211230読んだ本【バカチン歴史家①】 [バカチン歴史家]
捏造や間違いをどれだけ見付けられるか読み手の教養と知識を試す本ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
【読んだ本(バカチン歴史家①)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
本書が描こうとする「承香殿の女御」とは誰か?どの承香殿女御のことか?本書16頁から引く(^o^)丿
・・・「承香殿の女御」という名で呼ばれた女[ひと]には、たとえば
村上天皇の後宮に侍した徽子女王(式部卿重明親王王女)がいるし、
のちには、たとえば後三条天皇が東宮の時分に入内した藤原昭子
(右大臣頼宗第三女)がいる。・・・しかしここで照明をあてようとする
「承香殿の女御」とは、一条天皇の後宮にはいり、承香殿に局を賜わっていた
藤原元子のことなのである。/
一条天皇の女御の藤原元子は、大臣としての無能ぶりを藤原実資や藤原道長から再三罵倒されたり、
「悪霊左府」とも呼ばれてた藤原顕光の娘だから、その彼女の波乱万丈の生涯を主題化するなんて、
なかなかの目の付け所と、本書の内容にも期待をしてしまうよねウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
だが、購入時に「元子も顕光もともに面白そうなキャラなんだが、チラッと読んだ限りでは首を傾げ
たくなる記述も散見されたので、本書も面白いかどうかは保証しかねる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ」
(200419昨日買った本&読んだ本)と記したのは「まえがき」の次の件(1頁)を読んだから(@_@;)
・・・/藤原元子は、いと時めき給わぬ女御であり、栄華の蔭に一生を送った
女性である。勅撰歌人でもあったこの女性が、数奇な運命にもてあそばれながらも、
女として真摯に生き抜いた生活の記録をできるだけ忠実に復原してみたい、
というのが執筆の動機であった。/「忠実に」という気持から、巻末には、
いちいち典拠を示しておいた。しかしこれは専門家のためのものであるから、
一般の読者は、註などに拘泥せず、通読していただきたいと思う。・・・
先に一言すると、この巻末の「註」はメチャ小さい活字で16頁にわたり、合算すると474もあるから、
瀬戸内寂聴なんかそれだけで圧倒されちゃったか(あるいは教養が無く古典や歴史に疎いためか)、
角田文衞『平安の春』(講談社学術文庫,1999)巻末の「面白くてやめられない名著」と題した一文で
角田文衞を礼賛(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
・・・私は角田先生の御本を拝読する度、小説より面白いと夢中になってしまう。/
・・・/そのどんな小文にも、角田先生の底知れない博学の、重厚な歴史観が鋭く光り、
すべてが、文献の裏打ちをされているので、読み終ると、まるで自分がとてつもなく
国文学に精通した学者になったような気持がする。/・・・
モチ小生は国文学や歴史学の「専門家」ではないけれど、本書を「通読」しながら首を傾げた記述は
註に挙げられてる文献にも当たってみたが、その結果については適宜言及予定オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
さて、本書「まえがき」で「首を傾げたくなる記述」とは「勅撰歌人でもあった」という点(@_@;)
というのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花
和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』、以上の勅撰和歌集は「八代集」と言われるが、久保田淳
(監修)『新日本古典文学大系 別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)の「作者名索引」の「元子」
の項には『千載和歌集』に1首入集とあるだけだから(@_@;) その歌を片野達郎&松野陽一(校注)
『新日本古典文学大系10 千載和歌集』(岩波書店,1993)から参考までに引いておく(^_^;)
一条院かくれさせ給にける年の秋、月を見てよみ侍りける
おほかたに さやけからぬか 月かげは 涙くもらぬ 人に見せばや
詠んだ歌が勅撰和歌集に入集するということは歌人としての栄誉だけど、藤原元子のようないわゆる
「一首歌人」なら山ほどいて、「勅撰歌人でもあった」と特記するほどのこととは思えない(@_@;)
モチ勅撰和歌集は「二十一代集」として、『新古今和歌集』以降も『新勅撰和歌集』から『新続古今
和歌集』まで出ているから、もしかしたら、そちらに多く入集しているのかもと思って、その時は、
そのまま本棚に収めた(@_@;) その後、本書を読み始め、おかしな記述も散見されたが読み進むと、
「第六章 一条院」の次の記述(63~64頁)には吃驚仰天したよ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃあ!?
