざるは無し。
長安でもなじみだった月に問うが、一体誰がお前に、私のそばを離れないようにしたのだい。
昔はお前は私の車の行く処に随ってついて来たが、今も廬山に隠棲する私を照らしている。
お前のおかげで私の秋の憂愁はいよいよ大きくなり、お前がぐずぐずしているので夜も
なかなか横になれない。
お前を見ていると、私は昔の故郷に帰ったようであり、仲のよい旧友に相対しているような
気がする。
松の下を散歩すれば私の道づれとなり、谷のほとりに坐れば、約束していたように出て来る。
私が多くの山や谷を跋渉しても、ついて来てくれない処とてない。実に切っても切れない友
である。
江州に左遷された自分を政敵が月を使って監視しているなどといった妄想じゃなくて良かった(^_^;)
でも、「夜もなかなか横になれない」だとぉ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですとぉ!? 昼間ずっと横になって
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-15 )グータラ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
また前詩「香爐峯下新卜山居草堂初成偶題東壁(香爐峯下、新たに山居を卜し、草堂初めて成る。偶々
東壁に題す)」の連作5首(0975~0979)の第4首(「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」が出てくる)で
「故郷 何ぞ獨り 長安に在るのみならんや(故郷は何も長安だけとは限らない)」(本書424頁)と
言い切った舌の根も乾かぬうちに・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 前詩の「長安」は首都の意で政界・官界とは縁
を切るという含意だろう(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-09 )(^_^;)
さて、個人的には好きな作品だけど、気になるのは、「借助して 秋懐曠しく(お前[=月]のおかげ
で私の秋の憂愁はいよいよ大きくなり)」(@_@;) 昨日の「舟夜贈内(舟夜 内に贈る)」(0878)
は「月明かなるも 月闇きも 總て人を愁へしむ(月は明るくても暗くても郷愁で人を悲しませるもの
だから)」として、「月」そのものが「秋」とは関係なく「人を悲しませる」となっていた(@_@;)
なお、白居易にも西行らの相対主義に立った作品があるのを昨日引き忘れたので追記しといた(^_^;)
・『曾我物語』で「香炉峰の雪は、簾を掲げて見る」を口ずさんだ惟喬親王と白居易のアナロジー(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-10
・『枕草子』で最も有名な章段に不審なシーンがあるが疑問に思った研究者がいないのも不審(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-06
犬や猫といった動物よりも植物や物体を擬人化する方がやはり難しいかな〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ
【読んだ本】
岡村繁『新釈漢文大系99 白氏文集 三』(明治書院,1988)
白居易(白楽天)の「戲問山石榴(戲[たはむ]れに山石榴[さんせきりう]に問ふ)」(1005)を
本書452~453頁から通釈も含めて引く(返り点は省略し、一部の字体は異なるし、訳注稿は竹村則行
が担当している由)(^^)
小樹山榴近砌栽
半含紅萼帯花來
爭地司馬婦人妬
移到庭前便不開
小樹[せうじゅ]の山榴[さんりう] 砌[せい]に近く栽[う]う、
半ば紅萼[こうがく]を含み 花を帯びて來[きた]る。
爭[いかで]か知る 司馬夫人の妬み、
庭前[ていぜん]に移し到りてより 便[すなは]ち開かず。
山つつじの小木を石だたみの近くに栽えた。
半ば紅萼のついたまま、花ごと移し植えたのである。
ところが、どうして司馬の私の奥様の嫉妬を感知したのか、
庭先に移したら、そのとたんに花が咲かなくなった。
「花が咲かなくなった」ことを嘆くのではなく、ほのぼのしてる(〃'∇'〃) 「奥様の嫉妬」の対象は
花の美しさだろうけど、その花の美しさに夫=白居易(白楽天)の気持ちが奪われてしまうとの含意
なら、惚気を詠んだのかも(^_^;) と所謂個人の感想です的なことをテキトーに書いたけど、他の作品
と同様に、本書はこの詩に関しても「庭の山石榴に戯れに問いかけた詩である。・・・」云々と解題
するだけで、どう味読・鑑賞したらいいのか、全く解説してくれてないのが残念(^_^;) また詩題には
「問ふ」とあるのに、この通釈は「問いかけた」ような訳にはなってないし(^_^;) その点では、次の
「山中問月(山中 月に問ふ)」(0980)は「山中にあって、月に問いかけた詩である。」(本書427
頁)と解題されている通りで、本書428頁から同じように引く(^^)
爲問長安月 誰敎不相離
昔隨飛蓋處 今照入山時
借助秋懐曠 留連夜臥遲
如歸舊郷國 似對好親知
松下行爲伴 谿頭坐有期
千巖將萬壑 無處不相隨
爲[ため]に問ふ 長安の月、誰[たれ]か相離[あひはな]れざらしむ