・・・/長保二、三年のある日、元子は独居の苦しさをまぎらわすため、
近くの東三条院(上京区上松屋町・下松屋町)に皇太后詮子を訪ねたこと
があった。それはあいにく雨の降る陰鬱な日であったらしい。この時彼女は、
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅がはらと見るぞかなしき
と詠じた。おそらく、彼女はこの歌を皇太后に示し、悲恋の心境を告白したので
あろう。そして彼女は爾来、何年となくこのいいようのない寥[さび]しさに
堪えてゆかねばならなかった。/・・・
付された注2には「『拾遺和歌集』巻第十八、雑賀、一二〇四番。」(157頁)とあるヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
同歌作者の承香殿女御は藤原元子ではなく村上天皇の女御の徽子女王ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
徽子女王は(先の引用にもあるが)重明親王(醍醐天皇の子)の娘で、斎宮退下後に村上天皇の女御
となり、「斎宮女御」と呼ばれ、「三十六歌仙」にも選ばれている傑出した歌人であるv( ̄∇ ̄)ニヤッ
その彼女が詠んだ歌を藤原元子作としちゃうんだから、元子を「勅撰歌人でもあった」と特記して、
「歌に長じていた元子」(146頁)という首を傾げたくなる記述が続出するのも、然もありなん(^_^;)
しかし、この歌は藤原公任の『三十六人撰』(樋口芳麻呂[校注]『王朝秀歌選』[岩波文庫,1983]
所収)にも入っている斎宮女御徽子女王の有名な歌なのに藤原元子作と間違えるとは( ̄◇ ̄;)アリエン!
藤原元子作と間違えたということは角田文衞はこの歌を理解できなかったようだエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
この歌が入っている『拾遺和歌集』『拾遺抄』『斎宮女御集』の各注釈書の訳を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅が原と見るぞ悲しき
雨が漏るほかには、守る人もいない我が宿を、浅茅が原と見るのが悲しいことだ。
・竹鼻績『拾遺抄注釈』(笠間書院,2014)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我やどを浅茅が原と見るぞかなしき
東三条に宮中から退出して、雨の降った日
雨が漏るほかに、番人もいない我が邸を、雑草が生い茂り荒れ果てた所と見るのが
かなしいことだ。
・平安文学輪読会『斎宮女御集注釈』(塙書房,1981)
あめふる日、三条の宮にて
あめならでもるひともなきわがやどをあさぢがはらとみるぞかなしき
雨の降る日、三条の宮にいて
雨の漏るほかには、守ってくれる人とてもいないこの屋敷を、浅茅が原になった
と見るのが悲しいこと。
(父の重明親王が亡くなって)雨が漏り浅茅が生い茂った(自邸の)東三条第を悲しんだ歌であり、
その「東三条院」に後に詮子(円融天皇の女御で一条天皇の母)が住んでいた頃、詮子の弟で当時の
最高権力者である藤原道長が、そんな荒れ果てた状態にするわけがないだろオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
「東三条院の伝領系図」(66頁)を見ると重明親王が伝領した史実も知らないようだし、このような
全く別人・他人の伝記的事実によって捏造したデタラメな叙述が本書には他にもあり、考証の誤りも
結構あるので、角田文衞は歴史学者として失格と言わざるを得ず、小説家の類いかもC= (-。- ) フゥー
なお、片桐洋一は、角田文衞「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)について、「これは考証と
称すべきものではない。推理小説としても程度の悪い作品である。・・・用いられた資料についての
吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけ・・・」と酷評していたけれど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )、本書にも当てはまる( ̄^ ̄)
【読んだ本(バカチン歴史家①)】
角田文衞『承香殿の女御 復原された源氏物語の世界』(中公新書,1963)所蔵本
本書が描こうとする「承香殿の女御」とは誰か?どの承香殿女御のことか?本書16頁から引く(^o^)丿
・・・「承香殿の女御」という名で呼ばれた女[ひと]には、たとえば
村上天皇の後宮に侍した徽子女王(式部卿重明親王王女)がいるし、
のちには、たとえば後三条天皇が東宮の時分に入内した藤原昭子
(右大臣頼宗第三女)がいる。・・・しかしここで照明をあてようとする
「承香殿の女御」とは、一条天皇の後宮にはいり、承香殿に局を賜わっていた