昔は蓋[がい]を飛ばす處に隨ひ、今は山に入る時を照す。
借助して 秋懐曠[むな]しく、留連[りうれん]して 夜臥[やぐわ]遲し。
舊郷國[きうきゃうこく]に歸るが如く、好親知[かうしんち]に對するに似たり。
松下 行くゆく伴[はん]を爲し、谿頭[けいとう] 坐して期有り。
千巖[せんがん]と萬壑[ばんがく]と、處として相隨はざるは無し。
長安でもなじみだった月に問うが、一体誰がお前に、私のそばを離れないようにしたのだい。
昔はお前は私の車の行く処に随ってついて来たが、今も廬山に隠棲する私を照らしている。
お前のおかげで私の秋の憂愁はいよいよ大きくなり、お前がぐずぐずしているので夜も
なかなか横になれない。
お前を見ていると、私は昔の故郷に帰ったようであり、仲のよい旧友に相対しているような
気がする。
松の下を散歩すれば私の道づれとなり、谷のほとりに坐れば、約束していたように出て来る。
私が多くの山や谷を跋渉しても、ついて来てくれない処とてない。実に切っても切れない友
である。
江州に左遷された自分を政敵が月を使って監視しているなどといった妄想じゃなくて良かった(^_^;)
でも、「夜もなかなか横になれない」だとぉ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンですとぉ!? 昼間ずっと横になって
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-15 )グータラ・・ヘ(__ヘ)☆\(^^;
また前詩「香爐峯下新卜山居草堂初成偶題東壁(香爐峯下、新たに山居を卜し、草堂初めて成る。偶々
東壁に題す)」の連作5首(0975~0979)の第4首(「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」が出てくる)で
「故郷 何ぞ獨り 長安に在るのみならんや(故郷は何も長安だけとは限らない)」(本書424頁)と
言い切った舌の根も乾かぬうちに・・ヘ(__ヘ)☆\(^^; 前詩の「長安」は首都の意で政界・官界とは縁
を切るという含意だろう(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-09 )(^_^;)
さて、個人的には好きな作品だけど、気になるのは、「借助して 秋懐曠しく(お前[=月]のおかげ
で私の秋の憂愁はいよいよ大きくなり)」(@_@;) 昨日の「舟夜贈内(舟夜 内に贈る)」(0878)
は「月明かなるも 月闇きも 總て人を愁へしむ(月は明るくても暗くても郷愁で人を悲しませるもの
だから)」として、「月」そのものが「秋」とは関係なく「人を悲しませる」となっていた(@_@;)
なお、白居易にも西行らの相対主義に立った作品があるのを昨日引き忘れたので追記しといた(^_^;)
・『曾我物語』で「香炉峰の雪は、簾を掲げて見る」を口ずさんだ惟喬親王と白居易のアナロジー(^^)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-10
・『枕草子』で最も有名な章段に不審なシーンがあるが疑問に思った研究者がいないのも不審(@_@;)
⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2022-04-06
なるほど。昔の暦を使っていた人は、旧暦の日が10代前半
数だと、日暮れに反射的に月を見るので。精神世界では、
一年中月は有るという感覚だっなんですねぇ。現代の中国人に、
「月よお前は何処にいるんだ。私は月齢定数を毎年覚えてなど
いられないので、お前の居場所が判らん」とかいったような
正直者漢詩を作って貰うと、違いが判るんじゃないかと疑う。
なお、月齢定数は次の年には11足すか、20近くなったら
不便なので18か19引くかですので、変化の不規則感は満載。
今年はマイナス5ですが、来年西暦2023年はプラス6です。
by df233285 (2022-04-18 23:00)
同じ聴き間違いなら「偽乳」より「美n…」…なんて思います(^^;
植物や物体は感情がない(特に物体)ので、その分だけ擬人化は難しいかもしれませんね。
by ナベちはる (2022-04-19 01:14)
長安で見たのと同じ月を廬山でも見たし、何処へ行ってもついてきてるようだとして、
長さん様、同じ月を何処でも見られ、何処で見たとしても同じ月であるということで、
月は何時も出ているというより、廬山で見えない時は長安でも見えない、かと(^_^;)
by middrinn (2022-04-19 16:38)
美乳特戦隊、週刊ポスト、週刊現代、週刊プレイボーイ等のグラビア記事のコピーとして、
ナベちはる様、使われてそうですね(^_^;) たしかに、人の感情を当てはめ難いし(^_^;)
by middrinn (2022-04-19 16:49)
ギニューの乳に奥様は嫉妬とか(笑)。
白居易の心境としては、政敵に対して「月に変わってお仕置きよ」
な気分だったり。
by tai-yama (2022-04-19 23:19)
「山つつじ」にも乳房を見てしまうとは、
オッパイ星人なんですねヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
by middrinn (2022-04-20 18:10)