藤原元子のことなのである。/
一条天皇の女御の藤原元子は、大臣としての無能ぶりを藤原実資や藤原道長から再三罵倒されたり、
「悪霊左府」とも呼ばれてた藤原顕光の娘だから、その彼女の波乱万丈の生涯を主題化するなんて、
なかなかの目の付け所と、本書の内容にも期待をしてしまうよねウキウキ♪o(^-^ o )(o ^-^)oワクワク♪
だが、購入時に「元子も顕光もともに面白そうなキャラなんだが、チラッと読んだ限りでは首を傾げ
たくなる記述も散見されたので、本書も面白いかどうかは保証しかねる〇 o 。.~~━u( ゚̄  ̄=)プハァ」
(200419昨日買った本&読んだ本)と記したのは「まえがき」の次の件(1頁)を読んだから(@_@;)
・・・/藤原元子は、いと時めき給わぬ女御であり、栄華の蔭に一生を送った
女性である。勅撰歌人でもあったこの女性が、数奇な運命にもてあそばれながらも、
女として真摯に生き抜いた生活の記録をできるだけ忠実に復原してみたい、
というのが執筆の動機であった。/「忠実に」という気持から、巻末には、
いちいち典拠を示しておいた。しかしこれは専門家のためのものであるから、
一般の読者は、註などに拘泥せず、通読していただきたいと思う。・・・
先に一言すると、この巻末の「註」はメチャ小さい活字で16頁にわたり、合算すると474もあるから、
瀬戸内寂聴なんかそれだけで圧倒されちゃったか(あるいは教養が無く古典や歴史に疎いためか)、
角田文衞『平安の春』(講談社学術文庫,1999)巻末の「面白くてやめられない名著」と題した一文で
角田文衞を礼賛(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )ヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
・・・私は角田先生の御本を拝読する度、小説より面白いと夢中になってしまう。/
・・・/そのどんな小文にも、角田先生の底知れない博学の、重厚な歴史観が鋭く光り、
すべてが、文献の裏打ちをされているので、読み終ると、まるで自分がとてつもなく
国文学に精通した学者になったような気持がする。/・・・
モチ小生は国文学や歴史学の「専門家」ではないけれど、本書を「通読」しながら首を傾げた記述は
註に挙げられてる文献にも当たってみたが、その結果については適宜言及予定オホホホ( ^^)/~~~~ ピシッ!
さて、本書「まえがき」で「首を傾げたくなる記述」とは「勅撰歌人でもあった」という点(@_@;)
というのは、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花
和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』、以上の勅撰和歌集は「八代集」と言われるが、久保田淳
(監修)『新日本古典文学大系 別巻 八代集総索引』(岩波書店,1995)の「作者名索引」の「元子」
の項には『千載和歌集』に1首入集とあるだけだから(@_@;) その歌を片野達郎&松野陽一(校注)
『新日本古典文学大系10 千載和歌集』(岩波書店,1993)から参考までに引いておく(^_^;)
一条院かくれさせ給にける年の秋、月を見てよみ侍りける
おほかたに さやけからぬか 月かげは 涙くもらぬ 人に見せばや
詠んだ歌が勅撰和歌集に入集するということは歌人としての栄誉だけど、藤原元子のようないわゆる
「一首歌人」なら山ほどいて、「勅撰歌人でもあった」と特記するほどのこととは思えない(@_@;)
モチ勅撰和歌集は「二十一代集」として、『新古今和歌集』以降も『新勅撰和歌集』から『新続古今
和歌集』まで出ているから、もしかしたら、そちらに多く入集しているのかもと思って、その時は、
そのまま本棚に収めた(@_@;) その後、本書を読み始め、おかしな記述も散見されたが読み進むと、
「第六章 一条院」の次の記述(63~64頁)には吃驚仰天したよ∑( ̄ロ ̄|||)ニャンじゃそりゃあ!?
・・・/長保二、三年のある日、元子は独居の苦しさをまぎらわすため、
近くの東三条院(上京区上松屋町・下松屋町)に皇太后詮子を訪ねたこと
があった。それはあいにく雨の降る陰鬱な日であったらしい。この時彼女は、
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅がはらと見るぞかなしき
と詠じた。おそらく、彼女はこの歌を皇太后に示し、悲恋の心境を告白したので
あろう。そして彼女は爾来、何年となくこのいいようのない寥[さび]しさに
堪えてゆかねばならなかった。/・・・
付された注2には「『拾遺和歌集』巻第十八、雑賀、一二〇四番。」(157頁)とあるヒィィィィィ(゚ロ゚;ノ)ノ
同歌作者の承香殿女御は藤原元子ではなく村上天皇の女御の徽子女王ヾ(`◇´)ノ彡☆コノ! バカチンガァ!!
角田文衞は藤原元子の「生活の記録をできるだけ忠実に復原」どころか捏造オホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
徽子女王は(先の引用にもあるが)重明親王(醍醐天皇の子)の娘で、斎宮退下後に村上天皇の女御
となり、「斎宮女御」と呼ばれ、「三十六歌仙」にも選ばれている傑出した歌人であるv( ̄∇ ̄)ニヤッ
その彼女が詠んだ歌を藤原元子作としちゃうんだから、元子を「勅撰歌人でもあった」と特記して、
「歌に長じていた元子」(146頁)という首を傾げたくなる記述が続出するのも、然もありなん(^_^;)
しかし、この歌は藤原公任の『三十六人撰』(樋口芳麻呂[校注]『王朝秀歌選』[岩波文庫,1983]
所収)にも入っている斎宮女御徽子女王の有名な歌なのに藤原元子作と間違えるとは( ̄◇ ̄;)アリエン!
藤原元子作と間違えたということは角田文衞はこの歌を理解できなかったようだエッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?
この歌が入っている『拾遺和歌集』『拾遺抄』『斎宮女御集』の各注釈書の訳を引く( ̄ヘ ̄)y-゚゚゚
・小町谷照彦(校注)『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』(岩波書店,1990)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我が宿を浅茅が原と見るぞ悲しき
雨が漏るほかには、守る人もいない我が宿を、浅茅が原と見るのが悲しいことだ。
・竹鼻績『拾遺抄注釈』(笠間書院,2014)
東三条にまかり出でて、雨の降りける日
雨ならでもる人もなき我やどを浅茅が原と見るぞかなしき
東三条に宮中から退出して、雨の降った日
雨が漏るほかに、番人もいない我が邸を、雑草が生い茂り荒れ果てた所と見るのが
かなしいことだ。
・平安文学輪読会『斎宮女御集注釈』(塙書房,1981)
あめふる日、三条の宮にて
あめならでもるひともなきわがやどをあさぢがはらとみるぞかなしき
雨の降る日、三条の宮にいて
雨の漏るほかには、守ってくれる人とてもいないこの屋敷を、浅茅が原になった
と見るのが悲しいこと。
(父の重明親王が亡くなって)雨が漏り浅茅が生い茂った(自邸の)東三条第を悲しんだ歌であり、
その「東三条院」に後に詮子(円融天皇の女御で一条天皇の母)が住んでいた頃、詮子の弟で当時の
最高権力者である藤原道長が、そんな荒れ果てた状態にするわけがないだろオホホホ!!♪( ̄▽+ ̄*)
「東三条院の伝領系図」(66頁)を見ると重明親王が伝領した史実も知らないようだし、このような
全く別人・他人の伝記的事実によって捏造したデタラメな叙述が本書には他にもあり、考証の誤りも
結構あるので、角田文衞は歴史学者として失格と言わざるを得ず、小説家の類いかもC= (-。- ) フゥー
なお、片桐洋一は、角田文衞「小野小町の実像」(『王朝の映像』所収)について、「これは考証と
称すべきものではない。推理小説としても程度の悪い作品である。・・・用いられた資料についての
吟味が乏しく、都合のよい所だけを、しかも部分的に利用しただけ・・・」と酷評していたけれど
(⇒ https://yomubeshi-yomubeshi.blog.ss-blog.jp/2020-11-29 )、本書にも当てはまる( ̄^ ̄)
2021-12-30 11:58
コメント(4)
元子だけに、別の人が読んだ詠を間違えて記載してしまうとは
"元もこ(子)うもない"と(笑)。
by tai-yama (2021-12-30 22:28)
明らかに間違っていれば見つけられそうですが、そうでなければ見つけられなさそうです…(^^;
by ナベちはる (2021-12-31 00:40)
角田文衞に対する信頼ばかりか敬意も失い、
tai-yama様、元も子もない、かな(^_^;)
by middrinn (2021-12-31 07:24)
本書の細かいミスは歴史に詳しい人なら気付くでしょうが。
ナベちはる様、和歌なので難しいかもしれませんね(^_^;)
by middrinn (2021-12-31 07:34)